進化と適応と云う事を焦点に、地球に発生した生命体の変化に付いて考えて見たい。
進化論は19世紀の中頃、イギリスの地質学者C・ダーウインによって提唱された。これは19世紀の生物観に根本的な影響を与えた。それがなぜ世界観や社会観まで深く大きい影響を与えたのか?と云うと、西洋人の宗教観に決定的な衝撃を与えたからである。つまりユダヤ教から発するキリスト教の教理に否定的な見解であったからで、進化論がただしいとするとキリスト教の教義は根も葉もない虚偽に他ならないことを示したからだ。と、同時に社会観にも大きな影響を与えた。生物が進化するなら、社会制度が進化しても不思議でない。という想像である。19世紀のマルクスの共産主義の考え方である。そこには物質現象しか信じない唯物論的世界観が巧言されて、20世紀の最後までその妄想は人々を迷わし現在もなお迷わし続けている。
生物を規定する分子進化とは、外敵・内的・またその相互の要因が数えられるが、ここでは外的(大自然の中の変化を促進する要因)と、内的(分子構造独自に自己変化する要因)を別に分けて考えて見よう。外的とは、正に適応の現象に他ならないから特に重要だ。生物がそれなりの形をして居る事は、過去の歴史の適応であり、また突然変異が生き残った、偶然の反映と考える事もできるだろう。生物の基本を見れば、植物の生き方が基本となる。動物はその基本の作用の下に生存を許されて居る存在だろう。浅い海のラン藻類が、いつしか光合成を始めた。この本質的な機能が後の生物の繁栄につながる。ラン藻類は地球の空気組成を有害な塩素や硫酸系の組成から窒素を主体にした酸素に変えたのである。
この酸素は、初期の生命にとっては猛毒で有った。初期の生命体は嫌気性の原始的な生命体であったが、浅い海に発生したラン藻類は、光合成の能力を生み出し、太陽の光の恵みを基に大気を中和し窒素を主体に酸素を含んだ現在の大気へと次第に変えていった。この現象が意味している深い真理は、結果的に、次の生命の発展の為に原始的生命体が、それを用意して居る事である。ラン藻類でも自己の増殖の為に太陽光を用いて生活しているだけなのだと考える事も出来ようが、結果的に次の生命体のために条件を用意している。不思議としか言いようがない。空想をたくましくすれば、恐らく、今ある地球生命体は一つの物である。種内ではダーウィンの言う様に、自然淘汰が行われ、弱肉強食の現象も起きているが、結果的には個体の利己的生存競争も、大きく遠い目で見れば、何らかの次の生命体の条件を用意しているのかも知れない?。この辺のレベルは、もう神意の範疇に入り、その全貌を見渡す事は私には不可能である。
次に現れたのが、植物である。この植物こそ地上に存在する動物のすべての条件を用意した偉大な対象である。動物が存在するには酸素が必要である。海もラン藻類から昆布の様な海中植物が、沢山の酸素を生み出して居る。中にはサンゴの様な動物まで窒素を固定化し海の生態系の大きな役割を示している。海はすべての生命体の母であり、現在も様々の生物を抱擁してその生態系を維持している。地上に上がったのは最初は植物であった。古生代から中生代に掛けて、陸地の上は空気中の窒素と太陽光から植物は、酸素が満る大気に変えていった。ついこの間まで、人間はこの植物、樹木の偉大な側面を理解していたのだが、西洋の産業革命が始まって以来、自然の生態系を乱している元凶は人間の生活に他ならない。人間の利己的追及は、いずれは次の生命体の生存条件を用意しているのであろうか?それは分らない、それがただの破壊だけで無いことを切に願う物である。植物は、語らず、且つ移動しない様に見えるが、本当はどうなのか?分らない。動物とは異なる形で彼らは別な知能を持って居るようにみえる。
人間は考えた事を深く顧みて反省をすることが出来る。この手法は人間に特徴的な物だが、それでは、すべての人間がこの大切な手法を実際に使っているか?、と云えば、恐らくは心許ない物が有る。哲学とは、人間の探求心が、未だ個別的な学問として形成される以前の概念を、探求する営為であるが、それ故に空想に近いものだった。だが是が大切な人間の想像力であり思索のすべての前提になる。この空想力こそが文明の、科学と芸術の孵卵器なのだと言ってもよい。美意識も宗教も文学でさえも、この空想力の所産である。この地球にうまれた哺乳類の想像力は、何処から来て、何を基に形成されたか?大いに興味が湧く所である。
