現代の物理学には外部世界をどう理解するかという明確な目的が在る。当然のことだが、その目的の為のモデルがある。モデルが現象を必要かつ十分に説明するか否かに因り成功したモデルと失敗したモデルに分かれる。例えば成功したModelのひとつに万有引力のModelがある。天空にある惑星系の運動を説明する為にIsaac・Newtonは万有引力のModelを導入し得たのは、Newton以前に惑星の運動を研究した二人の男が居たからだ。一人は寡頭政治時代のItalyに生まれたピサ大學の自然哲学の教授Galileo・Galileiであり、もう一人は神聖ローマ帝国時代のGermanyに生まれた神聖ローマ皇帝ルドルフ二世の直属占星術師であるJohanns・Keplerである。
この二人のうち、特に数学に秀い出て居たKeplerは、ティコ・プラーエの、当時世界最新で目視の観測としては正確無比のデータを欲しがったが、ティコは容易に自分の大切な観測データを与えようとはしなかった。自分を出し抜いて、新たな理論を立てられる事を好まなかったのであろう。ティコが尿毒症で亡くなると、観測データはKeplerに委託されて、初め稀有のてデータを解析する事が出来た。当時は微積分は発明されて居らず、現代風な分析が出来たとは思えないにも係わらず、Keplerはこのデータから、後に彼の法則として有名になる三つの遊星の運動法則を導き出した。この時点でティコのデータから遊星の法則に関する現象的な把握は完了した。1609年~1619年の間の事である。
ルドルフ二世は皇帝直属の占星術師としてのケプラーに給料を払わず、一家は食うや食わずの状態であった。その癖ルドルフ二世は豪華な調度品には高い金を出す事を惜しまなかった。当時から見れば珍奇な物語をKeplerは書いた。後のジュールベルヌ顔負けの空想小説である。人間の月旅行とか正立方体が互いに内包し合う関係の宇宙の星の構造に附いての、理念的なプラトニズム認識である。この時代の科学者は今で謂う科学者ではまるで無くて、どう言えば好いのかな、占い師と夢想家と数学者を足して割ったような存在である。ヨーロッパを襲った30年戦争の狂気の中でヨハネス・ケプラーはその生涯を終えた。
彼の友人にあてた最後の書簡は、時代を超えた者が味会う孤独を何よりも感じさせるものであった。このKeplerの三法則とGalileiの落下の法則などから、Isaac・Newtonが彼の力学を創り出すのは最早時間の問題であろう。だが、この万有引力の本質を説明するModelは形成されてはいない。肝心の重力の本質は説明されてはいないからだ。300年後にAlbert・Einsteinは重力の本質を捉える為に空間の歪み(曲がり)を導入した。空間の質量に因る歪みが引力をもたらすとした。物質はおおよそ質量を持つのだが、その質量が空間に歪みを創る。その歪みが作用の原因となるという。Einstein以前に誰もそんなことは考えた者は居なかった。空間が歪む、そうするとEuclidの平行線の第五公準が成り立たなくなる。
だがEinsteinよりも100年以前に相対論が要請するその幾何学はロシアのニコライ・ロバチェフスキーとハンガリーのヤーノッシュ・ボヤイに依り出来て居た。非ユークリッド幾何学である。そしてその後にもドイツの天才ベルンハルト・リーマンも非ユークリッド幾何学を創り上げた。ロバチェフスキー・ボヤイの非ユークリッド幾何学は双曲的幾何学であり、リーマン幾何学は楕円幾何学である。双曲幾何学の二つの平行線は、平衡を保つどころか宇宙の遠方では互いに遠ざかって仕舞う。反面、リーマンの楕円幾何学の二つの平行線は宇宙の果てで必ず交わるのである。平行線の公理を取っ払うと幾何学は三つ在ったのである。
Einsteinはこのリーマン幾何学を一般相対論の建設に使った。物質(質量)が空間の歪みを創る。だがこれは本当なのだろうか。そうだとしたら空間はなぜ歪むのか?。むかし18世紀の初期にプリストリーが主張したフロギストン説と云うものが在った。物が燃えるのは(燃素)という物が物質の中に在るからだという説です。立派な化学者であったプリストリーのフロギストン説は今では小学生にも笑われてしまうものだが、概ね自然認識はこの様な紆余曲折をへて進んでゆくのである。
