井頭山人のgooブログ

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モータリゼーションが破壊したと思われる生きる時間の変質

2020年11月25日 11時17分06秒 | 日本文明

モータリゼーションは、戦後とみに日本民衆の生活に浸透して、今では一家に一台ではなく、一人に一台という状況にさえなっている。それどころか一人で2台3台も車を所有する人も居る。車は私的行動を拡大させ、公共の移動手段である幹線電車は通勤には使用しても、休みの日には私的な移動手段である自家用車を使い、路線バスは次第に乗る人が減少し、バス会社も採算が合わず本数を減らすと、更に乗る人は減少し遂には路線の廃止という危機にならざる得ない。車が増えたのは1970年代後半からであろう。若い人々は争って新車・中古車を求めて殺到した。それはモータリゼーションの隆盛時である。

私はここで大袈裟に言うと、人が生きる時間の流れというか質というか、そういう物が変わったと感じる。便利さはそれに伴って何かを失う事になる。人間の文化とはそういう物だ。谷内六郎の展覧会(秋)をふとトイレで見ていると、絵もすばらしいのだが、そこに書いてある「表紙の言葉」(寄せ書き)が、また素晴らしいのです。寄せ書きは。絵と共振して絵を深め、絵は寄せ書きと共振してことばを深めます。例えば「赤とんぼが葉に火をつける」1974年9月19日、の寄せ書きを読んでみます。

「 赤とんぼがツタの葉に火をつけはじめ、だんだん燃えて広がって山は赤くなる、コウロギが胸にしみる音で鳴き、陽ざしの草むらに秋のかげろうがゆれて、濃い陽かげの中に心がおっこちそうにハッとなる、初秋はそんな感じで満ちる、灯台の色も夏と違ってスーッと吸い込まれそうにな白のいろです。・・・」

この表紙の言葉は、なぜかおなじ共感ができるイマージュなのですね。

わたしはこういう時間をしばらく経験していません、なにか、いつも追い立てられるように、過ごしている自分に気が付くのです。たぶん私は真の生きる時間から遠ざかっているのだと、谷内さんのこの表紙の言葉を読み反省しました。谷内さんの絵の中には豊かなのびやかな時がながれているのをしりました。

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量子計算機の原理とその可能性

2020年11月13日 14時42分45秒 | 電子計算機の未来

 日本で日常に溢れている、コンピューターの概念は、すでに何百年も前にその源を発している。それは例えば算盤(そろばん)である。室町時代に明交易の過程から原始的な算盤が入ってきたと謂われている。当時の明から入った算盤は、玉が五つで玉の大きさはビー玉ないしクルミ大の大きさがあり、もちろん片手で弾く事などは出来ず、むかし小学校に在ったソロバンの模型の様な物だったという説明がある。少なくとも我々が懐く、片手で高速で弾く算盤のイメージはない。その算盤は日本で瞬く間に進化した。秀吉の子飼いの有力家臣である前田利家は、数値に明るく、兵隊の数や兵糧・築城日数など、問題を何でも計算する性癖があったとか?。事実、加賀藩の博物館には、利家愛用の小さな懐中ソロバンが展示されている。この様にソロバンは日本では無くてはならない物として進化して現在に至る。ソロバンは永く日本の社会生活に不可欠の道具として機能してきた。江戸時代の和算の発展も算盤の効果が大であろう。ソロバン以外にも、計算機は東洋西洋、特に西洋でその萌芽がある。計算機の一般に知られた歴史では、東洋のソロバンであり、西洋では歯車を応用した手回し計算機であった。

