井頭山人のgooブログ

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辻まことの世界

2023年12月27日 18時32分59秒 | 日本文化論

 いまから40年も前のことであろうか。或る建物の二階にある本屋の、新刊本コーナーでふと手に取った。それが「辻まことの世界」だった。辻?まこと?それって誰れ?という気持だ。当時は辻まことは知る人ぞ知るであり、まるで無名の人であった。ただ、山関係のひとにはなじみの名前であったろう。絵も描くし、版画もする。そしてギター演奏もこなし、詩もつくるし、文章も書く。それの一つ一つが一流だった。私が最初に開いたページにはデッサンが描かれ、その横には痛烈な脚注説明が書かれている。後の有名な「虫類図譜」である。虫に擬えて人間社会の虫が俎板に乗った。なるほどこんな虫が確かに居たな。辻さんの手に掛ると、大抵の虫の害虫性が露になる。本来の虫は、とても懐かしい可愛い虫たちなのだが、人間が虫に替わるとその害虫性が炙り出される。辻さんの漫画は過去に「岳人」や「山と渓谷」に掲載されたが、それに付いている文がまた魅力であった。詩人仲間の会で活躍し、緒方亀之助の詩も辻さんの紹介文で知った。また、何冊かの絵本を出版し、それは今でも多くの愛好者が居る。「山の声」、「山で一泊」、山芋がウナギに成った話、詩・詩人考、唸らせる深い話が多い。辻さんの父親は辻潤氏でやはり特異な父親だった。親爺さんのことでは辻さんは苦労したと思います。

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百姓の江戸時代ー田中圭一 を読む

2023年12月26日 15時28分07秒 | 日本文化論

 大人になっても、我々の多くは江戸時代が圧政に次ぐ圧政で、誠に悲惨な時代であると思っている節がある。その理由は中学・高校の教科書では、そのような風に記載されており、習っている為でもある。それ故に中・高・大を卒業しても、単に高校で日本史を学ぶ程度では、日本歴史を本当に疑問を持って根本から独自に研究する者で無い限り、頭に教科書の印象がこびり付いている。だが教科書の記載は本当なのか?、本当にそれが事実なのか?真実はどうだったのか?を、歴史愛好家は知りたいであろう。

「百姓の江戸時代」は、今から20年以上も前に出版されたこの本をp「筑摩新書」で読んだことがある。私は、その時に内容に驚いた。それは私が高校時代に習った江戸時代の農民は、「常に収奪された農民」という、定番的な左翼的虚構の説とは異なることが書かれてあった為だ。それ以来、私は陰ながら田中圭一先生を尊敬している。先生は、本物の実証に基づいて、江戸時代を何の先入観なしに考察・考究された稀有な人だ。佐渡の農家に生れ、家では小学・中学・高校・の学校時代にも、学校が引けると家に帰り、暗く成るまで父に従って家の農作業を手伝ったと書かれている。食事は8時過ぎで、その後の就寝の時間まで先生は勉強をされたらしい。この一時からして、先生の勉強の根本には机の上の知識だけでは無く、実測に照らした精神があった。何故なら江戸時代はすべて全農民が、幕藩体制のもとで一方的に収奪され、苦しめられていた時代だという虚構を吹き飛ばしてくれたからだ。江戸時代の日本人の9割は農民だった。その農民が本当に収奪されて居たのなら、江戸時代はもっと早く崩壊したであろう。江戸時代の農民は世の中の「基盤として」誇りをもって生きてゐた。そのことがハッキリと実証されたものがこの本である。

明治以来の、理・工学を省く分野には、概ね大學アカデミズムに、社会主義・共産主義が入り込み、その社会全体の内紛を醸成していた。その典型には、日本資本主義論争という物が在る。「共産主義の虚構を」大真面目に論争をしていた連中の頭の中には、事柄の肝心な背景が何も分かって居なかったし、その主張は、今から考えると丸で盲目な世界認識であり、将に噴飯物である。何かと言うと、共産主義・社会主義の本質は、猶太の世界支配の一手段であり、その様な背景の著作である「資本論」自体が、猶太金融資本家の要請によりモルデカイ(ドイツ語ではマスクスとも言う)に依り書かれたものであることが、今ではハッキリと証明されているからです。シティとマルクスは同じ穴の狢です。特に顕著なのは敗戦後の日本を6年7ヵ月間統治したGHQである。このGHQの主体は主にCIAの元の機関であるOSSという組織でした。OSSにはドイツを脱出したfrankfurt学派の多数が流れ込んだ。私も若い頃に読んだ、マルクーゼ、フロム、ホルクハイマー、アドルノ、などがOSSに加わった。GHQの主体は金融資本が養成した左翼活動家であり、日本のアカデミズム学会は大正期に赤化が進み、特に戦後は、更に一様に赤化が一層進んだ。学校の教科書も民生も法律も6年間の間に、日本解体の設計図を社会に埋め込んだ訳です。この様な教科書を使えば、歴史は暗記と心得て丸呑みし、江戸時代史を「隷従と抑圧の時代である」と考えて仕舞うのは尤もな事なのです。では、本当の江戸時代とは、どんな物であったのでしょう。田舎の旧家に残る文箱資料を基に、庶民の歴史を再考察したのがこの百姓の江戸時代です。読んでみて損の無い新書です。恐らくは、今までの江戸時代に対する印象が変わる事でしょう。

