算額について
現在日本の数学研究のレベルの高さは、世界の中でも突出したモノと成って居るのは、それなりの理由があります。今では忘れられた日本の数学である「和算」は、遠くは室町時代にソロバンが輸入され、それを主に、「元」の算書である朱世傑の「算学啓蒙」、「明」の程大位による「算法統宗」などの著作が輸入され、算学啓蒙に寄り、初期の方程式論や四則、特に割算書などの解説書が出ました。しかし数学の発展を見たのは、特に徳川の平和が形成された江戸時代に成ってからでした。算学は江戸時代に隆盛となり、明治の初年まで続いていました。その源流は古く、上に挙げた様に、既に奈良時代にまで遡る事が出来ますが、和算の直接の系譜は、安土桃山末期の毛利重胤の「割算書」辺りに始まり、江戸時代にそれは確実な進歩を遂げる事になります。毛利の弟子には、塵劫記で有名な「吉田光由」や毛利のもう一人の弟子であった人が居ます。彼は吉田光由よりも、専門的な数学書を刊行しています。比較的優しいせいも有って、塵劫記は発刊されると大変なベストセラーとなり、何版もの増刷が成されて居ます。それ程人気が出たのには、理由があった様です。江戸時代も大阪夏の陣・冬の陣も終わり、イエズス会の謀略である島原の乱などが終了すると、江戸幕府にも幾分の安定期が訪れて、人々は落ち着いた日常の生活が送る事が出来る様になり、物の売り買いなどの商取引や金銀の為替相場、米相場、先物買い、金貸しの利子など、現在の資本主義の根底にある様なものまで、既に出ているのでした。
その他にも商業経済の基本的な技法としての計算方法が必要になってきます。当時は盛んに算盤が使われていましたから、その大切な技法を伝授する算数が「塵劫記」なのです。数の単位、容積計算の基本やネズミ算、つるかめ算のような初歩の方程式の萌芽も、そこには有ります。いずれにしても江戸の庶民がこの算書を買い求めてんだようです。それで満足出来ない人々は和算の塾まで、態々、お金を出して入門し学んだようでした。大変な熱心さであったと思います。塵劫記が出版されたあと十年もしないで、算聖「関孝和」が出ています。関孝和の出現は、和算のレベルを一気に100年引き上げたと感じます。これは殆んど奇跡な事だと思います。何故ならこれ以後、和算には関を超える人は居ないと思えるからです。勿論、歴史に名を残す偉大な算家も何人か居るにしても、一気に超人的な仕事をする人は見当たらないからです。
その後は、日下誠、久留島義太、安島直円、などの有名な算家が出て、書き切れない位の実力のある人々が現れています。和算の分野としては、一つに平面幾何、立体幾何、つまり一般に幾何学と呼ばれる分野です。更に代数的な方程式論の分野がありました。幾何学の方面からは面積・体積の問題が一般的です、そこでは円理と呼ばれる円の、または球の面積・体積など、求積法の問題から、積分の萌芽、それらに動的な現象を適用するとすれば、微分の方法論も出てくると思います。積分と微分は逆の関係にあるから、力ある和算家ならばそれに気が付くでしょう。更に方程式の問題から、関孝和はすでに行列の概念をも出して居ます。この様に彼らは活発に算法を研究し、その成果を神社・仏閣に、絵馬として掲げる事をしています。
それが「算額」と呼ばれる絵馬です。昔は神社に願をかけ、その願いが成就すると、生きた馬を奉納したと云います。しかし、幾らなんでも生きた馬一頭を奉納できる人ばかりでは有りません。願を掛けたいのだが、生馬一頭までは奉納出来ない人の為に、絵馬が代用されました。神の力によって、困難な問題が解けた事を感謝して、和算家は解いた問題を掲げ、更なる精進によりさらに困難な問題を解き得るように、算額を捧げたらしいのです。後年、その算額には、より困難の問題が書かれる様になり、それを解く挑戦者を暗に求めた物でした。それを「遺題」と云います。この様にして、和算は明治の初めまで日本の数学として発展し続けたのでした。然し、明治以降、数学は文部省の指示により、学校教育ではすべて洋算に変わりました。その為日本独自の数学である「和算」は、次第に忘れ去られ消滅していったのでした。