今回のタイトルは、「自己完結性の組織系の生成について」という題です、タイトルだけを見ると何の事か判断が付かないテーマです。それで書こうとしている意図を少し説明したいと想います。人間の一人の誕生は雌雄の性の下、父母の遺伝子を受け継いで母の子宮で育ち生体的には未熟児として産まれる。受精と言う事柄は、いわば神秘そのものの現象が始まる最初です。卵子も精子も、その物だけでは一瞬んは生存するがすぐに死ぬ。受精卵になり初めて生体への道を踏み出すわけです。一瞬の間もなく生殖細胞は最終的には次の受精卵を産むための道に踏み出す事に成ります。ここまでの過程は普通の常識人ならば、誰でも分かって居ることです、受精卵は二分割四分割八分割と卵割を進めて最終的には一兆個の細胞を統治する事に成ります。でもこの過程を詳細に追った分野は今のところ存在しない。発生過程はシュペーマンを始めとして、むかしの人にも神秘的に映ったらしく、各種の生物発生学として研究されて居ました。これは主に形の変化を追う記述内容です。1950年代の初めに遺伝情報が細胞核の中に在りその情報が解明されるに従って分子遺伝学が長足の飛躍を成し遂げました、それは遺伝子工学のような遺伝子の機能を弄くるもので生命体の発生と変化の目標を察知するのもとは遠かった。遺伝情報を単なる道具的対象として操作しているに過ぎない。訳の分からぬ操作で異常な病原体迄も創り出すに至った訳です。謂わばキメラを創り出した。これ等の遺伝子工学の所作は危ない事この上ない所作と想われます。それは自然の原理に基づいて居ない事が問題なのです。人間の浅はかな思惑から、根源的な原則を壊してしまう事が問題なのです。此処には深い未知の不安と危惧があります。
ここで言をうとしている事は上記の事柄とは違います。此処では一つの受精卵が胎盤に定着して、更なる発生過程と自己形成過程の原理、その力動的過程の構造的な面を数学的に捉えることです。この自己形成過程は多くの現象を含んでいる。感覚器官の発生やその統合、また脳の発達です。これは将来の言語環境に適応するための準備も含まれていると考えるべきでしょう。生体の発生過程には無作為の出鱈目な事は起こりません。発生過程には今の時点では察知出来ていない目的性が明らかに在ると想われる。それは遺伝子の傾向の中にも含まれている物だ。遺伝子情報は単なるデータの記録に他ならない。未知の力や個体としての自己形成の作用問題はもっと奥にある。それは固定された記録の中にはない、DNAという記録にしても、ではそれを創り上げた力は何か?、という問いに成らなければ意味は無い。DNA情報は生命体の過去の重要な遺産です。物質と生命と言う物は普通断絶しているという発想ですが、そうでは無くて繋がっていて形成過程で見ると、情報エネルギー体の流れな訳です。その流れは事故を組織化する力で、幾らか似た表現では負のエントロピーと言うシュレーディンガー達の様な謂い方も出来ます。負のエントロピーという或る意味では不真面目な言い方は余り自冗談としては気が利いて居るにしても感心は出来ない。この場合の本質は自己形成過程を牽引する力だという事です。
さて、この完結組織系の事柄は多くの表面的な現象も含む過程で、生まれてから作用する言葉の習得という大切な手法もその自己完結組織系の中に入っている。発生過程はその形態的な変化だけでなく、もっと目に見えない部分の変化を含んでいる。それは、こころと言う過程の発展と展開です。こころと謂う物はすでに原初に在った。その心を完成させる為に視覚・聴覚・臭覚・味覚・身体覚・が形成される。五感を統合する神経網の中心に脳神経がある。脳神経と言う物は漸次、生存環境を発展させた際には新たに脳神経系も新たに展開される。人間は現在生存中の生物の中では、謂わば一番栄えている主種であろう。だが人間を形成して居るのは、人間に成る以前の生物の心であり、脳神経系も一番外側の大脳の下部には、両生類や爬虫類や魚類の魂を宿している。先ず大事なことは、全生命は連続しているのであって孤立した生物は存在しないという真理です。