今の社会とは異なり、古代~中世以来の家族は大家族でした。名主(みょうしゅ)夫婦の下に、その子供、父母、兄夫婦とその子供、弟夫婦とその子供、何人もの下男、下女、などで構成され、家族は20人~30人という大家族でした。30人がひとつの屋根の下に暮らしてゐたのです。田中圭一先生のご著書では、「中世は身分制度の時代であった」と、お書きに成られている。身分とは何か?「中世に在っては人の身分が固定してゐて、それを変更する事は許されなかった。身分に基づく主従関係によってつくりだされた社会を封建社会と呼ぶのだが、それは土地の支配関係の中から生まれたものである。この様な関係が永く続いたが、やがて戦国時代を迎え、それは百姓名主と領主の関係にまで及ぶと共に、世の中は大きく変わり始めた。そのころまでは、家はいくつもの家族で一軒が成り立っていた。この様な家族の構造は中世の名残であり、やがて「天和二年(一六八二)の検地」で、同居家族がそれぞれ名子として、自分の耕す田畑を所有地として独立して行くのである。」と、書かれている。現在の家族制度しか知らない人々には、中世の家族制度は想像できまい。

大家族というのはいわば血族でもある。そしてその血族は、娘をを嫁に出したり、婿を迎えたりして、親族が広がってゆく。江戸時代よりもモット以前、平安から鎌倉期には、娘が後を取り婿を迎えるというのが一般的であったという話を聴いた事がある。日本の遠い古代は母系制であったらしい。婿入り婚という社会は実に面白い気がする。

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今の日本国に大事な物「漢学の復権」

2023年12月11日 07時39分47秒 | 日本文化論

 今の日本に欠けている物がある。それは明治以来というよりも、事に敗戦以来、順次日本社会と人が無くして行ったものである。具理性が持て囃され何に於いても合理性と尊ぶ事は好いとしても、段々に日本人はその精神性の背骨を失っていった。この歳に成るとその事を一層強く感じるものが在る。永く日本文化の根底には漢学が在った。例えば江戸の250年は、幕府の推奨が在った、新儒教である朱子学が国の精神性の根幹であった。朱子学は南宋の思想家、朱熹が四書五経を新たに解釈して作り上げた物である。勿論のことだが漢学とは朱子学のみを言うのではない。文献としては四書五経を使ったが、日本の漢学はその文献を更に日本流に加工し付け加えまた再解釈し新たに日本的世界観を付け加えた。それがいわゆる漢学である。日本的漢学は支那には存在しないし、とうに四書五経は廃れて其れを読める者は科挙に合格した者を中心に、少数の読書階級であり大多数の99%の庶民は漢字とは無縁であった。然もシナ大陸では民族の攻防が激しく古代の儒教を創造した民族はもう残って居ない。古代の秦帝国を作ったのは西域のウィグル系の民族であった。シナの語源ともなった秦は僅か20年ほどしか続かなかった。果たしてそれが帝国と言えるのか?。近々に於いても世界的帝国をつくった元はモンゴル人の帝国であり、最後の王朝である清をつくったのは満州人の王朝である。この様に漢学の元となった民族は、とうに消滅してシナ大陸には存在しない。誠に天地流転の世界である。

それに反して、日本人の日本列島は歴史の博物館とでもいえるほど、遠い古代の遺品が残されている。それは文献にとどまらず数々の珍品が正倉院の御物として残っている。日本は世界の荒々しい大波に洗われることなく時間的には2万年の歴史的連続性を保持している。日本は世界に類を見ない人間のタイムカプセルと言えるのではないだろうか。日本人の精神的骨格を作ったのはもちろん縄文時代に発する多神教であり神道の原型である。だが日本国の文化はその基本的な骨格を基にして。海外からも積極的に学び、日本の骨格に合わない物は捨て去る。日本の骨格に合うものだけを取り入れるのである。