だが数学には果たして物理のような明確なモデルと言う物は存在するのだろうか。というのは数学の特徴としてモデルが形成できない種類の学問であるからだと思うからだ。数学は外部世界の説明というより、内的整合性と意味・論理、などの必然性に基づいた幾何的・解析的基礎からの有の思考の過程が在り、明らかに物理とは異なるもので動いている。物理に比べて自由なのである。探求のMethodとして数学はすべての科学と称される方法論の土台なのだ。果たして(数)とは何なのだろう。それは自然の現象を観念化したものであると、漠然と感じている人は多い。然し、本当に数とは一体なんなのだろうか?、これは人間の観念文化の一歩であり、ことばと共に人間の知的発達の賜物なのであろうか?。
筆者には、数は「思考の原子論」「観念の原子論」として存在し、人間の知能に飛躍的な空想力を創り上げた能力であると感じている。数の観念を創造したがゆえに、人間は数という思考の原子に因って、高度な観念体系を構築することが出来た。「数の本質について」、筆者が漠然と考えて居た概念を、きわめて興味深く語っている人がいた。考えて居た事と全く同じ内容が、そこでは語られていた。ある書店で偶々手に取ったのは、インド人の脳生理学者ラマチャンドランの本である。彼の著書「脳の中の天使」という、彼の何作目かの本をパラパラと拾い読みしていると、偶然にもそこに「ウオルター・マッカロ―」の言葉が引用されていた。「人間が考える数とは、いったい何なのだろう?、そしてその数と考える人間とは何なのだろう」という問いである。
偶然という物は面白くてある意味ではそら恐ろしいものだと、筆者は再び思いを新たにした。そう言えばこの様な不思議な共振は何度でも起こったことを経験している。例えば或る記事を読んでいて、その記事の主人公として引用されている人間が、たった今自分の手元に在り読んでいる本の著者であったりするという一致は幾らでもある。関心のある傾向が同じ分野であるという事からすれば、奇跡というほどでないにしても単なる偶然ではないのだろう。ウオーレン・マカロックは、マッカローなどと表現されることもある人で、印象的なのは、このマッカローという人は、筆者がむかし親しんだ本の中に出て来る人物であった。世界の名著「現代の科学Ⅱ」のなかで、ウィーナーやノイマンと共に取り上げられて居た人物である。
今で謂う処の脳神経科学や思惟・思考力をもつ細胞計算機などを目指したニューラルネットワークの原初である。「サイバネティクスと脳」のなかで、最初の神経モデルを構築したのは、このウオーレン・マカロックとウオルター・ピッツであった。彼らが創り上げたモデルは、カエルの目の神経網の研究を基にした、ごく簡単な神経細胞のモデルである。だがそんな方面の人であるマカロックが、なぜ数について上記のようなことを口にしたのであろうか?、この人は工学者なのか?数学者なのだろうか?。なぜ工学者がこんなことを考えるのか?不思議であった。彼のキャリアと知的背景を知らなかったのである。これらの数というもののテーマは数学の範疇の中にあるが、然しおよそ哲学の問い方である。
調べてみるとマカロックという人は単なる外科医という訳でもなく心理学や哲学・数理科学に関心を持ちそれを身に着けた知的背景の在る人物らしい。ピッツとの関係はどうなのだろう。このウオルター・ピッツという人も面白い個性的な人物らしい。この二人が人工知能の基礎ともなる神経細胞を模した神経伝達モデルを最初につくったのはそれなりの理由がある。彼らはカエルの眼の視神経情報網に関する電位伝達のモデルを創ろうとしたらしい。脳神経系の初めの初歩は、神経を流れる電位の波動モデルを知らねばならない。長く伸びた神経細胞中を流れる電位の研究は烏賊の巨大神経を使ったホジキンとハックスレーの試みが在るが、現在では神経伝達モデルはもっと精巧に追及されて、高度な超集積回路を考えるうえでの参考に成っている。
LSIは平面的な物から立体集積への道を進めば一挙に千倍の集積度を持つ事に成るが発熱の問題は残るだろう。人工知能はSF的な世界の産物だが、それには意識という状態が必要で、「独立した意識」とは、他と区別する自我の存在が前提に成る。AI将棋、AI囲碁、などは考えられる限りの手の内で最良の手を多く学ぶことで、人間の判断力を凌駕することが実際に起きている。果たしてほんとうに自らの意思で物事を判断し思惟する機械を作ることは出来るのだろうか?。
