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日本語の起源と人の言葉の習得についての省察ー1

2016年01月28日 09時35分02秒 | 日記
<声と意味> 2016・1・22(金)

私たちが何気なく使う最も大切なものに、ことばがあります。この言葉の実体と習得に関する、多くの問いとそれに対する回答を省察したいと思います。人間が人間である最大の特徴は、ことばを持つ存在であるという事に尽きます。さて、この言葉と称する存在は、いつ頃どの様にして始まったのか?。そして、ことばの獲得は、それは集団の中の通信手段であると同時に、個人の中でも習得され、その後縦横無尽に使われ、個人の資質と知識を拡大してゆく最大の道です。このように人間の成長と成熟について、ことばは大きな影響を与えており、その習得過程を全貌を追求し謎を謎のまま置いて置くことなく光を当てることの大切さを感じています。このような主題が歴史上提示されたのは、そんなに古い事ではありません。それは西洋では17世紀、或いは18世紀になってからの話です。著書として古く残っているのは、フランスの神父であるアントワーヌ・アルノー、ランスローのポールロワイヤル文法という言語論です。そして、18世紀にはルソーの言語起源論が現れ、またドイツにはヘルダーの言語起源論が現れます。この辺でことばの問題意識が芽生え、それ以後はフランスでもドイツでも、この手の考察が盛んになってきます。


それで、近世に於いて、最も有力な問題意識や影響力を与えた人を、ひとり上げるとすれば(勿論、他にも何人も居るのですが)、それはスイスの言語学者フエルデナンド・ド・ソシュールを上げるのが手っ取り早いでしょう。彼は、その明察から言葉の問題に基本的な洞察を示しました。それ以後は言語学はどちらかというとつまらない事に終始し、活用や語尾変化とか、些末な事に成ってい行き魅力は失われた。活気が出てきたのは、アメリカにN・チョムスキーが出現してからでした。普遍万能文法というビジョンを示したことは画期的で大変重要なことば観でした。普遍文法とは、人間の言語能力の普遍性を意識した概念です。地球上のあらゆる言語は、いずれもローカルな言葉に過ぎないと云う事ができる。それは一言で云うと、人間の言語能力は環境に適応する中で形成されるという事実を現している。そして、ではローカルな言語の背後にあることばを統合するものの実体は何なのか?別な表現でいえば「分節」を司る機能は何なのか?という問いです。それは逆に言えばことばの普遍性は、言葉ではなく、精神の、というか、意識のモット底にあるサイクルの普遍性に依って言葉は形成されるのだという事に他ならない。


では、ヒトの言葉の習得はどの様な原理に基づいて、如何なる手順の経過で行われるのでしょうか?それを探求するのが言語起源論の第一の主旨でありテーマであります。どの様な条件の下で言葉は習得されるのか?第一は子供が生まれ成長発達するその言語の環境で聴覚を通じて習得する事に成る。おもに母親との言葉の交換から始まるのが普通だろう。音の分節を単語として認識し、意味が付随するのはどの時期か?やがて文法を習得すると発信を声で行うことが出来る。意味を操るには形容詞・動詞と助詞を組み合わせ、言葉の順序を形成する意味を理解する価値標準が形成されている必要がある。そして、此処で基本的に重要な概念として「分節」と云う操作が有ります。過って井筒俊彦氏が「意識と本質」の中で詳述していた言葉ですね。井筒氏は、この分節を意味との関連で語っていた様ですが、これは語の形成とか意味の創生というものダケではなく、人間の語の獲得の中で中心的な役割を果たす機能は、分節をもたらして、語に意味を与え、文章を口語を統括しているこのサイクルです。これがどの様に働き?、どの様に機能するか?、いまの所、具体的なモデルや図式は出来ていますが、それが現実にヒトの言語獲得と活動を十分に説明できているのか?に付いては、まだ不十分です。

人間がことばを獲得し、十分な表現活動をするうえで「記憶」は、最も重要視すべき機能ですが、そして、記憶の進化という事を云われる方も居られますが、単なる記憶の次元ではないと思います。むしろ、ことばにとって最も核心的な部分は、記憶を統べて、それを動かしている力なのだと思います。その力が何なのか?、それが何処から来るのか?、それを明確に把握する必要があります。この辺の部分は、「言語の起源」をいうに及ばず、意識や精神の実体を含む、心理学の核心部であると思っています。言葉の探求は、やがて「心」と云う概念を明らかにするところまで行かなければならないと思います。可笑しなことでして、自分で云うのもなんですが、是って何となく、唯識の方向性と似ているような気がします。(笑)このサイクルについては、モット精密に、順序と因果関係を参考に探求する事が大切だと思います。

どこか、情報という概念が起きる。そうDNAという遺伝と形態形成を示すデーターの宝庫の事だが、遺伝学に於ける形態としての情報は、一対一の対応だ。その様な論理に成って居ると考えられている。その様な生命体の最も基本的な対応関係を一つの情報と呼べば、コトバは、その様な意味での情報では無い。コトバは、余りにも曖昧な側面が大きいのだ。つまり自由度が大きいと云える。で、遺伝情報の様な媒体と、ひとのコトバは明らかに根本的に異なるものだ。コトバを情報と捉える誘惑が大きいが、それは根本的に異なるものである事を忘れては成らない。
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