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弘法大師空海について

2024年06月15日 02時27分09秒 | 宗教的世界の様相

 弘法大師ー空海は、単に真言宗の開祖というに止まらず、日本文明の中の巨人であり、彼の思想と問いは今以って解かれていない。この恐るべき空前絶後の巨人は、今も根源的な問いを提出し続けており、その問いは今後の発展を希求している。此処では彼の提出したと問いを解説してみたい。日本の過去を探ってみて、何に驚くかと言うと、弘法大師空海という人物に出会うことだ。この人は、日本人の可能性という場で見た場合、およそ桁の外れた多面的で独創的な人物である。彼は満濃池を造営するという生産性にも、学校の創設という社会性にも、真言宗を開くという宗教性にも、実に多くの事業を為したが、何よりも、言語論、宇宙論、生命論、大自然観、人間観、それらに万般に於いて秀でた見解を創始し、また驚くほどの実行性で突出している事です。千三百年前に、この様な人物が日本に確かに居た事には、わたしは何か途方もない不思議な感覚を持ってしまう。この人は言葉の達人で、真言宗という宗派を起こした人という説明が何処の本にも書いて有るが、そんな平板な表現では本質は現せないのでは無かろうか。彼の起こした「真言宗」と言うのは、その言葉通りに解釈すれば、真の「言語の究極を把握し生命の結晶としての人倫と世界観を再現する」こと、そして其処から、謂わば人間の思惟活動としての魂の全認識が湧出すること、更にはその源泉を発見する事などを通して庶民の向上と救済を自分の使命として押し進めた。

彼は幼少の頃から突出した資質が認められていた、という諸々の聖人にありがちな伝説逸話が、空海さんにも有るが、大抵の聖人は、その人物の偉業なりが成ってから付けられた衣装に過ぎない。本当の聖人は、その人生において、一度なり二度なり化ける。化けなければ聖人とは謂えないのだ。一度も化けない人物は偉人とは言えない。空海は何度、そしていつ化けたのだろうか。空海は三度化けた。

空海は、四国の土地の長官である讃岐の直と阿刀氏出身の妻の間に生れた。その次男或いは三男であるという。空海は生まれは讃岐であるが、父の一族の出度は東北の出身らしい。空海の相貌には東北人らしいものを感じる。幼少期に利発さを発揮し、両親の期待も大きかったろうと推察する。都には母の弟で、当時有名な学者である阿刀大足がいて、彼が大學寮に入学する「792年」より四年前の「788年」に、すでに四国の讃岐から奈良の都に留学している。そしてその四年間に叔父から、たっぷりと個人授業の教育を受けたのだろう。母親の弟である叔父の大足は、平城天皇の弟の伊予親王の侍講(家庭教師)をして居り、その実力は確かなものであった。

後に空海が18次の遣唐使に選ばれて、渡唐した「804年」の3年後に、大事件が発生して(伊予親王の乱)この時以後、叔父の阿刀大足の足跡は定かでない。若し、この冤罪無実の事件が、もっと前に発生してゐたら、空海の遣唐使派遣は無かったろうと思う。それは当時に空海の遣唐使派遣に付いて、叔父の大足が選考に際して積極的に推薦の後押して呉れたからだ。冤罪であった伊予親王の乱が派遣前だったら、叔父は失脚してゐて遣唐使の選考に際して後押はしてもらえなかったろう。

折角入学できた大學寮を突如退学して、いったい空海は何をしていたのだろう?、是は、彼の人生の空白の七年間と謂われている。勿論、遊んでいたとは思えない。この七年間に彼は万巻の本を読み、当時のシナ語を習得し、書道を究め、修験道の道を歩み、それこそ多くの事を為していたと私は信ずる。遊んでいる暇など無いくらい充実していたに違いない。元々、極めて聡明な頭脳の持ち主である。特に「修験道」を実践していたらしい事が、後の言葉や著作から読み取れる。空海は「言語にあらゆる現象の根源」を感じていたのでは無かろうか?、コトバには恐るべき霊力が宿る、呪術としての「真言」マントラであり呪言である。修験道から、空海は何を感得したか、山野を歩き精霊に触れる、それは人間の中の眠れる本能を呼び覚ます。修験は眠って居る潜在した能力の再覚醒なのであろう。山野で眠ると何かが違う。何かが再開発された様に、相貌さえ違ってくる。用具の揃った快適な足った一泊のキャンプでさえそうなのだから、小屋掛けをした中での修験道の宿泊は、それはそれは或る意味では、恐ろしい体験だったに違いない。

