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言語学とは、いわば交感応答学である。

2021年09月14日 10時25分25秒 | 分子進化と集団遺伝学

人間には生まれ乍らに同種類交感能力、あるいは交信能力が備わっている。その能力こそが様々な言葉を生み出した力である。であるからあらゆる言葉はその能力の賜物である。個体間の交信能力は必ず或る集団においてはそこで通じることばが成立する。 言葉の本質は、たぶん交感応答学とでも謂うべきものだろうと考える。コトバの習得に関して、それは、外的な音声情報(交感応答過程と現象)に因る母語への影響は強い、ただ其れだけでは言葉の本質には迫れまい、恐らくは、その本質の部分は脳の内的サイクルの形成に伴う物であり、個体の神経系統の成長と共に外部言語が獲得される。

「コトバに関する問題で、なにが不思議なのだろう?なにが分からないのだろう?」

声帯が発する発音可能な波長域を集めて来て、意味あるコトバに構成する原理。

それが言葉の創造的な部分であり、それが分かれば、思考の現象本質も、意味も、

その全体の関係を把握できる。

それが解れば、意識の現象も解明されたと同然だ!。

「音は意味ではない、もっと言えば音に意味はない。音に意味を付与しているように見えるのは脳の記憶と意味への翻訳サイクルです」。ブルームフィールドの云う構造主義言語学のプリンキピアは、「言語の本質は音であり、それ以外に無い」というブルームフィールド達の構造言語学派の主張は本質を見逃した無知の賜物であり、真の言葉の現すところの本質を見逃している。音は確かに、それを対応化構造化することで意味を表現するが、意味は 音ではないし、音は、意味ではない。

おおよそ意味と云っている概念は、脳神経の中のサイクルである。こころという物が形成される事がコトバの前提なのです。

音は通信の道具に過ぎない。脳の機能の中に自己サイクルが出来る。その過程が言葉の習得時間なのであろう。更にこの過程は現在の時点で解明されてはいない。

A :  丁寧な説明は要りません。私は音が意味に変わる瞬間は、いつ、どこでか、を聞いているのです。それは我々が、漠然と意識と呼ぶ覚醒空間の中で起きているのだと思いますが、その過程は中々表現し把握するのが難しい。でも、出来ない事では有りません。あなたが、私の言おうとしている事が分からず、若しも、そうでないと考えるならば、その納得できる作用を示してください。

B:ええ、私もその音が意味に変わる瞬間の解析には、むかしだいぶ手こずりましたよ。それは自分の意識の内観を必要とします。よほど強い継続的智力が無いと把握は困難です。私のような魯鈍な性質では解析分析は無理かもしれません。ただ分かる事を少し上げてみたい。それは言葉と数学はおなじ土壌に生えているキノコの様なものです(笑)つまり二つの分野の生えている土壌は一体のものですから、当然つながりは有ります。時間軸の前と後、どちらが大きいとか小さいとかを含む物事の関係性、などは数学の基礎と同じです。生まれて、外の世界に出て多くの外部情報と、遺伝的な内的情報の総合で、コトバが出来上がって仕舞うと、音と意味の相互依存性、つまり脳過程サイクルは相互に補完性を持ちます。つまりコトバをつかって考える、その内容がまた別のコトバを生み、相互補完的に表現を深め、思考自体を深める、さらにはコトバが考える内容を規定する。そうなると「コトバと思考」は、おなじ展望(パースペクティブ)なものとなる。コトバの認識的核心部は此処に在るのです。むかし構造言語学派は、コトバは音が全てだという錯誤の最たる見解を披露していましたが、可笑しな事には彼らの考え方は逆立ちして居ます。現象の事実はまるで異なります。空気の海に生きている我々哺乳類をふくむ地上のすべての生物は、情報を伝えるのに空気の振動しか利用デキナイから、伝達に空気の波動であるそれが使われているに過ぎないのです。声帯を振動させることでね。我々は酸素と窒素の混合物の海に生存している。

すべての生命体は分子構造の上にひろがっている。原子の次元での生命体は、少し考えずらいが、原子同士が構造を持つ分子的世界の中で生命の初期形態が生まれた。「生命とは何か?」その基本の第一章は自己増殖にある。自らを複製できる事だ。原子から分子構造が創られ、やがて何らかの理由に依り自己複製、乃至、自己増殖を行う分子構造が現れる。無性生殖の登場である。やがて紆余曲折をへて真核生物が現れ、雌雄を分かつ有性生殖が出現する。オスとメスの深い溝は此処に始めるのだろう。その溝は後年の哺乳類に至るも厳然として存在する。振り返ってみると男と女は違う生き物なのである。どうしても理解出来ない部分があるのだ。心とか意思とかが現れるのは、この有性生殖の次元であろう。それ以来、オスだけでもメスだけでも、生命体の最も重要な使命である、次の命を産むという事はできない。雌雄は協力し合体しなければ、次世代の卵を孵化させることができない。ここに意思が生じ、言葉が生ずる。コトバはその合体の為の通信手段として発生した。であるから、初期の生物は植物だろうが動物だろうが、互いに通信する言葉以前の意思疎通ができたのだろう。動物同志は疎通ができ、それは植物とも交信可能であり、謂わば語ることが出来たのだった。

