井頭山人のgooブログ

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πとはなに?

2024年01月24日 08時47分46秒 | 認識と自然

 小学校ではπは円とその直径の比ということで大抵は習う。小学校ではそのように、先生が教えてくれた。如何にも円周とその直径の比は、最も単純で簡単そうに見える関係であるし、見ればみえる関係だ、こんな簡単な関係を円周率πとした。円の面積を求めるにはπが必要だ。だが問題は単純そうに見えるにも係わらず、πはそれだけにとどまらない。結果的にその比は、自然構造の最も基本の指標としての重要な機能を有する。真円は存在しないのです。円は常に近似値にすぎません。

円に付いては江戸時代の我が国の算家も、他国の例にもれず深く研究して来た。我が国の算家で、彼等が得たπの数値は41桁にまで及んでいる。和算はおもに平面に於ける図形の関係を探索していたが、もちろん立体に於けるπの関係をも思索していた。物事の性質上、三次元が探求されれば、四次元と進むのが自ずと自然の成り行きである。円と球は和算でもとくに重要な分野を創り上げた。円に関しては、円を置いてそこに様々な形を内接させそこから最小の円の直系を出せとか、面積を出せとか、そういう問題が神社仏閣の軒下に掲げられている。いわゆる算額である。この算額の問題は実におもしろいし、問題を分類して面積・体積を求める問題は江戸時代に大流行になった。一般の町人・百姓・神主・武士・他、実に多彩な人々がこの算額を奉納する事に誇りをもってゐた。日本の数学である和算が全国にひろまり国民的なゲームに成ったのである。当然の事だが、多くの算術道場が出来、有名な和算家も多数登場した。江戸時代は、こんな面白い時代だった。日本人の民族性と好奇心の現われであろう。

円を探求していた算家たちが、そこで気が付いたのは、πが円周と直径の比だけではなく、無限と密接に関係していることであった。彼らは、この比が何を意味するのかを探ったはずである。そしてπが、大自然が、その実体を構成する際の目盛りになることを発見した。πは深く無限級数と関連している、そして自然の階層的構造とも関係している。これは想えば不思議以外の何物でもない。この円周率πは、もっとも簡単にして、もっとも深淵な力を発揮している事を子供たちに知らせることが大切だろう。

πと共に話題に上るのが自然対数の底eである。対数は指数といわゆる対の関係にあり、互いに密接に関係している。ただし自然対数の底eは何か実態とは関係せず自然数列の二乗の逆数の無限級数として表現される。πとeの物理的な差は何なのだろう。小学生に数の神秘を教えるのには過って無い題材だろう。日本がAsiaでは突出した数学国であるのは、江戸時代の和算の成果が物語っている。数学は楽しいゲームである。簡単な比や関係に、自然の構造の深い神秘を解くのは数学を於いてほかに在ろうとも思えない.

円周率πは無限級数の中でも特別な性質をもつ超越数という分類になる。超越数とは無限に続く数列で、一つとして同じ数単位を繰り返さない極めてランダムな数列である。πが超越数であることを始めて証明したのはFranceの数学者リンデマンだが、この後も幾つかの超越数は発見された。この性質は実に簡単な現象から導き出されるにも係わらず、自然界に於けるその本当の意味は未だに把握されてゐないと私は思う。πは明らかに自然の構成段階に大きな影響を与える基準となっている。こう言った数の関係が自然の構造物に投影する現象を明らかにする事は実に重要な物です。そのような基本的な関係は自然解釈の際の膨大な領域をもってゐる。πは無限級数と深く関係しているが、その本質をまだ私たちは把握してゐない。この様な基本的係数が深く自然現象と関連しているなら、それはどこにでも現れる。私たちは円周率を簡単に理解していると思って居るが、そうではない。この様な基本的な背景を、小学生・中学生にも教えるべきです。多くの日本人が数学に好奇心を持つのは、日本語と云う言語と無関係ではない。ここにまた新たな文化的位相に関する言語の持つ性質が出現してくる。

仮に想像上の球体がありその周長が1だとすると直径は0.3141592653…となる。直径は定数ではない、無限に続く級数である。これが原子の最小単位であるとすると半径0.1570796327…が内的宇宙の形であろう。数字の列には大した意味はない。形のもつ蓋然性から大体の比が分ることが大切だ。ではこれらの形から光の速度を導き出せるだろうか。光の速度は宇宙の拡大から言えばもっと速くなって好い。光の速度は何に因って齎されるのだろうか。空間という物はほんらい存在するのだろうか。我々の周りにある現象が形に因って決まるとするなら、宇宙の形は根本的な何かを語っているはずだ。宇宙に外側はあるのか?宇宙の起源の問題は今も解決されていない根本問題です。アラユルものが起源をもつなら、我々の宇宙も始めと終わりという物が在る。という考え方だ。終わりもまた初めである。終局的な終わりはないし終わりは新たな始まりである。それは円環的な物だろう。人間は空を観る事からそんな考えが浮かんだ。またビックバン仮説を唱えたガモフも宇宙が膨張しているのなら、その膨張を遡って行けば、一点に収束するというアイデアから、ビックバンを唱えた。それが正しいかどうか私は知らない。だが宇宙が一つだけでも無さそうだ。色々な宇宙がある。

