井頭山人のgooブログ

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「哲学」とは、何をすることなのか?

2017年11月25日 08時55分49秒 | 日記
 哲学とは何か?、或いは、その価値に付いてである。哲学と言うテーマだが、今もって哲学という物は、どこまでもカビ臭く頑な物だと思われてきた。だが哲学は、人間にとって最も古く、そして、最も新しいものだ。それは寧ろ「好奇学」と呼んでも好い。その方が哲学の本質に近く、あらゆる思惟の可能性の初歩です。ひとり、何かの疑問や好奇心、懐疑が湧き、その原因を考える風になると、それが哲学に成る。哲学は、石造りの堅牢な尖塔に閉じこもり、訳の分らぬ自己撞着で、自分が迷妄に陥ることではない。不思議な対象を、明晰的な理知でもって明らかにすること、その事実を知る為に、答を示す磁石として、論理や合理性が求められた。しかし、飽くまでも哲学の価値は、「問うこと」にある。例えば、様々の錯綜した情報の背後に在る真の事実とは何か?とか また、見えている現象の根底に在る原理・法則は何か? などの それらをまったくの、白紙の状態から問う事にある。もしも哲学に価値が有るとしたら、その純粋に白紙の状態から出発して、物事の本質を問う、と言う態度以外には無いと知るべきだ。

「問う」事は、さほどに根源的で重要なのだ。さて「哲学」と題名のついた本は、或いは「哲学」と名が付く著作がどの位いあるかな? と、大きな本屋でザット調べてみると、25~6冊くらいは直ぐに見つかった。小学校3年の子供の頃に、家に古い哲学事典という分厚い本が有り、親父にどう読むの?と聴くと、テツガクだと言う。わたしは、テツガクと言うコトバを聞いて、鉄を思い浮かべ、事典に出て来る人物写真が、うつむいて居たり、何かを考えて居るらしく、不愛想な怖い顔をした人が多かったので、これは頭に鉄が入って居て、重いので苦しんでいるのか? テツガク、これは硬いぞ、頭をぶつけたら怪我をするかも?と思ったものだ(笑)。コトバの発音からは、鉄のような硬いイメージが付いて回ります。後年、調べてみると、それは、「悟る」「知る」「理解する」「洞察する」「予想する」「納得する」、謂わば理解の法則的な関係を求め、問いを重ねることで、思考や思惟の構造(勿論そういう物が有ればの話だが…)を把握する、と云う様な思惟体系の本質的な一つの方法論である事が分かった。

或る意味で、「哲学」とは、物事や、外的・内的、知覚に関するインスピレーションを追及する事で、個別的な学問に発展する以前の、アイデアの萌芽を育てる事に他ならない。であるから、その手法は芸術に似ているし、空想の翼を与えるものである。ゆえに全ての学問は哲学を、その泉としている。哲学は誰にでも出来るものであり、特別の才能は要求しない、ただ好奇心を探究心を、どんな学問よりも必要とするものだ。

つまり、理解・認識の構造・動作・などの理解の流れを調べ、その諸現象の「根本の力動と原因」を理解する思念活動のことなのだ。哲学とは、そういう事を繰り広げながら、目と耳の限界を超えて対象を探究してきた歴史でもある。そうすると、哲学は人間の思考活動の条件やその土台を知ることであり、思念活動の、最も基本的条件の探究である事が分る。哲学は「言葉を使い」、言葉を通じた理解の構造、それを対象とする方法論の一つのことだ。そういう意味では現代数学も同様だ、様々の抽象概念の背後に在ると思われる、統一的共通構造を模索しているからだ、全数学を幾何学の下に統一するビジョンを探して居る。多くの可能性が有ると思う。まだ未知の分野がそこには広がっている。

哲学は、ごく素朴に言えば、まだ厳密な方法論が形成されて居ない、いわば曖昧な対象を理解しょうとする為の把握の試みであり、それらの対象の空想段階の方法論の試みである。であるからして、合理性と数理性を基にした厳密な方法論である科学よりも、もっと曖昧で自由な発想の分野と言えるのではなかろうか。
 
例えば、「必然性」という概念は?、どう認識し表現するか。
表現は認識の質(クオリティ)と段階(レベル)に因る。


「我々の具体的な操作や、認識主体を離れて、すでに、何らかの先験的、他律的に、定められたものとしてある性質」。

では、「偶然性」とは?、「我々が、その対象に無知なために、一見、無分別な事象として現れて来る現象、乃至、性質のこと」。


あらゆる事象は概知の物としては決まってはいない。自然の現象は数限りない係数の総合として在る。そして「必然性」にも「偶然性」にも、概念の背後には「時間」の概念が有る。

人間に取って「時間とは何か」?、確かに流れでもある、だが、大森荘蔵氏のように、時は流れないという人もいる。反応の経過時間?。時間が有ると云うよりも、本当は運動が在るだけなのだ。時間は運動の結果として跡づけられるものだ。いったい運動とは何だろう?。運動とは物体が必要か?。空間が動いても運動とは言い難いのか?。質点が運動するのか?、質点とは何か?。人間の意識も運動の効果である。電子であろうが、陽子であろうが、それはどうでも好い。

人の懐く問に、自ら答えようとする営為が哲学の本領だ、また問い自体が答えでもある。哲学は好奇心の為すがままに、自らの立ち位置と存在を確かめる事である。とすると、人の突き詰めた考えは、みな哲学に似ている。好奇心には、答えの到達点はあっても想像思惟の到達点はない。であれば、これまで如何に多くの人が哲学を実行してきた事か。特に江戸時代は、時間を持て余した面白い思索者が多数いるのは面白い。