数学を学んで行く内に、人間が数学の様な論理構造、関係性を組み立てることが出来たのはなぜなのだろう?という考えが芽生えて来た。その理由に、いつも頭のどこかで関心を持って来た。もしかするとその原因は、生きている万物の命が持つ感覚器に在るのだろう。と謂う結論に達した。感覚器が原因ならば、その感覚器が出来た理由又は必然性は何か?、という事に成る。数学も言葉も、結局のところは感覚器が基に成っている。文字は眼が無ければ話に成らないし、話し言葉や音楽は耳が無ければ無意味だろう。我々のある程度完成された社会では、眼が駄目なら点字という方法、耳が駄目なら手話という方法もあろう。それは人工的な仮の手段で自然のものでは無い。声帯を震わす声は自然に近いものだが、文字は数学と同様に人工のものだ。恐らく起源は同じだろう。では感覚器(五感)の起源とその原因、必然性は何なのだろう。初期の生命体が生きる為に外部世界を把握する方法として五感を創った。なぜ五感なのか?五感んで十分なのか?十感は必要ないのか?、我々の分類では感覚器を五感としているが私は疑っています。感覚の五感(眼・耳・鼻・舌・皮膚感覚)が基本ではあるが、本来はもっと在っても好い。人間が都市生活を始めてから失われた能力は幾つかあります。電磁波に対する予知能力なども失われた範疇に入ります。此処ではそれでも、まあ五感として置きましょう。
その五感を一つ一つ、挙げて検討してみましょう。
まず「眼の形成」です。
眼という光に反応し世界の様相を知る第一の手段は、生命体が環境の中で生きて行く上では、最も必要不可欠の能力です。眼が無ければ獲物を取る事も出来ない。生殖行動も不自由になる。光の反応する能力、これこそが目の発生でしょう。光と謂うのは物理学の重要な対象でもある。世界は光で構成されているとは言わないが、光は最も重要な存在です。この光に反応する機能が眼が形成された理由です。ですから、人間に限らずあらゆる生命体はこの光に反応する機能を開発して来ました。魚は眼が発達しています。蛸や烏賊などの海の生き物も眼は発達しています,然し、如何やらイカやタコの眼の形成と動物である哺乳類の眼の形成は、発達の過程が異なっているようです。この辺の事情は生物の適応進化が絡んでいるようです。生息環境の差異は、その機能が最も活用される目的を持つという事を頭に置いてみる必要があります。宇宙に充満している光子に反応する眼は、宇宙でも地球の様な惑星上でも、また海という海水中でも、媒体を必要としない一番汎用性の高い能力です。この光子を応用しない方法はありません。ただし、この光を応用する能力の為に、眼が開発された。眼や聴覚の形成には遺伝情報が絡んでおり、未だDNA情報と眼の発生上の対応は付いていない。然し眼は相当古い能力です。我々の眼は進化の過程の中で魚の眼の起源から改良されて、現在に至っている。原始的な細胞が光に反応する。その反応こそが現在の眼の起源だ。光という電磁波に反応するのは、なにも動物だけではない、むしろ電磁波に反応して、動物を陸地に上陸させた植物の方が大本である。植物は動物の生存を支える神なのです。植物こそは、餌を他に求めないものです。植物は光という電磁波を蛋白質に替える光合成の能力をもっている。彼らは光と水と二酸化炭素が有れば生存を続けることが出来る。
次は「聴力」です、
