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進化と適応ー分子遺伝学に残された謎と、自然観、世界観ー世界は確率的か?

2018年09月07日 10時05分05秒 | 日記
進化と適応と云う事を焦点に、地球に発生した生命体の変化に付いて考えて見たい。

進化論は19世紀の中頃、イギリスの地質学者C・ダーウインによって提唱された。これは19世紀の生物観に根本的な影響を与えた。それがなぜ世界観や社会観まで深く大きい影響を与えたのか?と云うと、西洋人の宗教観に決定的な衝撃を与えたからである。つまりユダヤ教から発するキリスト教の教理に否定的な見解であったからで、進化論がただしいとするとキリスト教の教義は根も葉もない虚偽に他ならないことを示したからだ。と、同時に社会観にも大きな影響を与えた。生物が進化するなら、社会制度が進化しても不思議でない。という想像である。19世紀のマルクスの共産主義の考え方である。そこには物質現象しか信じない唯物論的世界観が巧言されて、20世紀の最後までその妄想は人々を迷わし現在もなお迷わし続けている。

生物を規定する分子進化とは、外敵・内的・またその相互の要因が数えられるが、ここでは外的(大自然の中の変化を促進する要因)と、内的(分子構造独自に自己変化する要因)を別に分けて考えて見よう。外的とは、正に適応の現象に他ならないから特に重要だ。生物がそれなりの形をして居る事は、過去の歴史の適応であり、また突然変異が生き残った、偶然の反映と考える事もできるだろう。生物の基本を見れば、植物の生き方が基本となる。動物はその基本の作用の下に生存を許されて居る存在だろう。浅い海のラン藻類が、いつしか光合成を始めた。この本質的な機能が後の生物の繁栄につながる。ラン藻類は地球の空気組成を有害な塩素や硫酸系の組成から窒素を主体にした酸素に変えたのである。

この酸素は、初期の生命にとっては猛毒で有った。初期の生命体は嫌気性の原始的な生命体であったが、浅い海に発生したラン藻類は、光合成の能力を生み出し、太陽の光の恵みを基に大気を中和し窒素を主体に酸素を含んだ現在の大気へと次第に変えていった。この現象が意味している深い真理は、結果的に、次の生命の発展の為に原始的生命体が、それを用意して居る事である。ラン藻類でも自己の増殖の為に太陽光を用いて生活しているだけなのだと考える事も出来ようが、結果的に次の生命体のために条件を用意している。不思議としか言いようがない。空想をたくましくすれば、恐らく、今ある地球生命体は一つの物である。種内ではダーウィンの言う様に、自然淘汰が行われ、弱肉強食の現象も起きているが、結果的には個体の利己的生存競争も、大きく遠い目で見れば、何らかの次の生命体の条件を用意しているのかも知れない?。この辺のレベルは、もう神意の範疇に入り、その全貌を見渡す事は私には不可能である。

次に現れたのが、植物である。この植物こそ地上に存在する動物のすべての条件を用意した偉大な対象である。動物が存在するには酸素が必要である。海もラン藻類から昆布の様な海中植物が、沢山の酸素を生み出して居る。中にはサンゴの様な動物まで窒素を固定化し海の生態系の大きな役割を示している。海はすべての生命体の母であり、現在も様々の生物を抱擁してその生態系を維持している。地上に上がったのは最初は植物であった。古生代から中生代に掛けて、陸地の上は空気中の窒素と太陽光から植物は、酸素が満る大気に変えていった。ついこの間まで、人間はこの植物、樹木の偉大な側面を理解していたのだが、西洋の産業革命が始まって以来、自然の生態系を乱している元凶は人間の生活に他ならない。人間の利己的追及は、いずれは次の生命体の生存条件を用意しているのであろうか?それは分らない、それがただの破壊だけで無いことを切に願う物である。植物は、語らず、且つ移動しない様に見えるが、本当はどうなのか?分らない。動物とは異なる形で彼らは別な知能を持って居るようにみえる。