ヒトは過っては、あらゆる同類だけでなく、虫や木々は草花の植物とさえ、交信が可能だった。ところが人間の言葉が分化して高級な概念という物を創り出すに至り、原初的言語は方言化して互いの交信は断絶した。或る集団がその方言化に拍車をかけて、集団内での意思疎通が、高度の概念に成れば為るほど、外部のコトバとの疎通が不能になる。その状況が現在の状態である。そのように人間の言語の特徴は限りない方言化の途上にある。言葉と謂う現象を大局的に見れば、以上のような遠大な背景を持つ対象です。ですから日本語とか英語とかその他、数千に達する世界方言がありますが、どの言語が優秀かとか正しいかとかは、到底言えないものです。ひとの精神活動を決定する鋳型のようなものが、言葉と謂えるかと思います。別けても日本語はその自由さ闊達さ美しさで、際立った言葉であると私は信じています。人のコトバは、そう謂った生命体の持つ交感応答の世界の小さな一つである。別けても日本語は世界でも珍しいくらいに方言化が止まった原始的言語である。その可能性は例え様もなく奥行きが深い。

個体生命が神経発達し固有の判断力を持つに至ると、必然的にことばが生まれる。ことばとは、内的なものが外部に表出したものであるから、ある程度の神経の発達した生物はすべてことばを持つ。ことばとは対象外への交信信号とも考えられる。そしてその在り方は多種多様で好い。当面の課題、考えられる謎がある。一つは、ことばと謂う対象を明らかにすることである。二つは、人間の内的思考の枠組みを把握することである。三つは、想像力、概念の形成過程を明らかにすることである。四つ目は、ことばと数学(数という概念の)の手段の共通性を明らかにすることである、と同時に、ことばと数学の方法論を深めてその技法を高めることである。五つ目は、可なり広い問題群だ、それは宇宙の起源から、いまの現在まで、どの位の年月が経過しているのだろう。宇宙の年齢は186億年から189億年に変わった、だがこの宇宙年齢は決定された物ではない。それは宇宙現象を知る事が深まれば深まるほど、経過年数は大きくなる。やがて200億年を超えて1000億年にもなる性質のものである。我々のいま現在生きているこの時間が問題です。地球に生命体がうまれて、現在、我々が存在するに至るまで相当の年月が掛かっている、そのことが大切なのだ。我々はいま制約された形で生きている。真核生物から進化したすべての生き物は生殖活動を行う為にオスとメスを必要とする。オスだけでもメスだけでも次世代を残すことは出来ない。出来なければその種は絶滅する。地球史上絶滅した生物はおおい。それは化石や伝承の形で残されたものだ。また、植物の様に光合成が出来ない為に太陽光のエネルギーを生存には使えない。動物はすべて何かを食らって生存を維持している。ここに争いのネックがある。

さて、「言語ー日本語の起源と特質、その未来に付いて」、それではまず意味とは何かに付いて少し考察してみょう。過去に日本語の特質を研究された何人かの有力な国語学者の日本語に付いての展望は、日本人の「人種の混合説」同様に、日本語は「幾つかの言語が被った言語」であるという見解である。だが、はたしてそれは本当か?記録として残された確固とした日本語の成立は、一応、漢字が渡来してからのもので、カタカナムという神代文字が在るとされるが、本来の日本語の起源ははるかに古く、数万年以前にまで辿れるだろう。ひとが居れば言葉は在るので、絶えることなくその言葉が継承されてくれば、縄文時代にこそ日本語の起源がある。漢字以前の神代文字は未だ定説には成っていない。また、「カタカナ」は漢字の簡略化のように見える。更に、「ひらがな」は、カタカナの金釘流の無骨さを筆で筆記できるように改善した物だろう。この成立は奈良時代か平安初期であろう。どっちが先かは余り意味がないが、多分、カタカナの方が先かもしれない。だがカタカナで和歌や小説を書いたのでは、情緒も恋愛もないでしょう。精々、方丈記の様な随筆ならば許容できるが、だが、方丈記にしても「ひらがな」の美しい文字を流れるように書いた方が「ゆくかわのながれはたえずして、しかももとの水にあらず・・・」カタカナよりは好いでしょう。現在、「カタカナ」は、日本語に入ってきた外国語の音票に使われる。インデペンディンスやセオリーなどの、横文字を音標する際に使われる。我々が日常使うのは、ひらがなと漢字の入り混じった文章である。