地球環境の変化に従って、生物はその変化から、巧みに自己変身を遂げて来た。是は生命体の最も重要な能力である。地上の動物の生存のすべての基礎を用意したのは、植物である。この事は、何度言っても言い過ぎではない程、重要な事実である。植物の無い所に一切の動物は、その生を全うできない。ゆえに動物は植物との共生が、その生存の鍵になる。地球の歴史は現在の時間単位では46億年を充てているが、その原始惑星の中に生物が、初めて痕跡を示したのは8億年と云われる。太陽光の強い紫外線を防ぐ為に、地球の大気が変らねばならなかった。その大気を変えたのは浅い海の藻である。不思議なことにこの光合成の能力は、いつ獲得したのだろう?。この力こそやがて太陽系第三惑星に多くの生命的変種を生み出した基礎条件なのだ。
生命体の変化の記録はすでにギリシア時代にも記録されている。様々の生物の形態が、その生存環境に依存する事を知っていた。環境条件により生物は変化するのである、それは原始的な物だけでは無く、ギリシア時代の自分たちも、その一種であると云う事である。そして人間自身も、その適応の結果であり、条件が変化すれば、当然の如く人間自身も変化する。それを司るものは何か?と云う事である。それは長い間、最大の謎の一つであった。その変化の片鱗が見えたのは、19世紀になってからであり、遺伝の法則がメンデルにより提出された時を持って、進化学の始まりと云える。
確率的世界構造とは何だろう。
これは物凄く難しい問題だ。第一に、通常世の中は連続しているものだと云う思い込みがある。我々の身近な自然数列でさえ離散的だ。1と2は連続していない、その間には無数の少数がある。飛び飛びの指標なのだ。実在性を突き詰めると、偶然と必然に大きくは分類できる。人間の自然把握は20世紀の初めに量子論が出て来た時から、量子力学が離散的で確率的な世界観を提示したため、従来の連続的な世界観の信奉者は困惑しただろう。自然が飛び飛びの値からなるという世界観の初めは、プランクの量子仮説から始まり、確率・統計的世界観は、現象を統計的に見る事で、ある程度の実体の理解に寄与した。21世紀の産業社会は、物を生産し、それを売ることで回っている。有用な生産物など、必要なものを提供する企業が、人を雇い賃金を支払いその人が物を買い、また生産に従事し、新たな物を開発する。いわば絡み合って社会が機能している。その仲介を果たす役割が貨幣ないし経済構造と云う事に成る。
この社会が変化するのは技術的な革新である。古くは蒸気機関に始まり、電気に替わった。今では電気は、社会と云う生き物の神経網であり、これが絶たれると社会は麻痺し機能を失う。そして石油も最も金以上の価値を持つ基盤物質であり、漁業や農業の生産は、恐らく効率的に不可能になるだろう。漁業を支える船舶のエンジンを回すのは石油であり、農作業のトラクターも石油である。過去に生きた生物の残した地下資源を、汲み出して燃やして機械を回して居る。石油が無くなれば発電にも支障が出る。世界中で原子力発電が動いて居る。電気に関しては核融合炉の技術が出来れば事態は大きく変わるだろう。社会に関しては工作機械とロボットの連動が生産構造を大きく変える。サイバネティクスの通信と制御でも話題にしたが、ロボットが限りなく人間の技能に近い機能を持つ事が目標である。小型電子計算の発達で人工知能の進歩も夢想では無くなった。
