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思い出の詩人ー青春1966年~1969年

2023年12月13日 19時14分22秒 | 言語・意味・精神ー惑星上の生命体

 十代の頃詩を愛した、Hesse、Hoffmannsthal、ハーフェーズ、オマルハイヤーム、Thomas・Sternes・Eliot、特にHesseとHoffmannSthal、には魅かれるものが在った。Hesseの「霧の中」とかHoffmannsthalの「早春」とか、確か富士川英郎教授が訳していたと思う。名訳の情緒は少年の心を捉えた。詩は、数学と同様に極早く目覚める分野だ。Hesseは小説でも名を成したが、彼の本質は詩人である。神学校での挫折は永く詩人の心を苛んだ。小説「車輪の下」は、彼の危機の吐露である。鋭敏な魂の青春は、また危機の時代でもある。ともすれば奈落へ、或いは車輪の下に投げ出し魂は其処で終わるであろう。Hesseはその時の心持を、一生涯保ち続けた人である。このような鋭敏な詩人の魂を持つ者は、他愛のない一般人とはまるで異なっている。平凡な人から見れば変わった人である。大体からして一般人は詩を理解する事など一生涯無いだろう。Hesseは或る意味では精神的な孤独の病に侵されて居たのかも知れない。彼は一生涯、青春の危機を描き続けた詩人で有つた。

次にはAustriaの詩人・劇作家・哲学者、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールを取り上げる。この人は人種的には3つの系統が入り混じっている。一つは猶太であり、独逸であり、伊太利亜である。非常に優れた資質を持ち、多彩な才能を発揮した。一つは詩人であり、上に挙げた「早春」を書いた。この詩は季節の移りと共に、ひとりの人間の一生、幼少期、少年期、青年期、成人期、熟年期、老年期、そして死、を書き分けると、早春は少年期から青年期への過渡期を描く詩である。富士川英郎先生の翻訳は自ずと名詩となっている。ホーフマンスタールは詩だけではなく、戯曲にも才能を発揮し、更には散文哲学にもその名を遺した。「チャンドス卿の手紙」、は、言葉と謂うものの本質と迷宮を語って、今でも驚異を与え続ける作品である。

そして次は、トーマス・スターンズ・エリオットである。この詩人はモダニズムとシンボリズムの大立者とも謂われているが、詩と共に戯曲を書いている。この詩人の最終的な作品は「四つの四重奏」と言われるが、宗教的なカトリック系統の散文詩である。今でも最高峰の境地と目される四つの詩は、バーント・ノートン(1936年)、イースト・コウカー(1940年)、ザ・ドライサルベージェズ(1941年)、リトル・キディング(1942年)の、四つであるが、発表された年代は以上の様に離れている。この他にも、ゲロンチョン、荒地、虚ろなる人々、聖灰水曜日、と私の好きな詩が並んでいる。Eliotは、USAのミズリーに生れたが、最終的にはBritainに帰化し、カトリックに改宗している。Eliotの真骨頂は四つの四重奏を代表とする宗教詩であろうと思う、その中にはインドのヒンズー哲学やヴェーダーンタ哲学が鏤められて居る。単なるカトリックの範囲にとどまらず、Eliotは東西の古代自然哲学を学び、その詩は単なる情緒のみではなく人間の限界、命の果てを見据えている様に思える。

エリオットの真骨頂は、機智的な警句である。ゲロンチョンでも、虚ろなる人々でも、聖灰水曜日でも、その警句はアラユル所に引用される。小生も文章の最初に引用したこともある。だが、人間の愚かしさ、日常の下らなさ、を告発する警句は、やはりカトリックの精神がにじみ出ている。なぜエリオットがカトリックに改宗した動機は知らない。だが明らかにエリオットにとって堕落したものでも在ってもカトリックに魅かれる何かが在るのだろう。令和5年12月13日、

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日本語人の脳と世界

2020年10月04日 20時42分15秒 | 言語・意味・精神ー惑星上の生命体

 あと千年未来から現在を振り返ると、21世紀の自然科学は、外部世界の宇宙論と内部世界の宇宙論という対極的な世界の探求を目指していた時代だと映るだろう。我々は視覚によって惑星系という外部世界を見ることが出来る。果たして生まれながらの視覚機能を喪失していたとするのならば、空間の把握は関知しても宇宙という外部世界を鳥瞰することは可能でしょうか。視覚は光の反射を網膜に受ける事に因って外部世界を把握する機能です。この諸現象とその惑星系から生まれた生命体の内部世界のそれは、いずれ深いレベルで何らかの紐帯を持つ事実は把握され、認識的な統一が成されるだろう。我々は、命を生み出した惑星系のすべての環境と諸条件などの意味を真に把握する時が必ず来る。また日本人はという民族は、世界を見わわしても類例のない、特異な古代性を帯びた民族である。恐らくはその自然的条件が、そのような特性を形づくったと解釈される。という事は地殻変動が小さな孤立した島を生み、それらの必然的・偶然的条件が永い継続性のある、或る意味での考古物の如き民族を形作ったのだと思われる。

