「玄語」は、江戸中期の豊後の人三浦梅園の主著である。彼は其の解説本とも言われる「贅語」を書いている。ところで山人がこの本のお目に掛かった最初は、父の蔵書を探検していた高一の夏の頃で、「玄語」とは何だ?この書物には一体何が掛かれているのだろうと手に取ると、文章は漢文であり何やら円を二重に三重に描いた中に三角や四角が鏤められた図形が出て来る。幾何学の本か?、私の学力では文章の漢文自体は殆ど読めない。この本は天文学の著書なのかな?とも考えた。その時はそれで終わった。自分の力では読めないものを読もうとしても、これは骨が折れると感じた。高1だから学力に弱いところがある。数1の教科書は当時の阪大の教授であった功刀金次郎博士の監修だ。式と計算、因数分解、分数式、無理式の計算、二次方程式、高次方程式、三角関数、指数関数、対数函数、と基本的な事が多々ある。いま57年前の教科書を読み返すとレベルは非常に高い。数Ⅰは250ページくらいの教科書だが、功刀先生には、失礼な表現だが実に良く書けている。続く数ⅡB、数Ⅲも、中々良い教科書だ。これを完全に理解し応用を練習すれば高校数学は90点は取れそうだ。梅園の著作がこの数学を使って理解できるかもしれないと思った。しかしそれにしても難解だ。第一に漢文が読み下せないのだ。端から文が読めなければ、梅園の思考の過程跡と結論が推察できない。
山田慶児氏は三浦梅園の自然哲学「玄語」の中で、梅園の思索の跡を詳細に追っている。永い時間を掛けて培われた梅園のこの論文集を解明するのは、なかなか容易な事ではない。特に漢文の敷居の高さが顕著である。しかし漠然と感じるには、この異常なる思索者の道具立てが五行説であったり干支の構造であったりしているのは、どう見ても道具立てが古いと感じるし、易や五行、陰陽、などの二分説には何か的外れの感もある。易経や五行説、陰陽、干支、など、シナの文化的著作の影響を受けた当時の日本では、どう見ても道具立ては此れしか無かったのでしょう。和算と天文学が合体して居たら、梅園の自然哲学はもっと明確で分かり易いものに変って居たと思われる。
山田慶児先生の名著の序文を拝見すると、先生のある意味での嘆きが解る。一言で云うと、この日本史上も最も偉大な哲学者であろう、「三浦梅園は未来の現代科学の世界に対しては、余りにも早く、古代の天気思想に対しては、余りにも遅く、生れて来た思想家であった。」陰陽・五行の思想はもう古代の遺物に成りつつある時代に、梅園は、その道具を使って自然哲学を詳述しょうと努力した。その努力が殆ど価値を持たないとしたら。人生を枯渇した何とも恐るべき事であろう。梅園の努力は過去の遺品を道具を使い、その気の哲学で物理現象を探求し、且つ説明を為そうとしていた訳であるから。二元論はそれでも西欧にヒントを与えた、0と1の二進法である。梅園は現代の自然科学の萌芽が出始めた時代の直前で亡くなった。彼の知力をもってすれば、生涯の疑問も解き得たか。
ここで「玄語」の大筋を見る。言語は宇宙の現象を説明する為の方法を志向する。その指導原理は、天と地、上と下、陰と陽、などの二分法である。それに要素としても五行説など元素の導入である。この二分法と五行説を絡めて現象を分類する。だがこの様な二分法と五行説、更にそこに干支を加味して果たして自然現象の根源を説明することが出来るのだろうか?。不思議と謂えば不思議な理屈である。これは謂わば占いに過ぎない。近代の自然科学は数学を基礎とする。ところが此処には数学らしきものは見られない。シナの文化的伝統がこの様な分類学で自然現象を説明しょうとする方法論だ。ここには自然科学の基礎である数学の方法論を使われていないという事は思えば不思議な事である。シナ人はどうやって納得するのかは奇妙な事である。玄語はシナの伝統的な哲学である例えば朱子学からは有効な方法論は出て来ない。
三浦梅園は秀でた自然哲学者であった。彼の方法が上手く行かなかった根本の原因は古代東洋の哲学である、陰陽、五行、易、などの説で自然現象を説明しょうとした事である。梅園の時代においては、それは仕方のない事であったと私は思う。我々が少しでも自然現象を説明できるのは、我々が古代ギリシャの始まり、16~17世紀の西欧の錬金術師に始まり、分析的科学に始まる土台に立ってゐるからに過ぎない。だが、梅園の時代はそれがまだ完成されては居なかった。更には当時は鎖国の状態であり、ギリシャ時代の科学も、錬金術に始まる物質の科学を、少しも知らなかった時代であったから。