すこし定性的な話題を書きます。数学と自然科学的合理性を旨とする自分としては、中々理解困難な現象に出会い困惑して居ますが、すこし老眼と白内障気味では有りますが、特段に痴呆症が顕在化してる訳ではありませんし、また怪奇趣味がある訳でもありません。今までごく普通の常識的な生き方をして来て、それから得た経験を基にして、この世界の現実を解釈をしてゐます。ところが生れて以来、体験した事の無い事象に出会うと、永く培ってきた常識とか諸知識とは一体何だったのだろうか?と思う時があります。
皆さんに取って、恐らくそれは体験した事もないし、また他人事であり大した事では無いのかも知れないが、それでも、私に取っては「成るほど、昔より諸人から伝えられた話はやはり本当なのか?」と思われる事を、幾つかの体験・経験として、「私の持つ物理学と生理学・心理学の知識では得心の行く説明が付かない」実体験として書いてみたいと思います。以下の体験は、私には生れて以来初めてで、今まで一度として無かった事です。
時系列的に言えば、ひとつは2015年の12月に母が亡くなった時に、告別式が終わって、疲れ切って家に帰った夜、寝ている夢うつつの中で、母の呼び掛ける声が聴こえたという現象です(とても優しい声でした)。もうひとつは、母が亡くなって一か月すこし過ぎたころ、私も知っている、昔からの家内の女友達が遊びにきて、(カーテン越しの隣りの部屋に母の寝ていたベットがある)居間のフロアにある長椅子に座った女友達は暫くして、私に「隣の部屋に誰かいるの?」と聞いたことです。そのとき私は、ギクリとして、声が詰まってなにも答えられなかった。現在は子供たちは東京で所帯を持ち、この家には家内と私の二人しか居ないのです。誰も居る筈がないのだが、女友達には何か感じるところが有ったのでしょう。え?分かるのかな?と私は思ったことです。漠然と、私は何か母が居る様な気がしていた。何か物音がしたりして、心配事が在ったのかも知れない。母さん安心して、僕は大丈夫だよ、心配しないで、。
もう一つは、つい最近のことです。とは云っても、今年(2021年)の7月14・15日前後のことですから、すでに5か月は過ぎているのですね。6月の26日に市役所でコロナの予防注射を打った、ある私よりズーッと歳上の知人が、注射して帰ったその日から発熱し、7月12日に2週間くらいで亡くなりました。斎場へ通夜に出掛けてお悔やみを言い、次の日の告別式が済んで1~2日後の、夜の十時半ごろ、庭に出て居る飼い猫のトラちゃんを家に入れる為に、呼んで抱きあげ玄関の階段を上り入ろうと歩いて来たときでした。突然15mほど先に、私の山行用のヘッドライトに反射する人型の白い発光体が庭の芝を張った奥に現れ、そのヘッドライトに反射した約1m60cmくらいの白い、手も足もない人型の発光体(発光体かどうかは解らない、Head・lightに反射して白かったのかも知れない)は、私から15mほど離れていましたが、時速約6キロメートルほどの速度で、左から右へ10メートルほど移動して消えました。それは何んなのか?、物体かエネルギー体か、何か分かりませんでしたが、少なくともHead・lightの光を反射している様に見える、何かが滑るように移動したという事実です。
私はトラを抱いて居たが、最初は何なのか判断が付かず、アッ?と、感じました、それから、2~3秒間、置いて、あれは何だ!と思い、突然寒気がしてゾゾーッとしました。この歳に成るまで、私はこの様な物体?を見た事が無かったからです。その内に、ああ若しかすると亡くなったOOさんだなと思いました。私は母の言葉を眠りと覚醒の中間で聴いて以後、こう言うことには、昔ほど怖がることが無くなりました。「この世は多分このようになっている」と、想える様になってきた為でしょう。でも、その時は、確かに気味が悪かったです。でも○○さんだと思えた時には、怖くなくなりました。彼は、とても好い方で人生の先輩としても尊重して居ました。約束事を確認しにしたのだと思いました。
