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渋沢栄一の生家「中の家」を訪れる

2019年10月20日 07時22分23秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本

 十月の中頃、5年後に一万円札の肖像になるという渋沢栄一翁の生家を訪れた。渋沢翁と云えば、江戸時代の終わりから維新まで、開国日本の背骨の一つである産業国家の土台創りを成し遂げた稀有の人物でもある。渋沢の家系は、頭脳明晰で知的優秀な家系らしく、孫や親戚から何人もの一流の学者を輩出していた。栄一の人間としての矜持や哲学は、彼の従兄で10歳年長者の地元の漢学者である「尾高惇忠」による影響が大きい。終生に亘って、渋沢が事業を進めるに当って論語を離さなかったのは、この「尾高塾」での子供時代に、心に沁み込んでやがては信念となった論語の道徳哲学が人生の羅針盤になった為であろう。近代的資本の原理の中で、ひとの金で商売をするからには、その仕組には、先ず第一に不可欠なのは「信用」と言う二文字である事は自明であろう。彼は事業を進めるにあたって、この信用を第一に徹底した。企業であるからには、もちろん利潤は重要だが、利潤のみが第一で有ってはならない。利潤、「それは信用と誠実に付いて来る物だ」、と言う認識である。渋沢の著作は数多く素晴らしい物がある。「論語と算盤」も、そうだが、彼の自伝である「雨夜譚」なども興味深い。それにしても「徳川慶喜伝」は大部の著作である。栄一は主君である徳川慶喜を深く敬し理解していたのだろう。この伝記は出版されてはいるが、余りの浩瀚な大冊である為に幕末明治史の研究者でもない限り、全てを読み通すのは余程の根気が要る仕事だ。つまり幕末史の研究者でもない限り読まないと謂う事です。

私が改めて澁澤翁に興味を持ったのは、むかし岩波文庫で「忘れられた日本人」などの著作を読んだせいであり、また著者である宮本常一を取り挙げた、佐野眞一の「旅する巨人」を読んだことも切っ掛けであった。旅する巨人とは「民俗学者ー宮本常一」の事である。宮本にお金を投じて、津々浦々の全国調査を頼んだのは、澁澤翁の孫であるアチック・ミユーゼアム(屋根裏博物館)の創設者ー澁澤敬三です。敬三は、本来は動物学者になりたかったらしいが、父が廃嫡された為に、敬三が栄一の諸事業を継ぐことに成った。日本民俗学の創始者は、古くはシーボルトだろうと思うが、日本人では柳田國男という事に成っている。然し、澁澤敬三もやはりその創始者の一翼だろうと思う。澁澤敬三は、開国以来の急速な欧化政策により、伝統的日本は隅に押し遣られ、鎌倉室町江戸という文化の元型に、変遷と衰亡の危機が訪れようとして居た明治期、早くも先見の明を発揮し、失われたら二度と復元できない貴重な資料や体験を集める計画を始めた。やがて其れが、どんなに貴重な文物に成るかを彼は明察していたのであった。

血洗島の栄一の生家ー中の家(なかんち)と発音する。「勿論学芸員の方は、東の家(ひがしんち、西の家(にしんち)も有ったそうな、いずれも渋沢の一族である。」中の家は、立派な瓦葺の門構えで、蚕を飼う二階家であった。江戸時代の藍玉の販売で財を成し、その後は生糸を吐く蚕の卵の販売で、現在の価格に直して年間2~3億の収入があったという。家は一度火事で灼けて、大正時代に作り直した物らしい。総ケヤキ創りの誠に豪壮で立派な家である。庭の五坪ほどある深い澄んだ水を湛えた池には、大小の美しい錦鯉が泳いでいた。ああ此れはお大尽の家であると感じた。「中の家」の歴史と建物を説明して下さった方は、本当に淀みなくお話し為さってくださり、その説明には甚く感心しました。色々とお聞きすれば、まだまだ裏話を聞かせて呉れたに違いないが、あいにく時間が無く、裏話を引き出す十分な時間が取れなかった。栄一の数奇な人生と言うか、運命と言うか、実に面白い生涯を送って居る。彼とて人生の分起点になった分水嶺が、一橋家への仕官にあった事をよく知って居たの違いない。「渋沢家三代」これもまた佐野眞一の評伝だが、気楽に読み通せる面白い新書なので、訪れる際には読んでおくべき本だろう。

