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井頭山人のgooブログ

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2025年11月18日でGOOblogが閉鎖に成るらしい。

2025年04月20日 10時33分01秒 | 分子進化と集団遺伝学

 2025・04・20(日曜日)、お早うございます、私のブログをご覧になって居られる皆さま、「タイトル」にもある様に、今年の11月18日で、Gooは閉鎖になるようです。それで、amebaにもサイトを持っている関係で、amebaに記事を移すことに成りました。100件以上に記事がありますが、引っ越しの申請は済んで居ますが、まだ移転は完成して居ません。私はパソコンには疎い者ですから、引っ越しの申請を受け付けて貰えるまで、試行錯誤で大変でした。実の所、パソコンも、見様見真似で正式の教室には通ったことは有りません。ですから、Dataをsaveしろと謂われても、どうするのか?が解りません。写真を掲載する事も出来なければ、貼り付け、save、解凍、展開、等も、どうすれば好いのか知らない。何とか書くことだけは出来るので、それで記事が書けています。

思い出すと、Yahoo!ブログの時が悔しかったです。あの時は移転の方法が何も解らず、正確にはハッキリとしないのですが、500~600件の記事が消えて仕舞いました。自分で言うのも何ですが、かなりの長文(原稿用紙で300枚)の力作も有った。それが皆な消えて仕舞った。更に残念なのは、頂いた大切なコメントが消えた事です。あのとき電気販売店のパソコン学校に持ち込んで、どこかのサイトに移動して貰えばよかったと後悔しました。お金は掛かるでしょうが、自分んで書いた謂わば、本の原稿のようなもので、大切な日記作品と同じですからね。まあGooも企業ですから、赤字が続けば、閉鎖に成るのは已む得ませんが、日記として論文として書いてゐる者には、消えて仕舞うのは辛い事です。今度は、同じ轍を踏まない様にしたい。

「Goo」から「ameba」に記事の移動を申請した以上、このGooで書いても仕方が無いので、どうしょうか?と思ってゐます。このamebaのサイトも永遠ではないですので、何時かは閉鎖という事も在る事でしょう。親切なことにはGooでは、自分の記事を製本化できるという事ですので、その費用も調べて見たい。今の所は以上です。

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大自然学ー2025・1・11

2025年01月12日 19時33分47秒 | 分子進化と集団遺伝学

 この地球上の命はすべてつながっており、存在する個体の一つ一つは、生命という巨樹の枝に生える無数の葉のひとつである。例えば一人の人間の命の中にも膨大な数の微生物が共生をして居り、世界は命というシステムでつながっている。生態学という学問が重要である。それは数々の多くの個別的な命がつまりは全体的な生命体として繋がっている事を主張する。地球という惑星システムも個別に存在は出来ない。それは太陽という神とも称する動力源のお陰で存在できるのだ。生態学はこの地球惑星システムを知らずに探求することは出来ない。地球に存在する人間という物が、大自然のサイクルを変えることは出来ない。神にもひとしい大森林を切ること等は人間の自殺行為に等しい。だが機械の導入に依って、その行為が可能となった。それが人間の将来を暗くしている。

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特殊相対論01

2024年07月28日 22時13分31秒 | 分子進化と集団遺伝学

特殊相対論01

野沢秀文先生の座標を使った、視覚的でとても分かり易い説明講義を掲載してみました。特殊相対論は1905年に、26歳のSwissのBernにある特許局の職員、A・Einsteinに依って発表されました。ですから、もう120年近く前に提出され24ページの短い論文です。特殊相対論は物理現象を考える際には、物事の基本に係わる理論です。此れを構成するのは、光速度はどの系から見ても同一という(マイケルソンの実験)定義。つまり相対原理です。光と関連させtた運動物体の原則から、光速度に於ける時間の進み具合、高速物体の縮小、そして質量は光の二乗を掛けたenergyを持つ、という等価原理などの思わぬ現象が提示されます。この説明で使う数学は、難しいものでは無く高校数学レベル内のものです。然し、そこに含まれる、「どのような加速系で観測しても光の速度は変わらない」との実験事実は、私たちの常識のパラダイムを超える事を要求します、特にそれが難しいと思います。特殊相対論が物理に及ぼした、驚くべき意味と意義はそこに在ります。是非、とても好い講義を楽しんで頂きたいと思います。