人間は考えた事を深く顧みて反省をすることが出来る。この手法は人間に特徴的な物だが、それでは、すべての人間がこの大切な手法を実際に使っているか?、と云えば、恐らくは心許ない物が有る。哲学とは、人間の探求心が、未だ個別的な学問として形成される以前の概念を、探求する営為であるが、それ故に空想に近いものだった。だが是が大切な人間の想像力であり思索のすべての前提になる。この空想力こそが文明の、科学と芸術の孵卵器なのだと言ってもよい。美意識も宗教も文学でさえも、この空想力の所産である。この地球にうまれた哺乳類の想像力は、何処から来て、何を基に形成されたか?大いに興味が湧く所である。

地球環境の変化に従って、生物はその変化から、巧みに自己変身を遂げて来た。是は生命体の最も重要な能力である。地上の動物の生存のすべての基礎を用意したのは、植物である。この事は、何度言っても言い過ぎではない程、重要な事実である。植物の無い所に一切の動物は、その生を全うできない。ゆえに動物は植物との共生が、その生存の鍵になる。地球の歴史は現在の時間単位では46億年を充てているが、その原始惑星の中に生物が、初めて痕跡を示したのは8億年と云われる。太陽光の強い紫外線を防ぐ為に、地球の大気が変らねばならなかった。その大気を変えたのは浅い海の藻である。不思議なことにこの光合成の能力は、いつ獲得したのだろう?。この力こそやがて太陽系第三惑星に多くの生命的変種を生み出した基礎条件なのだ。

生命体の変化の記録はすでにギリシア時代にも記録されている。様々の生物の形態が、その生存環境に依存する事を知っていた。環境条件により生物は変化するのである、それは原始的な物だけでは無く、ギリシア時代の自分たちも、その一種であると云う事である。そして人間自身も、その適応の結果であり、条件が変化すれば、当然の如く人間自身も変化する。それを司るものは何か?と云う事である。それは長い間、最大の謎の一つであった。その変化の片鱗が見えたのは、19世紀になってからであり、遺伝の法則がメンデルにより提出された時を持って、進化学の始まりと云える。

 確率的世界構造とは何だろう。

 これは物凄く難しい問題だ。第一に、通常世の中は連続しているものだと云う思い込みがある。我々の身近な自然数列でさえ離散的だ。1と2は連続していない、その間には無数の少数がある。飛び飛びの指標なのだ。実在性を突き詰めると、偶然と必然に大きくは分類できる。人間の自然把握は20世紀の初めに量子論が出て来た時から、量子力学が離散的で確率的な世界観を提示したため、従来の連続的な世界観の信奉者は困惑しただろう。自然が飛び飛びの値からなるという世界観の初めは、プランクの量子仮説から始まり、確率・統計的世界観は、現象を統計的に見る事で、ある程度の実体の理解に寄与した。21世紀の産業社会は、物を生産し、それを売ることで回っている。有用な生産物など、必要なものを提供する企業が、人を雇い賃金を支払いその人が物を買い、また生産に従事し、新たな物を開発する。いわば絡み合って社会が機能している。その仲介を果たす役割が貨幣ないし経済構造と云う事に成る。

この社会が変化するのは技術的な革新である。古くは蒸気機関に始まり、電気に替わった。今では電気は、社会と云う生き物の神経網であり、これが絶たれると社会は麻痺し機能を失う。そして石油も最も金以上の価値を持つ基盤物質であり、漁業や農業の生産は、恐らく効率的に不可能になるだろう。漁業を支える船舶のエンジンを回すのは石油であり、農作業のトラクターも石油である。過去に生きた生物の残した地下資源を、汲み出して燃やして機械を回して居る。石油が無くなれば発電にも支障が出る。世界中で原子力発電が動いて居る。電気に関しては核融合炉の技術が出来れば事態は大きく変わるだろう。社会に関しては工作機械とロボットの連動が生産構造を大きく変える。サイバネティクスの通信と制御でも話題にしたが、ロボットが限りなく人間の技能に近い機能を持つ事が目標である。小型電子計算の発達で人工知能の進歩も夢想では無くなった。