深谷市では新一万円札の渋沢栄一に沸いて居た。改めて栄一の業績が評価される絶好の機会だろう。説明して頂いた学芸員の方も仰っていたが、渋沢の人生は或る意味では数奇な生涯である。若き18歳の栄一は、高崎城を武力クーデターで占領し、その余勢をかって大老井伊直弼の独裁下に在る江戸まで攻め上る計画を周到に立てていたのである。それは栄一の国家に対する憂国の情から発した物であった。この儘では日本は滅びる。栄一の危機感がその行動を計画させた。クーデター計画は結局断念されたが、同志は幕府に追われて京に逃げざる得なかった。あの温情に溢れる渋沢が、これ程熱いモノを心中に秘めていた事を思うと、彼が後の事業の全てに亘って、日本国家の繁栄と人々の幸せを希求していたかが分るというものだ。事績は渋沢の無私の人物像を描く事ができる。結局、高崎城をクデターで乗っ取り、その勢いを持ちて江戸幕府に開国を改めさせる為に攻め上がるという計画は実現しなかったが、察知されて「関東取り締り出役」の幕士に追われて、同志と秘かに京に逃れた。彼はそこで、徳川一橋家の執事、つまり徳川慶喜の用人にで出会うのである。誠に不思議な縁だが、そこから渋沢の人生は、180度回転変化するのである。倒幕から佐幕への、この変化は尊皇攘夷が流行だった時代としては時代的に錯誤の感もあるが非常に面白い。倒幕から佐幕に替わる事で、此処にこそ渋沢の全人生の枢機を解く鍵が有る。慶喜の弟の昭武に随行し、フランス留学の執事として、金の使い道から生活の心配まで、栄一は細かい事までしっかりと管理している。その過程でヨーロッパの工業力と資本主義経済構造の実際を学ぶことに成った。

西洋、特にフランスを見聞した栄一は、日本に不足している物を直ちに悟ったのである。この儘では日本は列強の植民地になる。如何にして国を富ませ兵を強くするか。これこそが国を建てゆく要である。渋沢が昭武の執事としてフランスに渡って居た時、日本では鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰の役が展開されていた。運命は不思議である、もしも栄一が日本に残っていたら、無事では済まなかったろう。後の同志であった伊藤博文辺りに暗殺されて居たかも知れない。当時は殺伐とした時代だった。明治期に、もしも渋沢が居なかったら、日本の近代産業はあれ程の広範な展開を見ていなかっただろう。栄一の論語と算盤は夙に有名だが、すでに産業資本の在りかたの先取りをして居る。銀行は他人の金を使い廻すわけで、そこには信用と誠実こそが資産なのだが、それを逸脱する利益の追求だけの企業が有る。戦後に初等中等教育の中で、徳の教育、謂わば心を修める修身の機会が失われたために起きた現象だろう。渋沢栄一は日本が世界に国を開き独立国として植民地勢力に対抗した幕末と明治期に於いて欠く事の出来ない人物であった。

歴史を学ぶことは大切であり、確かに遠い過去を探る事も重要だが、過去は現在の歪を見る鏡でもある、またその歪の是正を考える動機と視点にもなる。開国以来、澁澤栄一翁が思い描いていた日本の姿はどんな物であったろう、翁の描いて居た日本の未来はどんな物であったろうか。敗戦で失ったものは物質と言うより心や精神性のものだった。この儘で好い筈がないと渋沢翁の肖像を見ながらふと感じた。日本ではバブルの破裂以来、多くの世の中の安定に資する公正な諸制度が壊された。バブルを煽ったのは時の政府と日銀である。異常なほど紙幣が市場にバラまかれ、世はバブルに踊ったが、結局その附けは国民の税金で支払う事になった。雇用状況に変化が起きて、大多数が正社員として保障された時代には生活は安定したが、正社員の登用は激減して、若い世代は生活の長期的保障と経済的な安定性を失ったのが現在である。こういう事態を渋沢翁が望んで居た筈はない。また渋沢翁も薦めるように古学悠遊である。新しき学ももちろん素晴らしいが、古学も心の陶冶の為に楽しみたい。「古きを訪ねて新しきを知る」何に於いても尊重すべきは中庸なのだと信ずる。