*- 将来の数学についての空想

殆んどの存在は時間で括れる、時間こそがαでありΩなのだ。時間と云うと、なにかぬ明確なフワフワとした概念の如きを思い浮かべる人も多いのだが、確率過程も実のところ、時間の別な表示に他ならない。時間は存在の自由度なので、存在も現象過程も時間で括れる。この時間のイメージを、もっと厳密に膨らますことが最も必要な分野を作る事につながるだろう。最小作用やentropyも時間の函数ないし係数に他ならない。
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こどもの頃の思い出、「歳を取るとはなんだろうか?」

2017年11月17日 21時41分51秒 | 分岐現象の原則

 誰しも子供の頃の思い出を記憶の底にもっている。私は子供の頃に「よく泣いた」らしい、らしいと云うのは、自分に明確な記憶は無いのだが、しかし、母はわたしを見て「カラスの鳴かない日は有るが、おまえの泣かない日はない」と言ったものである。悲しいことでもないのに、よく泣いたのだろう。子供の頃の一日の、私の目からは、今の私の何年分もの涙が出た事になる。なぜそんなにも泣いたのだろう?。コトバが上手く話せないので、あんなに泣いたのだろうか?。どうも、そうでもないらしい、分って居て母に甘えて泣いた事もある。光が眩しく青く点滅し、世界は奇妙さに溢れて居た。なぜ泣くのかについて、母の子宮より出る事の、不安から泣くのだと云う事が言われたりする。そう、確かに我々生き物は生殖細胞の連続性で時代を継いでいるのだ。ドイツの生物学者ヘッケルは、生物は、「個体発生」の過程で「系統発生」を繰り返すということを主張した。一つの卵細胞が精巣細胞と合体して発生が始まり、卵割が進み、やがて形が形成される。神経網、消化器、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、脳、生存形など諸々の機能の上に、我々が物理的に捉え様のない「心」という「ある状態」が形成する。

これこそ我々が云う「世界」なのだ。宇宙は闇なのだが、そこに或る時に光が現われる。それは物質反応の信号といえよう。精神の本質とは、本来は闇に近しいものであり、光は忌まわしい恐怖なのだが、生まれ出ずるに従い、逆になる。この長い個体発生のための系統発生は、その過程で神経網としての心を創り出す。それは「神秘の中の神秘」と云えるものである。いのちの全ては、その道を歩って来たのだが、それはうまれ落ちると共に忘れている。プラトンを出すまでも無く、それが記憶の本質と云える物だ。もちろん言葉も持たないが、こころや意識はある(こころと意識の区別は難しいが)。この辺の原初的が存在と意識の接点は、むかしの原始仏教以前の、六師外道と言われた人々が謂わば瞑想によって詳しく分析している。「唯識とか」「中観とか」「瑜伽とか」言われる深層心理分析と言うべきものだ。本来、現象と認識を、分り易く的確に話する事は、余程、その世界の遊んだ者でなくては難題だ。心は迷妄に陥り易い、ゆえに論理学や深層心理、他にも数学全般や理論物理学全体(熱力学、統計力学、量子力学、素粒子論、非平衡熱力学、カオス、ect…)、生化学、薬理学、分子遺伝学、形態発生学、言語学、などの全体的識見がその手法裏付けとして必要だ。

 大昔の心理分析の手法が、現代的な問いかけに何処まで通用するか疑問だが、反対に古代の原始仏教の瞑想者が行った様な心理分析は、現代に於いては、まったく遣る人が居ない。時折、心理分析家が遣ったり、寺の坊主が禅の瞑想の中で遣ったりする。然しこの瞑想の方法が、全く胡散臭く、価値が本当に有るとは言い切れない面がある。子供は明らかに、何らかの記銘、記憶をもって生まれて来ると考えられる。おそらくは、いま直ぐには結論は出ないだろう。この問題は、今の流行りには成りえず、科学的(数量的)とは言えないからだ。

いまこの世界の在る者は、必ず歳を取り、そして人は生まれて来るし、死ぬわけで有り、このような範疇の問題には、人生の日々の、何時かに必ず出会う問題や事柄と成る。我々の意識はいつ措定され、この世界を認識する様に成ったのだろうか?。わたしは、人の意識にはC・ユングが云う様な、個人的な物とは異なる、生命史の次元での意識が根底に在り、わたしたちの、例えば日本人としての日常意識という物は、最も表層に在る意識で、我々がこの世を終えると共に、消えて仕舞う物だと云う気持ちも何処かに在る。それが正しいものかどうか?決定的には分らないのだが…。

 自我は果たして、消えてしまう物だろうか??これには、一言で答える事が出来ない。むかし読んだユングの自伝には、仏陀の弟子が、我々が死ぬと、今この意識は消えてしまうのでしょうか?、との問いに、(その意識を哲学風に現存在意識と呼んでも好いが)、仏陀は弟子の質問に直接答えず、それを知る事は、我々がこの現世を、意義深くいきる事には寄与するものではないだろう。と、答えたと書いて居る。結局の所、仏陀は弟子の問いに、イエスともノーとも云わなかった。多分、己と思っている自我の表層意識は、こころを構成する要素では在っても、不滅の根源的なものとは言い難い物なのではなかろうか。我々の心に関する知識は、所詮この程度の、こんなものでしかない。

一個の人を成り立たせている意識、或いはこころと呼ぶものは何なのだろう?。それは個体の死と共に消え去る物だろうか?