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南方熊楠の人生

2023年11月11日 19時57分46秒 | 日本文化論

 現代では和歌山県田辺市に生れた博物学者の「南方熊楠」を知らない人は居ない。だが、彼が生きてゐた当時、南方熊楠は、知る人ぞ知る無名の人であった。彼は和歌山県の田辺の大きな雑貨商に生れ、幼少の頃から普通の子共とは違った性格を示し、なんにでも強い好奇心を持った異常な子共であった。幼少の頃から近くの医者の家に在った百科事典に関心を示し、それを熱心に読んだ。その本は江戸時代中期に医師寺島良安によって編纂された「和漢三才図絵」である。熊楠はそれを見て興味を示した。この膨大な百科事典は、全体に105巻81冊から成る知識の宝庫であり、熊楠はそれを欲しがり、手に入れることを望んだが買ってもらえず、医者の家に通い、その全巻を自分で筆写したと謂われている。この根気と集中力が、後に彼の才能を後押しして膨大な知識を我が物とした。彼の博覧強記はこの辺にその種があったと思われる。歴史的に天才のライフヒストリーを見ると、子供の頃に強い好奇心を持ち、その好奇心を周りの者が上手に育てた例が多い。それは洋の東西を問わない。どんなに才能を示した子供でも、周りの理解が無く、埋もれて仕舞った才能がどれほどあったかを思い私は暗澹とする。教育の名のもとに天才を殺して仕舞った事例は多分多い。私が知る上手に育てた例では、アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーがそれである。彼は小学生の頃にencyclopedia・Britannica(大英百科事典)33巻をすべて読んでしまったという。後年、数学に於ける確率過程論で業績を挙げた。ブラウン運動に於けるウィーナー過程である。また後年、現代の工学技術と連携したサイバネティックスで現代の技術論の原型を作った。熊楠もウィーナーも、普通の子供のレベルからすると、すこし異常であるが、知的好奇心にあふれた子供には、膨大な百科事典を読み通す事など苦にはならないものだ。

子供の将来を期待した父親は、小学校から旧制中学に上げて、卒業後には東京に遊学させて神田の共立学校に英語の習得の為に送った。熊楠は語学が出来た、その為に共立学校での進歩は著しい。そして無事に大学予備門に入学することが出来た。この大学予備門は戦前の旧制高等学校と同じである。現代で云う処の大學に於ける教養課程である。現代の大学が4年制でその前半の2年が教養課程であるが、戦前は旧制中学を卒業すると高等学校の入試が待っている。旧制高等学校はに遊学試験が難関であった。旧制高校は3年制で試験で赤点を取ると留年である。その次の年も留年すると、放校であり退学となる。無事に高等学校を卒業すると、次が帝国大學への入試である。ところが帝国大学の募集人員と、旧制高校の卒業生の人数が、ほとんど同じであった為に、帝国大学の法学部とか理学部とか医学部とか、難関の学科を目指さなければ、つまり文学部とかどこでも好ければあぶれることが無かった。大学予備門も定期試験には厳しく、赤点を取れば下手をすると退学と云う憂き目にも会う。記録を見ると面白い事実があり、熊楠の予備門時代の同級生には、夏目漱石とか正岡子規、芳賀八一、山田美妙、工学者の本多光太郎など、その他の将来の有名人が多い。この時代は永い幕藩制が終了し、いずれも旧藩の秀才が東京に出て一旗挙げるために大学予備門を目指したものだ。南方熊楠もその例に漏れない。彼はその特異性を発揮し、大いに楽物を進歩させたが、嫌いなものは余りやらない為に、予備門の試験で及第せず2年で退学となる。彼はこのまま東京に居て鳴かず飛ばずの青春を送るより、世界に雄飛し己の人生を掛けてみょうと決心したのであろう。故郷に帰ると彼は父に相談し一人アメリカに出掛けることにした。

若い時代には恐い物など有りはしない、熊楠は意気盛んにその留学というか遊学を実施して、数々の謂わば冒険をこれ以後する訳である。彼は渡った当地で、色々な苦労をするが、最終的には英国に渡り、そこで大英博物館に通い、独自に自らの勉学に精を出した。英国の科学的な雑誌や文化的な雑誌に投稿し、彼の様々の知見を披露した。そして、南方熊楠の名は、知る人には有名になり、その雑誌には現在でも続くネイチャーとかがある。当時の英国は日本文化を研究する者が居て、熊楠は其の推薦で、ケンブリッジ大学に日本学の講座を創設しょうという有力者が居て、若しかすると、その日本学の講座が創設された暁には熊楠が、ケンブリッジの日本学の教授に任命されたかもしれない。当時は日本国と英国は政治的にも文化的にも、互いに互恵関係を持ち、其れなりの関係を築いていた時代である。だが残念な事には日本学の講座創設は頓挫してしまった。そして熊楠も英国での可能性の道を絶たれ、日本に帰国することに成るのである。英国で熊楠は日本の仏教研究者と親密になる。土宣法竜である。彼は真言宗の僧侶で、同じく留学して居たロンドンで出逢った。真言密教の本質について熊楠と語り合い、其れなりの感嘆する所が在ったのだろう。法龍と熊楠の交友は日本に帰ったからも続き、博物学者南方の意外な面も其処には見える。