オオカミも出るし、熊も出る。蛇も出る。そして一番恐るべき精霊もでる。この精霊の効果こそ、人間の飼い慣らされた意識を超える体験なのだ。我々は精霊に出会うと、体が麻痺し口も利かれぬ状態に置かれる。その体験が重要なのだ。大いなる自然に触れるとはそう云う事だ。飼い慣らされたルーチンワーク的状態で消えて仕舞った、本物の感覚能力が開花する。人間は本来は野生の生き物である。それが文明化と云う去勢で本物の野生は矯められて生命を失うのが現代だ。現代の危機は人間の本能と、生き甲斐を忘れ去った為である。

全ての始原α~すべての終焉Ωまで、言語の現象から謂えるのは、人間はその声帯の構造から、発声可能な音域は限定される、人間の喉では超音波は発声できない。音域は当然の事ながら限定されるのである。発声は出来ないが脳波での超音波は感知出来るのだろうか?、無音の意志通信テレパシーは果たして幻想なのか?、コトバは未だに迷宮に在る、それは星辰と精神が共鳴する現象を人が未だに知らないからである。子供には、コトバを獲得する前に、音声の前にテレパシー的意思疎通があると思った方が好い。子供が効いた事の無い語彙を使いそれを学習せず理解するのは何故なのだろう。確かにそれがある。この事はこころを静かにして瞑想の中で探求してみることが必要だ。雑音が入ると瞑想が乱される。

ここで弘法大師の生涯をザッと振り返ってみよう。彼は讃岐の國、今の香川県に生れた人だが、父親は讃岐の土地の有力者で讃岐の直、母親は阿刀氏の出身である。兄弟が何人かいて、彼は次男か三男で幼名は真魚といった。兄が居たし妹も居たらしい。阿刀氏は当時の奈良に居たが、父親はどういう縁で阿刀氏から嫁を貰ったのかは知らない。嫁の家系はどうも学問に優れていたらしい。真魚の母の弟には当時有名だった学者で阿刀大足がいる。やはりこういう家系には時々、とんでもない英才が出ることが在る。父親の種の方が優秀である事はそれは分る。然し、母親、つまり卵の方も優秀でないと英才は出ない。空海の場合は卵の方の優秀さが影響しているのかもしれぬ。

まあそれはそれとして、3歳位でこの子は何でも覚えて仕舞うし、理解力が並ではない事に気が付いた両親は、母の弟が都に居て有名な学者であるので、是非、この次男を奈良の叔父の下に留学させようとした。将来は大學寮に入学させて官吏にしょうとしたらしい、当時にもやはり教育家の親が居たと言う事である。この次男の真魚は大學寮の試験がある一年前に叔父の下に行き、両親からシッカリと大足叔父の下で学ぶのですよ、と送り出されたのだろう。そこで四書五経、老子道徳経、荘子斎物偏、仏教(奈良仏教)などを徹底的に学んだのだろう。叔父も甥が見どころが有るので一生懸命だったに違いない。乾いた砂に水が沁み込むように幼少にして、多くの教典・論書を学んだ。当然の事だが大學寮の試験などは簡単に通り、晴れて入学したが、其処での授業は、真魚さんに取っては何ら難しいものは無く、此の侭、卒業して官吏に成ったにしても、自分は貴族でも無し、クラスメートは何れも高級貴族の子弟たちで、此の侭、官吏になって、国の父や母は喜ぶかもしれないが、先の見えた官吏には成りたくなかったのか。大學寮でも嫌な事は多々あり、この先どうするか?。色々悩んだに違いない。この悩みは現代にも通じる、人生の未来に対する悩みである。そして、真魚さんは大學寮を退学してしまうのである。