現代では、細胞核の中のデオキシリボ核酸の構造の中に、今まで培ってきた生命体の歴史が隠されている。将来、この情報体は脳と云う構造物を通じて、こころと云う現象に迫る力をもっている。多くの人がこの領域を研究しているから、何れは、遺伝子の構造体の中に、実際の物質過程に反映されている形式と反応が知られるに違いない。地球の歴史には生まれてきた生物である、植物・動物を問わず、多くの生命体の死の上に成り立っている。この様な事を書いて居る投稿者も、何年か後には多くの死の中の一つに成るだろう。宇宙の始原と終焉を、科学的に明確に知る事無く、我々は死ぬことに成る。それは宿命だ、悲しむ様な事柄では無い。それは必然でありまた運命でもあり得る。であるからして、我々は、未来の命の中に、その認識的智を求めなければならない。後生に期待すると云う事だ。我々が探求しつつも、知る事無く逝ってしまった問いにである。地球はおろか宇宙はもっと謎めいて紘大だ。生まれ、生まれ、生まれ生まれて、生の初めに冥く、死して、死して、死して、死の終わりに冥し、。弘法大師もおそらくは、わからなかったのだろう。まして凡庸な投稿者が分る筈が…。
また話は変わるが、言語と数学の関係を云うならば、中枢神経系が生み出している、「心」とか「意識」とか「論理」とか言う物は、言葉を通じて数学的な側面を持ち、それに因って理解に翻訳される。脳神経系から出て来るコトバというものは、その数学的な手法と同様なモノなのだ。中枢神経系中の論理は、私たちが、今、論理と読んでいる物とは、全く異なるものだろうと思う。おそらく、脳神経系が生み出している、その様な実体は、数学の手法を使って翻訳されると同様に、情報を一括して処理する脳神経系の活動媒体としてのコトバ(言語)も、数学の新しい分野を創造することに因って解明される。たぶん、コトバの構造と数的抽象性は、神経系の活動の表と裏の関係にあるのだと私は考えています。
ついでと云っては何ですが、言葉の分野の問題について問いを立てて見る。
簡単で基本中の基本と目される初歩の3つの疑問で、子供が懐くような疑問です。
①ー ひとは、その固有のコトバ(母語)を、どの様にして習得するか?
②ー コトバを使って考えるとは、どういう事か?『子供の頃に思ったこと、こんな変な言葉(英語)で、ひとはモノを考える事ができるのだろうか?』と。
③- もしも、こんな変なコトバで、モノを知る結果は、はたして自分の様な日本語でモノを考えるのと同一なのだろうか?
子供が感じた問だが、60年を経ても、一向に解決されてはいない。
進化論は19世紀の中頃、イギリスの地質学者C・ダーウインによって提唱された。これは19世紀の生物観に根本的な影響を与えた。それがなぜ世界観や社会観まで深く大きい影響を与えたのか?と云うと、西洋人の宗教観に決定的な衝撃を与えたからである。つまりユダヤ教から発するキリスト教の教理に否定的な見解であったからで、進化論がただしいとするとキリスト教の教義は根も葉もない虚偽に他ならないことを示したからだ。と、同時に社会観にも大きな影響を与えた。生物が進化するなら、社会制度が進化しても不思議でない。という想像である。19世紀のマルクスの共産主義の考え方である。そこには物質現象しか信じない唯物論的世界観が巧言されて、20世紀の最後までその妄想は人々を迷わし現在もなお迷わし続けている。
生物を規定する分子進化とは、外敵・内的・またその相互の要因が数えられるが、ここでは外的(大自然の中の変化を促進する要因)と、内的(分子構造独自に自己変化する要因)を別に分けて考えて見よう。外的とは、正に適応の現象に他ならないから特に重要だ。生物がそれなりの形をして居る事は、過去の歴史の適応であり、また突然変異が生き残った、偶然の反映と考える事もできるだろう。生物の基本を見れば、植物の生き方が基本となる。動物はその基本の作用の下に生存を許されて居る存在だろう。浅い海のラン藻類が、いつしか光合成を始めた。この本質的な機能が後の生物の繁栄につながる。ラン藻類は地球の空気組成を有害な塩素や硫酸系の組成から窒素を主体にした酸素に変えたのである。
