井頭山人のgooブログ

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こころとは何か、それは何に拠って現わせるか、それに付いて知る事ができるか。

2024年03月31日 17時09分40秒 | 哲学とは何か

 「こころ」とは何か、それは意識とも感覚とも少し違う。「こころ」はたぶん言葉と謂う方法では顕わし得ない。言葉と謂う音声素描的な方法では、何とも心許なく漠然的だ。「こころ」の現象をもっと厳密にあらわし得るのは工学的な方法か数学かな、特に論理学を使う他にないだろう。まず「こころ」という対象があいまいだ。これを明晰に表す事から始めよう。

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物事の未分化と因果律的認識の関連、或いは知ることの意味

2023年12月16日 15時14分40秒 | 哲学とは何か

 山登りの会の友人と森林公園内の遊歩道を歩くと、この人は好奇心が強く何種類かの科学雑誌を読んでいて、時々その中の話題を聴いてくる。どうも小生を困らせようとしているのか、としか思えないのだが、話題に冷たくするわけにもゆかず適当に答えるのだが、それでも時には自分にもサッパリわからない事を聞かれることが有る。もう大分前のことで忘れたが、その時の話題が「量子コンピューター」だった。凄いコンピュターらしいが、自分がもっている電子計算機とどう違うんだろう、という事であった。量子コンピュータの歴史は、このブログでも、サイエンス社の記者である古田彩さんの面白い講義があるのでご紹介した。古田さんの講義では、先ず最初に永久機関の解釈から始まりましたが、量子コンピューターのそもそもの淵源は、やはり量子力学の解釈に端を発する物である事を言おうとしている。朝永振一郎博士のお話に「光子の裁判」という名話がある。光の二重性について学生の為に書いた話だが、この二重性について量子力学の現状を書いている。量子力学の通常の理解が困難な所は観測の問題であると思います。とくに言えばハイゼンベルクの「不確定性原理」と絡んでもいる。現象の確率的解釈が一番究極の部分に在るし、観測しない内は、量子的世界では物事は未分化の状態で、決定してゐないという考え方だ。これは因果律が成立しない、時間の流れない現象の上でのみ可能な物だ。この話にはもう70年以上前の有名な問題がある。量子力学を学んだ人は知ってゐるでしょうが、EPRという人々が提出した問題です。

EPRというスペルは三人の名前の頭文字を取って付けた論文です。それは量子力学が確率的な解釈をせざる得ないのは、我々が重ね合わせの解釈に、まだ我々が知らない係数が存在しそれが解れば、量子力学の、解釈に含まれる曖昧さ未分化の現象は駆逐されるだろう。という意味の論文である。EPRは確率的解釈を異とする様々の提案の中でも、特に代表的な論文なので大抵の人は知ってゐる。人間はいま生存している世界では因果律が成立しているが、量子的な極微の世界では物事は「未決定」であり、それは確認した時点で決定すると謂われている。果たして「未決定」とは物理的にはどういう意味なのでしょう。それは我々の知覚の方に限定的な問題が在ると考えます。知るという事はどういう意味なのかと題名に書いたのは、その事なのです。知るという事の意味ですね。知らなければ未決定、知れば決定される。観測という次元を抜きにしても好いのです。観測には最低一個の光子が必要ですが、知るという想像力には光子は必要では在りません。この文章をご覧に成ってゐる方、知るという事の物理的現象と知ることの意味について、どうお考えでしょうか?。これは謂わば、最近の新しい疑問と言う訳では無く、遠い昔からこのようなCategoryは考えられてきました。知ることの意味に付いてはシナの古典である「荘子」にも似た話が出て来ます。日本のお伽話にもあります。「浦島太郎」のお話も、もっと敷衍すれば同じ様な背景を持つ話しに成ります。