両親からも強く、叔父からも、辞めるなと何度も説得があっただろう。彼は人生の危険な岐路に差し掛かっていた。たぶん官吏に成れば食うには困らないだろう、しかし、「俺はこの侭こんな事をしていて好いのか」。何だか現在にも通じる悩みである。24歳で「三教指帰」を書き、その俊才を現わした真魚さんだが、これからどうするか?、そのとき、若しかして密かに遣唐使に出る事を考えてゐたのかも知れない。叔父の押しが在れば、極めて有利に成る。だがその時の為に、自分の知的力を十二分に開発して置かなければ成らない。真魚さんは先の見える青年だから、内心そう考えてゐたかも知れない。東シナ海を渡るのだから命懸けである。下手をすると難破して、一巻の終りである。それでも行く。貴族の子弟は難破は御免である。命が在っての物種だ。と恐れをなしていたに違いない。

大師の船は矢張り船は難破した。四隻の船の内、最澄の乗った船と、空海の乗った船が沈みはしなかったが、大分南方に流された。漂流して香港あたりかな?とにかく南に流され、其処で命からがら上陸を果たした。目的地から遥か遠く南方に付いたので、遣唐使の事などまるで知らない土地だから、簡単には上陸できない。土地の長官と交渉しなくてはならない訳で、それが誰も出来ない。怪しい奴らだ、海賊かもしれないと思われて困っている所に、空海が登場しそれをして退けた。それで漸く長安への道を進めることに成る。18次の遣唐使のもう一方の船には比叡山で天台宗を開く最澄が乗っていた。最澄の留学期間は一年ほどで返ることに成ってゐたが、空海の場合は、何と二十年も留学するという取り決めだった。その為に生活費などを含めて莫大な金銀が与えられていた。目的地よりも南方に流された空海の船は、此れからどうして好いのか困惑したに違いない。シナ大陸では北方と南方とでは言葉が異なる。それで、筆談しか方法がない。空海はそれをやってのけた。土地の長官と話が付き一行は陸路、唐の都である長安を目指した。

20年もの留学期間を指定されていたにも関わらず、当時の密教の指導者である恵果の下に行き、急速に学び灌頂まで受けて、正式の後継者となり、二十年の留学期間を二年位で帰国した。この間、空海は唐の都を具に観察したであろうし、そして当時の唐に在る曼荼羅や仏具、経典類を手当たり次第に買い集めたに違いない。これは後年、幕府使節の一員としてアメリカに行った時の福沢諭吉の行動にそっくりだ。向うの本を一歳合切、借金しても買い求め、持って来るという姿勢である。

脳の機能に偏在がるという事は、全体を創る設計図がある、という事の他ならない。そして大抵の人は左脳と右脳の機能が分担されていて、人間に象徴的な言葉を司る部分は左脳のある部分に限定されている。ことばという物は空気の音声伝達を使い、それによって意思疎通、情報交換を為す技能である。ですから、ことばという物は人間集団がある限りその集団特有の音声通信があるということです。そしてこの音声通信に基本的には優劣はない。ただ進んだ文化に特有なのは、この音声通信を巧妙に高め、効率のいい通信方法を形成して居るに過ぎない。言葉の価値に優劣は無いのである。多くの者達は、その点を誤解している。たとえば私が使う言語は日本語という世界でも特殊で一番古い言語である。古日本語では物事を表現するに歌の七五調を使う。日本語と歌は切っても切り離せない本質的な物だ。それに母音を多用するので音の表現が柔らかいのです。それは話ことばでも他の言語に比べて、どうもそんな感じがします。