恐らく私たちが単純に、心と呼んでいる対象は言語的な次元での「記憶と反応」なのだ。だが真の心の実体は捉える事が出来ない程、もっと遠く深いものだ。多分この宇宙は計算機で出来ている(笑)。我々は所詮、表層意識の中に住んでいて、心の現象を捉えるには、もっと記憶を下がらなければならない。日常的意識では、その本質は深く把握できないからだ。眠りが一番好い、雑音が消えるからだ。これは現代のテーマ・課題と言うより未来の物だ。たぶん意識は地層の如く成り立ち、一番底の部分には、生命の初期の意識が宿っている。そして魚類になり、両生類に成り、爬虫類になり、哺乳類に成る。此れでは丸で段階的に意識は発展するのだという、Hegelの精神現象学の着想ではないか?Hegelの、その着想が、Rousseauなのか?Darwinなのかはわからないが、時代的に言えばDarwinではない。だが意識の発展の着想は、すでに我が国も空海の著作の中にも現れている。生命進化の意識の系譜、その様な物が我々の土台なのだ。そして生命も環境の所産である。

 歳を取るとは、こう云う事に思わず関心が高く成ることだ。死はごく身近にあり、世界認識は遠く、自分自身がその世界その物に成る。子供の頃を思い出したければ、「谷内六郎さんの絵」を見れば好い、あそこには日本人共通の、子供の頃の不安と夢の思いが詰まっている。不思議な懐かしい絵の数々だ、不思議なと云うのは、いつの間にか自分がその絵の中に入っていることに気が付くからだ。欲をかいても身に残る物は何もない。大切なのは思い出やよろこびの記憶なのだから。それもいつかは消える、宇宙の根源とは何なのだろう。我々は何かの把握できない必然性の下にその人生を生きている。心は中空に残る物か?残るとしたら、その存在時間は?

実際は、分らない事ダラケであり、真理は、考えや想像とはマルッキリ異なって居るかも知れない。この様な死後の意識の継続時間という物は、云わば科学の対象に成らない。それでミョウチキリンな宗教的妄想の独壇場となる訳である。しかし、そういう幼稚な妄想とは異なり、明らかに心の探究は、我々自身の存在の根源、生きている状態の起源の探究である。系統発生と個体発生の問題、卵から個体への形の変化と共振する心の形成へと、具体的な科学の手法を持って探求できると思う。それを発生の現象から求めた人物の一人に三木成夫がいる。三木の哲学が、科学的ではないと批判する者も居るが、本来の科学とは、出来上がった物では無く、人間の好奇心の手の届く限界まで広げる事に因って形成されてきたものなのだ。三木の考察は、そういう意味での心理発生学の第一歩なのである。遠い母の記憶を、今によみがえらせる機会が発生学にはある。将来この分野は最も重要な人間の知識となるだろうし、それは社会にも深い大きな影響を与えるものだ。

三木は「胎児の世界」を書いたとき、人間までの命の連鎖が魚まで遡れることを示した。然し、其れをもっと敷衍すると、無脊椎動物や、真核生物まで辿れる可能性は大きい。その過程で、精神とこころを通底するものがある。原初的な基本の心は少しも変って居ないが、体形の巨大化の変化により、いま現在、人間と言う生物が地球の主であるが、これは必然の結果と言うより、かなりの程度、偶然の結果なのだ。中生代は、巨大化した植物と又、巨大化した爬虫類の世界であった。食物連鎖により肉食竜が数の上では少数であるが連鎖の頂点に居た。しかし或る時、地球史に、極めて大きなインパクトを与える事態が出現した。今では、それが「火山活動」とも「小惑星の衝突」とも、言われている。そうした環境の大変化により巨大恐竜類は絶滅した。また、別な推測では極端な氷河期が来たことに因ると云う説もある。地球自体が雪で閉ざされた時代が有ると云う。地球環境は基本的に寒冷化と温暖化を繰り返しているが、長さの点では、断然に氷河期が基本なのである。温暖期とは、永い氷河期と氷河期の間のわずかな時期に過ぎない。

地球史では、その年代を固有生物の種の繁栄と絶滅を境としている。爬虫類の時代である中生代は恐竜が巨大化して、絶滅した時代である。3億年続いた中生代が終わると新生代が始まる。それは小型の恐竜から、環境に適応し変化した哺乳類の時代である。ネズミの様な小さな先祖から現代の人類は始まった。命の基本的仕事は、まず個体保存と、次に、子供を産む事であり、それが生物としての一番重要な仕事である。ネズミはその過程を経て、様々な環境に適応して生きて来た。地球上では生物の遺伝情報体である「DNA」の変化が自動的に起こる。「遺伝子浮動」による「分子進化」である。地球と云う惑星の上の大自然の現象と適応の意味を考えた場合、この「分子進化説」は面白く、多くの想像を掻き立てる。地球環境に小惑星衝突の様な、根源的な破滅の事態が無く、このまま数億年続くならば、地球の主はどんな生物が成っている事だろう。その生物が、我々人類の末裔なのか?それとも別な系統の生物の末裔なのか?は、今の所は分らない。しかし、その生物は確実に、今この現在にどこかに存在していると云えよう。

 歳を取るとは、必然性を信ずることが出来るように成ることだ。頑なに生きることなく、強迫観念に惑わされることもなく、生の始まりと生の終わりを柔らかに受け入れる。それは惑星の上で起きる生命の流れの中に自分もあること、流れと一緒に成ることだ、その流れ自体に成ることだ。星の時間に比べて我々の時間はごく短いのだ。歳を取る事で、益々、心の軛から自由に成ること、それが禅の悟りに近いものだし、釈尊の言葉にも「他人に頼るな、権威に頼るな、自分自身の中にこそ宿る法(ダルマ)を導きの光として、犀の様にひとり行け」と。かなり、突き放した言い方だが、それは、「もう私なんかに頼るなよ、貴方はこの闇の中でも、十分にひとりで歩いて行けるよ」。という応援のコトバでもある様です。