OOさんは、私と一緒に、明治初期に建設された紡績工場の動力源である水で、工場操業の水車を回した後に、生活用水として供する為に利用された、水路の跡を調べようと計画していたのです。何と、明治初期の紡績工場の駆動動力は、水の力で水車を回す物であり、動力源の水は遠く鬼怒川の上流の飛山城遺跡の下から取水し、取水口と石法寺の工場の高低差は3メートルほどしか無い経路を、8キロも導いて来た物です。この水路の工事は相当な困難があったという。その水で水車を回し、それを動力原としてイギリス製の紡績機を動かして操業をしていたのです。私と○○さんは、水車を回した後の水を飲料用ではなく食器や野菜を洗う生活用水として使う為に掘られた水路の跡(既に100年も前に工場は閉鎖された。)を調査して見ましょうとの、約束をしていたのです。
石法寺という地名の場所は栃木県を流れる鬼怒川中流の左岸で、約30mも高い河岸段丘上に在り、飲み水用の井戸は地下七間も有りかなり深いのです。それで、捨てられるはずの清い水を、家庭の飲み水ではなく、物を洗ったり風呂水などの生活用水として使おうという思いがあった。その為の用水堀を掘った訳です。(100年以上も経過していた為に、その間には大東亜戦争もあり、たぶん開墾や耕地整理で、用水掘りは埋もれて居るだろうと予想していた)その発光体を見てから、私は必ず今年中に調査しますからと心で云いました。
この不思議な現象は、たぶん現代の物理理論で説明が付くかな?と思いました。と、謂うのは、今回以前に私自身は、この様な実際の経験は無いのですが、女性ではこの手の現象に敏感な人も多いですから、その様な人達(いわゆる霊感の強い人)の体験は、どうなっているのかを知りたかった。それで少し考えてみたのですが、やはり現代の物理学はプラズマとか電磁場や電磁気ならばそれなりの説明が出来ますが、こんな現象(生命体とエネルギーの関係)の説明に付いては殆ど無力です。或いは、脳科学や心理学で説明ができるのかな?、とも思いましたが、脳科学も心理学も、生命の内奥まで判るほど進歩はしていないのが現状です。これは何とも説明の付かない体験でした。無理やりの現代科学で言い繕った説明は正しくない上に、返って本質からは反れてしまう事にも成りかねません。何とも不思議な体験でした。私はまだ、今回のこの体験の真の説明は付いていません。
現代の物理的な説明では、我々の体は、それこそ数え切れないほどの原子核と電子で構成されている。言ってみれば、我々一人一人が、ひとつの宇宙であると云って良い。「量子力学」は、このような原子核とか電子の世界の力学だが、私たちのスケールでの力学とは異なっている。例えば物は(とは言っても原子核とか電子のスケールだが)物は、個体と波動の二つの顔を同時にもっている。でも、我々の次元のスケールでは、あの人は波動だよ、などとは云わない。物は物体であり個体であり叩けば衝撃がある。ところが量子的世界ではそうではない。量子的世界では、電磁気力、強い力、弱い力、重力、の内、強い力と弱い力、そして電磁気力が主で、重力はほとんど影響しないと考えられている。
我々の世界では、重力と電磁気力が殆どで、強い力弱い力は考慮の外である。では、宇宙的なスケールではどうか?、現状の宇宙空間では、重力が殆どの主役で重力の極限状況であるブラックホールで、量子現象がどうだとか、こうだとか、言っている段階だ。銀河系も、恒星系も、太陽の構造の様な惑星系も、ほとんどは万有引力で計算できる。だが宇宙がなぜこんな構造を創るのか?の意味的な答えは、今だ未知です。既に亡き人の声も、心の危機の補完的な働きで説明する場合もあるが、そういう説明は、何か、どこかピント外れです。
