小学校ではπは円とその直径の比ということで大抵は習う。小学校ではそのように、先生が教えてくれた。如何にも円周とその直径の比は、最も単純で簡単そうに見える関係であるし、見ればみえる関係だ、こんな簡単な関係を円周率πとした。円の面積を求めるにはπが必要だ。だが問題は単純そうに見えるにも係わらず、πはそれだけにとどまらない。結果的にその比は、自然構造の最も基本の指標としての重要な機能を有する。真円は存在しないのです。円は常に近似値にすぎません。
円に付いては江戸時代の我が国の算家も、他国の例にもれず深く研究して来た。我が国の算家で、彼等が得たπの数値は41桁にまで及んでいる。和算はおもに平面に於ける図形の関係を探索していたが、もちろん立体に於けるπの関係をも思索していた。物事の性質上、三次元が探求されれば、四次元と進むのが自ずと自然の成り行きである。円と球は和算でもとくに重要な分野を創り上げた。円に関しては、円を置いてそこに様々な形を内接させそこから最小の円の直系を出せとか、面積を出せとか、そういう問題が神社仏閣の軒下に掲げられている。いわゆる算額である。この算額の問題は実におもしろいし、問題を分類して面積・体積を求める問題は江戸時代に大流行になった。一般の町人・百姓・神主・武士・他、実に多彩な人々がこの算額を奉納する事に誇りをもってゐた。日本の数学である和算が全国にひろまり国民的なゲームに成ったのである。当然の事だが、多くの算術道場が出来、有名な和算家も多数登場した。江戸時代は、こんな面白い時代だった。日本人の民族性と好奇心の現われであろう。
円を探求していた算家たちが、そこで気が付いたのは、πが円周と直径の比だけではなく、無限と密接に関係していることであった。彼らは、この比が何を意味するのかを探ったはずである。そしてπが、大自然が、その実体を構成する際の目盛りになることを発見した。πは深く無限級数と関連している、そして自然の階層的構造とも関係している。これは想えば不思議以外の何物でもない。この円周率πは、もっとも簡単にして、もっとも深淵な力を発揮している事を子供たちに知らせることが大切だろう。
πと共に話題に上るのが自然対数の底eである。対数は指数といわゆる対の関係にあり、互いに密接に関係している。ただし自然対数の底eは何か実態とは関係せず自然数列の二乗の逆数の無限級数として表現される。πとeの物理的な差は何なのだろう。小学生に数の神秘を教えるのには過って無い題材だろう。日本がAsiaでは突出した数学国であるのは、江戸時代の和算の成果が物語っている。数学は楽しいゲームである。簡単な比や関係に、自然の構造の深い神秘を解くのは数学を於いてほかに在ろうとも思えない.
円周率πは無限級数の中でも特別な性質をもつ超越数という分類になる。超越数とは無限に続く数列で、一つとして同じ数単位を繰り返さない極めてランダムな数列である。πが超越数であることを始めて証明したのはFranceの数学者リンデマンだが、この後も幾つかの超越数は発見された。この性質は実に簡単な現象から導き出されるにも係わらず、自然界に於けるその本当の意味は未だに把握されてゐないと私は思う。πは明らかに自然の構成段階に大きな影響を与える基準となっている。こう言った数の関係が自然の構造物に投影する現象を明らかにする事は実に重要な物です。そのような基本的な関係は自然解釈の際の膨大な領域をもってゐる。πは無限級数と深く関係しているが、その本質をまだ私たちは把握してゐない。この様な基本的係数が深く自然現象と関連しているなら、それはどこにでも現れる。私たちは円周率を簡単に理解していると思って居るが、そうではない。この様な基本的な背景を、小学生・中学生にも教えるべきです。多くの日本人が数学に好奇心を持つのは、日本語と云う言語と無関係ではない。ここにまた新たな文化的位相に関する言語の持つ性質が出現してくる。
仮に想像上の球体がありその周長が1だとすると直径は0.3141592653…となる。直径は定数ではない、無限に続く級数である。これが原子の最小単位であるとすると半径0.1570796327…が内的宇宙の形であろう。数字の列には大した意味はない。形のもつ蓋然性から大体の比が分ることが大切だ。ではこれらの形から光の速度を導き出せるだろうか。光の速度は宇宙の拡大から言えばもっと速くなって好い。光の速度は何に因って齎されるのだろうか。空間という物はほんらい存在するのだろうか。我々の周りにある現象が形に因って決まるとするなら、宇宙の形は根本的な何かを語っているはずだ。宇宙に外側はあるのか?宇宙の起源の問題は今も解決されていない根本問題です。アラユルものが起源をもつなら、我々の宇宙も始めと終わりという物が在る。という考え方だ。終わりもまた初めである。終局的な終わりはないし終わりは新たな始まりである。それは円環的な物だろう。人間は空を観る事からそんな考えが浮かんだ。またビックバン仮説を唱えたガモフも宇宙が膨張しているのなら、その膨張を遡って行けば、一点に収束するというアイデアから、ビックバンを唱えた。それが正しいかどうか私は知らない。だが宇宙が一つだけでも無さそうだ。色々な宇宙がある。
幾何学はおもしろい、それは目視で判断できるからだ。小学校中学校時代に幾何学の定理に嵌まった人は少なからずいる。世の中にはおもしろい事を考える人がゐて、日本では掛谷宗一先生も、そのお一人かもしれない。掛谷さんが考案した問題は、後に自動車エンジンの構造に発展する。四角い便所の中でその一辺と同じ長さの槍を振り回すにはどういう形か?平たく言えばそういう問題。「四角い立体の中で振り回す、つまりぶつからずに回転させる為にはどういう形が有るか?」変な事を考える人は掛谷さんだけではなく同じ時期にも居たようだが、本格的にこの問題は「掛谷の問題」として数学史には残っている。
簡単には平面を考えよう、その四角形の中でぶつからずに回転できる形は、誰でも思い浮かぶのが円である。外には無いのか? それがあるのだ、おむすび形の三角形である。つまり一般的にローターと私たちが読んでいる形である。自動車エンジンの構造と書いたが、ロータリーエンジンのModelである。このエンジンの原型はGermanyの工学者バンケル博士によって考案されたが物に成らず、日本の自動社メーカー松田工業が特許を買い、苦労の末にロータリーエンジンとして完成された。日本の工業技術の創造性は素晴らしいものが在る。面白い発想はその時には何の応用価値が見えないが、そのときには価値が見えないけれども、将来的には何らかの重要な物に発展するものなのだ。荒唐無稽でなんの価値も見えないと言われるものほど、遠い将来には重要性を持つ。数学とはそんな物の代表的な例です。抽象度では数学と哲学が一番上に成る。その次には物理、化学、生物学、そして医学が一番、具象的具体的な領域となる。
* 思義と不思議を深く思索する事が必要のように思います。解るという事は、どういう事なのか、解らない事とは何なのか、それは深く探求すれば解る事なのか、それとも我々の精神構造、思索構造では、到底解らない事なのか、その辺を深く広く思う事が一番必要な事です。