 現代では、細胞核の中のデオキシリボ核酸の構造の中に、今まで培ってきた生命体の歴史が隠されている。将来、この情報体は脳と云う構造物を通じて、こころと云う現象に迫る力をもっている。多くの人がこの領域を研究しているから、何れは、遺伝子の構造体の中に、実際の物質過程に反映されている形式と反応が知られるに違いない。地球の歴史には生まれてきた生物である、植物・動物を問わず、多くの生命体の死の上に成り立っている。この様な事を書いて居る投稿者も、何年か後には多くの死の中の一つに成るだろう。宇宙の始原と終焉を、科学的に明確に知る事無く、我々は死ぬことに成る。それは宿命だ、悲しむ様な事柄では無い。それは必然でありまた運命でもあり得る。であるからして、我々は、未来の命の中に、その認識的智を求めなければならない。後生に期待すると云う事だ。我々が探求しつつも、知る事無く逝ってしまった問いにである。地球はおろか宇宙はもっと謎めいて紘大だ。生まれ、生まれ、生まれ生まれて、生の初めに冥く、死して、死して、死して、死の終わりに冥し、。弘法大師もおそらくは、わからなかったのだろう。まして凡庸な投稿者が分る筈が…。


 また話は変わるが、言語と数学の関係を云うならば、中枢神経系が生み出している、「心」とか「意識」とか「論理」とか言う物は、言葉を通じて数学的な側面を持ち、それに因って理解に翻訳される。脳神経系から出て来るコトバというものは、その数学的な手法と同様なモノなのだ。中枢神経系中の論理は、私たちが、今、論理と読んでいる物とは、全く異なるものだろうと思う。おそらく、脳神経系が生み出している、その様な実体は、数学の手法を使って翻訳されると同様に、情報を一括して処理する脳神経系の活動媒体としてのコトバ(言語)も、数学の新しい分野を創造することに因って解明される。たぶん、コトバの構造と数的抽象性は、神経系の活動の表と裏の関係にあるのだと私は考えています。


ついでと云っては何ですが、言葉の分野の問題について問いを立てて見る。

簡単で基本中の基本と目される初歩の3つの疑問で、子供が懐くような疑問です。


①ー ひとは、その固有のコトバ(母語)を、どの様にして習得するか?


②ー コトバを使って考えるとは、どういう事か?『子供の頃に思ったこと、こんな変な言葉(英語)で、ひとはモノを考える事ができるのだろうか?』と。


③- もしも、こんな変なコトバで、モノを知る結果は、はたして自分の様な日本語でモノを考えるのと同一なのだろうか?

子供が感じた問だが、60年を経ても、一向に解決されてはいない。
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空ー地球と宇宙

2018年09月06日 18時58分13秒 | 日記
空―地球と宇宙ーという題名ですこし書いたみたい。

私たちの空は、青い空を背景にゆったりと流れゆく白い雲や大空を掃く筋雲や夕焼雲の赤など、多彩な色彩に陶然とするのだが、もしもこの空に、空気と水蒸気の存在自体が無ければ、漆黒の空を見る事に成るだろう。そして空を見る事で、直接宇宙の深さに直面する事となる。これは壮観であるよりも、たぶん、むしろ恐ろしい相貌だろう。地球に住む人間が空気と水蒸気と云うサングラスを外したときに見るものは、空はどこまでも漆黒の闇を現し、その永遠の闇に、怯えを懐かぬ人が何人居るだろうか。宇宙飛行士Rシュワイカートは、船外活動に際して、宇宙の闇をビロウドの様な黒と表現している。同じ船外活動をしたレオノフ飛行士も、多分同じ様な経験を語るだろう。空気の無い宇宙では、地球上の印影という物が無い。光か闇か、の何れかなのだという。光に当たる物は強烈な反射に晒され、闇は漆黒の深淵なのだ。例えば手首から肘までが光にさらされたとする。そこは強烈に光って見えるが、では手首より前の五指は闇の泥に入った様に丸で見えないという。空気の反射が無い為に、或る意味では恐ろしいのだ。重力から放たれた宇宙では、上も下もない、有るのは、前と後ろ、左と右だけだ。我々は空を天とも言っているが、我々が生息している地球が丸い物だという事を知れば、天は足下を突き抜けた地球の下にも広がっている。人の立つ、一見水平に見える地面の他は、すべて空なのだ。地表の生物は、すべてが宇宙に向かい合い、対面していると云うのがただしい。