この能力も基本中の基本であり、地球上のあらゆる生物が依存する能力です。この能力は地球上の水と空気という生存環境で生じた能力です。動物の言葉はこの聴力を基に形成された通信手段です。光は媒体を必要としません、ですから宇宙空間でもその力は有効ですが、音は光とは異なり媒体の振動が情報を伝えるという現象上に生じた能力です。我々は何もない媒体の中では、存在は出来ないし、その中で辛うじて生きて居る訳です。その媒体である空気や水という物が波動を伝える媒体です。媒体は振動を発するエネルギーを遠くまで伝える。人間の声帯ですと100mが精々の所でしょうが、ある種の吠え猿は、3000メートルほどの遠方まで声を伝えることが出来ると謂われています。人間では大声を出しても、正確な言葉として伝えられる距離は100mが好いとこでしょう。現在は空想の所産である、テレパシーの様な脳の活動電位からの発信ですと、交信は其の電位の届くところまで伝わる事に成ります。これは聴覚というよりも直接的に脳に伝わる事に成ります。謂わば内語のように波動を伴った言葉と謂うよりも、意識に直接届くという現象として理解する事に成ります。この辺の事情は未だオカルトの分野でしょう。既存の科学はしり込みする分野です。この聴覚に関する分野では、角田忠信博士の驚くべき研究が有ります。今でもスタンダードな分野に成っていないのですが、人間の聴覚と精神、そして日本語を考える上で画期的な深い世界です。但し、かなり難しくこれを進めるには其れなりの才能が必要な分野でしょう。角田先生の予言では、人間の永い進化の時間軸の中で、惑星の律動は地球生物の脳神経系を形成する上で深く関与している。この様な研究は未知の扉を開く最も根源的な研究です。
次に「臭覚」です。
これは視覚から派生した幾何学とか聴覚から形成された言語と謂うより、もっと生命体の本質に近い情動的な生殖行動に絡んだものと成ります。フェロモンという科学物質が有ります。それは文字や言葉を使えない昆虫や野生の動物の言葉でもある。昆虫や野生動物だけでなく、人間もこの匂いに大きく影響されています。人間は動物です、ですから好い匂いのする女の人に着いて行きたくなるのも、動物としての人間に深い強い影響力を与えている。それは単なる香水の事では有りません。性行動に影響を与えるフェロモンのことです。フェロモンは本能に作用する分子構造の化学物質です。生物の体内では様々の酵素やホルモンが作用して生物の変化を促し、生命維持に必要な恒常性を保っています。謂わば一つの生命体は実に多くの調和的な構成で運営されている一つの宇宙でもある。匂いは日本人の取ってなじみ深い感覚でした。平安時代の昔から香道という遊びがあります。色々な匂いの元を混ぜそれを焚いて何の匂いが合わさっているかを当てるものです。此れには鋭敏な嗅覚が要ります。何と何の匂いが混ぜ合わさっているか?を分けなくてはならない競技です。これは現代では難しい競技です。何故なら、巷には様々の合成樹脂などが溢れていて人間の鼻は嗅覚の力を失い掛けている。犬の嗅覚は人間の千倍ほど鋭いと言われますが、犬ほどでは無いにしても、環境の自己家畜化から段々に人間の嗅覚は鈍くなっていると思う。
次は「味覚」に付いてです。
味覚、それは何のために在るのでしょう。味覚が無くても生存できるのでしょうか?、何だか、味が分からなくても生きては行けそうな気がしますが、それは本当でしょうか?、卑近な例から言いますと、私の知り合いには大変な食通の美食家が居ます。それに言わせますと、本当に美味い物を食う事は、それ即ち生きている事なのだそうです。人間は美味い物を食う為に生きて居るのでしょうか??、私はそうは思いません。知り合いの考えには賛成できません(笑)、でも、美味い物は有り難いな、とは思います。さて、その食通に云わせると人間の味覚は、甘い、苦い、辛い、渋い、酸っぱい、が基本に成って味が構成されるのだそうです。それの微妙な配合の違いが、多彩な味を創り出すのだと云う。私の味覚の考えは、食うと危険なものはあまり食べたがらない様に出来ている。例えば辛い物や苦いものです。元々、食うと危ないものは不味い味がする。人間は大昔から自然の中に薬に成る物を見出して来ました。それはいわゆる植物に多いのですが、動物性の熊の胆とか、マムシ酒とか、脳下垂体の成長ホルモンとか、動物性由来のものもあります。