井頭山人のgooブログ

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飛翔の追求と生物の自己目的

2023年01月20日 23時26分58秒 | 分子進化と集団遺伝学

 昆虫類は多く飛ぶ能力を持っている。子供の頃の昆虫採集に夢中だった日々を振り返ると、あの強大な甲虫であるカブトムシも、表面の硬い殻の下には、空中を飛翔する為の面白い透き通った薄い羽根を蓄えている。生物の進化と変化の系統図から言えば生物の大元は海という海水の中で発生したと考えられている。海水の成分や太陽の紫外線から体を守る為に海という揺籃の世界が不可欠であった。水中という世界はそれなりの環境条件が在る。まずその深さに応じた水圧力であり、また移動の為にはヒレを使うことが便利であり、その海中生物は体型も環境条件に応じた形態となり、ヒレもより効率的に発達した。それが魚だ。水中で生息し移動する美しい体形となった。やがて魚は蘭雄類が整えてくれた現在の大気の組成に近い大気が形成された為に、陸に上陸することが出来た。魚から両生類が現れ、両生類から爬虫類が出現し、地を這う種類も地上を歩く巨大な種類も現れた。その中でこの空気という海で空中を飛翔する爬虫類も現れ、それが現在の鳥類の始祖であろう。いつ空中を飛翔する夢を実現したのか?。

形は、恐らく小型で捕食者がら逃げる為に走っている内に、飛び上がり、飛び上がり、している内に飛翔を覚えたのだろうか?、これは明らかにラマルクの考え方である。進化と適応は未だに議論されていて、真の解答に到達してはいない。ヒレの発生と翼の発生は系統連系から見ると大いに関連する物だ。環境が異なれば同じシステムで同じことが起こるのである。

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因果律は保存されるかー②

2023年01月14日 09時17分58秒 | 分子進化と集団遺伝学

①で虚時間に附いて少し書いたが、もう一つ深く想像してみょう。因果律は文字の通り原因とその結果である。こころと謂う問題を扱い場合に、最初に当惑するのは心と物体は、どういう関係にあるか?という事だ。因果律はそこで成立しているのか?、日常の常識に捉われている人は、生体を離れてこころや意識は無いと思っている。それがこの世界に生きている普通の感覚だ。だが本当にそうか?。では、あなたのこころ、いや、あなた自身という意識は物質の投影なのか?。そうではあるまい、単なる物質は質量を持つが、意識を持たないという通念でこの社会は動いている。二元論の世界認識である。二元論とは心と物質は別なものだという理解である。自然科学はこの二元論を物質でもなく、こころでもない、或る別な段階に昇華させようとする。心とは感覚の統合された次元を云う。生命体は感覚を持っている。そして顕在的な感覚の個数を五感という。だが、それだけではないのであって、太古から受け継ぎ喪失した感覚はもっと在るのだろう。

Aー わたしという意識は本来は存在しない。では、わたしが存在しているように見えるのはナゼなのか?。それは世に満ち溢れている時間の函数である因果律のためである。因果律はナゼあるのか?、それは詰まる所時間があるからだ。ナゼ時間はあるのか?、それは平準化のために宇宙が動いているからだ。因果律は時間の進行から派生するもので、すべてが停止すれば因果律の謂う原因から結果への道筋は無い。わたしという概念が幻想であるのは、私という物が在るように見えるのは、生物体の保存のためだろう。

生命の起源は別に地球起源でなくともよい。アミノ酸を含む有機化合物は星間物質の中でも確認されている。大きく言えば生命それは太陽系が産んだものだからだ。大きなことを言うようだが、太陽系を含む宇宙といのちは繋がっている。すでに、それは聴覚の研究から脳の探求に進んだ医科歯科大の角田忠信博士がご指摘されている。脳の自律サイクルと太陽とその惑星としての地球は同期して居るのだと仰っている。日本で一番最初に思い出す人はそのことに気が付いてゐる。遠い過去に居た。日本ではいまから1200年ほど前の宗教家、私は宗教家と云うより自然哲学者だと、その著作を読みながら感じている。高徳の宗教家であるが同時に自然哲学家でもある。彼の時代には精密な観測技術は無かった。応用数学もそれほど発達していない中で、この人は相当に果敢なことを言っている。この人の想像力と核心を掴む感性はもう人間業ではない。こんな凄いひとが居たんだなと驚く。もしも可能ならば対話してみたい方だ。現代の自然科学と数学はもう一度飛躍が必要だ。物を細かく分けてゆき究極の存在を確認するのも好いだろう。然し細かく分けて行くのは際限が無いという人も居るし、ある地点で細分化は終わりだと思う人も居る。それと生命の起源はダイレクトには関係が無さそうだ。むしろ原子レベルで生命体のシステムは説明できるのではないだろうか?、あるいは原子まで行かなくても分子レベルで済むかも知れない。