幾何学はおもしろい、それは目視で判断できるからだ。小学校中学校時代に幾何学の定理に嵌まった人は少なからずいる。世の中にはおもしろい事を考える人がゐて、日本では掛谷宗一先生も、そのお一人かもしれない。掛谷さんが考案した問題は、後に自動車エンジンの構造に発展する。四角い便所の中でその一辺と同じ長さの槍を振り回すにはどういう形か?平たく言えばそういう問題。「四角い立体の中で振り回す、つまりぶつからずに回転させる為にはどういう形が有るか?」変な事を考える人は掛谷さんだけではなく同じ時期にも居たようだが、本格的にこの問題は「掛谷の問題」として数学史には残っている。

簡単には平面を考えよう、その四角形の中でぶつからずに回転できる形は、誰でも思い浮かぶのが円である。外には無いのか? それがあるのだ、おむすび形の三角形である。つまり一般的にローターと私たちが読んでいる形である。自動車エンジンの構造と書いたが、ロータリーエンジンのModelである。このエンジンの原型はGermanyの工学者バンケル博士によって考案されたが物に成らず、日本の自動社メーカー松田工業が特許を買い、苦労の末にロータリーエンジンとして完成された。日本の工業技術の創造性は素晴らしいものが在る。面白い発想はその時には何の応用価値が見えないが、そのときには価値が見えないけれども、将来的には何らかの重要な物に発展するものなのだ。荒唐無稽でなんの価値も見えないと言われるものほど、遠い将来には重要性を持つ。数学とはそんな物の代表的な例です。抽象度では数学と哲学が一番上に成る。その次には物理、化学、生物学、そして医学が一番、具象的具体的な領域となる。

* 思義と不思議を深く思索する事が必要のように思います。解るという事は、どういう事なのか、解らない事とは何なのか、それは深く探求すれば解る事なのか、それとも我々の精神構造、思索構造では、到底解らない事なのか、その辺を深く広く思う事が一番必要な事です。

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地球の気候変動について

2023年10月01日 17時45分15秒 | 認識と自然

 地球の気候変動については、大きく分けると三つの要因が考えられる。一つは地球自体の持つ要因である。それはどういう事かと言うと、地球自体の火山活動に因る太陽光の遮断から寒冷化が起きること、火山と地震は原因的には或る意味では同じ物である。地球自体が未だ冷たくなって居らず、中心核付近では原子核分裂に因る発熱が常に地殻を溶かし、外の外皮のプレートは下から湧き上がるプリュームの上昇によって少しずつではあるが移動している。プレートの上に乗っているシリコンの組成を持つ橄欖岩の大陸も少しずつ移動するのである。この事実はGermanyの地球物理学者ウェーゲナーの依って提案されたが、彼が生きている内にはその証明が出来ず、彼は失意の内に北極の探検中に亡くなった。この様に地球自体に起因する原因での気候変化がある。

そして二つ目には、太陽系の中心である太陽の変調に因る地球の気候変動である。太陽の変化を初めて問題にしたのは望遠鏡が発明されてからであり、その望遠鏡で月や星を観測したのは、イタリアの天文学者Galileo・Galileiである。彼は、太陽に望遠鏡を向けて、そこに黒点と称するものが在ることを確認し報告している。これが太陽活動に関して実際に報告として残っている記録の初めである。太陽黒点は最初何御為に出来るのかサッパリ解らなかった。しかしそれが太陽の活動に関係しているらしい事は次第に判るようになって行った。それは太陽内の活動状態を現わしている事に気が付いたのである。黒点は磁場であり、それが見えるという事は活発に内部の核融合反応が進んでいる事を現わしているのである。太陽活動の変化は常に地球の気候にダイレクトに影響する。現在、太陽活動は不気味な変化を予想させる段階にある。それは地球の磁場の変転であり、此れが起きると、それが完全に反転するまでに、太陽風のプラズマが地球を襲い生命に大きな危機をもたらすかもしれないと考えられている。

更に、三つ目としては、太陽系の銀河系宇宙の中での影響である。太陽系は天の川銀河の周りを3・5億年で一周する。その間、太陽系は銀河系内宇宙の星間物質の中を回転する。その際に太陽系への変化が起きる可能性がある。それは未知の要因であるが無視するには余りのも重要な要因である。

次にはの過去に於ける太陽系理解の経緯を考えてみよう。そして今現在の時点でどの様な推移が考えられるかを考察する。太陽系の生成が18世紀にも話題に成った事がある。それは二つの構想が出された。一つは巨大な個体が回転力によって分離し、その分離した小個体が中心部の太陽の時点に従い太陽の周りを回ることで惑星系が形成された。という推理であり、もう一つはガス雲の中から中心部の重量で太陽が現れ、その周りのガス雲が重力に従い収縮し、それが惑星になり太陽の回転に応じて周りを回る太陽系を作ったという説で、初めの構想はFranceのシモンドラプラスにより提唱され、次の構想はGermanyの哲学者イマーヌェルカントにより提唱された。この二つの説は現代の惑星科学に拠ればどちらかと云うとカントの説に近い。ただ、現代の惑星科学でも、実際の惑星系の創成については未知の部分が多い。現代では宇宙空間に望遠鏡が打ち上げられているのだから、現在も活発に星が形成されている領域を観察する事で問題の答えが見つかる。