 人は、ただ一人だけではよく生きられない、この世ではもう二度と会えない人であっても、ただアノひと一人は、いつも自分を理解して呉れていた。そう云う隣人が人間には必ず必要なのだ。人生は人との出会いでも有ろう。そんな人を探すための永い旅だ…。きわめて風変わりで、奇妙な数学者であった岡潔は、過って、「人は出来るなら道端に咲く菫のように、誰が見ていようと、見ていまいと、己の中心に在る真如の命ずるが儘に咲き、ヒトならば是はと思った仕事を懸命にして生きる、そういう事が太陽系の自然の命ずる、究極の方向なのだ」、と謂う様なことを書いている。人は何の為に生まれて来て?、何の為に死ぬのか?、おそよ、その答えは、この殆んど言葉を絶する星雲が命じているのだろう。そして岡潔の風変わりな言葉の中に燦然と輝いているもの、これこそ命の存在の意味に関する至言であろう。

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漂泊ー明治人野口英世の軌跡

2017年11月11日 21時15分13秒 | 日記

 私は現在の小学校図書室の蔵書の収蔵内容はまるで知らない。だが、昔の小学校の図書室には、数々の偉人伝シリーズが必ず有った。西郷隆盛、伊藤博文、福沢諭吉、とあるが、寧ろ医科学関係の方が多い。北里柴三郎、志賀潔、鈴木梅太郎、の中に野口英世もあった。他にも牧野富太郎、とか、江戸時代では伊能忠敬、二宮尊徳があった。私は、その中の一冊野口英世を借りた。野口は、日本国と日本人が西洋に強い劣等感を持っていた時代(今でもそれを持っている人も多く居る様だが…)、一農民の出身から精励刻苦により、世界的業績を成し遂げた立志伝中の人物として易しく説かれていた。この写真と挿画が印象的な楽しい本は、「あなたたちもこの夢に挑戦しなさい」と諭しているようでも有った。この本の図書カードには、借りた人の年月日と何人かの名前が載っている。これを読んだ先輩や友人達は、果たしてどんな感想を持ったのかしら?と、本を読み終えて思ったものであった。

江戸時代二百五十年の後に開国して幾ばくも無い時代に、日本は驚く様な、多くの個性ある人物を輩出した。現在(2017年)の時点で歴史を振り返れば、西洋列強の圧倒的な軍事力と科学技術力による暴力的な武力的植民地獲得競争の前に、白人世界に独り対抗し得た国は、世界中に多々ある国の中で、日本国以外に探しても一つとして見つからない。東洋の植民地を解放した大東亜戦争以前、白人世界の暴力と人種差別は殊の外大きかった。現在の日本人に、その認識が無いとすれば、以前の確固たる歴史的事実を、日本人自身が忘れたか或いは知らない、または、知らされて居ないだけなのだろう。人が何かを知るには、それと比較する別な物が必要だ。それが無ければ、正統な評価する事が出来ないからだ。開国当時の日本人は、敗戦後の日本人に比べれば明らかに、性根から異なっていた様だ。日本人自身が自らの存在の系譜を知る為には、恐らく本当の江戸時代を知ることが必要だろう。明治人、詰まり江戸時代に生まれた彼らは、一旗揚げる気概にも溢れている。その努力も中途半端な物では無かった。今よりもモット気概に満ち、気性も激しかったのではなかろうか? 別な表現を借りれば戦国武士の魂が僅かばかり残されて居たとでも言えよう。

私は、永く野口英世博士に付いて、図書室で読んだ頃の認識以上の域を出なかった。然し是だけではあるまいと想像して居たので、戦前に出された古い野口の伝記を読んだ。この伝記は、小学校の伝記シリーズに比較して、野口清作の実像を正確に伝えている。暫し読み進めると人間野口の実像が、おぼろげ乍ら分ってくる。逆境に対して心から努力し、相当苦労もしたな、と思った。彼が幼児の時に、偶々起きた火傷による手の癒着という事故で、本人も嘲りを受け悔しかったろうとおもう。当時は不自由な手に同情する人も少しは居ただろうが、大方は冷やかな者も大勢あったろう。敗戦後の日本人は、なべてアメリカ化の為に、個人の権利ばかりを謂い、自己犠牲を嫌い、本来の日本人の思い遣る協調性と不屈の団結力を破壊され失っている。

後年の事、そう、私がまだ20代の頃か?渡辺淳一氏の、有名な野口の評伝「遠き落日」が雑誌「野生時代」に掲載された。それは直ぐに単行本として出版されて、それは古い伝記と重複する所があった。だが、遠き落日の野口はもっと闊達で生き生きとして居て、これは非常に優れた評伝であった。無理やり渡米の為に用立てた渡航費を、送別会だと云って吉原で芸者を揚げてドンチャン騒ぎの挙句、渡航費用の大方を使ってしまう事などは、破天荒の最たるものだ。然しそれはフィラデルフィアのロックフェラー研究所を目指し、フレックスナー博士の所に片道切符で出かけ、夜も眠らぬ男と言われるほど狂気じみた努力を続けた野口の破天荒な性格の一端と何処かで繋がっているものだろう。やがてその努力は報われることになる。伝記シリーズの野口英世は、芸者を揚げての散財など、この辺の事情は小学生に読ませるには都合が悪いので省かれたのだろう。だが、野口の凄さは、本当はこの破天荒な性格と表裏一体なのだと思う。アメリカに渡った人で、日本で発刊された野口英世の伝記を、本人に渡して読ませた所、野口は、「これは人間ではない、この様な人間は居るはずがない」、と怒ったという。