多大な植物の中から病気に効く薬を調べる際に、それを食うという事をして来た。食うと謂うより、舐めると謂うべきか、植物には特有の毒があります。植物のアルカロイドには動物には毒に成る物も多いのです。医薬を探求して来た古代シナには偉大な医書が有ります。神農本草経です。また、黄帝内経、黄帝外経などの医書も有ります、これが東洋医学の源流とも成っている。薬に成る植物を編纂しています。医薬と農業を開始した偉大な神農の言説には「毒と薬は紙一重である」と言います。将に毒は薬であり、その匙加減が薬か毒かを決める。動物にも植物にも病気があります。動物のお医者さんも居ますが、私達がお世話に成るのは人間を対象にしたお医者さんです。漢方医学は見直されて好いと思います。漢方系の医学は、投薬と生活全般の処方に成ります。つまり医食同源であることです。自足自給の時代ならまだしも、現在ではメーカーが作ったものを大衆が食べている。これは或る意味では不安も在ることなのです。多くの添加剤が混入されている。病気もそれを元に起こることが有ります。このブログを読んで下さる方は、その事を少し考えて欲しいものです。
さて次は「触覚」です、
これはとても大切な感覚器です。触ると言う事はとても大事なことなのです。人間の文明はこの触覚を通じて発展して来ました。技術の大半は触る事から始まります。人間んが何かの活動をする場合にこの触って触れるという事が無しに何も出来ません。根本的に物の存在も触る事から始まります。実を言えば数学も音楽も触るということから触発されて創られた物です。また有性生殖の起源も触る事から始まります。暖かい物とか冷たい物、柔らかい物とか硬い物、ぐにゃぐにゃしている物とか、栗のイガのように触ると痛い物とか、様々の触覚から派生的に得られます。触覚は感性に影響を与える重要な感覚です。機械的仕組みも総じて触る事から始まります。如何なる精巧な機械でも、人間の手で組み立てられたものが最も信頼できるものです。皮膚感覚で謂えば多くの人は、暖かくて柔らかい物が好きです。それは我々が生まれた時の母の感覚が記憶の底に在るのかも知れません。
次に、いま挙げた各種の感覚器のデータを統合して全体像を形成するのに意識活動が有ります。
その統合された感覚器からのデータが自己意識を創り上げて行く。過って心の起源は仏教でも探求された。「唯識思想」です、これは瑜伽師地論に瞑想の結果が書かれている。唯識二十論、唯識三十項、この瞑想は生と死の境まで降りて行く為に、生の意識に復帰できずに死ぬ者も多く居た。本物の瞑想には真の達人の導師が要る、そうでないと危ない。ヴァイバーシカ、ヴァイシェーシカ、等の学派、説一切有部。奈良時代に日本に輸入された仏教思想には後期仏教の論書や経典以外に、大乗の宗派がある。中論(華厳宗)、唯識(法相宗)、三論、など、奈良時代に伝えられた仏教は未だ日本化されていない、どちらかと云うと大きく言えば生のままの自然哲学とか神秘哲学の部類に属する物であった。もちろんそれ自体は大変に高度な、認識論、論理学、薬学、数学、天文、暦学、土木技術などを伴っていた。未だ仏教が出現する以前の遠い淵源は、ヨーガを伴う自然探求者の群れであった。そして現在の仏教の開祖は約二千数百年前のゴータマ・ブッタに始まると伝説は伝えている。この一人の人物は恐らく実在の人物である。ただ飯を食い自然に生きるだけの存在では無く、生まれ来たこの世界の実相を探求しょうとした、極めて少数派の中の一人である。一人の特異な人物から始まった原始仏教は、ブッタ一人で築き上げた物では無い。彼以前にもその探求者は多く居た。彼らは仏教では六師外道と呼ばれている。外道という言い方は独善的な響きがあるが、仏教は明らかに先人達に寄る成果の内に出た、新しい芽なのである。
人間が如何にして外部世界(外的宇宙)の物事、その本質を把握するには、其れなりの段階がある。古来、人間は自然探求の方法論として遣ってきた事では有るが、その方法を段階的に明確に把握したものに三段階論がある。