天文学は人間の歴史と同じくらい古い知識であり、人間の自然観察と同じくらい古い物だ。人間の自然観察は、我々の周りの環境の観察と共に、重要な物としては、空の星々の観察から始まった物で、それは栽培農業以前から存在していたものだ。採取狩猟の生活でも、人々はいつも空に関心を持ち観察していた。幾度の観察から、古代人は空の星々が、時の経過と共に極めて正確に廻って居る事実を知るのである。その経過を記録し太陽が一番中天にくる夏至の日を決めた。そして夏至の太陽がどの方向から昇るのかを決定した。それは冬至の決定事でも同じであった。こうして一年の日数が決められて、一日の長さにも刻みを入れて、年と月と日の概念が決定された。一日の時も後で正確に決まられた。空には、時には特異な現象が起こる事が有った。今で云う超新星の爆発があり、彗星の飛来が有り、隕石の落下が有った。こういう特異な現象の記録は、原住民や各国の昔の記録に見る事が出来る。

星学ー天文学を過去の遡って、人間の本格的な探究の学として見られるのは、エジプトープトレマイオス朝のアレキサンドリアであろう。ここに在った、人類の英知の結晶とも云うべきアレキサンドリア大図書館の、多くの書物と収蔵品は戦乱の為に灰と化した。救い難い愚者は古代にも現代にもいるのだが、この図書館の古代文書の焼失は何を置いても惜しいものだ。これで数千年の賢者の思索の結晶が焼けて仕舞った。アリスタルコスやエラトステネス、ユークリッド、アルキメデスの著作がすこし残った程度である。これ以後アレキサンドリアの叡智はイスラムに継承されて中世を生き残るのである。ローマがキリスト教化されて、極めて偏狂で攻撃的な一神教であるキリスト教が、ヨーロッパに蔓延した時代を中世と云う。この宗教の為に、どれだけ多くの人々が狂信的な教義に従って、拷問を受け殺されて行ったかを、史実から確かめて見れば好い。宗教をいう物は、フロイトに言わせれば集団ヒステリーである。19世紀から20世紀に掛けてもスタイルを変えた疑似宗教である共産主義が蔓延した。この幻想に因って、どれだけ多くの人間が犠牲に成ったことか。多くの悲惨な事がこの時代には起きたが、東洋である我々の国では、古墳時代である。

太陽系の生成は現宇宙の出現から大分あとの事に成る、太陽の元に成る凝集物の回転と、重力に塵が引き付けられて、塵はやがて層状にバーム・クーヘンのような層状の構造を創る。幾重にも中心部を取り巻く回転が創られ、それが個別に凝集してやがて星を作る。これは19世紀に太陽系の創生を考えたアイデアの一つで批判哲学で有名なイマーヌェル・カントの説である。つまり重力により凝集するのだ。これとは反対のもう一つの説は巨大化回転個体が回転力に依って分離する数学者ラプラスの説である。二つの考えの内、実際の現実に近いのはカントの説であり、恐らくは太陽系だけでは無くもっと莫大な太陽系を抱える銀河系宇宙の生成も、この様な重力に因る凝集から生成されている。すると重力は随分昔から力として宇宙の成り立ちに関与していたことに成る。ビックバン宇宙論が、どこまで正しいと云えるのか疑問な面があるのだが、そこでは力の出現が最初は重力が次に電磁気力が、そして強い力、弱い力、と順に出現する。いわゆる物質が出来る前に、重力はで聞いて居るのか?或いは物質と共に重力は出現したのか?面白い問題である。多分物質と密接に関係しているはずだ。当然の事だが物質は空間とも関連している。