野口は、師匠・友人たちの援助と、本人の努力の末に済生学舎で医師免許に合格したが、彼の手の火傷に依る癒着の為に手先を使う外科の様な分野には進む事が出来なかった。19世紀から20世紀に掛けては、人類の業病も呼ぶべき、風土病、伝染病、の研究が進んだ時代であった。彼は、その病気の原因を突き止め、治療の方法を探る基礎医学に進むことを決めた。後年、北里細菌研究所に、助手として入所した野口は、その所長であった北里柴三郎が、明治の初年に、医学の先進国であったドイツに留学しコッホたちと共に、破傷風菌の単離、血清療法など感染症の治療手法にも大きな業績を上げた為に基礎医学に魅惑されたのだろう。それで野口は、北里の進んだ基礎医学の方面に進もうと決心したのだと思う。細菌に因る感染症は、細菌を純粋培養する事で、その細菌に効果のある治療法を開発する事が出来る。北里も野口も志賀も、顕微鏡下での病原菌を発見する事に精力を費やした。

 野口の生家は、今も猪苗代湖畔に「野口記念館」となって建っています。明治21年7月15日(1888年)会津の象徴の山である「磐梯山」は、水蒸気爆発と言う種類の噴火によって、北側の半分は吹き飛んで仕舞い、その土砂で川がせき止められ、現在の檜原湖が生まれた。五色の色を斯く斯くに持つ美しい沼もうまれた。災害は多くの人の生活を破壊し、また死者も多く出たが、現在は火山のもたらした変化が観光資源となって地元民の生活を潤している。「磐梯国立公園」は実に美しい所である。私は、もう遠いむかしの事だが、「裏磐梯高原ホテル」に泊まりました。それは広々とした池の向こうには、半分が吹き飛んだ荒々しい磐梯山の北面が絶景をつくって居ました。

彼は子供の頃に、この噴火を体験しているという。弟をつれて川に魚を捕りに行ったそこで、恐るべき轟音と共に、この世の終わりかと思う程の足元を揺るがす振動を感じた。あとで考えれば、予兆は有ったらしいが、当時の地元の人々は、それが大爆発につながる物とは、露にも思わなかった。水蒸気爆発は、地下水が上昇してきた灼熱のマグマに触れて、一気に気化膨張することで猛烈な爆発力を発揮する。この膨張する力はものすごく、元々は秀麗な山容であった磐梯山の北側半分は吹き飛んで仕舞った。幸い水蒸気爆発は、大量の溶岩を噴出しない為に一瞬で終わったが、だが大量の土砂が人々を襲い多くの死者を出し、吹き上げられた土砂は村は埋没して、山間部の川を堰き止め檜原湖を出現させた事は上に書いた。

 野口英世は、立志伝中の最も有名な一人であるが、また、彼の個性的な人柄ゆえに、多くの毀誉褒貶に溢れて居る。世の中には偉人が、つまり「謹厳実直」でないと気に食わない人間も多数いるのだろう。私は、自分が好い加減な性分の性格なので、野口の羽目を外した行動をある程度理解できる方である。だが世の中には、自分が決して出来ない事を、他人には欣然と要求して恥じない人間もいる物で有る。単なるお馬鹿さんなのか?幼稚なのか?は知らない。いつまでも成長せず幼稚なままでいる人が多くなったのが現代である。つまり現代は、その様な人達を許容できるほど豊かな社会なのだ。だが野口の時代は決してそうでは無かった。時代はもっと厳しいものがあった。

アメリカに渡った野口は、最初蛇毒の研究から始まり世界的に猛威を振るった性病の原因であるスピロヘーターパリーダの研究を志し純粋培養に成功した。それはあとで不確かな面も指摘されたが、純粋培養は、現在誰も成功して居ない。その後に野口を死に至らしめる黄熱病の研究に邁進するが、アフリカのアクラで、研究対象の黄熱に感染して51歳の人生を閉じることになる。現在の認識では黄熱はウイルスであり、光学顕微鏡が対象とした細菌とは異なる、もっと小さな生物と無生物の中間に位置する物である。まさに物質の一面を有している、それはDNAが無くRNAだけで構成された濾紙を透過する小ささの生物である。物質と生物の中間に位置する最小の物質である。野口はそれを知らずに挑戦したのだった。

細菌学は、19世紀前半から~20世紀の半ばまで、基礎医学の花形の一つであった。我々は、この分野の研究の成果に依って命を長らえて居ると云えよう。ペニシリンは、普通であれば死に至る症状を快癒させたし、多くの若者のいのちをうばった結核は、ストレプトマイシンなどに依り治る病となった。この成果はいくら強調しても足りないくらいだ。思いもかけない場所でカビ等を主体にした中から、新型の特効薬が発見されたのだ。20世紀のやり残した仮題にガン治療がある。この治療は難しく、これは細菌と言うよりもウイルスが原因で起こると同時に、我々を作る普通の細胞自体が自己増殖機能としての、ガンの前駆的機能を持っている。自分の細胞がある日突然ガン化して暴走的増殖を始め、それが転移し各所で生体の機能の全体を破壊する。人はその寿命が永くなるに従いガンは恒常的に生体を襲う事に成る。ガンの治療の難しさは、これまで感染症とは全く異なる世界でもある。