さて、前置きが長くなったが、空海の問いを此処で一つ一つ提示しそれを踏まえて彼の問いに答えを探って見たい。

「意味と音」

空海さんは、曼荼羅の如き意味と音のつながり関係性に、最初は音声に捉われていたようです。だが、音声は形に過ぎない。例えばそれは(音声)通信網の中を流れる電気信号でしかない。そして音声は空気中を伝達する波動です。言葉と言うのは、発信の本体、発話の機構が本質なのです。意味と云うのは異なった音声が差し示してゐる対象物が同値(=)であるという認識です。禁煙とnot・smokingは、音声では異なりますが、差異示している事柄は同値です。あるコトバとコトバの意味とはそのように使われている。でも同値だと言っても音声は異なる訳です。初めての場合はそれは通じません。般若心経秘鍵とかうん字義、などではコトバの力と起源をも探求のターゲットにしている。なにせ「真言宗」ですから、コトバの発生の源を追求するのは当然の事です。ただ、このコトバの源は容易に突き止められることは無い。現代に於いてさえ、そうなのですから、絶大なる天才、弘法大師を以てしても、そんなに簡単な物ではない。構造言語学派はことばは音だと言った音のみだとも言った。だがコトバは音が伝えるものであるが音ではない。ブルームフィールド達はそんな見解だった。音は表現の媒体であり源泉ではないのだ。そこに錯誤がある。わたしの小学校四年の時の考えを此処に書いてみょう。夏休みが終わり9月の土曜日のある午後、家に帰る途中の道(左横には我が家の代々の墓がある)で、わたしは外人が考えることが果たして出来るのか、という事を考えた。それは家に父が買った20冊くらいのリーダーズ・ダイジェストという雑誌の英語版があった。

 

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「澤木興道自伝ー聞き語り」

2024年02月23日 17時14分53秒 | 宗教的世界の様相

 最近、私は痛快かつ痛烈な本に出合った。「禅僧ー沢木興道の自らの人生を語るー聞き語り自伝」である。これは沢木興道師が収録者に語った肉声を文字にしたものである。本人の口から出た魂の旅路であり、稀有の自伝である。ゴミ溜めに蓮花である。蓮の花も泥の中から現れる。今の世の中を見回して、果たしてこんな人物はゐるのか?。師は幼くして実の父母を失った。昔で言えば親なし子である。兄も姉も妹も幼くして空っ風の吹く寒い世間に放り出された。普通なら、愚れて世の中の屑不良になった事だろう。だが、人という物は本来生れる以前からの聖なるものを持って生まれて来るらしく、愚れようにも愚れられない性質を持って生まれて来るらしい。そして興道師の養育先が、これまた最下等、最悪の扶養先だった。後の沢木興道を産んだのは、この最悪の育成環境だった。こんな所にも蓮花は生えるのである。親とも言えぬほどの酷い養父母である。よくもまあ、こんな親の下で凄い人物が育ったものだ。いや、返ってこんな親で、酷い環境だった事が幸いしたのだろうか?。沢木師が現在の義務教育の環境を観たら、何と言われる事だろう。真の禅者は最底辺の苦労をなめ尽くして初めて生まれるものなのだろう。

興道師の聞き語りという肉声を聴きながら、私は、彼の育った当時の大阪の最下等の社会を見る思いがした。こういう底辺社会がある事はまるで知らなかった。これは最下層社会を活写している。下層社会の研究、或いは人間研究に役立つだろう。17歳の頃に読んだ岩波文庫に、横山源之助の「日本の下層社会」という本があるが、横山はこの本を左翼的な観点から書いているが、彼に記述は或る意味では嘘である。社会が人間をつくるのではない、その逆だ、人間が社会を創るのであり、なぜこんな下等な人間に成った根因は何なのだろう?、下等な者はろくな社会を創れるはずがない。次々と興道師の人生を見て行くと、彼を求道に誘ったのは、近隣に本当の高潔な人物がいた為である。如何に人間を作るのには、高潔な人物が必ず必要な事を証明している。隣に居た森田岩吉(千秋)さんも興道師を導いた方であった。「世の中に金や名誉よりも大切なものがある」ことを知ったのは、千秋さんからだったと話されている。沢木師は禅者として、夙に名を馳せて居られた人物らしいが、私は人生の中で禅に触れたことは無かった。瞑想はお手の物だが、型に嵌った座禅はしたことがない。