簡単な機械的計算機はpascalやLeibnizを経てCharles・Babbageの解析機関にまで到達したが、すでにギリシャ時代に精巧な歯車の機械が発見されている。いかにも、細工の得意なArchimedes辺りなら計算機を作ったかも知れないという想像は湧く。この金属製の歯車は天文の計算に使われたと想像されているが、実情は何に使われたのかわからない。19世紀に成り設計されたBabbageの解析機関は、余りにも多くの歯車があり、それを動かすのはとても重く駆動するには馬四頭を要したという(笑)。為にこの解析機関はいささか現実離れした構想であった。我々の手の平の上に乗る電子計算機が現れたのは、ひとえにトランジスタの発明の拠る。電子の流れを応用した、真空管と使った電子計算機が現れたのは第二次大戦中であるが、それは何万本もの真空管で構成された為に体育館並みの空間を必要としたし、その発する熱量は膨大なもので、冷却には大掛かりのクーラーが必要であった。冷却できないと真空管は電極が溶けてしまう。最初はそれは敵の暗号解読を迅速に進めるための手段であった。日本のパープル暗号が破られたり、ドイツのエニグマが破られた原因はこの最初期の電子計算機にあったと謂われている。

それには当時の工学者や数学者が使われた。数学者A・チューリングの活躍は永く秘密にされていたが彼の功績は大であった。彼はある意味の狭量な社会慣習の犠牲者でもある。

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シュリーマンの、清、日本、旅行記を読む

2020年11月06日 14時55分42秒 | 日本文化論

  今回のテーマは、1865年(慶応元年)6月に江戸時代末期の日本を訪れ見聞録を残しているドイツ人、ハインリッヒ・シュリーマンの旅行記である。私は最近まで、あの「トロイア遺跡」で有名なハインリッヒ・シュリーマンが、江戸時代の日本国を旅行者として訪れて居た事を知らなかった。トロイアの発掘は日本旅行の10年近い後であるが、東洋の旅行者としてのシュリーマンの観察眼は興味深く、彼の育った西欧文化とは異質の日本文化であるが、それを見る目には参考に成る鋭いものがある。彼は日本に来る前に清朝に出掛けアジアの実態をつぶさに観察している。

彼の清での目的は紀元前220年頃に造られた「万里の長城」を見る事であるが、その際に清朝の首都である北京を訪れている。「北京城」は、周囲に石の壁を廻らし城内には70万人が住めると書いている。「どうしてもしなければならない仕事以外に疲れる事は一切しない」というのがシナ人気質である、とも書いているが「町の不潔さ」には辟易している。それは実際に行き見た者で無ければ分からない事実が記述されていて興味深い。

たぶん事実なのだろう、何の利害関係もないシュリーマンが、故意に嘘をつくとも思えないから。文章から気が付いた事は、シュリーマンが、凡そ人種的偏見を持つ者とは丸で反対の、公平な見方の出来る人物であることだ。記述は彼が見た通り感じた通りの事実を述べているだけである。彼の育った西欧的な価値観や習慣とは異質な、東洋的な物に関しては少しずれて居る理解もあるが、概ね正直で、彼の好奇心と判断力は優れたものである。矢張り、彼のその素質は知的な人物と言える。

我々日本人は、江戸時代にその殆どが海外に出た経験を持たない為に、自分自身を写す鏡を持たない。永い間、ひとつの閉鎖された世界とでも言える日本文明の中で、そこで生まれ、そこで死ぬ者の眼には、自分の住む世界は客観的に把握できない。つまり、比較する比べる物が無いと、自分という物の本質が分からない。人間でもそうだが、一番分からないことは、自分自身というものなのである。客観的な自分を見る鏡を持つ者は、相当に知的な人物であろう。 その点でシュリーマンの旅行記は重要な価値がある。彼は外の世界を知ってゐるから、それで、甲か乙かの区別が出来るのだ。清と日本の違いを、日本人には解らない視点を率直に教えてくれた事には心から感謝する。

清国を訪れたのは「万里の長城」を見たかったのだと旅行の目的を書いている。彼は「元々古代の遺跡」に興味が有ったのだろうと私は思う。で無ければ、後年、ギリシャ神話に出て来る「トロイアの発掘」などを行う筈は無いでしょう。この好奇心溢れる面白い人物は、シナの万里の長城見学の後に、最近、開国した日本と言う東洋の神秘とその文化史跡を見ずには居られなかったのであろう。シナに関する認識は、現在でも通用する点が多いし、また、日本に付いても少し短絡的な解釈は有っても、「其れなりに日本文明と日本人の特質」を把握している。我々外国人には、シナ人も日本人も同じ様に見える、顔つきの差は自分には分からないが、どうしてこうも、シナ人と日本人は違うのか、まるで対極だ、一方は狡猾で隙あれば人を騙そうとするが、一方の日本人は正直で嘘はつかない。何がこんなにも違いを見せるのか自分には不思議だ。と書いている。

