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梅棹忠夫という人生

2021年06月14日 12時21分12秒 | 文明論と生態学・地政学

 戦前のまた戦後の一時期に京都帝国大學が特異な大學であることを象徴するのが今西錦司に始まる山岳探検旅行部という部活動であったことは、考えてみれば不思議な気がする。今、京都帝国大學と書いたが正確に言えば第三高等学校である。もっと前段階を謂えば、京都一中(現ー京都府立洛北高等学校)からの萌芽である。尤も三高の卒業生の大方は京都帝国大學に進学したから三高と京都帝国大學には第三高等学校と連続した雰囲気は在ったのだろう。不思議なものだがこの今西錦司のグループからそれまでに無かった、ある意味で新しいタイプの研究領域が開発形成されて、それが京都大學を象徴する本格的な学問として成長してゆく過程は見物である。なんでこんな不思議なグループが形成されたのか?。それはひとえに今西錦司という天性のリーダーの存在であろうし、そこに集まった特異な連中の存在である。今西のグループと謂うのは、ある人に言わせれば、「探検と称して山で生活して遊んでいる連中」の事である。この遊んでいる連中から、此処に書きたい文明生態学の泰斗である梅棹忠夫ほか、川喜田次郎、柴谷篤弘、吉良竜夫、中尾佐助、上山春平、藤田和夫、などの一時代を創造するグループが生まれたのは、言って見れば奇妙で不思議な事だ。南極越冬隊長の西堀栄三郎も今西と強い紐帯にある人だ。また人文科学研究所の桑原武夫もグループ協力者だ。とにかくこの探検グループの紐帯は強いのである。現在の京都大学からはこの伝統は消えて仕舞ったようである。

ところで梅棹忠夫と言えば、だいぶ昔にモゴール族探検記という岩波新書が発刊されており探検と言う物は実に面白いものだとその面白さを堪能した記憶がある。モゴール族探検記は、元の時代に膨張した帝国の子孫がパキスタン奥地に残っている可能性を求めての探検であったらしい。モンゴル以前にもアレキサンドロスの東方遠征は有名で、彼は今のパキスタン辺りで前進を止めた。部下の将軍が反対しなければ、彼はインドにまで攻め込んだに違いない。アフガニスタンにはギリシャ系の民族が実際に残っていた訳で、それと似た事があるだろうという推測での探検であった。梅棹忠夫は実にスケールの大きい視野をもっていた。ずいぶん前に出された「文明の生態史観」は、彼の探検から得た民族文明論、気候風土論、そして地政学政治論、などを含む生態学的民族論である。面白いのは超大陸であるユーラシアと、ユーラシアの西の端、東の端、を比較して考察している。西の端とはEnglandであり、東の端とはNipponである。どちらも封建制の定着から近代社会の芽生えがある。我々は江戸時代を偏ったイデオロギーの眼でしか教えて貰えなかったため本当の江戸時代は知らないのである。

さて生態学とは生物の住む自然その物であると同時に、全地球生命と現在栄えている生物を含む生存環境が入る全体である。となると動植物の存在形態に重大な影響を与える気候学がキイワードとなる。第一に地球環境は太陽の下に在りその光の放射が途絶えれば地球上のすべての生き物の大半は立ちどころに滅びるだろう。もしも太陽の光熱が僅かに変化するだけで、全文明はおろか大半の分化進化した生物に重大な影響を与え時の拠っては滅びることになる。太陽からの光熱の放射によって地球環境には場所的な差異が生じ、熱帯・温帯・寒帯、などと大まかな分類が出来る。細かく分類すれば、もっと多くの自然環境に分けることが可能だ。日本の中では、この気候学的生態学の草分けは「風土」を書いた和辻哲郎であろう。和辻はどちらかというと数学や物理を駆使した数理科学の分野の人ではなく、文学や美学などに関連した哲学の傾向の人であるが、流石に物事の本質に対する感受性の鋭敏な人で、彼は人間の形質と文明を左右する本質的要素として気候風土を挙げた。鍵を握るのは食料と生活環境の全てを握る天与の条件こそが太陽系の惑星である地球の環境で在るのはあきらかで、この条件の下に、生活形態や食糧生産、人間組織、宗教、言語、文化、民俗、など此処には書き切れない様々な項目が出現する。これを一つ一つ、その起源と展開を考えてみようかなと云うのがこの記事の趣旨である。

