この地球上の、いま在るこの世界は、命といのちの出会う場所だ。こころとこころ、魂と魂の触れ合う場所だ。生きて在る同じ土地や時間帯に生存して居ても、ひとつとしてこころ触れ合う機会がない無縁の人もある。そしてなにも人ではなくとも、例え猫や犬でもかけがえのない出逢いは有る。こころが通じ合う、それがあれば命はみんな出逢いだ。ひとの最初の出逢いは母親だ、そして父親、祖父母、兄弟、親戚、という血のつながった関係だ。成長し同じ世代の同輩と学校で出逢う。学校で出逢った同輩、先輩、後輩、の中から友人、親友が生まれる。親友とは何か、相手の中に自分を見て、自分の中に相手を見る、こう言う関係だろう。こころが通じ合うという事が肝心だ、たぶん寺田と夏目は、こう言う関係だったろう。知的レベルの関係で、誰もがこういう関係に成れるとは限らない。自分は父も母も選べないが、やはり自分は友を選ぶし、自分も友に選ばれる。この人生は斯様な交差点なのだ。生きて在る時間の中で、友は最も大切なもののひとつだ。じんせいも終わり近くなって、とりわけそう思う。一緒に居られた時間をむだに流してはならない。と云うより、同時代では無くて、同時間なのです。問題、悩み、夢、諸々の話したかった事、教えを受けたかった事、聞いて置きたかった事、考えを聞きたかった事、私はそれをしなかった事で、後に成って一体何度後悔しただろう。相手が生きている内は何となく、気兼ねして聞けない事も在るし。其のとき聞いた置きたい事柄が思い浮かばない事も在る。相手が亡くなってから、はじめて聞いて置けば好かったことを思い出すのである。自分でも、無意識にまだ余裕があると想っているらしい。我々人間とは愚かな存在だ、明日も命があるとおもいがちなのだ。この人生は奇跡に思える。目の前に広がる神秘と謎の深淵は、この宇宙の偉大さを想わせる。
根源的な大きな問いとして、この宇宙は何のためにあるのだろうかという、そういう問いである。わたしは根源的な創造体として、人為的な従来の神(ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の)と言う物があるとは思って居ないが、事物の全てを創造する、人間がたえずイメージして来た神に相当する物が在るとすれば、いやそれは確かに在る。それは根源的な物であり、現代の言葉で云うとすれば、「万有引力」であり、「電磁気力」である。それが神だというのなら、私は本当の神だと想う。ですから日本人は「重力・引力神社」、「電気・磁気力神社」を創る事なら賛成するのだが、多くの人は嗤うだろう。それからこころとは何か?、という問いであり、分子構成物の生理機構をはなれて、こころは存在が可能か?。と言う問いである。
いのちは何のために生まれて来たのだろう?、大切な生き物との別れを悲しむとき、それは、このいのちは、我々のいま在る創造世界を体験・経験する為に生まれてきたに違いない。あのつぶらな瞳をみる、この子は喋れないから嘘をつくことは無い。いつも穏やかで我慢強かった。この子が居て呉れた為に私は生きる事の深さと喜びを知った。