①ーその現象を細かい所まで良く観察してその挙動を把握する段階。
②ー細かく観察した挙動をモデル化する段階(つまり観察した挙動データの内容を形象化・数学を使って式化する)であり数学的に現象をモデルとして把握する事。
③ー②から得た何らかの本質を更に抽象し抽出し、定理、ないし法則化すること。
このこの段階を更に繰り返す事で、現象認識がさらに深まり、現象の根源に迫れる。以上は方法論としての、推論の手掛かりであり、日本では戦前に武谷の三段階論として語られる事も有った。
例えば分子生物学の発展を、この方法論で捉えると、先ず、なぜ子が親に似るか?と云う遺伝の現象の観察段階である。歴史的な経緯で言えば、遠くはメンデルに始まり、エイブリーやポーリング等が考えた、何だか解らないが、たぶん親の情報から子の情報が形成される。という情報の伝達が、何に因って、どんな仕組みで、伝わるのか?という現象の観察の段階がある。次は、その観察から得たデーターである染色体が遺伝情報の元であるという推測である。同時に遺伝情報としての染色体の構造モデルを模索する段階であろう。つまり遺伝現象を創り上げている細胞中の物体である染色体を構成している四つの塩基が、どの様な構造を持ってゐるか?という段階であり、モデル化の段階である。この染色体の構造が1953年に一般の科学誌ネイチャーに、足った1ページの論文として掲載された。ワトソン・クリックの二重らせん構造の論文である。遺伝子子構造が分かると、この段階で遺伝子構造を弄るという行為により、様々の弊害が現代社会を危機に貶めて居る事は誰もが承知の事実だろう。
ではでは、次の段階は何かというと、生命とは何か?という、現象の本質を把握する段階である。つまり何故生命が生まれ、その生命体が永い過酷な環境適応の中で生き残って来たデータを、DNAという核酸の二重らせん構造を創り出し、それに記録を託したか?と謂う根源的な部分の認識段階であろう。遺伝という塩基の列の長いデータは言わば生命史の経過時間であり、歴史に他ならない。そこには過去の幾多の危機が刻まれている筈であろう。この段階は、まだ理解するには程遠い段にあり未知の暗部の現象であるが、多くの示唆を含んでいるに違いないと認識している。命の起源は何なのだろう?、人は遠い昔から問いを重ねてきたが、宇宙の自然環境が創り出した物であろう事は凡そ明白な物だと思う。命は一つの現象である。それも化学物質のレベル次元に出現した反応過程にちがいない。太陽系では太陽の放出する光と熱のENERGYが、生命体の存続と維持を握っている。生命体は一つの過程である以上永遠に存続は出来ない。必ず次の世代を生まなければ、そこで終わりである。その為に命は身を削って次の世代を創り上げて来た。その設計図がDNAであり、生命は=DNAではない。命の創り上げたメモ用紙かノートの様なものだ。
先に方法論としての三段階論を述べたが、其れとば別に、我々の外部世界である物理世界は数学的な数理的な方法で成功を収めて来た。これは一連の現象が要素に還元できると言う発想と確信に基づいている。この考え方は近現代自然科学に多大な実績と成功を導いてきたことは事実だが、この要素に還元できない側面は無視するか捨象する事に成る。そうすると所謂、還元できない事象は無いものとして進める事に成り、一番重要な何かを欠落させ捨てる事に成る。それが要素還元論の欠点ないし限界である。物理の様な比較的単純な対象でさえ、その様なことが起きる。例えば重力・引力の本質を厳密には定義できていない。厳密という意味はその原因が何に因って起きているかの大本を定義出来た時であろうと想います。空間の曲がりが重力の源泉ならばまず空間とは何か?、質量が空間に歪を創るのならば質量とは何かがキチンと定義出来た時でしょう。近代科学は数学の力で飛躍的な発展を見たが現象の数式化は把握の為には有効で在っても、数学者は数式で考えている訳では無くて、多分考えている事は、イマージを駆使して現象の関係性を操作しているのだと思います。特に現象世界に関心のある応用数学はそんな考え方をする。