太陽系が形成されたあと、太陽を回る惑星の変化については、いま尚全てが解っている訳では無い。太陽系第三惑星の地球は太陽系の中でも特殊な星である。そこには水が大量に存在し、それが生命体を育んだ一番大きな要因であろう。地球はその生成時から様々な経緯を経ている。地球の浅い海に生じたと目される初めの生命は、環境を生きる為に様々に適応して来た。遂に現在の人間が出現したのであった。人間と云っても住む環境に適応し、人種が形成された。この人間が活動を始め多くの火を使い二酸化炭素を排出して温暖化が起きたという虚説が現代の諍いの元となっている。地球の温暖化は人間活動とは異なった物で、それは多くは太陽活動に立脚している。現在の「温暖化論争は」完全に政治的な物である。この二酸化炭素で一儲けをしょう。という輩が、この温暖化問題の火種を挙げた。地球はその長い歴史の中で中生代の恐るべき高温時代と何回かの氷河時代を経験している。本物の氷河時代が到来すると、農業生産物は減収し、本物の飢餓が起るだろう。当然ながら人口の減少が起きる。完全な氷河時代が来ると人間は数億人に減少する。地球の様相も変化し、現在のヨーロッパは氷河の下に成り、アフリカのサハラ砂漠は緑の草原と樹林に覆われる。

ところが此処に、或る勢力が気温の上昇を二酸化炭素のせいにするという策謀を考え出してひと儲けしょうとした。またそれは世界を支配する方法の一環としても考え出された物であろう。その勢力は第二次大戦の戦勝国である「連合国」という自前の組織を使い、大々的に地球環境の二酸化炭素により温度上昇を宣伝し、テレビを始めとした全メディアを使って多くの人々を洗脳した。今では、それに敵対したGermanyや日本も敗戦の枢軸国としてその組織に入れられ、日本国民の税金から運営資金をカツアゲされているのが真実である。いまでは日本も独逸も傀儡政権が国民を犠牲にして、そのある少数民族の勢力に、資金的にも政策的にも言い成りで奉仕しているのが現状である。こんな事がいつまで続くのだろう、この少数民族は世界の富の90%超える貨幣を持ち、金塊に異常な執着を擁いている。自分達の為に他者からの収奪についてそれが正当な物だと彼らの聖書であるタルムードには記載されている。こんな出鱈目な民族が世界の実権を握っ営るのは恐怖と絶望以外の何物でもない。日本国民は彼らを全く知らない為に、明治の初めから上手く操縦されている。明治維新と称する政変は彼らが青写真を描き、薩長の下級武士を使って江戸幕府を倒し近代化と称して猶太の操縦可能な制度にしたものだ。

さて、地球という惑星の環境は、太陽の放射エネルギーを受けて、自ら創り出した物だ。第三惑星は、太陽からのエネルギーが適度に恵まれて、それが生命を生んだ最大の要員だろう。水星も金星も、余りに強烈なエネルギーをもらい受けて、ほとんど灼熱の世界であり、此処に生命は生まれよう筈もない。では火星はどうか?地球よりも遠い為に、そのエネルギーの率は少ない。それに水も存在しない。こう考えると第三惑星は信じられぬほど運のよい位置にある。特に重要なのは月の存在である。月はどうしてできたのだろう?、此れこそが太陽系第三惑星を考える上で、最も神秘的な5つの問題の一つであろう。月は地球の75%を占める海に対して干満を起こさせ、海の律動に一つのリズムを与えている。これは生命を考える際に、とても重要な係数であり、地球の生命と生殖の起源はこのリズムに起因するのでは無かろうか。原始的な生命が地球の海に発生し、それがひとつの律動を持ち、バイオリズムを誘導したとするならば、命のリズムはこの月に因る地球の海の干満であろう。この辺の事情は太陽系第三惑星の歴史であり、その生成のもっとも重要な点である。

今回のテーマは地球温暖化という現象である。一言で謂えば、地球は温暖化も寒冷化もする。そしてそれは人間活動によって起こる事ではない。人間の活動は地球の環境を左右するほどのレベルには達してゐない。地球の歴史は永い、その中で温暖化した時期が在るかと思えば、徹底的に寒冷化した氷河期が続いた歴史もある。人間の生産活動よりも自然の活動の方が、寒冷化も温暖化も影響が大きいのである。爬虫類が繫栄した中生代の平均気温は現在の平均気温を10数上回って居る。冷血動物の爬虫類の代表であるさまざまな恐竜が栄え、其処から新たな種が枝わかれして多種の爬虫類からの鳥類まで生まれた。地球温度の変遷は各種の繁栄と滅亡を生んで、いまに至るのである。人間の生産活動によって生ずると言われる二酸化炭素の温暖化が引き起こす物は、極僅かであり地球の気候を左右する段階までは至っていない。だが、人間活動の影響は完全に無害化と云えば、そうでは無いと思う。人間はその生産活動により、様々な公害を引き起こしてきたことは確かである。足尾鉱山の精錬煙害、など、多くの重金属による生態系への破壊は貴重な経験則なのである。だが二酸化炭素に因って人間の生産活動を抑え込むある勢力の思惑で、この温暖化危機説は浮上した観がある。何かの魂胆から論争が始まったのだと考えた方が合理的な気がする。何故ならこの論争は排出基準を定め、それを越えた国家から金を出させるという、利益に絡んだ政治的な思惑ではじまった感じがあるからだ。