日本の歴史の中で禅がシナより入ったのは鎌倉期であった。栄西が臨済禅をもたらし、臨済宗を創始した。またシナに留学した道元が禅をもたらし、道元禅の曹洞宗を創始した。どちらも禅である。違いが在るとすれば、座り方遣り方の作法の違いに他ならない。禅は元々インドに起こった仏教の地下根である。仏陀が始めたものが原始仏教であるが、それ以前に瞑想の下地があった。それがヨーガである、仏典にヨーガ師土論という瞑想とその獲得した智慧の論書が在る。原始仏教以前にそのヨーガは存在した。長い年月に様々な枝を出し変化して現在の仏教がある。逆に言うと現在の日本仏教はインド由来の原始仏教から派生した物とは異なっている。それは日本独特の加工が加わり、外国産の思想の日本的変容で突然変異と言って良い。禅は鎌倉期の武士の気質を捉えたらしい。明らかに浄土宗やその枝である浄土真宗の心性とは異なっている事は素人でも解る。

十七歳の沢木禅師が、余りに酷い育成環境に悩み、そこからいつ飛び出して家出をしょうかと悩んでいた次期が活写される。養父母から離れて、一体自分の人生をどう生きるか?深刻に悩んでいたころ、一度の家出に失敗して連れ戻され、坊主に成ろうと決心して永平寺を目指して着のみ着のまま、四日間のの旅をして永平寺にたどり着く。知り合いの真宗の僧侶に永平寺に向けて家出をするのに寄った所、生米二升と金二十七銭を呉れた。この辺の記録は切実だが面白い。たどり着くまで色々なことが在った。相当に苦しい思いをされたようだ。日露戦争の話もおもしろいものだった。沢木師は実戦の本当の実体を話されている。後日、師が伊勢志摩を訪ねると当時の人が生き残って居り、戦時に特務曹長をぶん殴って気合を入れた伝説は伝わっていた。

「九死に一生の帰宅」という項目は、実に沢木禅師の、もの凄い人生を活写している。色々と駄目な親の話は聞くが、これほど駄目な養父母は中々探しても見つかるまい。戦争で負傷し、首から入った弾は舌にぬけて重傷を負った師は担架で運ばれ、もうこれは駄目だという白い紙が貼ってあるが、白い札の戦傷者は一人二人と消えて行くが、興道さんは死なずに三日生きてゐると、若しかすると蘇生するかもしれないというので、ようやく治療を始めてくれたという。そんな九死に一生の負傷で、奇跡的に助かり、途中の戦傷者の内地への旅は酷いものであった。宇品に着いた後に、ようやく病院に入れた。

少し傷が癒えて家で加治療養しようとしていた矢先、家に帰るとまるで駄目な見本の様な養父の所業が露になる。養父は興道禅師が戦死する物とばかり思い、その戦死者に降りる手当を抵当に金を借り、それで博打をして酒を飲み、スッカリ使い果たしていた。養子が生きて帰った来たと成ると戦死手当てが下りないので、目算が狂い興道禅師に向かい怒鳴り散らして居たのだ。呆れるにも程がある。こんなのは親でもないし結縁でもない。養父とは謂えこんな駄目な親を持ったのは、幸いだったのか不幸だったのか。この養父は提灯張りを生業としていたが、幼い興道氏を引き取り、提灯張りの手代に使おうとして引き取ったのだ。食事と言えば麦飯でおかずは大根のしっぽと茄子のへただと謂う。新しい茄子漬けは自分の実子に与え、古茄子を興道に食わせる。よく病気にもならずに育ったものだ。賭博場の丁番、風呂屋の下足番、提灯の張替え、およそ今の若者がやる事の無い仕事である。禅師は思春期の頃には、此の侭ではいけない、「俺の人生はこんなもんで終わって仕舞うのだろうか?」と、悩みに悩み、此れでは、この世に生れた甲斐がないと煩悶し相当苦しんだと話される。何にに成ろうかと言ってもその展望がない。

禅師は、色々悩んだ挙句に、そうだ!、坊さんに成ろうと決心する。17歳か18歳の頃のことだ。人生のこの時期は、自分の将来について真剣に生きようとする者は誰しも煩悶する物だ。むしろ煩悶しない人間が居ることは不思議な事だ。興道師は一度の家出では連れ戻され、再び家出を決心する。二回目の家出が永平寺への必死の旅である。なぜ永平寺かというと、此れだけ遠ければ連れ戻されることは無いと踏んだらしい。まだまだこの聞き書は長い、沢木興道師の、その聞き書をよむことで禅宗と禅のこころに幾らかでも触れる機会を与えてくれた話者と編者に感謝する。今日は家内が遍照寺鮎ケ瀬智舜先生のお話を婦人部で聴きに行くという、先生はいつも人間は何を柱として生きなければ為らないかをお話されるので良いお話をお聴き出来るであろう。