真言密教は偉大な空海が開いた真言宗の核心である。真言とは謂わばインド由来のもので言えば呪言であり、言葉の究極と精神の究極、生命の究極、宇宙の究極、物事の初めが解き明かされる探求分野であり、それを空海は「真言」と呼んだ。空海は実にマルチユニバースの如き才能者であり、言語一つをとっても、日本語、シナ語、サンスクリット語、ヒンズー語、チベット語、を理解した。彼に取って言語的な壁など無かった縦横無尽の守備分野の広い人だ。言葉の究極に仏の世界がある。そう空海は予想していた。言語哲学の達人であり、言語の獲得から精神の芽生えまで、研究していた。能書家で、それ以上に深い内容の文章を書いた。彼が普段、弟子たちに語り掛けた言葉を、弟子が記録したのが、あの有名な「性霊集」である。これは一部欠けているが、それは私の推測する所、弟子が意図的に隠した物であろう。詰まり都合の悪い事が書かれていた。と思える。多くの著作も残している、「般若心経秘鍵」、ウン字義、他多数あるが、最終的には「秘密曼荼羅十住心論」に要約される。だが、此れの本質を理解することは、そう簡単ではない。空海は61歳を最後にこの地上を去ったが、このもの凄い日本人は未だにその本当の才能を理解されていない。空海に匹敵する才能無くして、真の空海を理解する事など出来ないだろう。

熊楠は日本に帰ったからも同じ様に生きたかっただろうが、日本では中々勝手が許されなかった。弟は熊楠が着の身着のままで、学位の取らず帰った事に不満だったという。外国にある熊楠に多くの経済的支援をしたのは父が亡くなった後は弟である。熊楠は孤独にならざる得なかったろう。兎に角、仕事と云えば自分の趣味・遊びの類の様に見られて居たし、自分で稼ぐという方法を知らなかった。つまりは実家の援助である。当時でも今でも、学問で食うには大學か研究機関の職員に成らねばやれないのだから。柳田國男は内閣書記官長という職にあって、退職したのちも恩給が出て生活には困る事が無かった。アチックミュージアムの渋沢敬三は渋沢財閥の大御所であり、経済的に困る事はない。だが熊楠は実家が裕福だとは言え、彼個人で生活費を稼いでいるのではない。在野の研究者は皆同様なのだが。

熊楠は子供の頃から百科全書に興味を持ち、その内容を紙に書き写す事で殆ど記憶して仕舞った。この様な記憶は一生持ち続けることが出来る。読むだけでは駄目なのである、書くことで本当の昇華され、記憶に記銘された知識が刻印される。だから未だ十代前の子共には膨大な知識を我が物とする機会がある。子供が嫌がるのでは駄目だが、好む子供には、百科事典を宛がう事が必要である。熊楠は要衝にしてそうだったが、凡人でも15歳の頃に突然知識欲に目覚め、膨大な著作を読みだす者も居る。それはまた天才でもある。そんな機会を逃さない事だ。好奇心というダイナモは人間の知能を飛躍的に発展させる。熊楠は、和漢三才図絵に興味を示し、それを全て写筆して仕舞った。そこに熊楠の真価があり、後年に粘菌という、物だか生き物だか分らぬ存在にのめり込んだのも、和漢三才図絵の記憶に起源がある。この様な物に興味を示すのが、熊楠らしいところで、粘菌には宇宙の存在様相の秘密が隠されている。実際そうなのだ、命の全ては繋がっており、それは外界の条件次第で命は、どんな様態にも変化するからだ。

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高橋是清自伝

2023年11月11日 18時33分02秒 | 日本文化論

 高橋是清の生涯は誠に冒険と波乱に満ちている。彼の実父は幕府の御用絵師、狩野派の川村庄衛門守房で、是清は川村家に行儀見習いに入っていた娘のキンに、庄衛門の手が付いて生まれたのが高橋是清である。生まれて幾らもしない内に仙台藩の足軽高橋家に養子に出された、言って見れば数奇な運命である。後にヘボン家の小使いとなり英語を学び、14歳でアメリカに出掛けた。騙されて奴隷として売られ、数々の苦労をするが、元々楽天的な是清は、自分が奴隷の実であることにも気が付かず、えらく仕事が大変だなと感じていた。その内、仕事が大変なのは、自分が奴隷の身として働かされて居ることに気が付き、訴訟を経て自らの身を交渉で解放した。この時に彼はアメリカ英語を身に付けたと云う。