 彼は51歳で、アフリカのアクラで黄熱に感染して死ぬ訳だが、野口英世が生まれ育った会津猪苗代、その猪苗代の夕陽と、遠く離れたアクラの夕陽の距離は、彼がたゆまず、夢中で歩いて来た、人生の距離を物語っては居ないだろうか?。 野口は、渡米してから足った一度だけ帰国した事がある、帝国学士院賞、受賞の為に戻ったのだ。それで故郷の父母にも会えた。その帰国の歓迎会で、過っての上司であり、野口を送り出した北里柴三郎は、「研究所では、毎日実験動物の世話ばかりさせられていた、下働きの所員の為に北里は静かに歓迎の言葉をのべた」と、野口英世の評伝、遠き落日に渡辺淳一は書いている。このあたりが野口の故郷に錦を飾ったピークであったろう。また、白人に拠る白人以外の人種への偏見と差別が無ければ、北里はその医学的な業績から云って第一回のNobel医学生理学賞を受賞していた事だろう。人種的偏見と差別は今とは比較にならない時代であったのだ。

日本史上に於いて、明治という時代はどんな時代であったのだろうか?。漱石が云うには日本の伝統文化を否定し、遮二無二西洋文化を礼賛し、それに向かって直走りに走りに走った時代だという。押しなべて、自分の文化を顧みずの西洋化に、違和感を感じた文人たちも多い。特に明治期の西欧化は、明らかに日本の技術的現状と比べて西洋の技術は進んでいた。 西洋化は日本社会に其れなりの影響を与えた。然し現在は、昭和二十年八月十五日以降の日本は自国の文化的国体を忘れつつある。過去の遠い歴史の中で、日本人は海外文化を上手に取り入れて来た。それには大事な条件が有る、それは日本語と日本の伝統的価値観を維持した上での海外文化の移入であろう。それが無ければ、恐らく日本文明は掻き回されて、独自性と活力を失う事に成るだろう。特に今は、移民を入れろ・移民を入れろと、馬鹿騒ぎをマスコミが煽って騒いでいる。それは永い未来・将来への分水嶺の時代だと考える。それが吉と出るか凶と出るかは、あと100年経たないと分らない。それは今の時点で生まれた日本人でさえ生きて居ない未来である。現在では、とうに海外に雄飛した明治人の大きな夢はすべて過ぎ去ってしまった。しかし故郷の猪苗代の大きな自然と夕陽は、変る事無く今日も清作の子供時代と同じ様に湖畔を赤々と照らし出しているに違いない。

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日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)ー私度僧「景戒」の生涯

2017年11月08日 09時23分56秒 | 日記

 日本霊異記は奈良薬師寺の僧、景戒によって著された勧善懲悪と因果応報を説いた仏教説話集である。日本の数多い説話集の中でも「日本国現報善悪霊異記」ーここでは簡単に霊異記と呼ぶ事にする。これは最も古い説話に属するものだ。仏教説話としての「霊異記」(日本古典文学大系ー岩波版を参照している)が成立したのが、解説者氏の話では弘仁13年(822年)と言うから、ザット数えて1195年も前の事である。景戒のこの著作が3~4年で書き終わる訳がないから、それに編集と筆記を換算すれば、凡そ1200年以上前に書き出された物であろう。上・中・下と3巻に分かれていて、上巻35話、中巻42話、下巻39話、合計116話で構成されている。おもに仏教的な因果応報を基にした、勧善懲悪の話が説かれているのだが、中には、それとは直接関係のない庶民の挿話もある。私がこの霊異記に親しみを感じるのは、当時の人々の素朴な生活実感も描かれており、平安時代初期の自然観、生命観、価値観が、自ずと滲み出ていて、誠に胸を打つものがあるからだ。景戒の自己紹介とも云える短い自叙伝が、下巻の終り近い38話に収録されて居るので、それは著者がこの説話を読むであろう不特定多数の読者に向かい、己の人生を語ったものだろう。

日本国に仏教が入って約300年、当時の仏教は「奈良仏教」と云って、インド由来の仏教を鳩摩羅什や玄奘らがダイレクトに漢訳した物であり、それは日本人の国民性に合う様な、十分に消化された仏教では無かった。一般庶民にはアビダルマ(存在の分析)とか言われても、何の事だかサッパリ分らないはずであり、その意味では仏教哲学としても、心の救済の宗教としても、一般民衆の心の血肉としては受容されていない未消化な外来思想であったと私は想う。どんな偉大な思想であれ、その民族の根底に在る生活感情と結びつかなければ、決して血肉と成る事は無いと言ってよい。南都八宗は学問としては、誠に立派なものであり、存在論や、認識論、宇宙論、生命論、呪術論など、大変に哲学的であり分析に優れて居り、果敢に人の心の深淵に探求の道を探し深層心理学的であるが、どこか一般民衆の生活感情と合致しない物があったのだろう。倫理哲学としては余りに高尚であり、庶民の生活感情とは直接的には薄いと感じられる。仏教が渡来する以前に日本国の民衆の中に在った信仰がある。それは遠く何万年もの過去にまで遡る事が出来る自然信仰でも有った。後年(江戸時代)に神道は整備され宗教の形態を感じさせる物に近付いたが、本来は自然に対する恐れ、或いは畏れの感情と感謝の感情の入り混じったものであろう事は、いまも日本の祭りが引き継いでいる潜在意識である。日本文化の根源を知るには、この原始神道の姿を明らかにする事が必要だ。自然を崇拝する古神道は、現代の一神教よりも何層倍か優れていると私は想う。人類を救うのはこの神道であろう。それは我々が常には忘れている魂の故郷へ誘う物であるから。

