井頭山人のgooブログ

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月待講について

2020年12月19日 10時19分40秒 | 日本の歴史的遺産と真実

江戸時代に盛んに行われてきた講に付いてすこし書いてみたい。

当時の行政は幕藩体制による米経済で主な産品は米であり、その他に藩特有の特徴ある特産物があった。江戸は町単位で行政司法が運営され一口に八百屋町ともいうが、それを別にすれば、各藩の行政単位は村であり、そこには名主(関西では庄屋ともいう)と、村役人が居り村の行政を行っている。地名は下野の国○○郡○○村という表示に成る。また百姓についても長百姓、自百姓、小作百姓(水飲百姓)、などの耕作面積による差異があったようだ。当時の耕地面積と百姓の、長・自作・小作を対応させると、長は4~5町歩、自作は1町歩、水飲は2~3反歩、くらいの耕地面積に対応するが、これは各地方によっても差は当然ある。耕地の分与については、長百姓の場合、女の子は嫁に遣るとしても男の子が3人居た場合、この子達に均等に耕地を分けると、各自は自作農と成っても、本家筋はある意味で没落してしまう。この場合男の子を婿に遣るか、身の振り方を主家では決めなければならない。当時の人々の縁は家であり、その繁栄が一の目的であった。自百姓の場合はどうしていたのだろう?分与したのか?。水飲百姓については本来分与は出来ない。現代の様に機械化が成されておらず、今から見れば全てが非能率とも思える方法で人々がそれに従事していた。その労働は大変なものだ。

このブログを読んで頂いた皆さんは、ご自分で田植えをされた経験があるだろうか?相当手慣れた人でも、一日二反歩を植えるの難儀である。二反歩と言うと600坪である。機械化される以前の1950年代初期の、日本の水稲栽培は殆んどが牛馬の力を借りたものであった。春、耕地の地起こしを始める。それは今のようにトラクターは無く、馬を使った鋤で田を30~40センチほど掘り返すのである。その農具を馬耕(ばこう)と言う。馬に曳かせる特殊な鋤である。その馬耕で掘り起こせる幅は大体20センチです。あまり幅が在ると馬の疲労が激しく返って効率が悪くなるためです。そうして何日にも渡る田起こしをして表面の土を柔らかくしておきます。上手く返せない場合は再度行う事に成る。次に肥やしを田に撒く。肥やしは稲の育成状態に大きな影響を与えますから、出来るだけ肥えた田んぼが必要なのです。

ここまではほんの出だしです、ここからは田植えまでいろんな事を行う必要があります。それから苗を作る作業があります。これがまた労力と手間を要する作業です。高品位の田植え機がある現在では、苗は苗箱で育成され田植え機にセットされますが、50年代には苗も自家で作らなければ為りませんでした。田んぼの一部に籾を撒きそこに水を張って苗を育てる苗代を作りました。苗がうまく育つようにいろいろな手段を使いました。例えば籾殻を燻製にして苗床に撒き、太陽光を吸収できるように温度が上がるようにその黒いもみ殻を撒いたわけです。非常に気を遣う作業です、苗がうまく育たないと田植えが不可能に成ります。それは1年の収穫に大きな影響を与えます。いちいち、作業を細かく書いて行くと限りが有りません。コメ作りは、米という漢字を分解して、八と十と八に分解できます。つまり米作りには「八十八回の」手間が掛かるという事を言おうとした格言です。ですから10月の収穫祭は農民に取っては無上の喜びなのです。因みに百姓と言う言葉は蔑称では有りません。百姓という言葉は百の作物を作る能力を有する技術者でもある人を言う言葉なのです。この収穫祭は村中が集まり鎮守の森で行われた、その喜びは歌の「村祭り」にもなって居ます。