こんな事は真の地球惑星科学から言えば、一種のペテンを感じて仕舞う。確かに地球は温暖化しているとして、それが人間の生産活動が原因かと云えば、それは肯定できない面がある。永い地球の歴史年代から言えば、我々の生存している地球は太陽の恩恵と気まぐれを率直に受け入れる以外に方法は無い。太陽研究によれば太陽は此れから先50億年存在する。だがいずれ太陽の水素は燃え尽きて最終的には鉄で終わり、赤色巨星としてその使命を終える事に成る。もちろんそれまで人間などは存在していないであろうし、地球自体が現在のままだとは到底思えない。我々は太陽の賜物でありこの宇宙という偉大な世界の子供である。お天道様に感謝して自分の人生を生き抜くことは何にもまして尊いものなのであろう。

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因果律は保存されるか―①?

2022年05月09日 19時18分05秒 | 認識と自然

最近、雑誌を見る機会があった。その中に理研の量子力学に関したスリット実験で面白い記事があるので紹介する、すでにご存じの方も多い事でしょう。それは量子力学の範疇(Category)に入る話題だが、例の二重スリットの実験です。結論から言うと「現在の行為は過去を書き換える可能性がある」という認識です。我々は時間が一方向に流れていて、それが逆流しないという根本的な理解をもっている。若しもこれが破れたらそれは因果律が破れるという一種の革命です。因果律の認識論的起源はかなり古い。それはインドに始まった原始仏教の中にも捉えられて居て、たぶん起源は仏教以前まで遡ることが出来るに違いない。量子力学的認識は様々の面白い話題を提供している。この世界は足った一つの限定された世界では無くて、何重にも重なりを持つパラレルな世界であるという話題もある。過去と現在は、相互に何らかの限定された関係を持ってつながっているという事に成ります。日常的な平凡な感覚から言えば奇妙なことです。いま我々に世界認識の道は始まったばかりで、本当は我々を取巻く空間について根本的な事はまだ何も認識できず空白で知らないのだろう。我々の知能(自我意識)と言う物は、果たしてこのような世界構造を理解できるのだろうか?。

この理研のスリット実験の話を聞いて、直ちに想い出した事がある。確かもう十年以上前の事だ、セルンの実験で、特殊相対論が破れているという記事である。リーマン幾何学に基づいて質量がもたらす重力と空間の変形を現すのがアインシュタイン方程式ですが、この方程式は万古無変の方程式ではなくて、全く書き換えたり改良すべき点がない訳ではない。一般相対論が間違っていてもそんなに驚きはしないが、特殊相対論が破れるという事は,

現代物理の根幹に関する事だけに驚いた記憶がある。特殊相対論は光速度以上の速度は成り立たない事を前提にしている。それは物質の速度が光速度に近づくに従い、その物体は自己質量が増大し光の速度では極限に達するから、そんな事があり得ない。だが十数年前の記事は、ニュートリノが光速よりも僅かに早いという事を報じていた。これは結局、実験設備の配線のトラブルに起因する事故だったことが明らかに成ったが、多くの専門家は胸を撫で降ろしたに違いない。今回の因果律の破れは、これ以上の奇妙な結論であり、もう一度の慎重な実験が必要だろう。若しも記事が正しいのならば、過去、現在、未来、と言う線的な単純な世界像は最早成り立たない。因果律が世界構造を規定している。それが我々の巨視的世界では成り立つ。ところが最小の単位である量子状態では、因果律が線形的ではなく相互往還的とするならば、私の意識は、複数的いや多重に重なって無限に存在することにもなる。若しも因果律が破れているならば、それは確率空間にも影響する。量子力学は確率的世界観の上に建っている構築物であるから、当然ながら根源的な修正も要ることになる。我々は広大な宇宙を想う場合、自分の人生を重ねて過去・現在・未来、をおもう。そして宇宙の起源とその行く末を考える場合、ひとつの命の有り様に対比して来た。誕生・成長・死、である。そして誕生以前も死の後も、何かしら不明である。我々の記憶の機能は過去の事実を調べ知ることが出来るが、まだ来ぬ未来に附いては確率的解析に頼っている。まだまだ確率的数学は問題に応じて発展の荒野が残っている。