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わが深き淵よりー星野富弘さんのこと

2018年12月20日 20時22分25秒 | 宗教的世界の様相
そこを訪れたのはもう遠い昔の気がする。16年も前になるだろうか。足尾の山道をとおり、星野富弘美術館を目指した。そのとき前年の11月27日に父を失って次の年の春先だった。星野富弘の名前を知ったのは、もっとズーッと前で、父の蔵書の中に在ったものだ。次に星野さんに出会ったのは、詩画集であった。それは本屋の棚に縦置きに置かれた水彩画に目が行ってからだ。だからもう40年も前の事だ。星野富弘? 誰なんだ? 画家か? そうおもった。足尾を越えて出掛けた草木湖を望む、素晴らしい眺望の富弘美術館には彼が口に筆を咥えて描いた、沢山の水彩置かれていた。みな素晴らしいとおもった。そして絵に加えた、彼のことばがまた宝石の様な輝きを持っていた。

水彩画はとても優しく、絵の花々の片隅にはことばが置かれてあった。

それがとてもこころに染みる、美しいコトバだった。ああ宜しいなと素直に気持ちに染みた。



彼の略歴を見るとまた驚きであった。学校の体育の先生だったのだ。その人がなぜ水彩画を?

新たに新任として赴任した星野さんの輝ける未来の一歩は、一か月もしない内に失われた。

それは、担当教科の実習で、鉄棒の模範演技の際に転落し頸椎を損傷し首から下の運動力を失った。

誰もが思い描いても、言葉に出ない多大なショックである。どうしたらいいのか?

彼もまた一時は絶望の淵を彷徨ったに違いない。
(これから先の希望多い未来なのに、なぜ…)、本人も、両親はじめ、親類縁者も友人も悲嘆しただろう。

だが、なによりも彼自身が絶望の淵に立たされた筈だ。彼は、何を思い一日を過ごしたのだろう。

彼の凄い所はこころがこの危機から立ちあがったことだ。なによりも増して、もっと深くもっと大きく。

人生の平坦な道を歩くとして、雨も風も吹かず、暑くも無く、寒くも無く、
だがそう云う人生があるとして、それは人間を深めるのだろうか。雨風の無い平穏な人生が理想だと云う方も居るだろう。

星野さんも事故に遭わなければ、小中学校の校長として、或いは県の教育長などとして大成したのでしょうが、現在の星野さんのように影響力を持つ人生の教師としては存在しなかっただろう。

人の人生は、また危機は至る所にあり、また思っても見ない病気に侵されることもある。
思っても見ない災難に遭う事もある。どんなにか気を付けていても。

大切なのは、そこから立ち直る力である。辛い現実を超えるちからである。
それはなんだろうか、それはどんなものだろうか、ひとのこころの弱さを、つよさに変えるのは
それはなんなのだろうか?
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エジプトの聖マリア(ケサリヤニ修道院聖堂壁画)

2018年12月03日 10時41分45秒 | 宗教的世界の様相

 取り立てて自分は、信心深くも宗教的でも無いが、宗派の草創期に於ける創始者の心根には感動する事も多い。原始宗教という物は、人間の生の情念が浮き出ている場合が多いし、また、それが哲学的な情緒の発端に成る事だってある。それは世界中の素朴な多神教の習俗に限らず、いま世界を席巻しつつある、高々2000年の歴史しかないユダヤ教とそこから派生した、ローマカトリックやプロテスタントのキリスト教やイスラム教などの、一神教の硬く重く息苦しい教義の中にも現れている。生と死の円環の中で、「存在の意味」と言うような根源的な問いは、現代の宗教産業とは何の関連も関係もない問いである。この問いは、謂わば人間の心の深奥に灯る、素朴で根源的な問いである。