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「生命とは何か」ーシュレーディンガー

2023年06月28日 19時09分11秒 | 分子進化と集団遺伝学

 この本(生命とは何か?)の著者は、1925年辺りに始まる量子力学の草創期に、Heisenbergの行列力学と共に、ド・ブローイの物質波の物質と波動の二重性のアイデアを、波動方程式として出したシュレーディンガー方程式の導入者である、エルヴィン・シュレーディンガーが書いた「生命と遺伝現象」に関する物理学側からの見解である。本の初版は1944年になってゐて、時代的には古さを感じさせるが、細かい部分の改訂を省けば、生命を考察する際の基本問題の根幹に触れており、古典として今尚を有益な著作である。1944年と謂えばヨーロッパ戦線は帰趨が見えていて、大東亜戦争に於いても日本の劣勢が明らかに成りつつある時期である。ウィーン生まれのオーストリア人、シュレーディンガーはユダヤ人ではないが、この時(1944年)には、すでに、GermanyからEnglandに亡命し、その後に北IrelandのDublinに在るDublin、Trinity・collegeの教授として在籍していた筈である。すでに原爆が開発されつつあり、やがて日本の一般市民の多大な犠牲者を生む直前の時代である。

20世紀後半の自然科学の最先端は、量子力学や物性物理・原子核物理学の時代から分子生物学の時代に移りつつあった。ここでシュレーディンガーが未だ歩き始めたばかりの分子生物学を意識して、この様な本を書いたのだとしたら、私は彼に先見の明があり、やはり極めて優れた洞察力を持つ物理学者であると思った次第であった。この本は日本でも戦後の比較的初期に、安価な「岩波新書」の一冊として高校生など一般人の手にすることが出来る本であった。高級な数学は殆ど使って居ないにも係わらず、その分析力と、問題への切り込みは鋭い。翻訳者の岡小天、鎮目恭夫の各氏も優れた方たちである。鎮目恭夫氏はノーバート・ウィーナーの著作で、そのお名前を知って居た。

この本でシュレーディンガーが提示している論点を書いてみたい。

本来物理学は、存在の基盤・基本である「物質とは何か?」という問いに答えようとする学問です。同時にそれは存在の最小の単位としての構造の最小単位としての原子論も導入した。原子自体は古代ギリシャや古代インドでも探求され、物の最小の単位としての原子論も遠い昔にも存在したのです。さらに現代物理学は、この世界を創り上げている最小の物質とは何であるか?を、知ろうとした訳です。シュレーディンガーは、「生命とは何か?」という表題を持つ、この本の中で物理学者らしく原理と原則を提案している。

20世紀前半の物理学が知ろうとしていたモノは、世界の構成要素としての原子とその構造です。(当時19世紀後半は原子は未だ空想上の概念でしか無かった)熱力学からエントロピーの概念が生まれ、偉大な数理物理学者、ルドルフ・クラウジウスや、統計力学の牽引者ルードビッヒ・ボルツマンなどが熱力学とその確率論を応用した統計力学を開拓して行った。物質の持つ質量とエネルギー力学の問題は、特殊相対論を提案したA・Einsteinにより解明された。特殊相対論の特筆すべき成果は「等価原理」である。その結論は、E=MC2乗という等式に因り、物質の持つ質量と熱量の関係が導き出された。殆んど高校レベルの数学しか使わずに、この数式はかんたんに導き出すことが出来る。また元素生成の起源や元素の創成は、恐るべき重力の力に因る超新星爆発など、空間と時間が質量の持つ重力に因り変形される一般相対論などは、未だにアインシュタイン方程式は、その解の問題と共に今も議論がされている。重力の齎す宇宙の問題はブラックホールの本質と共に、いまだに解決はされていない。

此れとは少し別の問題として、「生命とは何か?」という問いと、その認識的射程をシュレーディンガーは、この本で問題点を提起している。生命を創る物質としては確かに原子であるが、生命現象自体は分子構造の上に点在する化学反応である。つまり生命とは原子の次元の現象というよりも、その上の原子が集まった分子としての構造と作用を持つ次元での現象である。生命の重要な特徴として、真核細胞では、生殖を通じて複製をつくるという基本的な目的の下に在る現象であり、生命とは一番に、複製を創れる事と、個々の細胞の集る全体的な目的性と細胞が調和的に活動して内的平衡(恒常性)を維持するようなSystemが働いている現象である認識です。さらに生命の特徴である生態情報の複製が、如何なる分子情報によって担われているか。その情報の保存がのどのような形で維持されているか?を探求している。これはのちの分子遺伝学その物である。