戦前から戦後にかけて探検という物は登山と重なる面があり、主に旧制高等学校が帝国大學が主体だった。企業の大掛な登山という物は在ったとしても数少ない。どこの学校が始めという訳では無く、それよりも人物による重要な端緒があり、その人物が探検の時代を牽引して行ったという点が価値が有り大きいのだ。日本の創造的学問のひとつのパイオニアに成るのは圧倒的に京大の存在がある。そのなかで別けても今西錦司の存在が大きい。今西がもしも居なかったとしたら、登山と秘境探検の京大は無かったと思われる。今西という人物は少し変わった人物で、彼の伝記を見ると今西という人物が出来上がるのは京都帝国大學はおろか第三高等学校以前の、京都一中在学辺りに始まるらしい。

その人物のlifeworkなる物が、旧制中学時代に始まるのである。「鉄は熱いうちに打て」の諺ではないが、人間という物は多感な時代にその根幹が造られる。旧制中学は14歳~18歳の時代である。山を歩けは嫌でも自然に出会いそれを目にする。今の流行り言葉で云えば自然の生態系である。困難を極めつつ山頂に登頂する歓び。一度、それを体験すると半数くらいは熱中しやみ付きになる。山に行き易い様な学部を選ぶようになると可なりの重症である。探検で飯が食えるか?という心配もあるが今西は農学部を選び、鴨川のカゲロウの生態を研究した。その辺りから川の流れの速さに因るカゲロウの種の変化を調査し、今西の進化学である生物の「棲み分け」論が形成される。京大には同時代の生態系の研究家に可児藤吉という方も居られた。彼は日米戦争で戦死するのだが残された著書や論文は実に面白いものです。

この様にして山と生態系を研究するうちに今西を慕い若い登山家や探検家が集まり出す。此処には現在我々が耳にする名前が実に多くある。KJ法の提唱者川喜田次郎・知的生産の技術の梅棹忠夫、気候気象論の吉良潤、根菜植物の起源、など。西洋の借り物の学問ではなく、自分たちがフィールドワークを行う過程で彼らは探求の為の様々の技法手法を編み出した。それが情報の効率的な収集法、得られた情報の整理術、個別の情報を総合して全体像を形成する遠近感、要素分析法や、困難な問題を抱えて、画期的なアイデアを如何に生むかという想像力にもつながっている。

それに彼らは一応は理学系の人々なので様々の数学的道具を使いこなし、確率や統計的手法などを多用している。やはり一流だと感心するのは考え方がダイナミックで数理的な上に、自分達の研究に必要な適切な方法が無い場合には、自分達で工夫してその技法を創り上げて仕舞うことである。また驚くほどの広範な分野に捉われない知識を有していることである。将に行動的で、恐ろしく活動的なのである。先ず机上の学問には見られない、目標とする課題に対する臨戦態勢がある。大計画の為にまず大きな目標を掲げて、その為に個別の小目標を挙げ、その達成の為に個々の条件を模索する。それらを互いに関連するキーワードとして連携性を持たせる。例えば未開の土地でその土地の者と接して資料を集めるうえで、ちょっとした怪我の治療や薬などを処方できる技術を持って居れば、現地民との交流も上手く行く。或る意味で探検は、一応なんでも出来る万能選手でなければ務まらないだろう。過酷な状況が、直ちに危険を察知する本物の知恵を付けさせた。

今迄の学問でこの様なポテンシャルの高い実践的な学問分野は余り無かったと思う。少なくとも彼ら以前には、今西から発したグループに比肩できる物が、それまで存在しなかったのではないだろうか?。山岳部から発生した先鋭的な開拓者精神、開拓者魂とでも言うべきものが、第三高等学校に生れた原因は何なのだろう?、ここの点を深く追求する事が、再び日本に先鋭的な研究集団を創成する方法に成るだろう。

コメント (1)
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