この酸素は、初期の生命にとっては猛毒で有った。初期の生命体は嫌気性の原始的な生命体であったが、浅い海に発生したラン藻類は、光合成の能力を生み出し、太陽の光の恵みを基に大気を中和し窒素を主体に酸素を含んだ現在の大気へと次第に変えていった。この現象が意味している深い真理は、結果的に、次の生命の発展の為に原始的生命体が、それを用意して居る事である。ラン藻類でも自己の増殖の為に太陽光を用いて生活しているだけなのだと考える事も出来ようが、結果的に次の生命体のために条件を用意している。不思議としか言いようがない。空想をたくましくすれば、恐らく、今ある地球生命体は一つの物である。種内ではダーウィンの言う様に、自然淘汰が行われ、弱肉強食の現象も起きているが、結果的には個体の利己的生存競争も、大きく遠い目で見れば、何らかの次の生命体の条件を用意しているのかも知れない?。この辺のレベルは、もう神意の範疇に入り、その全貌を見渡す事は私には不可能である。
次に現れたのが、植物である。この植物こそ地上に存在する動物のすべての条件を用意した偉大な対象である。動物が存在するには酸素が必要である。海もラン藻類から昆布の様な海中植物が、沢山の酸素を生み出して居る。中にはサンゴの様な動物まで窒素を固定化し海の生態系の大きな役割を示している。海はすべての生命体の母であり、現在も様々の生物を抱擁してその生態系を維持している。地上に上がったのは最初は植物であった。古生代から中生代に掛けて、陸地の上は空気中の窒素と太陽光から植物は、酸素が満る大気に変えていった。ついこの間まで、人間はこの植物、樹木の偉大な側面を理解していたのだが、西洋の産業革命が始まって以来、自然の生態系を乱している元凶は人間の生活に他ならない。人間の利己的追及は、いずれは次の生命体の生存条件を用意しているのであろうか?それは分らない、それがただの破壊だけで無いことを切に願う物である。植物は、語らず、且つ移動しない様に見えるが、本当はどうなのか?分らない。動物とは異なる形で彼らは別な知能を持って居るようにみえる。
人間は考えた事を深く顧みて反省をすることが出来る。この手法は人間に特徴的な物だが、それでは、すべての人間がこの大切な手法を実際に使っているか?、と云えば、恐らくは心許ない物が有る。哲学とは、人間の探求心が、未だ個別的な学問として形成される以前の概念を、探求する営為であるが、それ故に空想に近いものだった。だが是が大切な人間の想像力であり思索のすべての前提になる。この空想力こそが文明の、科学と芸術の孵卵器なのだと言ってもよい。美意識も宗教も文学でさえも、この空想力の所産である。この地球にうまれた哺乳類の想像力は、何処から来て、何を基に形成されたか?大いに興味が湧く所である。
地球環境の変化に従って、生物はその変化から、巧みに自己変身を遂げて来た。是は生命体の最も重要な能力である。地上の動物の生存のすべての基礎を用意したのは、植物である。この事は、何度言っても言い過ぎではない程、重要な事実である。植物の無い所に一切の動物は、その生を全うできない。ゆえに動物は植物との共生が、その生存の鍵になる。地球の歴史は現在の時間単位では46億年を充てているが、その原始惑星の中に生物が、初めて痕跡を示したのは8億年と云われる。太陽光の強い紫外線を防ぐ為に、地球の大気が変らねばならなかった。その大気を変えたのは浅い海の藻である。不思議なことにこの光合成の能力は、いつ獲得したのだろう?。この力こそやがて太陽系第三惑星に多くの生命的変種を生み出した基礎条件なのだ。
生命体の変化の記録はすでにギリシア時代にも記録されている。様々の生物の形態が、その生存環境に依存する事を知っていた。環境条件により生物は変化するのである、それは原始的な物だけでは無く、ギリシア時代の自分たちも、その一種であると云う事である。そして人間自身も、その適応の結果であり、条件が変化すれば、当然の如く人間自身も変化する。それを司るものは何か?と云う事である。それは長い間、最大の謎の一つであった。その変化の片鱗が見えたのは、19世紀になってからであり、遺伝の法則がメンデルにより提出された時を持って、進化学の始まりと云える。
確率的世界構造とは何だろう。