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古い雑誌を見る

2019年10月17日 19時59分24秒 | 数学と言語学、及び宇宙論と哲学

 古い雑誌(数学ー岩波書店)を取り出して見ていると「フラクタル上の解析学の展開」と言うテーマが目に付く。いったい何の事なのか?と思い論説を見た。熊谷隆氏の論文ではフラクタル空間上での確率過程の挙動を調べる事と、出来れば、そのフラクタル空間での確率過程の理論構築が目的らしい。熊谷氏のIntroductionには、フラクタルという言葉は1970年代にFranceの数学者B・マンデルブローによってつくられた言葉で、一般の滑らかな図形とは異なる連続だが至る所微分不可能なものであり、ある意味では、相当むかしに高木貞治が提案した分岐モデルと似ている。マンデルブローはフラクタルを、不規則で細部にまた複雑な微細構造が殆んど無限に続き、且つ自己相似的な図形をそう呼んだ。一般に、このフラクタル図形が流行ったのはコンピュターが市販されてからの事だろうと思う。それは手製のマイコンキットがようやく市販され、何年かしてNECや富士通が市販目的でマザーボ―ドを付けた電子計算機を発売した頃のことである。

そう言えば、私が買った初めてのコンピュターはNEC製の9801VXという機種であり、インパクトプリンターも併せて、当時の値段で56万円という遊びには高額の値段であった。当時でも中古の車が買えた値段である。1985年の頃のことであるが、これでフラクタル図形を描く事が可能だった。OSはMSーDOSで、プログラムを一々打ち込むには忍耐が必要だった。この様な自己相似の異常な空間での図形の研究は、コンピュターの出現が無ければ不可能であり、コンピュターの力は非線形空間の研究に大いに影響を果たしたと思う。フラクタルもそうだが、カオスもコンピュターの力を借りなければ、あれほど急速に、非線形現象の挙動の探究が展開される事も無かっただろう。量子コンピュターが動き出せば、また新たに新分野が開拓されることに成ると思う。

フラクタル上の確率過程を構築する仕事をした熊谷氏は、自己相似形の二つの代表的なフラクタルであるシエルピンスキー・ガスケットとシェルピンスキー・カーペットを取り挙げ、簡単な方のガスケットを選択したらしい。たぶん一連のこの研究の目的は、フラクタル空間でのブラウン運動がどう展開されるかを知るための研究で、ユークリッド空間上の通常空間でのブラウン運動に比べて、フラクタル空間では、どこがどう違うのかを調べる事にあったのだろう。結論的には、フラクタル空間上では、ブラウン運動(ウィーナー過程)の挙動がユークリッド空間に比べて、粒子の拡散が遅く中々散り散りに成らない。シエルピンスキーのフラクタル図形では、三角形のガスケットの方が少し分りやすい。カーペットの方は正四角形のフラクタルで、小生は仏教曼陀羅の一つである「胎動界曼荼羅や金剛界曼荼羅」を、思い浮かべてしまった。

図形とは不思議なものだ、思いも拠らぬところに奇妙な一致がある。昨年の秋に道の駅でブロッコリーを買ったら、その隣にはジュリア集合とそっくりのブロッコリーが並んでいた。思わす買おうと手を出したら、カミサンに通常のブロッコリーを買ったからダメと言われてしまった。そう言えばジュリア集合のガストン・ジュリアはフランスに留学した岡潔氏の先生だったなと思った。一次大戦で鼻に重傷を負い、彼は亡くなるまで皮で作った鼻蓋いをしていたようだった。鼻に大怪我をして付け鼻をして居るのは、ティコ・ブラーヘと同じだなと思い出した、もっともチィコ・ブラーエの場合は学生時代の喧嘩の私闘である。その喧嘩の決闘で鼻を削がれたのだが。