「意味とはなにか?」、「意味が通じる」とは、「わかる」という事と同様に使われる。なにか既定の関係を十分に理解している「認識上の記憶」があり、意味が通じるという事は、「その記憶につながる」、という事である。意味が通じるとは別な発想に通じるシステムのつながりである。それゆえに、その認識上の分った記憶が無ければ容易には意味が通じることは無い。意味と云うのは古代(インドやギリシャ)から世界中で追求されて来た対象であり、それは思考過程の段階により説明される。論理学が古代より重要な学科とされてきたことは自ずと理解出来よう。謂って居る事を分けて理解するという行為は概ね数学の分野と等しい。何か、本質的な言説を聞かされた時、それが正しいとしても釈然としない場合に、人はよく「頭がわるいせいか、解ったような気がしない」と言う。解るとはとは何なのか??それは、いろいろな表現の仕方があるだろうが、自分の理解のCategory(規範)から外れた場合に多にしてそう謂う事が起きる。「解るとは何なのか?」という自省は根源的な問いと謂うべきだろう。

ここで少し面白い寄り道をしよう。月は地球の最大の衛星である。例えば昨日は月食だった。いくらか雲はあったが月の食は、ハッキリとわかった。ただ漫然と月の欠けるのを見て居ただけでは少し惜しい。と、謂うのは月の食を食っている円弧は地球の影だからだ。おどろくべき事には此処から月と地球の「大きさの比」を求めることが出来る。月に映る地球の円弧を観測した、古代ギリシャのサモス島のアリスタルコスは月の大きさを地球の三分の一と計算した。そして地球の大きさを計れば、自ずと月の大きさが計算できる。また月の見掛けの大きさからその距離を計算することが出来る。太陽質量までは計算できなかったが、彼は三角法を用いて地球から太陽までの距離を計算している。なぜこんな事が出来たのだろう?。それは彼が数学の力を深く信じて、正しい宇宙の構造の枠組みを持って居たからである。わが大地は丸く、太陽を中心としてその周りを自転しつつ公転している。その事を知って居たからである。彼はなぜ太陽が中心だと思ったのか?、わたしはそれが知りたい。数学の方法論に付いても、それの本質的な根源的な意味を理解しないと応用にはつながらない。問題が解けるだけでは駄目なのだ。解法のパターンを上手に記憶して微積分の問題を解くことが出来る。だがテストの点数は○でも、根源的な理解が無いと応用が利かない。この方法論はNewtonによって始められたが、では、彼がこの方法を思い付いた切っ掛けはなんだろう。Newtonの思考過程を追うことが根源的な理解に通じる。

言語に限らず、自然の現象の中には目を見張る驚異が有る。例えば、ここに云う物事を形創る不可思議な力の事である。この本質的な力は至る所に見えない形であふれている。ことばを言い換えれば予定調和とでも言おうか。予定調和とは個別の調和ではない、個別の整合性を予定調和とは呼ばない。全体的な交感機能を予定調和と呼ぶ。これに通底するものを挙げるとすれば、「ホログラフィー」、「カオス」、「形態形成」、「進化」、「太陽と太陽系」、「統計力学」、「確率過程」、「言語」、「視覚・聴覚」、「知能・脳神経系」、「分子遺伝現象」、「引き込み共鳴作用」、など書き切れないが諸々の現象である。これ等はその底に通底する力が働いていると考えれば解かるものが在る。