多重世界の現れなのか?、そんな事よりも、「我々の意識の起源」という大問題が既に有る。生命体はなぜ意識を持つか?という根源的な問いである。むかしオランダの哲学者スピノザは、道に転がっている石は考えている。とか書いたことが有るが、意識は生体だけではなく石や鉱物にもあるという事なのか?真実は果たしでどこに在るのでしょうか。我々の知的能力は完全ではない。ほんの一部を見ているに過ぎない。世界は摩訶不思議で面白いものですね。
もう一度、自己意識という迷宮を明らかにすべきでしょう。我々の意識は、基本的には五感の感覚から得た通信データで構成されている。これは既に古代インドの唯識派が主張している事です。でも感覚データの底には、もっと根源的なものが在るという。私は「心此処に在らず」に、似た空想に耽る事も有りますが、古代インド瑜伽師が行う様な自己滅却の瞑想まではしたことが有りません。古い仏典である「瑜伽師地論」を若い頃に読んだことが在りますが、それの主張するところでは、それはもう個人的な意識を超えて、更にもっともっと下部の世界に降りて行く。生物は或る意味で鉱物と連続した存在である。で、有るから、私は人間が絶え間ない地球上の進化の段階から見て、人の内部には魚の魂や恐竜の心を持っていると信じる。それは既に解剖学的に見れば、人間の脳の構造に反映されているではないか。現に我々の持つ体という器官は、あらゆる面で魚以来の古代の備品を受け継いでいるのである。説明の付かない現象は大いに在る。我々の知的理解は、まだ赤ちゃんの始めたばかりのヨチヨチ歩きの段階なのだ。
何も宇宙は遠い所にあるのではない。見上げれば空は宇宙そのものだ。私達はこの球体の表面に重力で地面に引っ張られて生きている。この引力の為にすべては地面の中心に向かって引き付けられた存在だ。引力は当然の事だが、その地表に住むすべての生き物のリズムをコントロールしている。眠りや自律神経、生殖活動や精神行動、そして、それは行動的本能として人間の自意識の底で律動し、天体の周期的リズムは永く生物の進化の元となって来た。どんな生物でも引力に逆らって進化した生物はいない。多くの人はたぶん信じないだろうが、○○さんが注射して死んだ今回のコロナ事件は、或る悪党が謂わば日本人全員に注射をさせる為にテレビで煽り企画された物だろう想像する、そして謎の液体は薬とは謂い難い代物なのだ。本当の死亡被害者が爆発的に増大するのは是からの事だろう。
超過死亡率(一年間に発生する死ぬ人の数の平均値)の概数が大幅に変動する事は、何かが無ければ有り得ない。それが変動するとすれば、過去の大飢饉での死者、大地震での死人、突発的な流行病(スペイン風邪の様な)に因る夥しい死、そしてアメリカに依る原子爆弾や無差別爆撃での一般市民の死、など日常的なものではない。極言すればコロナで死んだ人間は、「映画館に入れるぐらいの人数」だが、「注射で死んだ人間は超過死亡率から類推すれば約300万人は居る」。死者の数は厚労省が隠したとしても、それでも200万人の死者は居るだろう。これは企まれた薬殺死なのだ。
スペイン風邪にしてもロックフェラー研究所で創り出した「インフルエンザ・ウィルス」を、何万もの米兵に感染させ、それらの兵士を西部戦線に放った生物兵器であることが歴史から既に分かってゐる。私は妄想を言っているのではなく過去に在った事実を言っているだけです。今回のコロナ注射も、慎重に最新の注意で既に計画されてから50年は経つ。私が若い頃、1970年代の初め、或る未知の組織が「成長の限界」という答申を出した。当時のローマクラブである。その答申の一つは、人口爆発が地球環境を危機に陥れるだろう。という答申である。そして、地下資源(石油資源)の枯渇である。人口爆発の解消こそには、コロナに因る地球上の増え続けた「人間削減の計画経過」が、暗に書かれていると感じています。