外的世界に関しては主に五感に因るデータの数理的な把握、又は合理的解釈で、概ね上に書いた様な物だが、恐らくは内的世界についても三段階論は技法としては有効かもしれない。と謂うのは内的世界という物は生命体の営みであり様々な自律系の恒常性が基礎と成っている複雑な有機系だが、先ずはモデルを形作る為のデータを収集しそれを検討する。例えば人間を例に挙げると、様々な機関が相互に連携を取り調和的な生命維持の体系を創り上げている。見事なものだと言う他ない。消化器系、免疫系、循環器系、脳神経系、呼吸器系、骨格と筋肉、その様な基本的なシステムの上に、眼、耳、香り、味、本能系、が加わっている。人間はそのような一個の有機体系の中に精神活動が伴っている。その精神活動も脳神経系の中に納まって動いている訳である。脳神経系はふしぎな機能を有する未知の領域だ。我々の活動する社会は、空気という海の中で動いている。コトバは空気の振動として聴覚を通じて発信されるが、音声を伝える媒体のない世界では脳という発信機が直接つながる必要がある。云わばテレパシー(感応)の世界と言える。現在の時点ではテレパシーは空想科学の世界の物だが果たして根も葉もない物だと言い切れるか?、私はそうは思わない。この世界の実体は未だ未知の領域がワンさと在り、人間はそれに気が付いていないだけだろう。数理科学はそんな世界を科学する領域でもある。
次に書かなければならないものに、内的世界の構造に附いてである。外的世界は五感覚の総合により、概ねの現象を把握することが出来るが、内部世界である我々の恒常性を形成している様々な器官と、その動作関係は把握が困難である以上に、我々の意識下に関係しているがゆえに、外部世界と比べてそれ以上に重要な世界であるにも係わらず明確に成っていない。外部世界の諸現象は近代自然科学の数学的な方法で現象の解析を行い多大な成功を収めてきたが、内部世界は古代に探求されたのみであまり目立った進展はない。古代の瞑想の探求者たち、特に原始仏教の瑜伽の行者たちは、瞑想の技法を使い意識の解析を行った。仏典瑜伽師地論は様々の興味深い事を書いている。我々がこの地球上に突然今のままで現れたものでない限り、我々は古代の生き物から多くの器官とこころを受け継いでいる。我々の内部には、遠い昔、魚であった時代の魂と、陸地に上陸しその中で進化を遂げた両生類と爬虫類の精神を受け継いでいる。そう考える事は、極く自然な正しい推論で在ろう。
【内的世界のテーマについて】好い例が有る。それは人間の一番大切な手段であり、文化と謂って好い言語、【ことばの問題】である。日本語に付いて取り上げてみたいが、日本語の歴史と日本語の習得の問題は分けて考えてみよう。日本語の歴史的形成については難しいので後で詳しく書くとして。先ず言語習得の問題を先に考えてみたい。
言語にはその言語特有の音韻形成があり、ことばを綴る単語を創る際に、母音とか子音とかを使い口語文章を形作る。その際、日本語は概ね母音優勢で言葉が作られ且つ口語として語られる。子音がない訳ではないが、基本は母音形成に依って単語が作られる。これが日本語の特徴で、その為に単語を創る場合に子音優勢の西洋語と較べて音素の数が少なく、結果として同音異語が極めて多い。表現の効率から考えれば、西洋語のように子音を多用する表現の方が音素の数が多く効率的なのだが、母音優位による言語形成、それが日本語の特徴なのだから仕方が無い。果たして、母音優勢の言葉は子音優勢の言葉に比べて、古いのだろうか?その証明はいま何とも言えないが、たぶん古い。角田理論によるとし、子供が言葉の獲得するさいに、母音主体で形成される言語、たとえば日本語は、子音主体で形成される言語、西洋語に比べて、音素に反応する脳内スイッチが異なるという。人間の言語中枢は左脳に在り、脳のある部分に集約される。その際に自然の音は右脳で処理される。が、日本語の習得を経た日本語脳は、言語は左脳で処理される事は外国語の脳と同じだが、日本語脳に関しては自然の音も左脳で解釈処理される場合がある。これは明らかに外国語能とは異なる特徴的なものであり、これが日本文化と密接に関連している。