自然現象の探求には、其れなりの方法論が有る。それは昔に、武谷三男が弁証法の諸問題に書いた「三段階論」という思考過程の発展の方法論が有る。その第一は、我々の感覚器(視覚・聴覚・臭覚・味覚などの)に架かる現象の把握である、現象を徹底的に観察し記述する段階である。それが第一段階で、次の段階は実体的な段階であり、第一段階の観察で得た記述からモデルを製作する段階である。それには勿論だが、数学的な道具を使う。数学的な道具を使いモデルを製作する。それが第二の実体的な段階である。最後に、第三段階として本質を掴む的な段階が有る。それが本質的な段階と呼ぶ。本質とは、現象を創り挙げて何らかの力を想定する、真理値の段階で、認識的には最終的な段階と成る。私は想うのだが、この事例にピッタリ合う世界認識の大きな例が有る。それは太陽系に関する天体力学の歴史である。第一段階の現象的案は、チコ・ブラーェの目視による遊星運動の把握である。チコのヴェン島に在る天文台は、当時としては最高の観測所であった。歴史上、これ以上の観測所は無い。もちろん他にも無いことは無いが、マヤ文明の天体観測所はデータが残って居ないし、古代インドの天体観測所も、相当な物で在ったことは確実だが、これもデータは残って居ない。で、残っているのはチコ・ブラーェのフュン島の観測所Dataしか無い。この目視による正確無比なデータは、ヨハネス・ケプラーに拠って数学的に検討され、三つの法則が現れた。その法則が何を意味しているのか?、は、ケプラーには解明できなかった。その法則に意味を深く分析し重力を把握したのは、アイザック・ニュートンであった、彼は遊星の運動を把握する為に微分法を発明し、遊星が互いに引き合う引力で結ばれている事を初めて認識したのである。此処には武谷のいう三段階の発展が明快に見られるのです。一段階はチコ・ブラーェの目視観測によるデータの蓄積、第二段階はケプラーに拠るデータを検討した遊星モデルの構築です。そして第三段階の本質的な段階が、ニュートンに因る万有引力の発見です。自然把握はこのように段階を踏んで起きるというのが、武谷の言わんとした三段階論ですね。

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子供に話す数学の易しい歴史

2021年09月10日 18時46分07秒 | 数学と哲学

「代数」、とは、未知のXを求める為の方法としてバビロニアで始まったとされている。当時の関係式は現代にも受け継がれ、方程式論として分野を確立したが、方程式は本当は関係式と呼ぶ方がより実情に合う。それは段々に深められ簡略化され発展して行き、行列や行列式などの、いわゆる線形代数として現在も形を成している。代数はn次方程式の探求以後、次数を挙げて二次方程式から三次、四次、と進んでいったが、五次方程式に至り、その解の一般式を求めて競い合ったが、五次とそれ以降の次数に於いては、冪根を操作するだけでは解き得ない事をがロアが提案した。これが群の発見の始まりだ。現代では群論は至る所で使われる。なにしろほとんど関係ないと思われる文化人類学でも使われた。南米の未開民族の親類関係を分析したレビィストロースの著書である「親族の基本構造」でも使われた。「構造主義」はこの小さな論文から始まった思想運動のひとつである。

お正月に中学生の甥が遊びに来た。数学の分野はどんなものが在るの?。と聞かれたが、分かり易く簡単に話してくれる?と言う。はて、いま何を習って居るの?、連立方程式と二次方程式、あとは図形の面積・円錐などの立体の体積、順列・組み合わせ、などだという。なにを知りたいの?。数学ってどんな物から始まったか?ナンだそうだ。

(伯父)ーうん、そうだね。幾何学は何から始まったか?に付いて言うならね。謂わば視覚から始まったんだ。すでに見るという機能の中には、幾何学がはいっていると謂って好い。物の本では古代に土地の面積を正しく求める為とか書いてあるが、よく元を考えてご覧、物が見えなければ面積も体積もほとんど余り意味がない。面積と言うのは枠に囲まれた空間を言う、体積も同様だね。その場合には、面積のキワが大切だし、体積も形の表面が大切だ、面積の中の方は余り顧みられない、その点体積も中心部の中の方はこの際は議論されない。もっとも超重力が働くブラックホールの様な存在や、太陽の中心部の核融合反応の推移などの場合は、内部も重要なテーマだが、19世紀までの幾何学では、形のキワが大切です。でないと面積も体積も計算上出て来ないからです。そしてこのキワの長さや角度などを使い面積・体積を正確に算出する方法を考えて公式を見つける。これが、ギリシャの古代から16世紀辺りまでの幾何学でした。概ね数学は、ある概念の解釈を拡張するし、一般化するのが特徴と言えば特徴なんだ。

(甥)ー 幾何学は視覚から始まったんだね。長さ、面積、たしかに眼が見えなければ話し合いができない。じゃ、今僕が習っている連立方程式や二次方程式はどうなの?

(伯父)ー まあ好い加減に言うと連立方程式は分けっこから始まった。公平に分けるには、どうすれは好いか、という問題なんだ。其れから二次の方程式は未知の次数が2だという事ですね。これが三次、四次、と次数が増えて行くと複雑にはなるが、必ず解の公式があると多くの人は想って居たが、然し五次の方程式は解の公式がつくれない。冪根では解けない事に気が付くんだ。それは大學に進んでからで好いでしょう。それでも、何としても知りたければ自分で丁寧な本を読んでご覧。

(伯父)ー 確率は人間の欲から始まった。賭け事に常に勝つという、都合の好い方法は無いか?という問題だね。順列・組み合わせは古典的確率論の土台だね。古代の占いも、謂わばこの確率論の土台だね。

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