新たな数学の分野は、分子遺伝学の方向で発展して貰いたいものだ。遺伝子の分子情報と形態形成の分野である。4種類の塩基3セットで、蛋白生成が行われる事は解明されたが、この遺伝情報と形態形成の分野の数学は、基本的な一歩でさえ確立さえされて居ないはず。例えば、人間の細胞中の遺伝情報と、形態形成の対応関係を数学的に明らかにすることが出来れば素晴らしいのだが、これが解明出来ないと、生物学は理論生物学には成長しない。数学の様な物事の関係性を明らかにする力が、この分子遺伝学の方向には絶対に必要であり、言語学と同様に数学の力が居るのではなかろうか。群を使い情報の構造を知ることは出来ないか。例えば位相空間論をDNA分子構造の解析に使えないか?など。どなたか好いアイデアの在る方はコメントを下さい。この方面に知識をお持ちの方は、是非教えてください。遺伝情報の構造にエントロピーが深く関係して居る事を感じるのだが、エントロピーには、反entropyの作用が有りそれが自己構成力の淵源になっている。

だいぶ以前に、世の中には多くの数学者が居るが、彼らは一体を研究しているんだろうね?と謂う話をした人が居た。「数学ってそんなに遣ることが有るの?」と、言いたいらしい。数学って紙と鉛筆が有れば好いんだよね。とも謂われた。確かに数学は余り大掛かりな道具は要らない分野の代表だろう。逆に言えばその分だけどこを使うかと云えば、想像力、思考力、空間認識力、概念分解力、展開力、みんな「力」だ、力と謂っても筋力を使う力ではない。最大限、脳に血流が流れて頭が熱くなり夜眠れなくなる。意識がそこに集中している。こんな状態を何時間も維持できる訳がない。この状態は歳を経るごとに意識的力が続かなくなる。人間の頭は時間と共に硬くなるが、無意識の力は続くのだろうと想うのだ。数学の真の仕事って新分野の開拓なのだ。それが仕事だ、入り口だけでも好い新たな分野を開拓することであり、あとは放って置いても好い。その後は世の秀才が道を舗装してくれるはずだ。

数学の発想アイディアには終点と言うものは無い、人間の想像力が続く限り無限に続く、これから先に発展するのは確率現象の方面だろう。そして次なる解明すべき分野は、人間の意識と神経網との関連だろう。そしてまた其れと関連する物として遺伝現象と遺伝分子構造の由来と創成だろう。もっとも存在の核心部に触れる分野であろう。これ等こそが数学と物理化学の探求すべき分野である。

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日本の歴史が薄暗がりの中に入って、突如として輝き出した岡潔の言葉

2019年10月04日 21時26分31秒 | 数学と言語学、及び宇宙論と哲学

 歴史と言う物は実に皮肉なものだ。然もそれが逆説的な意味で輝き出してゐるとは。例えば日本の最も奇妙な数学者の一人であった岡潔は、1960年代を通じて何冊かの本を書いている。岡潔の数学者としての能力が超一流である事は、海外の影響力ある数学者が折り紙を付けている。そして60年近く前に書かれた岡の随筆は、数学者の随筆と言うよりも、1つの経世家か書いた、新興宗教の教祖の様な超脱した内容に近い物であった為に、結局、先生の言葉は、お面白がられただけで、言葉が示した真の価値も、やがて来るであろう未来への予言的警句も、当時の一般人にはたぶん理解されなかった。そして何年もの、否、何十年もの歳月が過ぎ去った今日、彼のことばは急速に光度を増し、そのことばの放つ光は、日本の現代の物質文明と日本人の痴呆化に対して強烈な反省を強いる指摘となって現れている。その言葉は、日本の現在の、物に溢れてはいるが芯の無い虚妄の物質文明の繁栄を、逆説的に照らし出す事に成った。1960年代の初期に書かれた、当時の岡潔のessayの本質を、一体誰が心底理解したと云うのであろうか。賛同する少数者以外には殆んど居なかった。もっと言えば、理解した人が居るというのは疑問である。恐らくは誰も理解などしていなかった。たぶん、奇矯な数学者の戯言くらいにしか思わなかったに違いない。