18歳で日本に帰り大学予備門(後の第一高等学校)に入るが、先生よりも英語が出来る為に急遽、助手として生徒に教える事に成なった。この頃の日本では英語が出来るというのは一つの特権で、その為に食う事に事欠かなかった(芸は身を救うである)。その内講師に成り、19歳で色の道に開眼して、大学予備門の授業が終わると吉原(政府公認の売春宿)に出掛け、吉原から大学予備門に出勤するという魂消た行為に及んでいる。体格の良かった是清は精力も絶倫であった。性欲は父親の川村庄衛門の遺伝的な物も在ったのだろう。当時は、日本では英語が出来る者が少なかったので是清は何処ででも引張りだこで、職にあぶれるという事は無かった。彼は英語という技能を十二分に使うことが出来た。だが、次代が進むと英語を操る者もおおく成る。英語が出来ると謂うだけでは、以前の様には行かない事に成る。彼は財政の方策を学び日本の舵取りこそが自分の特技だと思うように成る。

日本の開国から敗戦までが77年である。これはヒトの一代の期間の相当する。この一代の期間の間には、近代日本の幾つかの分水嶺がある。この歴史を詳細に分析してみれば、それは幾つかのターニングポイントがあり、そして日本の災厄を裏で操る世界勢力の手も、朧気ながら見え隠れする。日清戦争がなぜ起きたのか?日露戦争がなぜ起きたのか?、ここで私はなぜ起きたのか?と書いたが、正確にはなぜ起こされたのか?と書いた方が正確だ。明治後半の戦争も、デモクラシーという大正時代の意味も、昭和の不況や恐慌も、軍艦の制限も、軍閥の割拠も、もっと広く深く観察すれば世界の見えない裏側で糸を引いている勢力(国際秘密力)の意図を感じる。高橋是清は江戸の臭いが未だ残っていた時代に、その時代の子となり、そして様々な紆余曲折の後、226事件で横死した。或る意味では日本の運命を彷彿とさせる人生でもあつた。

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日本語に付いての問い

2022年05月15日 06時53分50秒 | 日本文化論

日本語と、その標記その標記の特徴について、今まで感じて来た事と識者の論説に付いて少し書いてみたい。私達が日々使っている日本語は、いつどの様にして出来たのだろうか。まず、人間の文化は人が集まり、ある一定集団が形成されれば、完全な形ではないが、必ず意思疎通の言葉が形成されるという事です。日本列島の第三紀は、10万年も続いた永い氷河期の時期に大陸棚で辛うじて陸地が続いていた時代から始まるのかも知れない。そしてフィリピンからインドネシアに掛けて、巨大な陸地であるスンダランドが存在した。黄色人種の起源は、そのスンダランドであろう。彼らは西へスリランカからインド亜大陸へと進み、東へ海流を利用して沖縄、九州、四国、近畿、関東、東北、へと拡がって居った。そう想像する方が合理性を持つ。謂わば彼らは古日本人と言える縄文人であろう。この古い人類が日本人の起源である。最近は縄文人の遺跡が列島全域で見つかり、彼らの残した縄文土器は北海道から沖縄まで驚くほどの共通性を持つ。これは何を意味して居るのだろう、それは文化的に人種的に言語的に共通性を持つひとつの証であろう。

日本語の起源を単一であると考える説と、多種の方言が重なって形成されたという説も存在する。日本人を人種的に分析すると昔は発掘された骨や土器類、更には伝承や顔つきや体形で分類していたが、現代では遺伝子情報の比較という手段が開発されてよりその背景を知ることが出来る。これは今まで余り多くもない発掘物による推定より、別な方面からの比較分析であり新たな知見を生んだ。言語学は考古学とは手法が異なるが、その関連性は密なのである。土器は残るが言葉は継承されない限り残らない。文字は言葉を残したが矢張り言葉の根底に在るこころやそのたましいは残さない。言語の起源は中々難しいのだ。

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シュリーマンの、清、日本、旅行記を読む

2020年11月06日 14時55分42秒 | 日本文化論

  今回のテーマは、1865年(慶応元年)6月に江戸時代末期の日本を訪れ見聞録を残しているドイツ人、ハインリッヒ・シュリーマンの旅行記である。私は最近まで、あの「トロイア遺跡」で有名なハインリッヒ・シュリーマンが、江戸時代の日本国を旅行者として訪れて居た事を知らなかった。トロイアの発掘は日本旅行の10年近い後であるが、東洋の旅行者としてのシュリーマンの観察眼は興味深く、彼の育った西欧文化とは異質の日本文化であるが、それを見る目には参考に成る鋭いものがある。彼は日本に来る前に清朝に出掛けアジアの実態をつぶさに観察している。

彼の清での目的は紀元前220年頃に造られた「万里の長城」を見る事であるが、その際に清朝の首都である北京を訪れている。「北京城」は、周囲に石の壁を廻らし城内には70万人が住めると書いている。「どうしてもしなければならない仕事以外に疲れる事は一切しない」というのがシナ人気質である、とも書いているが「町の不潔さ」には辟易している。それは実際に行き見た者で無ければ分からない事実が記述されていて興味深い。