日本で水稲栽培が始まって以来、水田に適した土地は命を懸けて守るものでした。坂東武士が鎌倉にはせ参じたのは、何よりも自分の支配する土地に対する安堵が最大の目的でした。彼らはそれこそ土地に関する限り「一所懸命」であった。命に代えても守り且つ後期には奪う物であった。日本における栽培植物の変化を時間軸で見れば、縄文中期にはすでに水田の痕跡が見られ、何がしかの陸稲の栽培があり、後期には水稲が始まったと思われる。日本文明の根本的な変化は雑穀や栗などの栽培が中心から水稲栽培が主流になったことです。これによって食料の比較的安定的な生産体制が確立され人口の増加が可能になった。狩猟・採取・漁労・では食料的に人口の飛躍的増加を見ることは出来ない。少しずつ、或いは現状の人口維持が精いっぱいと言う所でしょう。しかし根幹にある日本の本質はこの縄文期にあり、その自然観を支え、かつ其処から今も受け続けている一種の信念、単なる宗教と言う物よりもモット大きいもの。謂わば自然観・世界観と言う表現が適切かと思われる多神的自然観がある。当時の人々は自然を外部にある存在とは感じていなかったのではなかろうか。自分たちもその言わば自然を構成する一部であり、自然の要素の一つであり、自分たちがその大きな器の中に溶け込んだ存在であることを知って居たように思える。ここにこそ振り返れば自分たちの存在の根幹があると感じる。日本の文明文化を少しでも考えようとする場合、世界を見まわした場合の一神教の様な、いわば強烈な宗教的、規制力・強制力を日本の宗教は元々持たない。仏教導入以前は、現代で云う処の自然信仰、「明文化された教義・経典を持たない故にそれを宗教だと呼ばない」という人も居るが、宗教とは教義無しにも、当然の事ながらある。むしろその教義を介した宗教は、詰まる所人間の思惟の結果に過ぎない。本来の自然観は心がその物に対して畏れることなだ。

 

江戸時代の村々では色々な講がありました。今でも旅行が盛んなように当時の余裕のある庶民には、伊勢講、富士講、などが人気でした。温泉の湯治も盛んでした。そういう中で村々の中で模様される「月待講」も盛んであったようです。十九夜様、二十三夜様、などです。我が家の持ち山である山林には、月待講の如意輪観音さまを彫った高さ120センチ幅90センチくらいの石碑が立っています。私が小学校1年生の頃に山林の木の葉を浚いに付いて行くと、一面の木の葉が引かれた森の中に石碑が立っていて、僕は最初、それをお墓だと思っていました。然し後年、私は江戸時代の月待講に関心が出て来て近場にある、その手の類を調べてみることにしたのです。十九夜の如意輪観音の石碑は、誰が建てたものか個人を特定できませんが、然し石碑には建立年が彫ってあり、そこには明和元年(1764年甲申)十月吉日とあります。如意輪観音像は、お顔を右に傾いで右頬に人差し指をあてて物思いをしている柔和なお顔です。本来観音は女性でも男性でもないのですが、その柔和なお顔には引き込まれる魅力があります。知性と言うか、優しさと言うか、人間の理想の面差しがあります。

十九夜記念塔をなぜここに建てたのか?ここに集った女性たちは如意輪観音の下で何を思い、なにを語らったのだろうという想像がこの象を見ていると感じます。月待は道教の謂れに因るもので、それに似たものでは江戸時代以前にも室町期からその萌芽がみえる。このような人々の集まりは実に面白いものがあります。講をつくり同好の士が何かを語らいそれに専心する。連歌・俳句・川柳・算学・茶道・香道・武道・剣道・弓道、数え挙げれば切りがないくらいです。現代に生きている我々にとって、そのような講に近いものがあるでしょうか。現代で言えば、運動系では、テニス会、卓球会、サッカー会、自転車会、文化的系では、随筆会、文芸評論会、歴史研究会、郷土史研究会、遺跡古墳研究会、より専門的には数学研究会、和算研究会、物理研究会、天文学研究会、動植物研究会、などが考えられます。

然し、ここには室町から江戸に掛けての講とはすこし異なる点があります。主に江戸時代の月待講に関心が芽生えたのは、山林や辻に多くの月待塔を見る機会があった関係もありますが、石碑だけではなく、この碑を造り講を立てて人々は何を祈り何を話したのだろうか?という思いが湧いてあったこともあります。格別、娯楽の無かった当時の村ですから、何かに託けて人が集まりわだいを通じて親密さと相互扶助を強固にしていった方法の一つであると感じたためです。わたしの想像ですが、用事で江戸に出た人がする土産話もあったことでしょう。我々日本人は好奇心が強いと思います。それは明治以前に日本を訪れた外国人の記録にもあるようです。いわば野次馬根性が強固なのでしょう。他の藩ではこんなことが在ったとか、江戸では歌舞伎芝居があり是々の物を見てきたとか、まあ話題は絶えなかった。

