文人的科学者として有名な寺田寅彦は、江戸幕府が瓦解して西洋文明(主に独仏英)を受け入れ、そしていち早く西洋文明の粋であった科学力と技術力に追い付く事を目的にした、明治の中期に現れた物理学者であった。今でも彼の随筆は多くの人々に読まれており文庫本の再販は常に為されている。とても人気の高い科学者である。寺田寅彦の人生と、その科学の考え方を書いた評伝は、小生の見るところ10冊以上は有ると思う。彼の科学随筆は、少し増せた中学生や高校生にも読めるものだ。随筆の種は身近な自然の中の不思議という物から始まり、平昜は文章の中に科学的に鋭い探求心が発露されている。それらが永く愛される理由であろう。自然現象の面白さを題材にする、このような一連の随筆が、寅彦以前に無かった訳ではないが、寅彦ほど本格的に発表し続けた人は他に居なかった。
思うに、これと似た物に「和算」の伝統である「算額」の存在があるのでしょう。算額は幾何の問題を解いて、それを大衆に知らせる役割をしたが、不思議な事に、江戸時代の日本の大衆は数学が好きだった。なぜ不思議かと云うと、現在の日本では数学は毛嫌いされる分野の代表格の様なものだからです。これは嘘ではないです、例えば、中・高・大の生徒に、数学は好きかと聞いてみたらいい。大好きだという者は100人に聴いても10人くらいでしょう。あとの9割は嫌いだというに違いない。その理由を聞くと、試験で好い点が取れなかったからだ、という答えが返った来る。たぶん数学や物理は、先生の教え方に大差が出る分野ではなかろうか?。先生の個性や教授法で理解に大きな差が出る。ここに名前を挙げないが、良い先生の弟子には決まって、良い先生が出ることが多い、寺田寅彦の弟子の場合もその例外ではない。
評伝に必ず載っているのが、夏目漱石との出会いである。この出会いは寅彦の生涯を決定したと想像します。熊本の第五高等学校時代に寅彦の英語の担任となった漱石は俳句をやってゐた。漱石が俳句を遣るようになったのは子規の影響からだが、子規と漱石は大学予備門以来の親友である。大学を卒業し東京高等師範の英語の先生として就職したが、校長や周りと合わずに幾らも勤務せず東京から脱出して、子規が療養している松山に行くのである。旧制松山中学の英語教師として就職した。「坊ちゃん」はこの時代を描いてゐるが、漱石は自分で給料は校長よりも上だったと書いているのが面白い。そうして確か一年後に、第五高等学校の方から英語の担当をしないか?と誘われて、そこに行くのである。五高には会津藩の生き残りである漢学の秋月先生とかパトリック・ラフかディオ・ハーン(小泉八雲)など、異能の先生が沢山ゐた。寅彦はこの五高で「師と生徒」として漱石に出会った。その出会いも授業であったのではなく、クラスメートの為に英語の試験の点を貰いに何人かと出掛けた中で出逢った。
それ以来、先生と生徒は師弟関係を越えて人生の親友となった。こういう関係は、誰しもが求めていても、中々得難い関係である。それは人間の基本的な欲求が共鳴し合う関係である。自然の神秘を根底から解明したい寺田と、人がこの世に生きる真の目的は何か?、人間関係のもたらすこの世の喜びと悲しみを追求した漱石。この様な基本的な人生観が二人を結び付けたのだろう。この二人はどちらも稀有の才能を持っていた。こういう関係は日本に例が無い訳ではないが、やはり稀な事だろう。異分野で才能が共鳴し合うという誠に豊かな付き合いがあった。この二人は自分の人生において本当に幸福であったか?、どうかは知らない。だが、漱石は家庭生活に於いて幸福ではなかったと私は思って居る。女房が良くなかった。いや、良くないという言い方は適切ではなくて主人と妻は肌合いが合わなかった。という言い方の方が正確だろう。たぶん女房にも言い分は有るのだと思います。相思相愛の夫婦は中々居ないと自分は想うが、どうなのだろう?。寅彦に付いては多分、相思相愛だったのだろう。だが妻は余りにも早く、この世を去った。寅彦の書いた「どんぐり」を子供の頃に読んだ事がある。自分は泣いて仕舞った。漱石と寅彦の二人は、順風満帆の人生ではなかったが、おおくの稀有の実りをもたらしたと思う。
寅彦の科学随筆の特徴はその鋭敏さである。書き溜めた随筆をある程度纏めて出版していて味わい深い。そして実に面白い事を書いている。少し気に成った随筆を挙げれば、「変な物音」、とか、「科学者と頭」とか、「鐘に血ぬる」とか、幾らでもあげられる。特に科学者と頭を少し書くと、科学者は、まあ一般的な基準では、もちろん頭が良くなくては科学者として立ち行かないのは当然の事だが、だが、最も肝心な所で、科学者は頭が悪くなくては、本当の科学者には成れないと謂う。寅彦が言おうとしている所は実に核心を突いている。本物の創造的な科学者は平均以上の高い理解力を供えている事は当然の事だが、物事の本質を探究するには、少し頭が悪くボーッとしている頭が必要だ、で無ければ新たな独創的な力は涌かないと言おうとしているのではなかろうか?。頭の回転がが良すぎると月並みな上滑りに成り易いことを指摘する。物事の裏には深い法則性の神慮というものが働いているという認識があるのだ。その法則性と云うか、大自然のもつ法則形成力の成り立ちや法則の目的性の時間軸など、それを瞬間に理解するには、人間の弱い理解力では立ち行かない。理解の為の発酵期間が必要だという事を言っているらしいのだ。思念の発酵期間がある、それは或る問いを自然のままに任せて置く事で、その発想が進むという現象である。人間の精神性の中には自動で進むものが在って、それに任せて置く事で新たな知見に立つことが出来る。
人間のこころは自我意識がずべ手ではない。自我意識というものは本来の深い意識レベルのごく表面の物に過ぎない。それは数学の分野でもあり哲学の分野でもある。そして心理学の分野でもあり得る。我々は日常意識のレベルで暮らしてゐるが、鋭い探求者とか本当の詩人とかは、日常の覚醒レベルで暮してはいない。詩人は放然とする性癖を持つ。それでなくては真の詩は作れない。永らく言葉を待つ事も在る。詰まる所、俳句の境地は自然描写だと子規も書いている。漱石は漢詩を好んだが、俳句もやった。寅彦はおもに漱石から俳句を学んだ。彼らの友人には高浜虚子もいる。事実、寅彦の「ドングリ」は、虚子の主宰する雑誌に掲載された。あれ確か、漱石の「吾輩は猫である」も、虚子の雑誌に掲載されたかな。とにかく虚子の主宰する雑誌は投稿するのに便利だったらしい。
寅彦は、自分のフィールドである、科学からの種を基に多くの作品を書いた。では彼は随筆だけを書いて居たかと云うと、そんなことは無く、立派な内容の英文の論文もたくさん書いている。寅彦全集にはその英文の論文集が六冊ほど揃っている。寅彦の真骨頂は、我々の身の回りに在る自然現象に注目して、それが物理学の最先端の問題と被ることである。キリンの縞模様の物理、乾いた田んぼのヒビ割れの論理、等々、身の回りの不思議は気が付きさえすれば沢山ある。