たぶん事実なのだろう、何の利害関係もないシュリーマンが、故意に嘘をつくとも思えないから。文章から気が付いた事は、シュリーマンが、凡そ人種的偏見を持つ者とは丸で反対の、公平な見方の出来る人物であることだ。記述は彼が見た通り感じた通りの事実を述べているだけである。彼の育った西欧的な価値観や習慣とは異質な、東洋的な物に関しては少しずれて居る理解もあるが、概ね正直で、彼の好奇心と判断力は優れたものである。矢張り、彼のその素質は知的な人物と言える。

我々日本人は、江戸時代にその殆どが海外に出た経験を持たない為に、自分自身を写す鏡を持たない。永い間、ひとつの閉鎖された世界とでも言える日本文明の中で、そこで生まれ、そこで死ぬ者の眼には、自分の住む世界は客観的に把握できない。つまり、比較する比べる物が無いと、自分という物の本質が分からない。人間でもそうだが、一番分からないことは、自分自身というものなのである。客観的な自分を見る鏡を持つ者は、相当に知的な人物であろう。 その点でシュリーマンの旅行記は重要な価値がある。彼は外の世界を知ってゐるから、それで、甲か乙かの区別が出来るのだ。清と日本の違いを、日本人には解らない視点を率直に教えてくれた事には心から感謝する。

清国を訪れたのは「万里の長城」を見たかったのだと旅行の目的を書いている。彼は「元々古代の遺跡」に興味が有ったのだろうと私は思う。で無ければ、後年、ギリシャ神話に出て来る「トロイアの発掘」などを行う筈は無いでしょう。この好奇心溢れる面白い人物は、シナの万里の長城見学の後に、最近、開国した日本と言う東洋の神秘とその文化史跡を見ずには居られなかったのであろう。シナに関する認識は、現在でも通用する点が多いし、また、日本に付いても少し短絡的な解釈は有っても、「其れなりに日本文明と日本人の特質」を把握している。我々外国人には、シナ人も日本人も同じ様に見える、顔つきの差は自分には分からないが、どうしてこうも、シナ人と日本人は違うのか、まるで対極だ、一方は狡猾で隙あれば人を騙そうとするが、一方の日本人は正直で嘘はつかない。何がこんなにも違いを見せるのか自分には不思議だ。と書いている。

嘘をつき人を騙そうとする人間は、何処の国にも居る。シナ人を弁護すれば、シュリーマンが出会ったシナ人が偶々、根性の曲がった人達だったのかも知れない。また、日本で出会った日本人が偶々正直な人達であった可能性が無い訳ではない。そう考えたいが、旅行で日本に来るシナ人たちの行状を見れば、そういう好意的な解釈は恐らく通じない。そう言う人の好い考えは、将に日本人的な見方なのかも知れません。永い時間を経て形成されたその民族の性格は、500年や1000年で変わる物ではないと思う。たぶん生存環境が、この様な差を生んだのであろう。恐らく大陸は過酷なのだ。何万年も島国の楽園に育った日本人はその経験がない。

日本も清も、そのどちらの国も西欧的な一神教では無い。シュリーマンは、目に見える現実的な事柄を多く記述しているが、東洋の思想的な面は余り深くは記載されていない。東洋の宗教的な側面は余り書かれて居らず、仏教とか儒教とか神道とかの記述は無い。この方面の興味がシュリーマンに無かった筈は無いが、東洋の精神文化の深部には触れていない。彼は学者ではなく、成功した毛皮商人であり富裕な商業的事業者であったから。

彼は日本に慶応元年(1865年)6月1日に、上海から蒸気船「北京号」で東シナ海を航行し、種子島を左に見て「横浜」に向かっている。三日間の旅程で、彼は船賃に清の価格で百両(900フラン)も支払わねばならなかった。と溢している。あまりにも「高い船賃」ではないか?。6月3日に横浜に到着し、6月4日には「上陸」の為に、早起きした。「北京号蒸気船」が停泊していると、早朝に小舟が近づいて来て、乗員を運ぶのだが、二人の船頭たちはシュリーマン一行を横浜港に下すと、「四天保」と言った。天保銭4枚である。ここの読者は「天保銭」を見た事があるだろうか。天保銭は円形ではなく長円形の大型の銭で、真ん中に四角い穴が開いている。素材は何か知らないが、勿論、金や銀ではない、銅でもない、鉄でもない。何かの合金の様な気がする。私の家も、何枚かの天保銭と一分銀がある。我が家の江戸時代からの名残であろう。錆びた大小の刀などもだ。