多くの人達は、今の日本の行政府が、国民を意図的に殺すとは思って居ない。常識的に考えれば、それは当然の事であろう。だが現在の日本の状況は、その様な常識が通用しない魔物である。特に、今現在の日本政府という物は謂わば魔物の手下である。それは世界を牛耳る悪魔組織の手下に成ってゐる為だ。現在の状態を明け透けに言えば、日本政府など存在しない。それは猶太の下部組織に過ぎないのでは無いか。それを知る人は注射などしない筈です。テレビと新聞は、この超国家勢力の広報誌に過ぎない。注射の害は暫時現われ、やがて冥土への誘いと成る事は請け合いだ。だがこういう話に関心を持ち、過去の本を読み、自ら調べる方は、恐らく居ないか少ないに違いない。だが、上記の如く隠れて仕組んで居る者達の目的と方法が解って来ると、ここ300年の災厄の歴史が何であったのかが自ずと見えて来ます。彼らは恐るべき狡猾で常に嘘を言い残酷で不潔だ。彼らの聖典Talmudに拠れば、我々は羊でありゴイムである。
さて話は変わるが、最近、私は、ちくま文芸文庫で、多田智満子氏のエッセイ集を読んだ、最初の章に興味を抱いた為だ、其処には「魂の形に付いて」という文章があり、私が見た人型の魂とは異なる主旨が書かれている。智満子氏はもちろん魂など見たことは無いだろうし、幽霊も信じて居ないだろう。それはそうだ、見た人以外は、感情的に納得しないだろうし、例えそれに言及するにしても、それは他者からの又聞きなどの憶測でしか無いからだ。魂は丸く尾を持つと書いている。それは浮世絵の人玉である。丸いというのは古代から多くの人が想像する形である。球体は、空間に占める、存在の為のエネルギー効率と体積表面積が最小で、存在の安定した形で効率が良い。ゆえに魂は、動物であれ、植物であれ、同じく基本形なのだ。たぶん丸いのだろう。魂は玉であり丸い。玉という語源は古い。日本語の原型にも「タマ」はある。アイヌ語の研究者が言うには日本語の語源には蝦夷のコトバが変化した形が多くある。歌の枕詞にはその手の語源が解釈上ヒントに成る。
もしその場に井頭山人さんの他に、誰かが横にいたとして、その人が井頭山人さんと同じ視覚的体験をしたかどうかが興味のあるところです。
同じ場所にいても、亡くなったお母様の言葉を聴いたのは井頭山人さんだけでしょうし、この場合の「聴く」は耳からの聴覚体験ではなりませんよね。
「見る」ということも、必ずしも眼球への光刺激を必要としません。
「視覚」というのは必ずしも網膜での光刺激でなくても、脳の中で電気信号として視覚野に電気的刺激が与えられれば、「ものをみる」という体験が発生します。例えば、イルカの視力は0.1ほどしかないそうですが、イルカやコウモリは「音をみている」と表現されるように「音の情報」を視覚野に送ってかなり遠くにある物体をもみるそうです。
ですので、井頭山人さんが感じたのは眼球を通しての視覚とは限らず、脳がみた「視覚」体験だったのかもしれませんよね。
人が亡くなるということは、人が分子レベルではなく、プラズマ(?)のような状態に変換することなのかもしれず、その場合、もしかしたら、よくいわれるように「無の状態になる死」は存在しないのかもしれませんよね。その状態ならば空間や時間を超越して瞬時に移動することも可能なのではないかと思います。よく、「亡くなった人がよ夢枕に立つ」とか言いますが。
井頭山人さんにとって、ご友人の死は強い衝撃だったのでしょうし、そのお気持ちの強さがご友人にも「以心伝心」で伝わったのだと想像します。
もしかしたら他の誰よりもその方の死を無念に思われた井頭山人さんに、そのご友人は何かを伝えたかったのかもしれませんね。そのメッセ―ジはきっと井頭山人さんならばお分かりになっておられると思います。