嘘をつき人を騙そうとする人間は、何処の国にも居る。シナ人を弁護すれば、シュリーマンが出会ったシナ人が偶々、根性の曲がった人達だったのかも知れない。また、日本で出会った日本人が偶々正直な人達であった可能性が無い訳ではない。そう考えたいが、旅行で日本に来るシナ人たちの行状を見れば、そういう好意的な解釈は恐らく通じない。そう言う人の好い考えは、将に日本人的な見方なのかも知れません。永い時間を経て形成されたその民族の性格は、500年や1000年で変わる物ではないと思う。たぶん生存環境が、この様な差を生んだのであろう。恐らく大陸は過酷なのだ。何万年も島国の楽園に育った日本人はその経験がない。

日本も清も、そのどちらの国も西欧的な一神教では無い。シュリーマンは、目に見える現実的な事柄を多く記述しているが、東洋の思想的な面は余り深くは記載されていない。東洋の宗教的な側面は余り書かれて居らず、仏教とか儒教とか神道とかの記述は無い。この方面の興味がシュリーマンに無かった筈は無いが、東洋の精神文化の深部には触れていない。彼は学者ではなく、成功した毛皮商人であり富裕な商業的事業者であったから。

彼は日本に慶応元年(1865年)6月1日に、上海から蒸気船「北京号」で東シナ海を航行し、種子島を左に見て「横浜」に向かっている。三日間の旅程で、彼は船賃に清の価格で百両(900フラン)も支払わねばならなかった。と溢している。あまりにも「高い船賃」ではないか?。6月3日に横浜に到着し、6月4日には「上陸」の為に、早起きした。「北京号蒸気船」が停泊していると、早朝に小舟が近づいて来て、乗員を運ぶのだが、二人の船頭たちはシュリーマン一行を横浜港に下すと、「四天保」と言った。天保銭4枚である。ここの読者は「天保銭」を見た事があるだろうか。天保銭は円形ではなく長円形の大型の銭で、真ん中に四角い穴が開いている。素材は何か知らないが、勿論、金や銀ではない、銅でもない、鉄でもない。何かの合金の様な気がする。私の家も、何枚かの天保銭と一分銀がある。我が家の江戸時代からの名残であろう。錆びた大小の刀などもだ。

二人の船頭は運搬の船賃を「4枚」要求したのである。シュリーマンは、これでは利益など出ず、労賃としてはギリギリではないかと書いている。シナの船頭なら、この4倍は吹っ掛けただろうとも書いている。私はこれが好いとか悪いとか言っている訳ではない、多分にシナ文化と日本文化の基本的な差異であり、考え方の違いなのだろう。収賄が当たり前な国と、そうで無い國の差は、何なのだろう。法外に吹っ掛けないのは、江戸時代の呉服屋である越後屋が始めた現金掛け値なしが始まりか?、でも、元々、多少の吹っ掛けはあっても、江戸時代の日本の庶民は、「この世で金が一番だとは考えてゐなかったと」、私は想像する。戦後の日本人とは、この時代の日本人は違う。今の我々は、何か大切な目に見えない魂を忘れているかも知れない。

また上陸するための品物の検査であるが、日曜日だが、キリスト教国の様に「日本では安息日」は無くて、にこやかに税関の官吏が近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に頭の付くほどお辞儀をして、それを30秒も続けた。彼らは品物の検査をするから荷物を開けるように指示した。シュリーマンはシナでの経験から、「品物検査の為に」荷物を解く手間を考えて、「金を渡せば御目溢しをしてくれる」ものと思い込んで、金を渡そうとするが、役人は自分の胸を叩いて「二ホン・ムスコ」(日本男児)と言い、「賄賂は受け取らない」と胸を張ったという。シュリーマンは、シナで散々賄賂で便宜を図ってもらったが、日本ではそれが通じず当惑している。