二人の船頭は運搬の船賃を「4枚」要求したのである。シュリーマンは、これでは利益など出ず、労賃としてはギリギリではないかと書いている。シナの船頭なら、この4倍は吹っ掛けただろうとも書いている。私はこれが好いとか悪いとか言っている訳ではない、多分にシナ文化と日本文化の基本的な差異であり、考え方の違いなのだろう。収賄が当たり前な国と、そうで無い國の差は、何なのだろう。法外に吹っ掛けないのは、江戸時代の呉服屋である越後屋が始めた現金掛け値なしが始まりか?、でも、元々、多少の吹っ掛けはあっても、江戸時代の日本の庶民は、「この世で金が一番だとは考えてゐなかったと」、私は想像する。戦後の日本人とは、この時代の日本人は違う。今の我々は、何か大切な目に見えない魂を忘れているかも知れない。

また上陸するための品物の検査であるが、日曜日だが、キリスト教国の様に「日本では安息日」は無くて、にこやかに税関の官吏が近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に頭の付くほどお辞儀をして、それを30秒も続けた。彼らは品物の検査をするから荷物を開けるように指示した。シュリーマンはシナでの経験から、「品物検査の為に」荷物を解く手間を考えて、「金を渡せば御目溢しをしてくれる」ものと思い込んで、金を渡そうとするが、役人は自分の胸を叩いて「二ホン・ムスコ」(日本男児)と言い、「賄賂は受け取らない」と胸を張ったという。シュリーマンは、シナで散々賄賂で便宜を図ってもらったが、日本ではそれが通じず当惑している。

概ね日本では賄賂は受け取らないらしいと驚いているのだ。税関での荷物検査が終わると、二人の役人はサイナラ(さようなら)と言い、再び深いお辞儀をして去って行ったと書いている。さらに、港での荷揚げ船頭を始めとして、皮膚病(この内容が良く分からない)が多いと書いている。彼はその病気を「疥癬」だと言う。その理由が日本人は魚を生のままで食するためであるというが、それは本当なのだろうか?。今現在でも、我々は刺身を好むが、これで疥癬に罹ったという話は聴かない。シュリーマンの言う「皮膚病」が、果たして疥癬なのか定かでは無い。

文明論に付いて、当然の事ながら、キリスト教文明のなかで育ったシュリーマンは、キリスト教文明のみが、「唯一の崇高な文明」だと述懐しているが、彼は、それが「一神教の自我自賛」に過ぎないことには気が付いてはいない。誰しも自分の価値観・世界観を形作った信仰が、世界で唯一の正当な文明であると誤解し易いのである。逆に言えば、この事は日本人にも言える事であろう。日本人は過去を振り返れば、外国の良い点は取り入れ、悪い点は真似をしなかった。奈良時代の律令制でも、「宦官」も「科挙」も、取り入れなかった。シナでは後宮の宦官が政治的な権力を振るったし、殆ど堕落の一方だった科挙も導入しなかった。

さて、横浜から江戸へ行くのをシュリーマンは心躍るほど楽しみにしている。それは何人もの友人から聞いた日本の印象に魅了されていた為だ。日本人の男の髪型についても、月代と髷の結い方を説明している。西洋人には日本男児の髪型には驚き、かつ、奇妙に想った事であろう。今現在、街を歩いていて、ちょん髷をしている男に出会ったら、わたしは笑って仕舞うだろうし、結滞な髪型だと感じて仕舞うでしょう。まったく流行というものは、恐ろしい。私の明治生まれの曾祖母は、お歯黒をしてゐました。それは江戸時代を通じて明治までしていた、日本女性のお歯黒に付いても謂える。いま若い女性が、お歯黒をしていたら、一般人はギョッとする筈です。でも反対に、江戸時代の人が、既婚夫人を見て白い歯をしていたらギョッとする筈です。

日本人の男は、人足から最裕福な大名に至るまで、「一個の髪型」しか無いと書くが、シュリーマンに取って大名は、確かに裕福のイメージがあったのだろうが、実情を知らない彼は、西洋の公国の王のような認識で居たのだろうが、幕末の大名は富裕とは程遠く、一部を省いて生活は苦しかった。興味深いのは「14代将軍徳川家茂」が京都の天皇に挨拶に行く行列を活写している文である。参考になるのは、「家茂の行列」の配置を事細かに書いている事である。これは、我々日本人に取っても大変に参考になるものである。どの様に行列が構成されていたかに付いて、現代の日本人はあまり知らないからである。

