弘法大師ー空海は、単に真言宗の開祖というに止まらず、日本文明の中の巨人であり、彼の思想と問いは今以って解かれていない。この恐るべき空前絶後の巨人は、今も根源的な問いを提出し続けており、その問いは今後の発展を希求している。此処では彼の提出したと問いを解説してみたい。日本の過去を探ってみて、何に驚くかと言うと、弘法大師空海という人物に出会うことだ。この人は、日本人の可能性という場で見た場合、およそ桁の外れた多面的で独創的な人物である。彼は満濃池を造営するという生産性にも、学校の創設という社会性にも、真言宗を開くという宗教性にも、実に多くの事業を為したが、何よりも、言語論、宇宙論、生命論、大自然観、人間観、それらに万般に於いて秀でた見解を創始し、また驚くほどの実行性で突出している事です。千三百年前に、この様な人物が日本に確かに居た事には、わたしは何か途方もない不思議な感覚を持ってしまう。この人は言葉の達人で、真言宗という宗派を起こした人という説明が何処の本にも書いて有るが、そんな平板な表現では本質は現せないのでは無かろうか。彼の起こした「真言宗」と言うのは、その言葉通りに解釈すれば、真の「言語の究極を把握し生命の結晶としての人倫と世界観を再現する」こと、そして其処から、謂わば人間の思惟活動としての魂の全認識が湧出すること、更にはその源泉を発見する事などを通して庶民の向上と救済を自分の使命として押し進めた。
彼は幼少の頃から突出した資質が認められていた、という諸々の聖人にありがちな伝説逸話が、空海さんにも有るが、大抵の聖人は、その人物の偉業なりが成ってから付けられた衣装に過ぎない。本当の聖人は、その人生において、一度なり二度なり化ける。化けなければ聖人とは謂えないのだ。一度も化けない人物は偉人とは言えない。空海は何度、そしていつ化けたのだろうか。空海は三度化けた。
空海は、四国の土地の長官である讃岐の直と阿刀氏出身の妻の間に生れた。その次男或いは三男であるという。空海は生まれは讃岐であるが、父の一族の出度は東北の出身らしい。空海の相貌には東北人らしいものを感じる。幼少期に利発さを発揮し、両親の期待も大きかったろうと推察する。都には母の弟で、当時有名な学者である阿刀大足がいて、彼が大學寮に入学する「792年」より四年前の「788年」に、すでに四国の讃岐から奈良の都に留学している。そしてその四年間に叔父から、たっぷりと個人授業の教育を受けたのだろう。母親の弟である叔父の大足は、平城天皇の弟の伊予親王の侍講(家庭教師)をして居り、その実力は確かなものであった。
後に空海が18次の遣唐使に選ばれて、渡唐した「804年」の3年後に、大事件が発生して(伊予親王の乱)この時以後、叔父の阿刀大足の足跡は定かでない。若し、この冤罪無実の事件が、もっと前に発生してゐたら、空海の遣唐使派遣は無かったろうと思う。それは当時に空海の遣唐使派遣に付いて、叔父の大足が選考に際して積極的に推薦の後押して呉れたからだ。冤罪であった伊予親王の乱が派遣前だったら、叔父は失脚してゐて遣唐使の選考に際して後押はしてもらえなかったろう。
折角入学できた大學寮を突如退学して、いったい空海は何をしていたのだろう?、是は、彼の人生の空白の七年間と謂われている。勿論、遊んでいたとは思えない。この七年間に彼は万巻の本を読み、当時のシナ語を習得し、書道を究め、修験道の道を歩み、それこそ多くの事を為していたと私は信ずる。遊んでいる暇など無いくらい充実していたに違いない。元々、極めて聡明な頭脳の持ち主である。特に「修験道」を実践していたらしい事が、後の言葉や著作から読み取れる。空海は「言語にあらゆる現象の根源」を感じていたのでは無かろうか?、コトバには恐るべき霊力が宿る、呪術としての「真言」マントラであり呪言である。修験道から、空海は何を感得したか、山野を歩き精霊に触れる、それは人間の中の眠れる本能を呼び覚ます。修験は眠って居る潜在した能力の再覚醒なのであろう。山野で眠ると何かが違う。何かが再開発された様に、相貌さえ違ってくる。用具の揃った快適な足った一泊のキャンプでさえそうなのだから、小屋掛けをした中での修験道の宿泊は、それはそれは或る意味では、恐ろしい体験だったに違いない。