量子とは対極にある物に重力がある。天体力学を創り上げた開拓者(パイオニア)は、精緻なる観測者ティコ・ブラーェで、その残した資料は肉眼で観測した天文学史上最高の正確無比の物であった。その資料データが欲しくて、ケプラーはティコの助手となり、其処から宇宙の秘密の力を抽出することを目指していた。ヴィユルツブルグ大學で数学を学んだケプラーは、神聖ローマ帝国の宮廷数学官兼占星術師としてルドルフ四世に仕えていたが、自分の趣味の絵画や装飾品には大枚をはたいて何の後悔も無かったが、ケプラーへの給料は払わなかったから、食うや食わずの状態だった。いつの時代だってこんな事は起きている。時は三十年戦争の時代である。ティコのデータを詳細に解析して、彼は三つの法則を編み出した。太陽を回る惑星は円軌道ではなく、それは楕円である。そしてその二つの焦点を回る惑星の速度は、焦点を一つの点として場合の惑星の移動運動を二点としてその面積は一定である。何ということは無い焦点に附かづくと惑星の速度は増して焦点から離れればその速度は遅くなる。何ということは無い、それは引力の結果であるがケプラーにはその真の本質実態が解らなかった。彼は計算した結果を三法則として書き出した訳だ。

それが引力である事を史上初めて言及したのがニュートンである。月はなぜ落ちないのか?と聞かれて、常に月は地球に落ちているが月が落ちようとしている所に地球が無いだけだ。彼は万有引力を発見したが、その力の原因は分からなかった。ただ、その力を前提にして正確に太陽系の運航を計算できるのだった。月旅行もニュートン力学で十分できる。ニュートンが解らなかった万有引力の本質を明らかにしょうとしたのがアインシュタインだった。彼は平行線は宇宙の果てで必ず交わるというリーマンの楕円幾何学を元に質量に因って空間が歪で曲がっていることが引力の真の原因だとする一般相対論を提唱した。空間が曲がるという事などはニュートンの時代には考えられなかつたし、ましてケプラーの時代には思い付きもされる事は無かった。世界はユークリッド幾何学の様に平らであると考えられていた。

虚時間について

現状の認識では川のように時間は一方向にながれていると思われている。これは現在の現代物理学的認識であって、此れでなければならぬという訳では無い。過去と目する方向に流れても問題ない。それはエントロピーの逆変化が起きる事である。故事に「覆水盆に返らず」という言葉があるが、謂わば「覆水盆に返る」事が在っても好い。時間の流れは宇宙の始まりと関係している。それは天文学での宇宙の拡大が起きているとデータから信じられており、それに基づく認識です。時間が過去にも流れるとするならば一見奇妙な事も起きるでしょう。宇宙は始まりも終わりも無い、と謂うのが19世紀までの宇宙観でしたが、20世紀にはいると星の光の研究から星々が空間の膨張と共に光に近い高速度で遠ざかっているという結論が出た。もちろん疑っても好い。大型望遠鏡と遠方銀河の光の研究からである。この虚時間の問題は面白いと同時に難しい問題だ、虚というよりも相互方向への時間の流れである。多時間論が進まねば中々展望が開けない、昔、朝永が趙多時間論を展開したが、それは虚時間を拡張する物では無かった。今こそ時間論が発展する時代に成った。「時間の認識こそ」、難問を開く鍵となる。

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今まで生きて来て得た常識から外れる現象に付いて

2021年12月08日 20時52分51秒 | 認識と自然

 すこし定性的な話題を書きます。数学と自然科学的合理性を旨とする自分としては、中々理解困難な現象に出会い困惑して居ますが、すこし老眼と白内障気味では有りますが、特段に痴呆症が顕在化してる訳ではありませんし、また怪奇趣味がある訳でもありません。今までごく普通の常識的な生き方をして来て、それから得た経験を基にして、この世界の現実を解釈をしてゐます。ところが生れて以来、体験した事の無い事象に出会うと、永く培ってきた常識とか諸知識とは一体何だったのだろうか?と思う時があります。

皆さんに取って、恐らくそれは体験した事もないし、また他人事であり大した事では無いのかも知れないが、それでも、私に取っては「成るほど、昔より諸人から伝えられた話はやはり本当なのか?」と思われる事を、幾つかの体験・経験として、「私の持つ物理学と生理学・心理学の知識では得心の行く説明が付かない」実体験として書いてみたいと思います。以下の体験は、私には生れて以来初めてで、今まで一度として無かった事です。

時系列的に言えば、ひとつは2015年の12月に母が亡くなった時に、告別式が終わって、疲れ切って家に帰った夜、寝ている夢うつつの中で、母の呼び掛ける声が聴こえたという現象です(とても優しい声でした)。もうひとつは、母が亡くなって一か月すこし過ぎたころ、私も知っている、昔からの家内の女友達が遊びにきて、(カーテン越しの隣りの部屋に母の寝ていたベットがある)居間のフロアにある長椅子に座った女友達は暫くして、私に「隣の部屋に誰かいるの?」と聞いたことです。そのとき私は、ギクリとして、声が詰まってなにも答えられなかった。現在は子供たちは東京で所帯を持ち、この家には家内と私の二人しか居ないのです。誰も居る筈がないのだが、女友達には何か感じるところが有ったのでしょう。え?分かるのかな?と私は思ったことです。漠然と、私は何か母が居る様な気がしていた。何か物音がしたりして、心配事が在ったのかも知れない。母さん安心して、僕は大丈夫だよ、心配しないで、。