特に人間はふたつの時間を生きている。一つは我々の日常を流れる時間です。もう一つは宇宙開闢以来のあらゆる現象を超えて、その創成と終息の間を流れている時間です。日常を流れる時間は誰しも気が付きますが、宇宙開闢以来というのは少し大げさかもしれませんが太陽系の創成以来という言い方もできます。この二つ目の時間はあらゆる命を共通に結んでいるものであり、個人的な或いは会的な時間ではない。日常ではこの二つ目の時間は余り気が付くことがないですが、太陽の恵みを知る時には、この二つ目に時間を嫌でも知る事に成る。

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人間の未来に及ぼす数理脳神経情報科学の未来

2020年12月05日 17時36分22秒 | 心を創っている物とはなにか?(分子遺伝情報と心の情報理論)

 久し振りに興味深い著作に出会ったと思った。インド出身の神経生理学者ラマ・チャンドランの「脳の中の天使」と言う本である。チャンドランのこの手の本は、日本語訳が成されている本が3冊ほどあるらしい。最初は「脳の中の幽霊Ⅰ」で、その続編である「脳の中の幽霊Ⅱ」である。幽霊の方は未だ読んでいないが、この天使の方を買ってみょうと思ったのは、古本屋でパラパラと頁を繰っていると次のフレーズに出会ったからだ。それは1950年代の中期に初めて最初期の脳神経系モデルと方程式を創り出したのは、ウオーレン・マッカロフとウオルター・ピッツ達である、W・マッカロフのフレーズが引用されていたからだった。素朴に、マッカロフは心と言う自己意識体を茫洋と考察している内に、数とは一体何なのだろうかという感慨が浮かび上がったのだと思う。「人間が理解できる数とは何なのだろうか?、そして数を理解できる人間とは何なのだろうか?」、読んでいて、このフレーズに思わずギクㇼとした。何故なら、これは常々考えて居る事と同値だからだ。ウオーレン・S・マッカロフという人物を、私はノーバート・ウィーナーの様な、実現象を扱う、確率統計学の分野での業績のある数学者だと、漠然と想像していたが見事に違っていた。改めて彼のキャリアを調べてみると、神経網の形式モデルを考案しただけに、確かに神経生理学を専攻していたが、バックフィールと成るものは単なる特定の分野だけでは無くて、外科医・論理学・心理学・芸術(視覚)、詩人、そして哲学までカヴァーしているマルチキヤリァの人物像が浮かび上がってきた。成るほど、こう謂う好奇心と知的な背景を持つ人物でないと、人間の心と脳が出会う初期の人工知能への志向性は芽生えない。必ずこういう人物は新しい分野の創造を志向するものだから。ラマチャンドランの著作は面白い。なぜなら、些か冗長な面があるにしても、一般人が考えもしない視点が明快に語られ、且つ未知である脳神経系に関する知見と成果を、誰にも分るように解説している点にある。

我々はものに名前を付ける、そうすると如何にもわかったような気になってしまうのは、なぜなのだろうか。いわば「名付け効果」というものが私たちの認識機能にはどうやら確実に在るようだ。存在感は五感の複合効果がもたらすものであるのは間違いないにしても、現在のところそれは証明できていない。A=Aという同値の証明上の意味と存在感がおなじ次元のものであるか?は、マッカロフのあの言葉「人間が理解できる数とは、何なのだろうか。そして数を理解できる人間とはなんなのだろうか?」というフレーズを思い出させ、禅の偈のような言葉として反芻してしまう。我々は名付け効果に因り、対象の洞察を簡単にわかったような気に成って、名付ける以前の混沌に対しては気分が悪くなるためか洞察を加えようとしない。混沌は謂わば内側にあり、名付ける事で対象を外側に替える。言葉がその力の最大の機能であり創造性の不思議な効能なのだろう。やはり数と言語の精神の温床は同じところにあり、数も言葉もそこから生えている枝である。人間のこころと言う迷宮は、自然科学的な方法である程度の所までは行けるだろうが、根本的には根源的な宇宙の意思という物に出会うに違いない。それは自然であり、太陽系の遊星運動であり、空間の意味であり、引きあう引力の根源であり、我々が生きてゐるというこの現象も銀河系宇宙、太陽系、地球という惑星、それが命じている事なのかも知れない。話が大きくなり過ぎたが、コトバとか数学とか、物理学とか、化学とか、分子遺伝学とか、という小さな部分からは始めることが必要なのだろう。

 

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