こう言った不思議なお話は昔話によく出て来ますね。不思議さは現実にはあり得ない事なので、一層その空想が深まります。一瞬で移動する、というお話も普段は目的地に行くのに、ひとが足で歩けば、あるいは馬に乗っても、それなりの時間が掛かる事は誰でも経験的に知っています。ところがアッという間に目的地に行く事ができる。それはふしぎ以外のなにものでもない。現代では一番速い速度といえば光速(電磁波も同じ)だという事は小学生でも知っています。光速といえばとてつもなく速いのですが、それでも秒速30万キロメートルです。人間的な生活レベルではこれは凄い速さですが、宇宙空間の広さのレベルでは、大した速さではないらしい。月までは一秒と少し、太陽までは約8分、光でも掛かる。一応、物理法則の前提では光の速度を超えると何か矛盾が起きる。この辺の本当の事情は未だ解明されていない。それは空間の性質なのか、質量と深いレベルで関連しているのか、いまの物理の段階ではそれに答えられない。例えば身近な現象に原子核の中に陽子という物が存在する。その陽子はクオークと呼んでいる3つの構成子の集合体なのだそうだが、まあ陽子を取り上げて、その質量を理屈から導き出す事には、まだ成功してゐないのです。あらゆるこの様な素粒子と呼んでいる対象は、かならず崩れ去る(崩壊する)はずなのですが、中性子などは簡単に崩壊するにも係わらず、陽子の崩壊は未だ観測されていない。一応、現状の理論では陽子崩壊がこのくらいだろうという予想値は出ているのですが、その予想値では崩壊しない。つまり現状の理論の方に問題が在るのでしょう。では、どこに問題が在るのでしょう。それが解らないでいる。

 果たしてモノの寿命とは何なのだろう?。崩壊に至らないでいる時間とは?、何かが保たれている状態を言うのだ居るか?。複合体は必ず内部擾乱で崩壊する。崩壊とは別な物に置き換わる事でしょうか。或る調和的な状態が崩れ去る事を崩壊と言い、それは寿命とも言える。それは寿命とは、何かの、加法で表現できるのか?減法で表現できるのか?乗法で表現できるのか?除法で表現できるのか?。完全に単一の物が崩壊するという事は考えずらい。それは究極の単一物であり、それが崩壊するとは消え去ることであり、それはエネルギー保存から言えば有り得ない。それが何かに替わることはいえる。だから、保たれている状態が、何らかの擾乱で平衡性が崩壊する事を寿命という。では、その反対の創成とは何なのだろう。

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哲学の効果とはなにか

2019年12月06日 21時57分22秒 | 哲学とは何か
哲学は何よりも多くの分野を網羅的に総合的に、物事の原因や本質を知る為の技術方法論だから、人間が思索の際には真っ先にこの方法論を体得せねばならない。専門的知識の展開は、この土台があってこそ有効に進めることができる。まず思索の方法論としては、今では誰でも知って居るはずの「5W1H」、と謂う、工場などの製造設備や、工場に限らないが生産品の品質管理や人事管理の際に必ず出て来る基礎技法である。5W1Hの内容は、誰が(who)、いつ(when)、どこで(where)、なにを(what)、なぜ(why)、どのように(How)、という物事を順序立てて、問題の在り処を推理して明らかにする方法であり、余りにも基本的な為にその応用範囲は人間の思考の技術のすべてに及んで居る。

さて人間に取って哲学の効用とはどういう状態の事を言うのか。哲学が扱うのは、凡そ人の想像力の届くすべての範囲であるが、その具体的な方法論とは何だろうか。思考の技術は何か?ということだ。表現は言語的なものや数学的なものである。古代より哲学の表現方法が言葉であるのは仕方がない。それ以外に手近には是と云ったものがないからだが、言葉をより密度と整合性がある表現の為に修辞学が生まれた。人の認識の初歩は概ね疑問を解くために言葉と云う形態をとるが、他に改めて好い方法が有るかという事である。この様な事情に直面する際に、では何が確実な表現であり哲学の展開に有効であるか?という問題である。

哲学は現象に対するイメージを重要視する。Imageとは英語であるが、今では日本語のなかにも取り入れられていて普通に日常会話のなかにも出て来る。これを明治の翻訳家が漢語的表現に訳すれば「想形」とでも訳すだろう。想いを形にしたものである。想形とは想像的形象と表現しこれを短くして想形とでも付けたものだ。勿論、imageを想形と訳した例は無い、これは私の造語である。また哲学はほんらい定まった分野などはない、なんでも哲学の範疇にはいるのである。基礎に成るのは思考の技術とでも言いうるものだ。果たして思考に技術などあるのか?、それが在るのである。基本に成るのは「問い」と「疑問を展開する想像力」と「疑問を集約した命題の証明技術」である。

人間の問いの活動である哲学には限定された範囲は殆どない。人間が物事に不思議感を抱いたり、起きて在る原因の理由を知りたいとするのならばそれを知る試みは既に哲学なのである。不思議や疑問を解く試みが哲学であり、やがてイメージの空想は哲学から発して精密な科学となる。先に常識的な方法論として5W1Hを挙げたが、本来の哲学はもっと空想のイメージを深めた励起的なinspirationの代物である。
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