脳内にあるスイッチの選別機構が、意味のある音声なのか、無意味な自然の音なのか?、通信理論では白色雑音と言われる物が有ります。これは完全にザーァ、ザーァというラジオのチューニングが合ってゐない場合に出るあの音に代表されるものです。自然の音声(滝の音、川の流れ、木の折れる音、虫の鳴き声、波の音、オナラの音、バイオリンなど楽器の音、その他多数)は、西洋人の脳では、それらの音は言葉としては脳の中では捉えられていない。それらは無意味な音として脳内では処理される。ところが日本人の脳内スイッチは、この自然の雑音と見える虫の音楽を、左脳で、つまり言語脳にデータが行き把握する。それらを意味ある声として捉える。その為に、日本語は至る所に耳を澄ませば自然の音を声として捉える機能を持つようです。虫の音を愛ずるのも、日本人ならではの文化であり遠い昔から鈴虫や松虫の奏でる音楽を楽しんで居ました。それは日本人の特徴的な行為であり文化と云えそうです。道理で日本語には自然の発する音を表現する擬音が多い、オノマトぺなどとも呼ばれている表現ですね。この様に我々が普段に何気なしに使いながら、極めて重要なコトバの問題も、内的世界洞察する為の大切な内部機能のひとつです。
ところで、このような問題が出てきた背景は、日本が外国と交渉を始めた明治期以降の事のように想います。ただ明治期に日本に英語教師としてきたラフかディオ・ハーン(小泉八雲)氏は、鈴虫の音を楽しんで居たようです。それは彼の随筆の中に出て来る。世界中を渡り歩いているハーンは、何故日本の文化や風俗に魅せられたのでしょう。確かに、日本文化は外国の全ての文化と異なっている面が有ります。この島国だけで生れた風習とことば、日本語の特異性は多くの言語学者が語るが、それは国語学や言語学を専門にしている方だけでなく、角田忠信氏の様な医学者が実験的に指摘為さっている。角田理論は可なり奥が深い、角田先生のご指摘に成っている事は、人間の聴覚を通しての研究だが、この惑星に生存している生物は、人間だけではない。微生物から植物、動物まで、その数は果て知らぬほどの大数になるでしょう。
そして惑星の表面に発生し、環境に応じて適応をして来た命は、当然の事ながら惑星の提示するリズムを持ってゐる。その例として人間の脳神経系の時系列的な年輪を挙げている。角田理論の慧眼を示す部分でしょう。人間の脳神経網の中に惑星の示す年輪がある。我々の全てはリズムに因って動き成長しているらしい。
ここで少し神秘的な話をしてみたいと思います。それは眼には見えない所の宇宙に附いての想像です。少なくとも我々の宇宙像は完全ではありません。それは千年前の一神教の宇宙像がいかに実在の描写と異なって居たかを知れば明らかな事です。その様に今現在の我々が知っていると思っている宇宙像が完全だと思わない方が正解でしょう。人間の自然認識はより深くなりより広範に成ります。眼に見える物だけが宇宙の全てでは無いと考えた方が、宇宙の実相をより正確に正しく捉えているのではないでしょうか。その議論は、物理学の分野から発する機会が多い、それは常に物理が現象を解釈するのに十分なフィールドを提供しているからだと私は考えています。そして何にしても我々を取り巻く世界は、我々の感覚に因って把握される世界です。こう言った外部世界については、我々の内的意識の世界とはまったく別個に、謂わば何の因果関係も無く存在しているのでしょうか?