これは物凄く難しい問題だ。第一に、通常世の中は連続しているものだと云う思い込みがある。我々の身近な自然数列でさえ離散的だ。1と2は連続していない、その間には無数の少数がある。飛び飛びの指標なのだ。実在性を突き詰めると、偶然と必然に大きくは分類できる。人間の自然把握は20世紀の初めに量子論が出て来た時から、量子力学が離散的で確率的な世界観を提示したため、従来の連続的な世界観の信奉者は困惑しただろう。自然が飛び飛びの値からなるという世界観の初めは、プランクの量子仮説から始まり、確率・統計的世界観は、現象を統計的に見る事で、ある程度の実体の理解に寄与した。21世紀の産業社会は、物を生産し、それを売ることで回っている。有用な生産物など、必要なものを提供する企業が、人を雇い賃金を支払いその人が物を買い、また生産に従事し、新たな物を開発する。いわば絡み合って社会が機能している。その仲介を果たす役割が貨幣ないし経済構造と云う事に成る。
この社会が変化するのは技術的な革新である。古くは蒸気機関に始まり、電気に替わった。今では電気は、社会と云う生き物の神経網であり、これが絶たれると社会は麻痺し機能を失う。そして石油も最も金以上の価値を持つ基盤物質であり、漁業や農業の生産は、恐らく効率的に不可能になるだろう。漁業を支える船舶のエンジンを回すのは石油であり、農作業のトラクターも石油である。過去に生きた生物の残した地下資源を、汲み出して燃やして機械を回して居る。石油が無くなれば発電にも支障が出る。世界中で原子力発電が動いて居る。電気に関しては核融合炉の技術が出来れば事態は大きく変わるだろう。社会に関しては工作機械とロボットの連動が生産構造を大きく変える。サイバネティクスの通信と制御でも話題にしたが、ロボットが限りなく人間の技能に近い機能を持つ事が目標である。小型電子計算の発達で人工知能の進歩も夢想では無くなった。
現代では、細胞核の中のデオキシリボ核酸の構造の中に、今まで培ってきた生命体の歴史が隠されている。将来、この情報体は脳と云う構造物を通じて、こころと云う現象に迫る力をもっている。多くの人がこの領域を研究しているから、何れは、遺伝子の構造体の中に、実際の物質過程に反映されている形式と反応が知られるに違いない。地球の歴史には生まれてきた生物である、植物・動物を問わず、多くの生命体の死の上に成り立っている。この様な事を書いて居る投稿者も、何年か後には多くの死の中の一つに成るだろう。宇宙の始原と終焉を、科学的に明確に知る事無く、我々は死ぬことに成る。それは宿命だ、悲しむ様な事柄では無い。それは必然でありまた運命でもあり得る。であるからして、我々は、未来の命の中に、その認識的智を求めなければならない。後生に期待すると云う事だ。我々が探求しつつも、知る事無く逝ってしまった問いにである。地球はおろか宇宙はもっと謎めいて紘大だ。生まれ、生まれ、生まれ生まれて、生の初めに冥く、死して、死して、死して、死の終わりに冥し、。弘法大師もおそらくは、わからなかったのだろう。まして凡庸な投稿者が分る筈が…。
また話は変わるが、言語と数学の関係を云うならば、中枢神経系が生み出している、「心」とか「意識」とか「論理」とか言う物は、言葉を通じて数学的な側面を持ち、それに因って理解に翻訳される。脳神経系から出て来るコトバというものは、その数学的な手法と同様なモノなのだ。中枢神経系中の論理は、私たちが、今、論理と読んでいる物とは、全く異なるものだろうと思う。おそらく、脳神経系が生み出している、その様な実体は、数学の手法を使って翻訳されると同様に、情報を一括して処理する脳神経系の活動媒体としてのコトバ(言語)も、数学の新しい分野を創造することに因って解明される。たぶん、コトバの構造と数的抽象性は、神経系の活動の表と裏の関係にあるのだと私は考えています。
ついでと云っては何ですが、言葉の分野の問題について問いを立てて見る。
簡単で基本中の基本と目される初歩の3つの疑問で、子供が懐くような疑問です。
①ー ひとは、その固有のコトバ(母語)を、どの様にして習得するか?
②ー コトバを使って考えるとは、どういう事か?『子供の頃に思ったこと、こんな変な言葉(英語)で、ひとはモノを考える事ができるのだろうか?』と。
③- もしも、こんな変なコトバで、モノを知る結果は、はたして自分の様な日本語でモノを考えるのと同一なのだろうか?
子供が感じた問だが、60年を経ても、一向に解決されてはいない。