概ね日本では賄賂は受け取らないらしいと驚いているのだ。税関での荷物検査が終わると、二人の役人はサイナラ(さようなら)と言い、再び深いお辞儀をして去って行ったと書いている。さらに、港での荷揚げ船頭を始めとして、皮膚病(この内容が良く分からない)が多いと書いている。彼はその病気を「疥癬」だと言う。その理由が日本人は魚を生のままで食するためであるというが、それは本当なのだろうか?。今現在でも、我々は刺身を好むが、これで疥癬に罹ったという話は聴かない。シュリーマンの言う「皮膚病」が、果たして疥癬なのか定かでは無い。

文明論に付いて、当然の事ながら、キリスト教文明のなかで育ったシュリーマンは、キリスト教文明のみが、「唯一の崇高な文明」だと述懐しているが、彼は、それが「一神教の自我自賛」に過ぎないことには気が付いてはいない。誰しも自分の価値観・世界観を形作った信仰が、世界で唯一の正当な文明であると誤解し易いのである。逆に言えば、この事は日本人にも言える事であろう。日本人は過去を振り返れば、外国の良い点は取り入れ、悪い点は真似をしなかった。奈良時代の律令制でも、「宦官」も「科挙」も、取り入れなかった。シナでは後宮の宦官が政治的な権力を振るったし、殆ど堕落の一方だった科挙も導入しなかった。

さて、横浜から江戸へ行くのをシュリーマンは心躍るほど楽しみにしている。それは何人もの友人から聞いた日本の印象に魅了されていた為だ。日本人の男の髪型についても、月代と髷の結い方を説明している。西洋人には日本男児の髪型には驚き、かつ、奇妙に想った事であろう。今現在、街を歩いていて、ちょん髷をしている男に出会ったら、わたしは笑って仕舞うだろうし、結滞な髪型だと感じて仕舞うでしょう。まったく流行というものは、恐ろしい。私の明治生まれの曾祖母は、お歯黒をしてゐました。それは江戸時代を通じて明治までしていた、日本女性のお歯黒に付いても謂える。いま若い女性が、お歯黒をしていたら、一般人はギョッとする筈です。でも反対に、江戸時代の人が、既婚夫人を見て白い歯をしていたらギョッとする筈です。

日本人の男は、人足から最裕福な大名に至るまで、「一個の髪型」しか無いと書くが、シュリーマンに取って大名は、確かに裕福のイメージがあったのだろうが、実情を知らない彼は、西洋の公国の王のような認識で居たのだろうが、幕末の大名は富裕とは程遠く、一部を省いて生活は苦しかった。興味深いのは「14代将軍徳川家茂」が京都の天皇に挨拶に行く行列を活写している文である。参考になるのは、「家茂の行列」の配置を事細かに書いている事である。これは、我々日本人に取っても大変に参考になるものである。どの様に行列が構成されていたかに付いて、現代の日本人はあまり知らないからである。

また、特に驚くのは、その行列の最後に「3人の切り殺された死体」があったと言う記述である。その切り殺された死体の理由を彼は書き添えている。行列が通り過ぎた後も、その死体は残された。街道付近の者が死体の後始末を勝手に仕様ものなら、どんなお咎めが有るか分からないからだ。シュリーマンがこの経緯を書いているのは、家茂の行列が通る事を知らなかっただろう或る一人の農民が、「行列を手前で横切った」という。先手番(これは行列の護衛役である)の武士は、将軍の列を辱めたと立腹し、配下の手下にその農民を切れと命じたが、手下は此の位で農民を切ることに躊躇した為に、先手番は大いに怒り、その部下の頭を刀で割って農民も切り殺した。その時、急遽駆け付けた幕府の「目付」(幕府目付とは謂わば幕閣の最高検察官の様な存在で、大きな指揮権を持つ)が、ことの事情を聴き大いに怒り、その武士を槍で突くように命じ、先手番の武士は立ち処に殺された。それで3人の惨殺死体が転がっていた訳である。