 もう一つは、つい最近のことです。とは云っても、今年(2021年)の7月14・15日前後のことですから、すでに5か月は過ぎているのですね。6月の26日に市役所でコロナの予防注射を打った、ある私よりズーッと歳上の知人が、注射して帰ったその日から発熱し、7月12日に2週間くらいで亡くなりました。斎場へ通夜に出掛けてお悔やみを言い、次の日の告別式が済んで1~2日後の、夜の十時半ごろ、庭に出て居る飼い猫のトラちゃんを家に入れる為に、呼んで抱きあげ玄関の階段を上り入ろうと歩いて来たときでした。突然15mほど先に、私の山行用のヘッドライトに反射する人型の白い発光体が庭の芝を張った奥に現れ、そのヘッドライトに反射した約1m60cmくらいの白い、手も足もない人型の発光体(発光体かどうかは解らない、Head・lightに反射して白かったのかも知れない)は、私から15mほど離れていましたが、時速約6キロメートルほどの速度で、左から右へ10メートルほど移動して消えました。それは何んなのか?、物体かエネルギー体か、何か分かりませんでしたが、少なくともHead・lightの光を反射している様に見える、何かが滑るように移動したという事実です。

私はトラを抱いて居たが、最初は何なのか判断が付かず、アッ?と、感じました、それから、2~3秒間、置いて、あれは何だ!と思い、突然寒気がしてゾゾーッとしました。この歳に成るまで、私はこの様な物体?を見た事が無かったからです。その内に、ああ若しかすると亡くなったOOさんだなと思いました。私は母の言葉を眠りと覚醒の中間で聴いて以後、こう言うことには、昔ほど怖がることが無くなりました。「この世は多分このようになっている」と、想える様になってきた為でしょう。でも、その時は、確かに気味が悪かったです。でも○○さんだと思えた時には、怖くなくなりました。彼は、とても好い方で人生の先輩としても尊重して居ました。約束事を確認しにしたのだと思いました。

OOさんは、私と一緒に、明治初期に建設された紡績工場の動力源である水で、工場操業の水車を回した後に、生活用水として供する為に利用された、水路の跡を調べようと計画していたのです。何と、明治初期の紡績工場の駆動動力は、水の力で水車を回す物であり、動力源の水は遠く鬼怒川の上流の飛山城遺跡の下から取水し、取水口と石法寺の工場の高低差は3メートルほどしか無い経路を、8キロも導いて来た物です。この水路の工事は相当な困難があったという。その水で水車を回し、それを動力原としてイギリス製の紡績機を動かして操業をしていたのです。私と○○さんは、水車を回した後の水を飲料用ではなく食器や野菜を洗う生活用水として使う為に掘られた水路の跡(既に100年も前に工場は閉鎖された。)を調査して見ましょうとの、約束をしていたのです。

石法寺という地名の場所は栃木県を流れる鬼怒川中流の左岸で、約30mも高い河岸段丘上に在り、飲み水用の井戸は地下七間も有りかなり深いのです。それで、捨てられるはずの清い水を、家庭の飲み水ではなく、物を洗ったり風呂水などの生活用水として使おうという思いがあった。その為の用水堀を掘った訳です。(100年以上も経過していた為に、その間には大東亜戦争もあり、たぶん開墾や耕地整理で、用水掘りは埋もれて居るだろうと予想していた)その発光体を見てから、私は必ず今年中に調査しますからと心で云いました。

この不思議な現象は、たぶん現代の物理理論で説明が付くかな?と思いました。と、謂うのは、今回以前に私自身は、この様な実際の経験は無いのですが、女性ではこの手の現象に敏感な人も多いですから、その様な人達(いわゆる霊感の強い人)の体験は、どうなっているのかを知りたかった。それで少し考えてみたのですが、やはり現代の物理学はプラズマとか電磁場や電磁気ならばそれなりの説明が出来ますが、こんな現象(生命体とエネルギーの関係)の説明に付いては殆ど無力です。或いは、脳科学や心理学で説明ができるのかな?、とも思いましたが、脳科学も心理学も、生命の内奥まで判るほど進歩はしていないのが現状です。これは何とも説明の付かない体験でした。無理やりの現代科学で言い繕った説明は正しくない上に、返って本質からは反れてしまう事にも成りかねません。何とも不思議な体験でした。私はまだ、今回のこの体験の真の説明は付いていません。

現代の物理的な説明では、我々の体は、それこそ数え切れないほどの原子核と電子で構成されている。言ってみれば、我々一人一人が、ひとつの宇宙であると云って良い。「量子力学」は、このような原子核とか電子の世界の力学だが、私たちのスケールでの力学とは異なっている。例えば物は(とは言っても原子核とか電子のスケールだが)物は、個体と波動の二つの顔を同時にもっている。でも、我々の次元のスケールでは、あの人は波動だよ、などとは云わない。物は物体であり個体であり叩けば衝撃がある。ところが量子的世界ではそうではない。量子的世界では、電磁気力、強い力、弱い力、重力、の内、強い力と弱い力、そして電磁気力が主で、重力はほとんど影響しないと考えられている。