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言葉についての対話ー1

2023年01月05日 12時43分37秒 | 数学と言語学、及び宇宙論と哲学

Aー 言葉について、少し考えてみたいのだがどうだろう。要は人の意識とコトバの関係、または、幼児時代からの言葉の習得、思考と音の関係だ。

Bー それが聴きたかった事だね、ほとんどの者がこの言葉と思考の関係について解らない。自分の解らない。先ずは解らないと言って居る事柄を挙げてみようではないか。

Aー 発声機能と音声の関係は、かなり難しい、それは内的機能としての言語機能と発声が余りに密接に結びついている為に、人はそれを認識的に分離が出来ないでゐるからだ。最終的には意識自体を発現している物とは何か?、という問題に突き当たる。生命体を構成しているデオキシリボ核酸(DNA)という物は一種の蔵であって発動体では無い。それは言語の問題と同じような類例なのだ。コトバに於いて音は一種の通信媒体としての物質であり、それを創成する発動体は現状ではいま言ったように墳利することが難しく把握されていない。現代科学は、生物の構成情報であるDNAと認識行動の基準となる脳神経系を重視しているが、だがそれは本質を知らない思い込みだ、脳神経系の現象は言語の本質と同じ、つまり物質化のアナロージーに堕してゐる。コンピューターは命令文を読み、それを一つ一つ馬鹿正直に超高速で実施するが、ではそのプログラムは誰が書いているか?ということである。人工知能も巧妙に指示を実施するが、人工知能は発動体を持たない機械に過ぎない。それは目的のプログラムを正確に始動するが、唯の巧みな機械に過ぎない。人間機械論はド・ラメトリからウィーナーまで、多くの研究者が出現したが、根本的な所にある思想は人間はというか、動植物を含めた生命は一種の機械ではないか?という発想だ。

数学と物理工学の発達から、電子計算機は現実のものとなったが、機械式計算機の淵源はかなり昔だよ。日本では例えば算盤だ、ソロバンは玉五つの手動式の計算機だ、この計算機にプログラムを乗せることが出来れば自動計算機に成る。ソロバンが明から入って来たのは1400年代で江戸時代のソロバン技術はシナを凌駕したし数学もそうだ。西洋ではpascalが徴税請負人だった父親の為に簡単な手動式の計算機をつくったとされているし、Leibnizも計算機を試作した。本格的な機械式計算機の設計はCharles・Babbageに因る解析機関の発明だが歯車が多すぎて人が回すのは重すぎて動かなかった(笑)という。機械式では限界がある、それで1940年代の半ばに電子の運動を利用する方法を思いついたのが現代の電子鬼計算機だ。これ等は当面、言葉の問題とは異なる感じがするが、実はつながっている。計算機とコトバがつながるとは余り聴かない言説だろうが、認識という物を今までの限定的な枠から外して見て見ると、計算という物とコトバとは相互補完の関係にある。いや数学とコトバと言った方が好いかも知れない。これ等の根は同じだと思う。比喩的に言えば人間の一番奥に在る悟性というものだろうな?、それを理性とかこころと言う者も居るに違いない。

Bー 成る程、その歴史的な所は承知しているが、問題は、ことばの内部構造と意識とつながった、あるいは意識以前の言葉が形成される前の、音声につながる機能だな、それがわからない。それで今の話に成っているのだが、もっと直截に言って呉れないかな。その点が僕には解らないのだ。例えば、我々の感覚情報は、極く限定的なものだ。であるからこの世界の本質をたぶん私達は知らない。だが感知できないからそれが存在しないということは出来ないだろう。そんな難しい事は、少し脇に置いて最初の疑問に戻ろうよ、兎に角、先ずは言葉に附いてすこし突っ込んだ世界を喋って見たい。

Aー それは好いとして、言語の過程は未だに未知の領域だ、「思考と言語」の関係をもっと精密に議論できることが必要だ。記憶の仕舞われ方で言えるのは、視覚は直列だが意味のある音(音節・Sentence・)は並列だという事だね。(音)と(音)を結びつけるもの、その介在する物に意味が在る。意味とは関連したものを結ぶ糸の様なものだ。そして大事なことは、意味とは形式論理的には = のことです。視覚の記憶は直ぐに取り出せる。だが、音声記憶はなかなか取り出せない。その理由は仕舞われ方が異なる為だ。

そして重要なのは(=)等号という観念が、コトバを発する上で、どう生れ、どう機能するか?、言語上のうえでそれが分からねば、コトバの本質は分からない。つまり(音)が(意味)変わるとき、この現象過程が大事です。音は表現できても、意味がついて来ないと、コトバとは成り得ない。意味とは、単語を用いたそれをつなぐ形式論理の事だ。and・or・not・=・を単語に直すと、名詞、助詞、動詞、形容詞、修飾詞、などに表現する事も出来る。論理学的に展開する事で、文章を創ることが脳内でできる。言語は形式論理学と習合論的多様体の一種である。これで数学と言語学は結びついた。思惟形態とはこのような単語の形式論理である。これから分を創り出すことが出来る。単語はいくらでも創り出すことができる。これを情報の最小形態として組み合わせる。多様体は+・-・×・÷、などを言葉に持ち込むことができる。音節が出て来る過程が重要です。なにを基に音節が出てくるか?つまり言語と思考が、どのように結び付いているか?。この順序と機構が捉えられることが必要です。

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