何とも殺伐な話だが、将軍の行列を横切ることは死に繋がる事件であることは、この後も薩摩藩による生麦事件で起きることになる。武士の面子も解るがそれでも簡単に命を取ることは現代の感覚では了承されまい。木の葉よりも命は軽い筈はない。然し乍ら、武士道は命を何よりも軽く考えた。戦国の世を生きた「葉隠」の生き様は、命を二の次に考える事であるから。

更にシュリーマンの記録は続く、日本人の街並みの清潔度は特筆に値するらしく、彼が見た北京城の不潔さは、清朝という名前とは裏腹な事実を書き綴っている。日本国と清朝は、「丸であるゆる物が反対である」と書いている。特に日本人の正直さである。船賃にしても、最初の値段から数倍に吹っ掛けるシナ人に比べて、日本人は最初の値段しか取らない。シナで散々な目に会ったシュリーマンは、どうせ吹っ掛けられるのだから、胸糞悪いので最初から、日本の川を渡る際の船頭が言う、船賃の数倍の金を渡すと、船頭はこんなに要りませんと、余分の金額を返してよこしたという。これには、シュリーマンも本当に驚いたらしい。彼の日本人に対する見方が定まったのはこの様な事情があったからでしょう。

ドイツの謂わば、知的エリートであるシュリ―マンは、事実の即した確かな目を持って居たと思う。この旅行記を読むと、矢張り日本人は正直で率直な精神を持って居た事を感じる。私が小学生の頃に田舎の小学校の図書室で読んだ「トロイア発掘の物語」は、奇妙な信念を持った人が、他人の意見を聞かずに、自分の信念と情熱で古代ギリシャの遺跡を発掘した。という記述で会った。当時、シュリーマンがどの様な人物なのかは、小学生の私は想像することは難しかった。でも子供ながらに特異な人という感じはしていた。

今回、ハインリッヒ・シュリーマンという人物の精神を、彼の旅行記を読むことで確かめられたと思う。西欧のキリスト教文化に育った訳だから、日本の文化と日本人の行動と精神を、直ちに理解することは難しかったろうと思うが、それでも彼は、その明晰な精神で、日本人とその文化の特徴を的確に掴んでいる。これはシュリーマンが智慧に溢れた人物でもあることを想わしめる物だ。シュリーマンが日本旅行記を書き残し、また英国に夫人であるイザベラ・バードは、これまた詳細な「日本旅行記」を残しました。もちろんですが、シュリーマンにしてもバード女史にしても生まれはGermanyとBritainですから、日本の風物に付いて誤解があるのは当然の事です。

だが、誤解にも詰まらぬ物と重要な物が在ります。大抵は詰まらぬ誤解でありそれがシュリーマンやバード女史が間違ったなどと吹聴する愚人が日本の学者の中には見られます。そんな、どうでも云いことでは無くて、彼らが「真に見た日本」と言う国の、重要な視点に付いて注目すべきなのです。今現在、当時の歴史的事実を私たちは知らない。

ところで、最初に書きましたがハインリッヒ・シュリーマンが日本旅行を無事に終えてドイツに戻り、彼の名を高らしめたトロイアの古代遺跡の発掘は、約10年の後でした。その間、シュリーマンは何を想い過ごして居たのでしょうか、一生懸命に毛皮の商売に精を出して居たのでしょう。そして資金を貯めて愈々、自分か心中に暖めていた計画に取り掛かった。

私がシュリーマンを知ったのはとおい昔に小学校の図書室にあった、「トロイアの発掘」と言う児童書でした。それを借りだして読んだのです。いつの頃か忘れましたが、冬か夏か、いずれにしても長い冬休みか、夏休みの事だと思います。懐かしい日々です。この歳になると、あの時代は人生の輝ける子供時代です。子供時代は人生を考える事など無く、今現在の事に夢中な時代でした。何も知らず、両親の愛情、祖父母の愛情、曾祖母の愛情に満たされた幸せな時代です。古代のギリシャの伝承を信じ、トロイアを発掘したシュリーマンも、伝承の真実性を信じていた。彼もまた子供時代の夢に誘われるが儘に人生を過ごしたのかも知れない。何事かに魅入られそれを探求するという事は、この様に生れて来た最大で最高の人生でもある。

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