我々の世界では、重力と電磁気力が殆どで、強い力弱い力は考慮の外である。では、宇宙的なスケールではどうか?、現状の宇宙空間では、重力が殆どの主役で重力の極限状況であるブラックホールで、量子現象がどうだとか、こうだとか、言っている段階だ。銀河系も、恒星系も、太陽の構造の様な惑星系も、ほとんどは万有引力で計算できる。だが宇宙がなぜこんな構造を創るのか?の意味的な答えは、今だ未知です。既に亡き人の声も、心の危機の補完的な働きで説明する場合もあるが、そういう説明は、何か、どこかピント外れです。

多重世界の現れなのか?、そんな事よりも、「我々の意識の起源」という大問題が既に有る。生命体はなぜ意識を持つか?という根源的な問いである。むかしオランダの哲学者スピノザは、道に転がっている石は考えている。とか書いたことが有るが、意識は生体だけではなく石や鉱物にもあるという事なのか?真実は果たしでどこに在るのでしょうか。我々の知的能力は完全ではない。ほんの一部を見ているに過ぎない。世界は摩訶不思議で面白いものですね。

もう一度、自己意識という迷宮を明らかにすべきでしょう。我々の意識は、基本的には五感の感覚から得た通信データで構成されている。これは既に古代インドの唯識派が主張している事です。でも感覚データの底には、もっと根源的なものが在るという。私は「心此処に在らず」に、似た空想に耽る事も有りますが、古代インド瑜伽師が行う様な自己滅却の瞑想まではしたことが有りません。古い仏典である「瑜伽師地論」を若い頃に読んだことが在りますが、それの主張するところでは、それはもう個人的な意識を超えて、更にもっともっと下部の世界に降りて行く。生物は或る意味で鉱物と連続した存在である。で、有るから、私は人間が絶え間ない地球上の進化の段階から見て、人の内部には魚の魂や恐竜の心を持っていると信じる。それは既に解剖学的に見れば、人間の脳の構造に反映されているではないか。現に我々の持つ体という器官は、あらゆる面で魚以来の古代の備品を受け継いでいるのである。説明の付かない現象は大いに在る。我々の知的理解は、まだ赤ちゃんの始めたばかりのヨチヨチ歩きの段階なのだ。

何も宇宙は遠い所にあるのではない。見上げれば空は宇宙そのものだ。私達はこの球体の表面に重力で地面に引っ張られて生きている。この引力の為にすべては地面の中心に向かって引き付けられた存在だ。引力は当然の事だが、その地表に住むすべての生き物のリズムをコントロールしている。眠りや自律神経、生殖活動や精神行動、そして、それは行動的本能として人間の自意識の底で律動し、天体の周期的リズムは永く生物の進化の元となって来た。どんな生物でも引力に逆らって進化した生物はいない。多くの人はたぶん信じないだろうが、○○さんが注射して死んだ今回のコロナ事件は、或る悪党が謂わば日本人全員に注射をさせる為にテレビで煽り企画された物だろう想像する、そして謎の液体は薬とは謂い難い代物なのだ。本当の死亡被害者が爆発的に増大するのは是からの事だろう。

超過死亡率(一年間に発生する死ぬ人の数の平均値)の概数が大幅に変動する事は、何かが無ければ有り得ない。それが変動するとすれば、過去の大飢饉での死者、大地震での死人、突発的な流行病(スペイン風邪の様な)に因る夥しい死、そしてアメリカに依る原子爆弾や無差別爆撃での一般市民の死、など日常的なものではない。極言すればコロナで死んだ人間は、「映画館に入れるぐらいの人数」だが、「注射で死んだ人間は超過死亡率から類推すれば約300万人は居る」。死者の数は厚労省が隠したとしても、それでも200万人の死者は居るだろう。これは企まれた薬殺死なのだ。

スペイン風邪にしてもロックフェラー研究所で創り出した「インフルエンザ・ウィルス」を、何万もの米兵に感染させ、それらの兵士を西部戦線に放った生物兵器であることが歴史から既に分かってゐる。私は妄想を言っているのではなく過去に在った事実を言っているだけです。今回のコロナ注射も、慎重に最新の注意で既に計画されてから50年は経つ。私が若い頃、1970年代の初め、或る未知の組織が「成長の限界」という答申を出した。当時のローマクラブである。その答申の一つは、人口爆発が地球環境を危機に陥れるだろう。という答申である。そして、地下資源(石油資源)の枯渇である。人口爆発の解消こそには、コロナに因る地球上の増え続けた「人間削減の計画経過」が、暗に書かれていると感じています。