また、特に驚くのは、その行列の最後に「3人の切り殺された死体」があったと言う記述である。その切り殺された死体の理由を彼は書き添えている。行列が通り過ぎた後も、その死体は残された。街道付近の者が死体の後始末を勝手に仕様ものなら、どんなお咎めが有るか分からないからだ。シュリーマンがこの経緯を書いているのは、家茂の行列が通る事を知らなかっただろう或る一人の農民が、「行列を手前で横切った」という。先手番(これは行列の護衛役である)の武士は、将軍の列を辱めたと立腹し、配下の手下にその農民を切れと命じたが、手下は此の位で農民を切ることに躊躇した為に、先手番は大いに怒り、その部下の頭を刀で割って農民も切り殺した。その時、急遽駆け付けた幕府の「目付」(幕府目付とは謂わば幕閣の最高検察官の様な存在で、大きな指揮権を持つ)が、ことの事情を聴き大いに怒り、その武士を槍で突くように命じ、先手番の武士は立ち処に殺された。それで3人の惨殺死体が転がっていた訳である。

何とも殺伐な話だが、将軍の行列を横切ることは死に繋がる事件であることは、この後も薩摩藩による生麦事件で起きることになる。武士の面子も解るがそれでも簡単に命を取ることは現代の感覚では了承されまい。木の葉よりも命は軽い筈はない。然し乍ら、武士道は命を何よりも軽く考えた。戦国の世を生きた「葉隠」の生き様は、命を二の次に考える事であるから。

更にシュリーマンの記録は続く、日本人の街並みの清潔度は特筆に値するらしく、彼が見た北京城の不潔さは、清朝という名前とは裏腹な事実を書き綴っている。日本国と清朝は、「丸であるゆる物が反対である」と書いている。特に日本人の正直さである。船賃にしても、最初の値段から数倍に吹っ掛けるシナ人に比べて、日本人は最初の値段しか取らない。シナで散々な目に会ったシュリーマンは、どうせ吹っ掛けられるのだから、胸糞悪いので最初から、日本の川を渡る際の船頭が言う、船賃の数倍の金を渡すと、船頭はこんなに要りませんと、余分の金額を返してよこしたという。これには、シュリーマンも本当に驚いたらしい。彼の日本人に対する見方が定まったのはこの様な事情があったからでしょう。

ドイツの謂わば、知的エリートであるシュリ―マンは、事実の即した確かな目を持って居たと思う。この旅行記を読むと、矢張り日本人は正直で率直な精神を持って居た事を感じる。私が小学生の頃に田舎の小学校の図書室で読んだ「トロイア発掘の物語」は、奇妙な信念を持った人が、他人の意見を聞かずに、自分の信念と情熱で古代ギリシャの遺跡を発掘した。という記述で会った。当時、シュリーマンがどの様な人物なのかは、小学生の私は想像することは難しかった。でも子供ながらに特異な人という感じはしていた。

今回、ハインリッヒ・シュリーマンという人物の精神を、彼の旅行記を読むことで確かめられたと思う。西欧のキリスト教文化に育った訳だから、日本の文化と日本人の行動と精神を、直ちに理解することは難しかったろうと思うが、それでも彼は、その明晰な精神で、日本人とその文化の特徴を的確に掴んでいる。これはシュリーマンが智慧に溢れた人物でもあることを想わしめる物だ。シュリーマンが日本旅行記を書き残し、また英国に夫人であるイザベラ・バードは、これまた詳細な「日本旅行記」を残しました。もちろんですが、シュリーマンにしてもバード女史にしても生まれはGermanyとBritainですから、日本の風物に付いて誤解があるのは当然の事です。

だが、誤解にも詰まらぬ物と重要な物が在ります。大抵は詰まらぬ誤解でありそれがシュリーマンやバード女史が間違ったなどと吹聴する愚人が日本の学者の中には見られます。そんな、どうでも云いことでは無くて、彼らが「真に見た日本」と言う国の、重要な視点に付いて注目すべきなのです。今現在、当時の歴史的事実を私たちは知らない。

ところで、最初に書きましたがハインリッヒ・シュリーマンが日本旅行を無事に終えてドイツに戻り、彼の名を高らしめたトロイアの古代遺跡の発掘は、約10年の後でした。その間、シュリーマンは何を想い過ごして居たのでしょうか、一生懸命に毛皮の商売に精を出して居たのでしょう。そして資金を貯めて愈々、自分か心中に暖めていた計画に取り掛かった。

私がシュリーマンを知ったのはとおい昔に小学校の図書室にあった、「トロイアの発掘」と言う児童書でした。それを借りだして読んだのです。いつの頃か忘れましたが、冬か夏か、いずれにしても長い冬休みか、夏休みの事だと思います。懐かしい日々です。この歳になると、あの時代は人生の輝ける子供時代です。子供時代は人生を考える事など無く、今現在の事に夢中な時代でした。何も知らず、両親の愛情、祖父母の愛情、曾祖母の愛情に満たされた幸せな時代です。古代のギリシャの伝承を信じ、トロイアを発掘したシュリーマンも、伝承の真実性を信じていた。彼もまた子供時代の夢に誘われるが儘に人生を過ごしたのかも知れない。何事かに魅入られそれを探求するという事は、この様に生れて来た最大で最高の人生でもある。

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