00さんの件は、そうですね、一緒に居た目撃者は飼い猫のトラちゃんだけです(笑)。突然の事というか、現象と云うか、白い人型の物体?は、何の前触れもなく突然現れ、時間にして5秒間ほどしか継続しなかったのです。その移動の経過は人がヒョコ、ヒョコ歩くと言う様なものではなくて、滑らかにベルトコンベアーの上の物が移動すると云えば情景は掴めるでしょう。7月13日か14にで、目撃時間は夜の十時半ごろです。この短い時間は想い出すと映画のレビューの様に過ぎて行きました。今でも情景を思い浮かべる事が出来ます。
で、私はこの現象の原因を手短に数えてみました。一つめは、私の家の屋敷林を通して、約100メートルほど離れた隣家の出入りする車のライトが投影されたのか?とか、二つは当然私の目の錯覚か?とか、色々思案してみましたが、100mも離れた車のライトが、ブロックの壁際に投影する事は無く、あの様な人型の白い物は形成出来ません。ですから一つ目は在り得ない。二番目の私の眼の錯覚とするのが穏当ですが、抱いていたトラちゃんにお前見えたか?と聞けませんのでね(笑)。たぶん、このような事は、私が原理的に説明できないだけで、昔から有り触れたとまでは言いませんが、結構、在ったことなのだと思います。ただ私は初めて見たので驚いただけなのかも知れません。お陰で臆病だった私は、そんな物なんだなと思えるように成りました。
また、色々と教えて頂きたく思います。有り難う御座います。
最初のお答えに余り時間が無く短めでしたのでもっと整理してお話したい。
いま思い出しても、あれは不意に現れた奇妙な体験でした。私の飼い猫のトラちゃんを家の中に入れようと、登山用のHeadlightを額に附けて外に出なければ体験しなかった事でしょう。私は次の日の同時刻に恐る恐る同じ場所に立って、果たして現れるか試しましたが、それは遂に現れなかった。00さんは私に誠意を表わす為に其処に現れたのか?それとも真夜中に、お一人で生活用水の堀の後を探して居られたのか?。それは分らない。
世の中には特殊な感受性を持った方も居られるようです。もっと遠い昔の原始時代には、その様な感性を持つ人がもっと多かった事でしょう。我々がルーチン化された文明を築くことで、要らない能力は衰えて行くのが生物の一般的な傾向です。多分その様な力は喪失して仕舞ったのだと想像します。私の年長の知人の奥様はそう言った力が有ったようです。少し巫女的な力を持っている方のようでしたが、その方の母親はもっと強い霊媒的な力が有ったと仰っていました。そう言う心性って遺伝する物なのですかね?。誠に奇怪な話です。
こう言った話を推し進めると、先ず人間の認知能力とは何か?、から始まって私の体験と似た事例を多く集めて検討して見なければ為りません。例を50~100くらいまで集めて、一人一人の体験者がその様な状況でそんな経験をしたのかを分類する。と同時に其の体験者の特性を知ることも必要です。男か女か、迷信深い人なのか、理性的な人なのか、種々多様にあります。
こう言った現象に付いては横に寄せて置く。自然科学的な研究対象をから言えばあまり魑魅魍魎的な世界は、科学としては導入したくはないのが常です。然し、これを避けては自然科学の進歩はない。私はこの様な事例をどのように考えるかの見本として、見習うべき先人である寺田寅彦を挙げてみたい。彼のエッセイにもこのような話があるが、寅彦がこう言った一見科学とは正反対の、謂わば対極にある分野や現象に共感して居るのは、たぶん彼は自分でも体験しているからだと私は想像します。科学の進歩は立派だが依然としてそれに掛からない未知の事は、山ほど在ることを痛感していたからでしょう。
こう言った世界の研究の道具立てとしては、生命電磁気学、カオス・フラクタル、非線形力学、共振共鳴、ホログラフィー、虚時間、多重世界、EPR、発生学、環境、遺伝子分子浮動、統計熱力学、世界構造のスケール原理、深層心理学。など種々の道具がある様です。