私は久しぶりに岡の「春宵十話」と「春風夏雨」を引っ張り出して見ている。此処で再び、先生は「頭脳は情緒が創る」と謂って居る。そう、物に感ずる心であり、自然の在り様に感ずる心である。美しい風景は心の奥に焼き付けられ、その光景と思考の内容は意識しない奥で繋がり更に重なって居る。重なって居るというのは、或る考えの理解が風景の映像とダブって居るという事だ。たとえば四則の展開が自由な数列に付いてあるアイデアを思い付いたとする、その時頭の中に森や風景、雲や山々の映像が浮かぶと、その時の理解の記憶は、その映像と結びついて情緒的に記憶される。そして再びその時の理解を反芻する時には、それに結び付いた視覚的映像が現れる。であるからこの視覚的映像と理解が結びついているとしか謂い様がない。他の人はどう云う風に頭の使い方をして居るのかは分からないが、兎に角、自分の場合には、その様に思考と映像、つまり理解と映像は不思議な関係で結びついている。何故なのか分からないが、私の場合の思考現場と映像は、どういう訳か結びついている。故に美しい風景は私には不可欠なのだ。私に取って美しい風景が思念と結びついているのであるから、美しい風景の中に身を置く事は最大の欲求なのだ。どうも放心時の思考内容は、記憶に残る風景と結ばれて、脳の深い部分にある、「分かったという認識」と共に記憶されているようだ。だが、こんな独り善がりの事実を書いても、この文章を読んでくれる人は、共感はして呉れないだろうと自戒している。

然しながら、哲学者、文明思想家としての、岡潔の古風な内容の文章が、この様に燦然と輝き出したのは、その哲学が依然としてその本質に迫る、「日本復活の或る鍵に成る力」が在るからで、先の見えない軽薄な時代には、過去の骨のある言動が見直される時代に入ったという事なのだ。これはF・ニーチェの言葉にも通じる物である。19世紀から20世紀の初めにかけて、当時のドイツも現代と同様に退廃した爛熟の時代に差し掛かって居たのである。ニーチェは、古典文献学の総合的な知見から、様々の文明の弊害を指摘し、また宗教論に深い関心を有していて、ユダヤ教から派生してやがてローマ帝国を腐敗させ且つ席巻して仕舞った原始キリスト教に付いても論評している。そしてキリスト教の弊害を受けていない、未だキリスト教化されていない、健康な時代の古代ギリシャを比較しいる。今の崇敬されるギリシャ文明も、それはもともと他の様々の古代文明から学び、その成果を継承していて、エジプトやペルシャの古代宗教、科学と実用技術、天文学、軍事論、などを摂取しそれを発展させたものだ。更に、歴史を探れば大陸の古代文明は、その発生とその後の経過は、常に戦争を通じての隆盛と敗亡、また勃興の連続で有った。

日本国に付いて云えば、日本はその自然条件から、70年前の大東亜戦争による敗北以外に、外国の武力によって侵略された経験を持たない。それ故に日本の文明は古代支那の漢字文化と印度に発する仏教文明以外に影響を受けたものは殆んど無い。すべて自前で揃えてやってきた物である。日本文明を語る上で、2万年ほど遡れる縄文時代とその前の十万年を遡る、旧石器・新石器時代を論じない訳にはゆかない。2万年続いた縄文時代、この時代が日本人の本質を決定した。日本国は成立して居ないので、当時の原住民を日本人とは云わないが(笑)、日本国が成立したのは3世紀の事である。然し、彼らは血統的に言えば、紛れもない日本人であり、我々の血と遺伝的情報を共有した人々の事である。岡潔の一見奇怪に見える言葉には、スミレの花の存在の様に、命のもつ独自性と完成された原理が厳然として現れている。特に、教育論は再び見直されるべき内容であろう。その根本から始めないと、日本の文明の真の再生は決して成功しないだろう。

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