景戒は、この霊異記を書く以前は、和歌山と奈良の境辺りに生まれた人で、生家は何をして居たのか?兄弟は何人居たのか?よく分かっていない。想像だが、おそらく一集落の長、辺りの家にうまれ、二十歳くらいで結婚し、何かの商いの様な事をしていたのだろう。文字が書けて計算が出来るのには、職業としては商人辺りが想像できる。どんな事情が有ったのか分らないが、然し後年に薬師寺の寺僧に成って居るからには、景戒には僧に成りたい、或いは成らねばならぬ強い意志が有ったのかも知れない。僧は、当時は謂わば高級な職業であり身分でもあったのだろう。当時の僧は自分で勝手に成れるものでは無く。正式に僧になるには日本にある三戒壇(当時、日本には三か所に戒壇(当時の総合大学)が在った。それは北から、下野薬師寺、奈良の東大寺、九州の大宰府である。)で学び、官許を得る必要が有った。それが無い自称の僧は私度僧と言った。

原始仏教、草創の地であるインドの仏教は「日本霊異記」が書かれた9世紀半ばには、なぜか、当のインドでは衰退し、およそ10世紀には消滅している。砂漠の中から生まれた一神教が、強烈な布教を展開し、従わない民族を暴力で破滅に追い遣ったような事は仏教では見られない。元々、仏教は一神教のような神を前提として居ないのだ。その本体は心理学と思弁哲学に近いものであり、一説では、仏陀はモンゴロイドであった可能性もあるという。一神教の特徴である神という支配者は仏教では存在しない。それは神道でも同様だ。草創に地で消滅した仏教は、それでも「北伝仏教」として、チベットに波及し、当地の伝統信仰であるボン教と融合して「チベット仏教」として法灯を守った。チベット仏教には「西蔵大蔵経」の膨大な経典群が残されて居り、インドではすでに失われた経典類が残されて居る。これは貴重な物で、9世紀末には衰退し10世紀にはインドで消滅した小乗仏教、大乗仏教の、その経典がチベットに伝えられた事の意味は大きい。

また、北伝とは別なコースで、小乗仏教である「南伝仏教」が有る。これはスリランカからビルマ、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、に伝わった。北伝は主に大乗仏教の系統だが、南伝は小乗仏教の傾向が続いている。私は行った事は無いのだが、生きている内に一度で好いから出掛けて見たい。ジャワ島にはボロブドールの遺跡が有る、カンボジアにはアンコールワットの遺跡が有り、当地では大いに栄えた事を物語っているらしい。仏教が発生の地でなぜ滅びたのか?には多くの原因があるだろう。仏教はヒンズー教に吸収される形で現在もインドの中に痕跡として残っている。

百十六話という、多くの話は日本各地の怪異・奇譚として話題に載せられたものである。一つ一つ読んで見るのも宜しかろう。面白いもの、考えさせられるもの、好色で滑稽なもの、機知に富んだもの、恐ろしいもの、悲しいもの、奇跡的なものが根幹と成っている。景戒は、この説話集を書くにあたって、何を資料として参照したのだろう。彼がこの仏教説話集を書く以前に、この様な伝承逸話は他にも存在したのだろうか?、多分、有ったと私は想像している。人間の生活、その社会性、男女の営みは縄文時代を遥か超えて、人間に成ったときから生活感情は存在していたのだから。恐らくは、薬師寺が寺のネットワークを通じて集めた、各地の数々の逸話、伝承、奇縁、奇跡、色欲、吉兆、悪事、善行、狂気、慈悲、徳、化け物、幽霊、怪異、などの話が、すでに有ったのだと思われる。先ず彼がひとりで、これだけの話を集める事は現実には不可能だ。然し乍ら景戒は行基菩薩の弟子だったとも聞く。行基上人に従い、各地を放浪し逸話を集めないとも限らない。ただ常識的な考えでは、薬師寺の指導者が景戒に寺が集めた所の逸話伝承の編集を命じたのだろうと思う。

むかし親父の本棚で、子供の頃、たぶん小5だろう。この本を見たことがある。おそらく岩波文庫だろう。題名を見ると何とも恐ろしげな題名である。「日本霊異記」、「霊異」とは、お化け幽霊のことか!と思っていたのだ。臆病な子供であった私は、その題名から容易にこの本を開く事はなかった。なぜか知らぬが子供はお化けや幽霊を怖がる。生まれて来る前の深い記憶が、そうさせるのか??景戒、個人に付いて、その下巻38話の話以外に、確実な人物像、性格、描像、などは伝わってはいない。彼がどうして私度僧に成ったのか?僧になると云うのは、当時はどういう志向性が働いたのだろうか?是だけの話をまとめるには、切磋琢磨の相当の努力が要求される。逸話伝承は、生のかたちでしか伝わって居ないだろうから、それを勧善懲悪を背景とした説話として編集するには、確かな知性と文才が必要だろう。


 私は思うのだが、「霊異記」の中に、ある貧しい夫婦の下に起こった事件がある。私には不思議と、その話は景戒自身の身の上に起きた怪異と二重に見えまた思えて仕方がない。それはこういう話である。

 ある年のこと、夏が涼しくお天道様の光が見られぬほど悪天の日が長く続いた。その年の秋は、五穀がことごとく実らなかった。夫婦はやまの毛物をとって暮らしを立てていたが、その年は毛物さえ死に絶えたかと思われるほどに、山には毛物が見つからなかった。穀物と毛物を交換して暮らしを立てていた男は、食べる物にも事欠いた。妻はやせ衰えてお乳さえ出なくなり、腹を空かせた子供は、泣く力さえ失っている。男にはもう一刻の猶予も無かった。やまの中の大池に行けば、沢山の渡り鳥が来ているだろうと思い、朝早く気力を振り絞って、妻子の為に家から五里ほど離れた山の池に弓と矢をもって出かけた。