我々の存在よりも、はるかに永遠の過去より太陽は輝いていたが、過っての恐竜が地球の主であった日と同じく、現在の人間も恐竜と同様である。勿論、このままの現在が永遠に続く訳がないから、人間の営為は、何れ滅び去り地層の痕跡として残るだろう。そして、後代の生物が「過去にはこの様な生物が居て滅び去った」と云う事を発見し、大々的に研究をするのでは無かろうか?。生物の進化の長い適応の歴史に於ける、人間の位置に付いて、あるいはその意味について、暖衣飽食に酔う今の人間にとっては、この問いの答え、考える者はおそらく皆無だろう。弟子は空海のエッセイ集である「性霊集に」編纂した。これは多くに人が読むべき箴言集に似ている。また秘蔵宝ヤクのなかには、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の初めに冥く、死して、死して、死して、死して、死の終りに冥し」と。生きとし生ける生命の実相を看破している。空海は日本最大の知性の一人であり、彼の探求の範囲は深く豊かで、その見識は人間を超越している。
わたしを含めた、このおびただしい命は、なんのために生まれてきたのだろう。

今日も雨の中を車で走ると、カエルが目の前に飛び出してくる、私は、逃げて、逃げて、と避けようとして必死になるが、何匹も轢いてしまった。彼らは光に向かって飛び跳ねてくるのだ。真っ暗な夜道を歩いて居るのは、カエルのヒトも同じだ。わたしはゆえなくしてカエルの命を奪っている。

 どういう訳か、昔し岩波書店の広報誌「図書」と云う物を取っていたらしい。無論、取っていたのは自分では無い、ただ家に有ったのだ。街へ出かけると、親父は必ず本屋に入り熱心に見ていたから、そこで買ったのか? 「図書」の購読者に成っていたのか?分らない。わたしは時々パラパラと捲り、面白そうな内容を見ては読み散らしたに過ぎない。田舎では、足った一軒の近所の雑貨屋で買って来た、当りクジ付きのアイスクリームや、茹で立てのトウモロコシを齧りながら見た記憶が残っている。1960年の高度経済成長以前の時代だ。長く購読していると、大抵は詰まらない記事も、記憶の残る記事も有ったと思われる。その中の記憶の底に残る幾つかの記事と、その思ったままを書いてみよう。

その中で紹介したいのは、比較的新しいとは言っても1977年11月号の図書の表紙解説「エジプトの聖マリア」である。小冊子はまるで話の中のマリアのように歳月の陽を浴びて、表紙も紙も茶色く変色し、ボロボロと崩れて仕舞うほどだ。1977年11月号と謂えば、いまから41年も前の事なのに、私の脳裏には昨日の如く、記憶として残っているのは不思議なことだ。心の奥に届く話は、永遠に新しいのだろう。分らないが、これは「イコン」ではないだろうか?、つまりローマカトリックでは無い、東方正教会、(オーソドックス)である。ギリシャ正教ともブルガリア正教、ロシア正教、とも云う正教会は、みなこの東方正教会の分派である。本拠はコンスタン・チノープルで、パック旅行でお馴染みの、四方に尖塔を持つあの建物である。

この表紙絵の解説は柳宗玄先生がお書きに成られている。元々の「修道院聖堂壁画」の解説は、先生のご著書「秘境のキリスト教美術」という岩波新書の中の一説であるらしい。私は読んだ事は無いが、我々は本物の砂漠と云う自然環境を、生まれ乍らには知らない。それは灼熱の光と闇の、生き物の無き世界であり、過酷さでは地球上で最大のものであろう。


1977年11月号の「図書の表紙絵」の解説として、柳宗玄先生が書かれた文章を紹介する。

「金儲けと享楽を旨とする今の世の中とは全く無縁の人物の像を紹介する(いや、もしかしたら、おおいに関係があるかも知れない)。この聖画はほとんど単色に近く、相当の凄みがある。」と柳先生は書かれていて、当時の暖衣飽食に満ちた、軽薄な世相に反感を持つ先生の純粋さが覗いて見える。ここからは、柳宗玄先生が図書にお書きに成られた文章をコピーしてみたい。