我々の感覚器官は万全の物では無い。しかもそれが我々の外部世界の在り様を規定していると思います。つまり、私達の紡ぎ出す世界像は感覚器から得るデータに規定される。然も、外的世界と内的世界が、何の関係も無く存在しているのではなく、互いに影響を与え合っているとしたら、奇妙な世界像に成る。最小の量子から大宇宙の構造まで、このスケールを一貫して貫く原理とは何なのでしょう。それは我々が未だに関知せぬ世界の実相を表現しているかも知れません。この様な世界像は実際に、私達の知的感覚を超える物で在る可能性が高いと考えます。知ることのできないものは果たして在るのでしょうか?、さらに在るとは何なのでしょう?、いわゆる存在論ですね。存在論は、在ると無いとで二分できる物では無い。物事は在ると無いの、いずれかだと謂う、そんな単純な頭の二分法では世界の実相は捉えられない。私達の世界認識は、端的に言えば私たち自身が持つ感覚器の効果に過ぎない様に思えます。最初に書いたように、私達の感覚器は万全の物では無い。たまたま私達が生まれたこの地球という環境に即して得られ且つ育てられた感覚器能力です。重力と電磁波、此れは我々の遠い先祖である、最初期の生命体がうまれたときに既に在ったものです。この環境の中で、我が先祖は複合化と適応を繰り返して来たわけです。我々の多くの能力はこの過程で開発され改良されて来た。然し、この感覚器に掛らない世界もどこかに在りそうです。
ごくごく初期の生命体の発生時には、そんな世界を感知して居たのかも知れませんが、現在の我々の様に、ここまで授かった能力を特殊化してしまった以上、最早や把握できないものが在って当然でしょう。感覚を発達させてしまった為に逆に見えないものが在ると思う。たとえば、我々は物質で出来ている。つまり極限を辿れば最小の物で出来ている、それは量子で出来ているという事と同じです。其処には新不確定性原理とか、見えない関係性とか、平行世界とか、EPR効果とか、それらは、皆な精神とか、意思とか、こころとか、知るとか、何らかの連続波動性と関連している。もちろん、生きている事にも関係している。死んでも多分関係しているでしょう。この事に附いて以下に少し考えて見たい。
そういう精神とかこころと謂う世界に附いて考え、その像を思い描いてみると、現在多くの人がこの地球上に暮らして居て、情報を他者に伝える為に、色々な言葉を喋っている訳ですが、表面的な言葉を超える物が在りそうです。もちろん、言葉は思考を或る程度規定し、その言葉の表現の歴史性の特有の思考形態を持つ。別けても日本語は世界的に特有の細密で優雅さ持つと私は思っています。現在は世界を席巻している金融家の言語である英語が幅を利かせているが、和歌という文化の日本語を研ぎ澄ませれば英語などの比ではない。ただ、この未知なる存在の感覚から言えば、言葉は根本的な問題ではないのかも知れない。声帯を振るわせる随意運動から発生する空気の振動を基本としない、電磁波で交信する言語が在っても不可思議ではない。この電磁波は見えませんし、波長によっては聴覚に係らないものです。すなわち聴こえない。テレパシーという物は、この電磁波を使って行う交信とも言えます。電磁波は太陽光の周波数レベルでは視覚に掛かりますが、波長によっては視覚に掛からない。我々よりももっと昔の形態を維持している動物は、この電磁波的な言語を使っているかも知れません。
言語論のこう言った問題に立ち向かい、それこそ超絶の洞察を為した人に空海僧都が居られる。彼は、今からおよそ1200年も前に生きた人なのに、我々の呆けた頭脳を遥かに飛び越えた精神力で、深く深く省察を繰り返している。空海さんの著作はその本質的な部分に言語哲学がある。例えば、彼の後期の著作「吽字義」の中で、【ほとんどの人は、唯、かくの如き字相をのみ知りて、いまだ過って字義を解せず、ただ、表相のみに捉われて真言を掴むに至っておらず…】空海先生の当時は、先生が仰る様に将にその様であったのだろう。然し、其れでは現在は迷妄を脱したのかと云えば、全然脱してなど居ない。それどころかもっと酷い事に成っていないか?。