男は、道も不確かな山道を息をせいて急いだ。家に待つ、歳の行かない子供と妻の為に必ず獲物を得ようと決心して居た。森の中の大池に着き、静かに木の陰から覗いてみると、毎年、数多くの渡り鳥が羽根を休めている筈の池には、池之端に足った二羽の鴨の夫婦が泳いでいるだけである。男は、鴨でさえも飢えているのか?と思い、木陰から大きな方のオス鴨を狙って矢をつがえて放った。矢は運よくオス鴨を射て男は鴨を手に入れた。鴨を手に来た道を帰る途中には、山のキノコが沢山生えていて、汁の中に入れて食べれば、これほど美味い物はない。腰籠に一杯のキノコで、今夜は腹を満たす事が出来る。秋の日は暮れるのが早い、キノコや木の実を拾いながら家に付くと、その夜はキノコを料理して、妻も子も腹いっぱい食べて、久し振りにヒモジイ思いをせずに寝た。

 だが夜半に成って不思議な物音が、台所の方から聞こえてくる。ガサガサという音に目が覚めた男は、さてはキツネが狙っているのか?と、そっと台所の方を覗いた。そこには取って来たオス鴨を梁に掛けて置いたはずだ、弓と矢を持ちだしてつがえた。だが、何とそこには、池で一緒に泳いでいたメスの鴨が、冷たくなったオスの鴨を、一生懸命に温めて、しきりに一緒に飛んで行こうと、揺り起こしている場景だった。男は一瞬にしてすべてを悟った。男の手は震えて、目には涙がドット溢れ出た。男は鴨を殺した事を深く悔いた。生活のためとは云え、メスの鴨に取っては掛替えのない夫の鴨を射てしまった。これまでも、生活の為に毛物を取って暮らし、数々の生き物の命をうばう殺生をしてきた。男は深く悔い、妻子をあずけて僧になった。

 日本霊異記に書かれた、この話の男が景戒であるとは言わない。然し、私は、この話を読んだとき妙に景戒のことが思い出された。若しかして私度僧になった理由の一端には、これにも似た事が有ったのだろうか?と。

元々日本人は、大自然の摂理を自らの倫理として生活を立てて来た。ゆえに、山を神として命を取って生きる宿命、その為に夥しい神社を奉り、生きモノに感謝をして生きてきた。それは、縄文以来変わる事はなかった感情だ。大自然と言うものへの心の持ち方で有り、なを且つ、自分自身が大自然に属する物としての生活の規範であった。自然の恵みに感謝し、その畏れを知る生活感覚があった。それが、日本の根幹であり日本人の生き方であった。仏教は、そこにひとつの哲学を持ち込んだ。だがその哲学が日本人の生活感情に溶け込むまで、仏教は本当の意味では日本的文明には受容されなかった。仏教が日本に受容された後の伝統は、神道と仏教の融合であり、それはいま今日も連綿と続いている。

宗教という方便を離れて、世界は死にゆくものと生まれくるものとの出会いの場である。出来れば、此処では、世界と言う硬い言葉を使いたくはない。「この世」というコトバが一番似つかわしい。「この世」と云う言い方は、すでに「あの世」を前提としている。

世界と言う場があるのでは無く、生まれくるものが、それ自身で時間を背負っているのだから、その時間を背負ったいのち自体が、出あう場がこの世だ。あの世はこの世に現れる以前の、混沌としたものと言う以外の想像が湧かない。現在の全ての宗教は、それを解く力など元より無いと知るべきだ。幕末に日本を訪れた多くの外国人が、日本と言う国の特殊性について言及して居る。彼らの疑問は、日本人が貧しい身なりをして居るにも拘らず、「みな一様に幸せそうな顔をして日常を生きている事」であったという。ペリー艦隊が来航して幕府の官僚と会い、帰国するときのペリーの書簡は、日本と云う国がやがて世界の最先端に変貌するだろうと書いて居る。彼の航海記を読むとペリーの眼は節穴では無かったらしい。

古典としての「日本霊異記」が、私達に新たな感動をもたらすのは、生活感覚に溢れたた多くの話が、自然に我々を、日本と言う国の、本来の国体という文化的伝統に連れ戻すからなのだろう。絢爛たる日本古典文学群の森は、今まで余りにも蔑ろにされて来たのが現状だ。古代から紡ぎ残された、我々の祖先の培った膨大な量の古典文学の原生林、幾多の哲学思想の深い森を、自ら探検する若者は居ないのだろうか? 

先日、親父の蔵書をひっくり返して居たら奥の方から、ボズウェルの「サミュエル・ジョンソン伝」が出て来た、30年以上も前の、中野好之(「すっぱい葡萄」の中野好夫の長男)翻訳の三巻本である。暫し、この本を読むうち、あの有名な英語辞典の編纂者サムエル・ジョンソンの語る強烈な機知と皮肉、(腐敗した国家には、多くの法律がある)とか、(地獄への道には、善意と云うタイルが引き詰められている)…に驚嘆していると、ふとジョンソンよりも1000年以上も前の説話集の景戒も、こんな人物の一面も有ったのかもと思われた。そして同じく、明治の画期的な日本初の国語辞典「言海」の製作者大槻文彦を思い出した。著名な医家でもある大槻玄沢の孫として国語の統一に尽くした人物である。

江戸から明治にかけて、日本語を現在ある口語体に創り上げて行ったのは、漢学を基礎土台として持ち、更にその上に蘭学を乗せた人々であった。過去の膨大な古典群と共に、今の日本語が有るのは、この様な遠い昔から言葉を磨いてきた人々の弛まぬ努力と熱意に因る物である事を改めて肝に銘じた次第である。これ等の人々は日本人の誉れであります。 井頭山人(魯鈍斎)

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