「あるとき(五世紀の初めのことだが)ゾスィマスという修道士が、ヨルダンの砂漠で祈っているとき、彼の前を人の影のようなものが過ぎて行くのを見た。彼はそれが悪魔の幻かと思い、大いに怖れたが、十字を切って落ち着きを取り戻してよく見ると、それは太陽の為に全身が真っ黒に灼けた裸の女で、首までしかない髪は毛糸のように真っ白だった…。

やがてゾスィマスのマントを与えられた女は、それを身にまとい、近寄ってきてその身の上話をはじめる。彼女はエジプトの港アレクサンドリアで淫乱の限りをつくし、さらに悪事を重ねるためにイェルサレムに向かう巡礼団に加わるが、ある日忽然と悟り、ヨルダン東方の砂漠に入り、そこで四十七年を過ごした…。

その間、彼女はエジプトで快楽に耽った日々を思い起こし、その心は激しく苦悶する、しかし砂漠における断食と祈りのきびしい修業によって、彼女は驚くべき能力を獲得する。ヨルダン川の水面を歩き、祈りによって空中に舞い上がり、動物と会話し、天恵のパンで飢えをしのいだ。

ゾスィマスが翌年、その約束に従って同じ谷間に彼女を訪ねたとき、そこには顔を東に向けたマリアの体が横たわっていた。そしてゾスィマスはマリアが砂の上に書き残している文字をみた。

(ゾスィマス神父よ、哀れなマリアの遺骸を埋められよ、地の物は地に返し、塵に塵を加えられよ。)」
                                    


鎌倉仏教の祖師たちの中でも、一遍はこれに似ていたと思う。彼も真っ黒に日に焼けて、ほとんど放浪して歩いたのだから…。まったく無欲のひとは社会では機能仕様がないが、欲が有り過ぎるひともまた人間以下である。大金を掴んだ人間が破滅するのは、金を得るよりも使う方がはるかに難しいことを証明している。

そしてすべてに於いて、世の中には、過ぎ去った後に成らなければ、真の意味も価値も分らないのが普通なのだ。いま事前に、その存在の価値や意味を知ろうとしても、それは無理なことなのだ。人はそんなに賢くは出来ていない。そのような叡智は無いのだから、いつも人は為したことや、為さなかった事を後悔するように出来ている。また後悔しない様な人生ならば、それは本当に生きた人生と謂えるのだろうか? 全ての悲しみは、確かにそこにある。だが後悔することで、僅かだが、全くの無明から解放されると信じたい。失う前には少しも価値を知らず、失う事によって、初めて生きて共に在ったその時間が、どんなにか貴重で幸せな時間で有ったのかを私は知った。

営業化した現代の宗教に比べて、古代の信仰はいまより純粋であった感がある。柳宗玄氏の「秘境のキリスト教美術」の口絵を見ると、「ゲレメ付近の洞窟修道院」は、なんと山形県立石寺(山寺)の岸壁に穿たれた墳墓の印象に似通っている。立石寺はもちろん仏教寺院であるが、出羽は修験道の本場であった。原始宗教という物はいずれもどこかで似通っているのが普通だ。荒野での超越するものとの対話と言う趣だが、ひとは過酷な環境の中でしか、より超越した何かとの対話は、成立しないのかも知れない。

日常を離れた不思議な経験を、するとしないとでは、人間の本質が基本的に異なってくるのは必然だろう。いままで盤石だと思って居た地面が、底知れぬ深さと豊かさを持つとしたら、これは人間が性根から変貌するのは当たりまえの事実である。自分は、どちらかと言うと理屈や合理性に傾いた人間だが、或る経験から魂の存在を信じることに成った。何でも現在の科学で解明されて分って居ると思う方がおかしい。科学は未だその本体の表面薄皮を撫でている段階に過ぎない。人間の知能は自然科学が追求することの目的地であろう。我々は自己意識と言う物の本質が、また物事の関係を理解するという合目的認識がどこに在るのかに附いて、解らない段階です。例を挙げれば、言語という外部情報と内部言語との関係さえ、ハッキリとは分かっていない。それは関連があるというぐらいの曖昧な段階にあるに過ぎない。

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