フランス百科全書派の思想家ド・ラ・メトリは人間機械論というテーマで本を書いたが、それは人間が手足を始め臓器の各々に至るまで機械的側面を有していて機械で代用できると言う想像に基づいた空想だった。人間の動きは精巧なロボットで再現できる。だが思考を司る脳神経系の再現は未だ手探りで海の物とも山の物とも言えない段階だ。もしも人間よりも滑らかに優雅に動くロボットが出来れば、生産工程にきわめて大きな影響をもたらすだろう。人間の肉体的な労働はロボットに代えられる。そのとき人間は自分の生き方を問われる事になるだろう。生きて与えられた時間の真の有効な使い方が問われる。
それは人間の創り出した道具で最も珍奇で画期的な物は計算機である。その根本は加減乗除を可能にする計算機で算盤である。それは日本に伝わった段階ではただの単純な棒に木の球を指したものに過ぎず、日本で進化した現在の算盤とは異なるものである。日本人は明時代に伝わったというソロバンを使いやすく変えた。それ以来ソロバンは進化して、現在でもソロバン教室が生徒を訓練している。木の球を動かすソロバンから、機械式計算機まで計算機の進歩には長い時間が掛っている。第二次大戦中に電子を用いた電子計算機が発明され、電子計算機の時代となった。そしてその計算速度を争う時代に突入した。現在の超高速計算機は大電力を使った電子の発熱体です。真空管よりも増しですが、transistorと使った物でも相当の熱が放出されます。これでは冷却の方が問題に成ります。
ところが最近全く新しい原理を使った超高速の計算機が出現しょうとしています。勿論、最初はこんな物が果たして出来るのだろうか?と、半信半疑でした。量子の性質を使った計算機構です。1920年代に最初ド・ブローイが提唱した物質は波であり波は物質でもあるという物質波の考えで、電子は粒子でも波でもあるという性質を使ったもの。観測するまでは物事は中間の状態にあるという、日常生活の常識レベルでは判断を逸脱する世界が量子では広がっているらしい。現代の標準論ではどんなデータの移送速度は光速を越えることは無いと謂うのがありますが、この場合はどんなに離れた電子の片割れは、一方がONと出ればもう一方も同じ反応がでる。遠方、光速で一億年かかる距離にある物でも瞬時にそれがでる。
何か少し気味が悪い世界です。多重世界というアイデアが在る。別な世界が今我々が生存している世界と重なっている。というアイデアです。私の先祖もこの部屋で存在している。ただ物質反応をしないので存在しないも同様だ。遠方と云うが、空間は果たして実際に存在しているか?という疑問をいう人も居ます。人間の自然探求は、平板なものから立体へ、そして人間が感覚的に理解している三次元から四次元へ、更に多重世界へと進んでいるように見える。
あと100年いや1000年後の人間の科学はその多重世界を掴むことが出来るかも知れない。何にしても、思考過程の本質を知ること、物質的な物から派生する感覚の神経網、それが齎すで在ろう所の、自分という意識、いわゆる心と言う物の実態。それがあと1000年間の課題だろう。数学と言語、物理と心、化学と情報、これらは実のところ同じものなのだ。数学と言語は明らかに相補的な物だし、物質と意識は互いに関係し同様に相補的なものだ。化学と遺伝子は言うまでもなくDNAという生物情報が核に成って居る。分子レベルでの指令書であるところのデオキシリボ核酸の四つの塩基の列で書かれた、その情報は何だかチューリングマシーンの概念や、モデルその物の様な気がします。理想化された概念としてのチューリングマシーンの場合は無限に長いcodeだが、それに読み取るHeadもひとつであるが、人間の場合、いや生物のと言い換えた方が好いがそのDNAの塩基列は全部読み取られた。ではそれで全部理解できたかと云うと、そんなことはまるで無い。ある特定の人間の塩基列が初めから終わりまで読まれたに過ぎない。もちろんその塩基列は有限であり、Headもひとつではないだろう。
どうしてこんな長いcodeが出来たのか⁇。もちろん、それは生命の継承が途絶えることなく存続している過去の膨大な経験を宿してゐる為だろう。長いcodeには現況では何に使われるcodeなのか判断の付かない部分が全体の70%にも達する。これは要らないものではなくて、過去の環境変化に対するストックとも想像できる。地上の表面に活動している生物の内部には(つまり分子遺伝情報)現状の生存環境とは全く異質の歴史が記録されていると思った方が好い。これ等の情報もいずれは新たに読む方法が数学的に解明され込まれそのcodeの内容は驚くべきものを示唆するに違いないと思える。この解明こそ、いま最も重要な探求の分野であろう。此れこそが心と言う物の正体を明らかにする最初の手段であるに違いない。