この題名は角田忠信氏の研究された知見など、またお書きになられた著書の趣旨から影響されて書いたものである。聴覚に障害のある聾者の治療研究から、総合的な聴覚の研究に転じ、聴覚と脳の関係、更に音声を感受する機能から日本語の特徴的な性質が音声認識と言葉にどう影響するかを考察したものである。この研究が現れたとき、多くの人々は驚いたとおもう。言語が人間の音認識自体、更に脳自体にも影響を与える。その様な事は思いもしなかった視点であった為であろう。戦前から戦後にかけて、多くの優れた言語学者が日本語と類似性の高い言語を求めて研究をしてきた。金田一京助、時枝正記、服部四郎、大野晋、ほか多数、その中で考え出されたのが二重言語説というアイデアであったし、その他にも日本語の語彙と重なるものを求めて珍奇な説も多数提案された。チベット語説、レプチャ語、タミル語など、発音語彙の類似性から提案されたものだ。だが基本的にはその根拠は不透明であり、根源的な日本語の特徴が炙り出されることはなかつたと認識する。元々日本語の起源をなぜ外に求めるのか?その根拠が間違っている。言語は人類の生活史に関係する、人間の生活が日本列島には旧石器時代から10万年の過去がある。ならば日本語はその中で形成されたものでしかない。どのような形成の過程をたどったか、それが問題なのだ。

日本語ほど古代語の色調を帯びたものは無いのではなかろうか。母音を多用する、その言葉は子音を使う言語より古いと考えていい。それは日本語の自然観などにも深く反映されている。確かに言葉の効率自体は子音の方が有効なのだ。日本語には同音異義語が数多くある。また日本語にはオノマトペと謂われる、意味を現わすというよりは感覚的な意図を持つ言葉が多々ある。歴史的経過を考えれば効率的な意味表現の方に軍配は上がるはずだが、子音系の言語と接触が無かったならば、母音が多用される言語の根幹は変わることなく継続されるし、言葉の根幹というものは民族が続く限り、変化することは無い。効率的にははるかに勝っている、世界のどこかで子音的な言語が発生しその形式が広まったいった。それが進歩であるかどうかは別にして、使用上有効であった為に広まっていった可能性は大であろう。言語学ではインド・ヨーロッパ語族と謂われる言語が、イラン、トルコ、西の方ではほとんどである。アフリカはどうなのか?これは人種にも反映されて居るのだろうか?。然しモンゴリアン、黄色人種のなかでもMongol語とChina語は厳密には異なるし距離的に近いKorea語も日本語とはまるで異なる。東南アジアの言語、Thailand語、Vietnam語、Burma語、Java語、Tagalog語、Philippines・Spain語、uredo語、それからPolynesia系言語、など、多くの考慮すべき問題が多々あるが、例えばChinaは多言語であり、百近い言語が少数民族の存在に伴って話されている。これを政治的に北京語に統一しょうとしているのがChinagovernmentである。日本でも放送が発達するにつれて、アナウンサーの話す言葉が全国に行き渡るようになり、方言は次第に消滅しつつある。方言の保存は急務だろう。

人間の言語が脳に与える根源的な機能のメカニズムについて、生命は受精の始まりより開始される。それはごくごく小さな配偶子であり卵子で0・2ミリ精子で0・01ミリの遺伝情報体である。その合体で卵子の分裂が始まり、遺伝情報体の情報が駆使されて形態形成が進んでゆく、その際に遺伝情報体は、過去の生命体が経験した段階を再現しつつ最後に卵と精子を創り上げた個体の段階に至るわけである。個体の統一的な感覚・運動を司る、脳神経系は生物のもつ多くの機能の中でもそれらの調和をコントロールする最も重要な役割をしています。人間は、というより生物一般は、髪の毛よりも小さな部分から発して、細胞が分裂してゆき形態の形成が成されてゆきます。是には、DNAの中に蓄えられた情報が基になり、その情報が展開されるメカニズムがあります。その情報がいかにして読まれ蛋白質で構成される生体に形成されるかの解明は未だ達成されてはいませんが、その原理となる仕組みは段々に解明されつつあります。むかしにヘッケルが言うが如く生物はその変化の段階をたどって現在の姿に近づく。という事は、卵が分割をし始め生まれるまでの段階で、生命の歴史を繰り返していると謂う事に成ります。何と驚くべきことなのでしょう。その時我々の心とか精神とか言いう、言葉上の意味の実態は、どこにあったどこに存在していたのでしょう。この不思議な内容への根源的な問いと同じ物が禅の偈にも見られますが、果たして我々の心はどこにあったのでしょうね。

更に、宇宙の全経験は小さな生命体に深く鋳込まれていて、生命発生の記録はこの中の蔵に仕舞われている。情報自体は物質のられつの形をとり、それは自然の選択する言語の原理に因って形成されている。自然の言語とは物と物との抽象化としての関係性の関数に基づいていると思われる為に、それはたぶん数学の形式をしているに違いない。誰しも自分の体が、あるリズムをもって生きていることを感じています。それに関して大昔から研究されてきました。生体リズムの研究は生理学や医学の分野のテーマだったようです。恒常性(homeostasis)の維持がどこでなされるかとか、月齢が(海の干満)が生体に与える影響とか、脳の中の年輪とか、リズムと生物の一生は、確固とした成果が報告されていないのですが、どうも生命体の変化の過程で過去レベルでのつながりがあるようです。例えば人間は体のリズムを持っています。俗に云うサーカディアンリズムです。リズムは時間と関係し、時間のリズムを維持している脳内の部分がある。脳幹とも松果体とも想像されているが、これまた確定的ではない。松果体は脳の中心部にある大豆くらいの小さな器官で、デカルトが確か方法序説か情念論のなかで、魂の在処だと書いている謎の器官である。現在では太陽光を受けてメラミンの分泌を調整するとされているが、果たしてそれが全てか?というと、どうも其れだけではないはずだ。生体の時間リズムの維持に関係しているという提言もあるようだが、時間が関係しているならば、それは視覚の発生とも関係していることになる。視覚こそは光(電磁波)を通して外部世界の時間情報を得る機関とも目される。聴覚は同じく波であるが、これは電磁波のような短い波長を捉えることは無いが、聴覚は飽くまでも空気に満たされた環境での音波の把握で言語通信の土台です。

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