オオカミも出るし、熊も出る。蛇も出る。そして一番恐るべき精霊もでる。この精霊の効果こそ、人間の飼い慣らされた意識を超える体験なのだ。我々は精霊に出会うと、体が麻痺し口も利かれぬ状態に置かれる。その体験が重要なのだ。大いなる自然に触れるとはそう云う事だ。飼い慣らされたルーチンワーク的状態で消えて仕舞った、本物の感覚能力が開花する。人間は本来は野生の生き物である。それが文明化と云う去勢で本物の野生は矯められて生命を失うのが現代だ。現代の危機は人間の本能と、生き甲斐を忘れ去った為である。
全ての始原α~すべての終焉Ωまで、言語の現象から謂えるのは、人間はその声帯の構造から、発声可能な音域は限定される、人間の喉では超音波は発声できない。音域は当然の事ながら限定されるのである。発声は出来ないが脳波での超音波は感知出来るのだろうか?、無音の意志通信テレパシーは果たして幻想なのか?、コトバは未だに迷宮に在る、それは星辰と精神が共鳴する現象を人が未だに知らないからである。子供には、コトバを獲得する前に、音声の前にテレパシー的意思疎通があると思った方が好い。子供が効いた事の無い語彙を使いそれを学習せず理解するのは何故なのだろう。確かにそれがある。この事はこころを静かにして瞑想の中で探求してみることが必要だ。雑音が入ると瞑想が乱される。
ここで弘法大師の生涯をザッと振り返ってみよう。彼は讃岐の國、今の香川県に生れた人だが、父親は讃岐の土地の有力者で讃岐の直、母親は阿刀氏の出身である。兄弟が何人かいて、彼は次男か三男で幼名は真魚といった。兄が居たし妹も居たらしい。阿刀氏は当時の奈良に居たが、父親はどういう縁で阿刀氏から嫁を貰ったのかは知らない。嫁の家系はどうも学問に優れていたらしい。真魚の母の弟には当時有名だった学者で阿刀大足がいる。やはりこういう家系には時々、とんでもない英才が出ることが在る。父親の種の方が優秀である事はそれは分る。然し、母親、つまり卵の方も優秀でないと英才は出ない。空海の場合は卵の方の優秀さが影響しているのかもしれぬ。
まあそれはそれとして、3歳位でこの子は何でも覚えて仕舞うし、理解力が並ではない事に気が付いた両親は、母の弟が都に居て有名な学者であるので、是非、この次男を奈良の叔父の下に留学させようとした。将来は大學寮に入学させて官吏にしょうとしたらしい、当時にもやはり教育家の親が居たと言う事である。この次男の真魚は大學寮の試験がある一年前に叔父の下に行き、両親からシッカリと大足叔父の下で学ぶのですよ、と送り出されたのだろう。そこで四書五経、老子道徳経、荘子斎物偏、仏教(奈良仏教)などを徹底的に学んだのだろう。叔父も甥が見どころが有るので一生懸命だったに違いない。乾いた砂に水が沁み込むように幼少にして、多くの教典・論書を学んだ。当然の事だが大學寮の試験などは簡単に通り、晴れて入学したが、其処での授業は、真魚さんに取っては何ら難しいものは無く、此の侭、卒業して官吏に成ったにしても、自分は貴族でも無し、クラスメートは何れも高級貴族の子弟たちで、此の侭、官吏になって、国の父や母は喜ぶかもしれないが、先の見えた官吏には成りたくなかったのか。大學寮でも嫌な事は多々あり、この先どうするか?。色々悩んだに違いない。この悩みは現代にも通じる、人生の未来に対する悩みである。そして、真魚さんは大學寮を退学してしまうのである。
両親からも強く、叔父からも、辞めるなと何度も説得があっただろう。彼は人生の危険な岐路に差し掛かっていた。たぶん官吏に成れば食うには困らないだろう、しかし、「俺はこの侭こんな事をしていて好いのか」。何だか現在にも通じる悩みである。24歳で「三教指帰」を書き、その俊才を現わした真魚さんだが、これからどうするか?、そのとき、若しかして密かに遣唐使に出る事を考えてゐたのかも知れない。叔父の押しが在れば、極めて有利に成る。だがその時の為に、自分の知的力を十二分に開発して置かなければ成らない。真魚さんは先の見える青年だから、内心そう考えてゐたかも知れない。東シナ海を渡るのだから命懸けである。下手をすると難破して、一巻の終りである。それでも行く。貴族の子弟は難破は御免である。命が在っての物種だ。と恐れをなしていたに違いない。
