最も進んでいると思われている現代の自然科学でも、果たして自然現象を探求して見て、 何故に我々を含めた諸動物の脳が、左右に分かれて二つある事の意味は解けていない。元々、我々の体は、古代の遠いご先祖である魚類から構成様式を受け継いだものである。そして脳神経系と共に、多分「こころの構造」と言う物も、時間の降り積もった地層の様に、遠い記憶を本能として受け継いでいる。右脳と左脳の存在は、それこそ脊椎動物の起源にまで遡るだろう。遠い祖先から受け継いだ我々の体は、解剖学的所見に基づけば感覚器官は二つある。それは耳にしても眼にしても鼻を通じた肺にしても、生殖器の精巣も卵巣も、腎臓にしても二つある。勿論、心臓などは一つであるが。血流を送るポンプとしては一つで足りるのであろう。だが感覚器官に付いては不思議と左右に二つある。或る意味で体は対称的に出来ていると言って差し支えない。手も足も水中のヒレが進化した物だ。器官としては二つあるが、それは独立した別の存在では無く、互いに得た信号を補完し合う関係に成ってゐる。
その様にして生物は環境に合わせて、自らの形を変化させて来た。その変化は現在も進行中で、絶えず環境は変わるのであるから、地球に生きる生物は、そのままの形で終わりと言うことは有り得ない。生命はたえず取り囲む環境に合わせて形態変動しているのである。その変化の源と成るのは、地球上の惑星システムがもたらす生存環境であり、我々自身の生きてゐる社会形態である。その環境を創り出してゐる太陽系の惑星システムである。太陽系の回転と重力はその一部である地球の上でも例外ではない、惑星系の刻む時間と周期は、生命の発生と生理に多くの本質的な影響を与えて来た。言葉の真の意味で我々は星の子である。生物は細胞で出来ているが、細胞内の設計図である遺伝分子構造を揺るがすのは、熱による分子時計である。生命体の分子進化は、たえずこの熱による分子構造のゆらぎに起因している。この分野は熱力学と統計物理という古典的な道具が在るので、この道具を使い複雑な生命のシステムを根本から探求してみることが必要であろう。
道具が旧式ならば、新たに世界観に基づいた道具を創れば良い。それこそ必要な智慧である。我々は生物の形態に何となく不思議を感じる。その形には、何か意図的で必然的な理由がある。端的に言えば生物の形の変化を熱力学や統計力学と紐づける事が出来れば、それは形というものの本質に光を当てることに成るであろう。その分野は未だ未開だが形と機能に解明に至るには一番重要な焦点である。
人間の学問的認識は天文学から始まり、物理学へと変化しやがて化学を生み、そして生物学へと認識の方向性が起きている。化学は生物学への大きな貢献をしている。それは細胞だけでなく細胞中の遺伝子子分子構造を探求する道が開けた事でも在ろう。そして自然科学はいま垣根を越えて、全体が融合する時代に成って来たのである。私は、この先の人間の文明の方向は、将来は人間の意識の研究に移ると信じている、いわば精神の研究分野が行くべき方向である。この精神の研究は、今までの様な物理学を規範としたものでは不足して居るものが有る。それはこころの研究と物質の研究の融合が未だ為されていないからであり、方向性としては、今で謂う心とか魂とか、そういう形のない物の探求が不可欠な要素に成ろう。
まず、現在の自然科学の歴史の発端を振り返って見ると、それは天文学と占星術だった。しかも天文学と占星術は、別のものでは無くて一体の物であった。さらに人間が空を観測して星々を観測する事の意味は、恐らく「暦」と関連して居たことだろう。永い星空の観測の結果、古代人は太陽系の周期は決まっており、それは春夏秋冬を齎す事を理解して居た。人間が生活する上で「暦」は、不可欠の知識であった。若しも暦が無ければ、人間はどの様にして一年の仕事を割り振ることが出来るだろう。この様に一年が繰り返されることから、古代人は、人間の運命も星空の現象の中に現れていると信じたのであろう。それが占星術の発生である。占星術は人の生まれた月と日と時間を神経質に追及する。これは後で詳しく書いてみたい。
そして「暦」の制作には天文観測台と計算が必要である。歴史的には太陽暦と陰暦があるが、これも文化の違いによる歴史的な物だ。占星術が何時、どの様に始まったのかは、ギリシャ時代を越えてモット前だろうという説も在る。占星術が主に中東で始まり、それが西洋に運ばれたが、東洋には「易」が在る。シナの古典に「易経」がある。此れは周に時代に編纂された為に、易を周易とも呼ぶ。今に伝わる物はこの周易である。周は殷を滅ぼして成立した国であるが、その殷は夏を滅ぼして成立した国である。易に付いては、既に夏の時代にト朴は存在したとの伝説もある。日本の古代文書である、ホツマツタヱ(秀真伝)、三笠伝(ミカサフミ)、太占(フトマニ)、を調べると、太占は既に占いの原理を語っている。太占は16の掛けが在る。16×16=256の卦が存在し、周易の8×8=64卦に比べて4倍も卦が多い。卦が多いという事はそれだけ詳細を物語るという事だ。
角田忠信博士の起こされた「聴覚を通じての脳神経システム論」に因れば、我々の脳には年輪が在ると云う。恐らくは我々の一年の周期が、人間の生活を律している様に、この地球の全生命体も太陽系の回転から創り出される惑星時間の周期に対して、それに同調し他律性が自律性として働くのであろう。脳の年輪はキッカリ一年の周期で波長が変るという、角田先生の実験研究では、それは驚くほど正確な経過時間を現わしている。
人間の考える事は、東洋でも西洋でも大体似ている。人間の人生や国家の未来を予測するという試みを古代人は執拗に追及して来た。ト朴と呪術はどこかで関連している。未来は予想できると信じた為であろう。人の人生や運命が星の形に現れる関連性は自然科学的な見方では無い。だが古代に於いては関連性が在ると信じられた。天は神が司っている。それらの信念が占星術とト朴を生んだ。だが現代の自然科学はそれを否定する。この点は幾らかの疑義があるが、概ね人の運命は個人の意思と行いに因ると思われている。易も占星術も難しい。
もう一つ、取り挙げるとすれば、「言語」、「ことば」である。日本で育ち、全くの日本語の環境の中で生きて来た私にすれば、日本語は私の思考と表現と伝達を可能にして呉れる一番の手法であり、私自身が、私のこころが、この日本語によって創られている。思考の手段として、意識を収斂する手段として、日本語が在る。若しもこの言葉を失い、表現と思考の手段を喪失すれば、私は私ではなくなる。コトバは想像慮l句の表出手段なのだ。世界的に見た場合に日本語は全世界のどの言語とも違っている。この事は大きな意味を持っている。日本語とは人間の使うコトバの中でも最も古いコトバの様です。標記は漢字が入ったときそれを常用の手段としたが、縄文2万年の過去から、それなりの文明を築いてきたなかで、文字が無かったとは思えない。神社関係の中で、記号の様な文字が残されている。漢字以前の神代文字を称されているがその解読も進んでいる様です。それが確かな物かどうか?、時の支配者に都合の好い物が残され、又は改竄されるという事は、時として起こる事です。西暦で言うと紀元前660年が皇紀の始まりですが、日本の歴史はそんな浅いものでは無い。少なくとも縄文土器の前16500年以前にまで遡る事は事実が証明している。日本語の起源は、その付近まで遡れると感じる。