創成の観点から順に云えば、宇宙の始まりが最初に来る。だがこれは曖昧模糊としていて未だ厳密な意味で数的科学に成らない。つぎは宇宙がはれ上がり物質の創生である。元素創生の初期の研究は、随分むかしソ連のサハロフと日本では吉村太彦により提案された論文がある。最初に出て来たのは最も元素的には単純な水素であり、つぎにヘリウムであり、このくらいの元素の創生であとは無い。この水素の集合体の星雲が重い元素を生成する。おそらく現在の宇宙の物質は一度星に依って生成された元素で構成されたものだ。元素が共有結合イオン結合などの分子を作ることに因ってひいては生命の発生に必要な分子を創り上げている。端的に云えば条件さえ整えれば、生命の発生は必然で有ると云う事なのかも知れないのだ。

既に出来上がったものとして太陽系の生成を考えてみると、太陽系は太陽の生成と共に形成された。そして太陽を回る軌道には一つの天体が出来上がる。惑星の質量と重力と回転力のバランスの下に各惑星は形成され、必然的に太陽からの距離も決定される。太陽の自転と各惑星に及ぼす重力、惑星の質量と自転、nなどのパラメーターが現象を決定する。然も、太陽の質量その物が、実に奇跡的なほどすごい。もしも質量がモット大きいならば、太陽は45億年を経ずして燃え尽きていただろうし、いまの質量よりも小さいならば水素の核融合の火は点火されて居まい。太陽の回りの惑星は、距離と質量により創れる環境が異なって来る。水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星(最近冥王星は惑星である事を取り消されたが)、そして、火星と木星の間には、惑星に成り切れなかった欠片が散乱している。惑星に成ろうとするのだが、木星の干潮力が邪魔をしてバラバラにする。冥王星の軌道は、余りに辺なので、惑星を取り消された、基本的には海王星の衛星だという事になった。


この回転する惑星系の運命を決定するものは重力にある。力の生成過程で重力は、最初に分離した力だ。この重力が水素を球体として締挙げている。水素と水素を融合させて、出来たヘリウムの質量差が、光と熱のエナルギーとなって太陽を輝かせている。惑星のすべても太陽からのエネルギーを得て、輝き、地球では生命の源のすべてを支えている訳だ。50億年の後に、水素ヘリウムを燃やし尽くした太陽は、次第に燃やすものがなくなり、赤色巨星として地球軌道を飲み込むまでに拡大される。その時に惑星系は終焉を迎える事になる。星の創り上げた傑作である生物も消滅する事になる。無論そこまで地球上の生命体の生態系が生き残って居ればの話であるが。それは何も人間が生き残る落ちう物では無い。


人をサピエンスと云う言い方をしている西洋人は思い上がりが顕著だ。人間は決して知恵ある生き物では無い。ここ300年の歴史的事実を見れば、技術が芽生え、技術改良が進み、戦争の技術と破壊力が増したために、自らが窮地に陥っているのが現実だ。現在に於いて、人間は長期的に人間が存続可能な社会システムを採用していない。過去の植物が残してくれた化石資源を湯水のごとく貪っている。電気を起こすと称してソーラー発電の為に森林を切り払い、植物を絶滅させているのが現実だ。動物は植物の恵みで生かされて居る存在だという真理を徹底的に忘れている。様々な現代の国民国家の産業の為に、地球上の資源の獲得競争が熾烈になり、それが原因で戦争の事態も起こりうる。人々の生活が文化を生み、それがさらに発展して文明を生む。

その典型的な資産は、コトバである。言葉が文明のすべての土台なのである。現在の地球上の人間集団が話す言語は、小さいものまで含めると数千と云う言語が有るという。それはみな文化と云う意味では貴重な物で、滅んでしまう前に記録されることが重要だろう。言葉の背後には、その文化特有の精神体系と云うモノが控えている。比較文化を探究する文化人類学や生態学は、依然は活発であったが、この所、余り有意味な知見が無い。人間の真の平等と豊穣の為には、本来、この様な比較分野の研究と思索が必要なのだ。地球環境の上に花開いた各文明は、混ざり合う事無く、独自にその深化を図ればいい。言語と蓄積された文化遺産が、国民性を支えているのだ。日本文明は、世界最古であると共に、一度も亡びた事がない特殊で特異な文明である。この偉大な文化遺産の下に日本人として生まれた事の有り難さと幸いを感じずにはいられない。
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