大師の船は矢張り船は難破した。四隻の船の内、最澄の乗った船と、空海の乗った船が沈みはしなかったが、大分南方に流された。漂流して香港あたりかな?とにかく南に流され、其処で命からがら上陸を果たした。目的地から遥か遠く南方に付いたので、遣唐使の事などまるで知らない土地だから、簡単には上陸できない。土地の長官と交渉しなくてはならない訳で、それが誰も出来ない。怪しい奴らだ、海賊かもしれないと思われて困っている所に、空海が登場しそれをして退けた。それで漸く長安への道を進めることに成る。18次の遣唐使のもう一方の船には比叡山で天台宗を開く最澄が乗っていた。最澄の留学期間は一年ほどで返ることに成ってゐたが、空海の場合は、何と二十年も留学するという取り決めだった。その為に生活費などを含めて莫大な金銀が与えられていた。目的地よりも南方に流された空海の船は、此れからどうして好いのか困惑したに違いない。シナ大陸では北方と南方とでは言葉が異なる。それで、筆談しか方法がない。空海はそれをやってのけた。土地の長官と話が付き一行は陸路、唐の都である長安を目指した。
20年もの留学期間を指定されていたにも関わらず、当時の密教の指導者である恵果の下に行き、急速に学び灌頂まで受けて、正式の後継者となり、二十年の留学期間を二年位で帰国した。この間、空海は唐の都を具に観察したであろうし、そして当時の唐に在る曼荼羅や仏具、経典類を手当たり次第に買い集めたに違いない。これは後年、幕府使節の一員としてアメリカに行った時の福沢諭吉の行動にそっくりだ。向うの本を一歳合切、借金しても買い求め、持って来るという姿勢である。
脳の機能に偏在がるという事は、全体を創る設計図がある、という事の他ならない。そして大抵の人は左脳と右脳の機能が分担されていて、人間に象徴的な言葉を司る部分は左脳のある部分に限定されている。ことばという物は空気の音声伝達を使い、それによって意思疎通、情報交換を為す技能である。ですから、ことばという物は人間集団がある限りその集団特有の音声通信があるということです。そしてこの音声通信に基本的には優劣はない。ただ進んだ文化に特有なのは、この音声通信を巧妙に高め、効率のいい通信方法を形成して居るに過ぎない。言葉の価値に優劣は無いのである。多くの者達は、その点を誤解している。たとえば私が使う言語は日本語という世界でも特殊で一番古い言語である。古日本語では物事を表現するに歌の七五調を使う。日本語と歌は切っても切り離せない本質的な物だ。それに母音を多用するので音の表現が柔らかいのです。それは話ことばでも他の言語に比べて、どうもそんな感じがします。
さて、前置きが長くなったが、空海の問いを此処で一つ一つ提示しそれを踏まえて彼の問いに答えを探って見たい。
「意味と音」
空海さんは、曼荼羅の如き意味と音のつながり関係性に、最初は音声に捉われていたようです。だが、音声は形に過ぎない。例えばそれは(音声)通信網の中を流れる電気信号でしかない。そして音声は空気中を伝達する波動です。言葉と言うのは、発信の本体、発話の機構が本質なのです。意味と云うのは異なった音声が差し示してゐる対象物が同値(=)であるという認識です。禁煙とnot・smokingは、音声では異なりますが、差異示している事柄は同値です。あるコトバとコトバの意味とはそのように使われている。でも同値だと言っても音声は異なる訳です。初めての場合はそれは通じません。般若心経秘鍵とかうん字義、などではコトバの力と起源をも探求のターゲットにしている。なにせ「真言宗」ですから、コトバの発生の源を追求するのは当然の事です。ただ、このコトバの源は容易に突き止められることは無い。現代に於いてさえ、そうなのですから、絶大なる天才、弘法大師を以てしても、そんなに簡単な物ではない。構造言語学派はことばは音だと言った音のみだとも言った。だがコトバは音が伝えるものであるが音ではない。ブルームフィールド達はそんな見解だった。音は表現の媒体であり源泉ではないのだ。そこに錯誤がある。わたしの小学校四年の時の考えを此処に書いてみょう。夏休みが終わり9月の土曜日のある午後、家に帰る途中の道(左横には我が家の代々の墓がある)で、わたしは外人が考えることが果たして出来るのか、という事を考えた。それは家に父が買った20冊くらいのリーダーズ・ダイジェストという雑誌の英語版があった。