多くの人達は、今の日本の行政府が、国民を意図的に殺すとは思って居ない。常識的に考えれば、それは当然の事であろう。だが現在の日本の状況は、その様な常識が通用しない魔物である。特に、今現在の日本政府という物は謂わば魔物の手下である。それは世界を牛耳る悪魔組織の手下に成ってゐる為だ。現在の状態を明け透けに言えば、日本政府など存在しない。それは猶太の下部組織に過ぎないのでは無いか。それを知る人は注射などしない筈です。テレビと新聞は、この超国家勢力の広報誌に過ぎない。注射の害は暫時現われ、やがて冥土への誘いと成る事は請け合いだ。だがこういう話に関心を持ち、過去の本を読み、自ら調べる方は、恐らく居ないか少ないに違いない。だが、上記の如く隠れて仕組んで居る者達の目的と方法が解って来ると、ここ300年の災厄の歴史が何であったのかが自ずと見えて来ます。彼らは恐るべき狡猾で常に嘘を言い残酷で不潔だ。彼らの聖典Talmudに拠れば、我々は羊でありゴイムである。

さて話は変わるが、最近、私は、ちくま文芸文庫で、多田智満子氏のエッセイ集を読んだ、最初の章に興味を抱いた為だ、其処には「魂の形に付いて」という文章があり、私が見た人型の魂とは異なる主旨が書かれている。智満子氏はもちろん魂など見たことは無いだろうし、幽霊も信じて居ないだろう。それはそうだ、見た人以外は、感情的に納得しないだろうし、例えそれに言及するにしても、それは他者からの又聞きなどの憶測でしか無いからだ。魂は丸く尾を持つと書いている。それは浮世絵の人玉である。丸いというのは古代から多くの人が想像する形である。球体は、空間に占める、存在の為のエネルギー効率と体積表面積が最小で、存在の安定した形で効率が良い。ゆえに魂は、動物であれ、植物であれ、同じく基本形なのだ。たぶん丸いのだろう。魂は玉であり丸い。玉という語源は古い。日本語の原型にも「タマ」はある。アイヌ語の研究者が言うには日本語の語源には蝦夷のコトバが変化した形が多くある。歌の枕詞にはその手の語源が解釈上ヒントに成る。

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時代を拓く発見・アイデアとは。

2021年02月15日 20時12分10秒 | 認識と自然

ここ五十年近い歳月に多大な影響を与えた物にカオス現象がある。この発見には電子計算機の力が大きく寄与している。それまでカオス(混沌)という言葉は無い訳では無かったが自然科学の中では一般的ではなかった。それまでの自然現象では法則に基づいた式を書き下せば現象は係数が多いどんな複雑な式であっても答えは一意的つまり線形的に決定されるという信仰があった。自然の物事は線形的な過程をしており、どんな複雑なものでも難しいことは有っても、基本的にはその答えは導出できるとする信念である。だが歴史を振り返って見るとそうでもない事実は有った。他にも探せばそのような問題は多々あったに相違ないが、ここでは比較的だれでもご存じの、天体力学の場合に例を挙げてみよう。惑星でも遊星でもそれが互いの重力で運動する場合その挙動を焦点が二つの関係ならば比較的一意的に解ける。だがそれが三体の重力焦点で構成される場合は簡単に解き得ないことが指摘された。手計算でこの三体問題をポアンカレは解こうと試みたが果たし得なかった。解が一定に収束せず発散するか或いは爆発してしまう。これはカオスが発見される前の約70~80年ほど前の出来事である。つまりこの問題は人間の手計算では中々解けないという事になる。後年になり分かった事は、全部ではないにしてもいろんなところで解けない問題や行き詰まる問題は、カオス(非線形)が絡んでいることが判明した。此れが発見されたのは電子計算機の発達に因る所がおおい。現在では計算機がといた問題の解は三次元の不思議な挙動を示している。或る意味ではこの解の描く軌跡は美しく神秘的だ。

確率論に関しても、その起源はサイコロやカードを使った賭け事の問題であった。サイコロの賭けは順列組み合わせでその出現率と確率度を出せるが、此れは謂わば古典的な確率論であり長らく曖昧の世界として認識されていた。確率というものが、競馬や株などの賭け事にも応用され自然現象の予測にも影響力を持つ分野が、俄然の進歩を示したのは、測度論を基軸に積分論を論じたルベーグと、確率の基礎を公理的に整備し確率空間を導入したコルモゴロフの影響がおおきい。現代の確率論はこのルベーグ積分と公理論的確率空間から構成されている。確率は自然の分岐現象としても把握されてやがては位相空間とも結びつき、いずれは全く新しい確率論の進展があると予想します。現在のところマイナスの確率と謂う物は想定されていないが、此れが必要となる現象は必ずあるはずで、マイナスの時間とも絡んでいるかも知れません。自然がもたらす現象は、どんなに難しい問題でも必ず理解でき解き明かすことが出来る。というオプテマテックな楽観的な思いがあります。自然の現象は原理的な物に下がってゆくと必ず力学的な構成になっている。それは古典力学でも量子力学でも同じで原理原則が成り立つ。自然の仕組みは恣意的と言う物ではない。現段階では実験できない猛烈なエネルギーレベルでの議論がなされている。実験できない以上その推理が成り立つかは分からない。

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