この本では、分子生物学の核心である分子遺伝学のModelも実に巧みに提案している。シュレーディンガーの、この世界観は面白いし重要であるともいえる。生体を複製する遺伝子がどのように働き、さらには其の複製が或る期間、生体の恒常性を維持しどのように生きるか?を問う。地球の生命の全体は産まれい出て、或る期間だけその活動を維持できる。その期間が終われば、生まれた命は消えてゆく事に成る。それは大自然の摂理であり宿命であると言える。我々はかならず消えゆく存在である。その為にこそ、我々は次の世代を残そうとするのです。それは我々というよりも地球生命全体の意図でも有るのです。

生命の起源は遠い昔から人間の関心の的であり、様々な仮説が出されて来た。面白いものも陳腐なものもある。だがその様な仮説はさておき、生命の起源が地球という稀な惑星にうまれた奇跡であろうことは誰にも分ることであろう。地球環境が生命を生み、その生命は太陽が育てたのである。そして地球環境の特徴は水があるという事であり、そこに太陽からの光のエネルギーの恵みがあることである。生命現象の大元は太陽の力にある。その水素融合の莫大な熱エネルギーは、地球以外にも放射されているが、そのエネルギーを基に生命が発生しより高度な物へと自己進化を行い得たのは地球だけである。

太陽の水素核融合は、これから先50億年は続くであろうが、太陽はやがて手持ちの水素をヘリウムに変えて燃やし尽くし、最終的には鉄の生成でその活動は終わる。現在の太陽は恒星の変遷過程から、やがて赤色巨星へとその姿を変えて行く。太陽を始めとした諸々の恒星は元素生成の溶鉱炉とでも言える。我々の命も永遠ではないのである。現在の我々も主としては消滅すべき運命を甘受せねばならないだろう。ただ思い出すのは、我々地球生命が何のために生まれて来たか、それは偶然なのか必然なのか、私達生物も、大きな目で見れば、この大宇宙の元素生成の小さな一部なのかも知れない。驚嘆すべきは私たちが星空を見上げ、小さな小さな生命体が、この神秘ともいえる宇宙世界を知ることが出来るという驚きである。

太陽の構造とそのメカニズムは、大方は解ってゐるが、太陽系自体の生成にはまだ多くの謎がある。中心部の熱核融合反応は2つの水素を融合しヘリウムへと元素変換する過程で発生する熱放射エネルギーである。発生した熱光エネルギーは太陽の表面に出て来るのに20万年ほど要する。であるから、朝、我々が太陽を見上げて光熱放射は20万年前に生成された物なのである。それに対して元素変換の過程で出るニュートリノは光の速さで瞬時に太陽表面に出現する。そしてそれは我々に地球にも降り注いで居るのです。海の浅瀬に太陽からの放射線をうけて、ある化学反応が起きた。その化学反応が重合しひとつの集団を作った。それは太陽の光を自己エネルギーに変える光合成を行うまでに変化した。それが地球生命の始まりであろうと想像する。

生命の活動は基本的に物理化学の原則が適用でき、その基本的な法則性の下に生命が出て来たのは、法則的な結果であろうとしても、矢張り、其れだけでは割り切れない神秘がある。一見物質と生命は、まるで異なって居るかに見えるが、我々がまだ知らない根源的な秘密があるのだと考える。

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確率統計論と進化に及ぼす遺伝子浮動

2023年06月15日 19時02分08秒 | 分子進化と集団遺伝学

 生物の再生を創る情報としてDNA(デオキシリボ核酸という塩基物質が生物の細胞には必ず存在している)は、4つの塩基が水素結合で結ばれ、アクチン・ミオシンシ・トシン・チミンという各塩基の対に成って、AとC、MとTは、互いに対になり、らせん状の構造を創り出している。遺伝子浮動とはその塩基分子が、熱の為に常に分子が熱振動をしてゐて、塩基の対に変化を起こす事を言う。遺伝情報の変異は生物の形質に変化をもたらす物だが、この遺伝子浮動は生物の形態変化とその原因である分子進化の主要な要因の一つと考えられている。 進化論と絡んで動植物の遺伝子、その分子遺伝学上の生物の形態情報を記録するデオキシリボ核酸の塩基の位置変化は、常時起きている事が発見されたのは、今から大分昔のことである。当時、高3の頃に家で購読していた科学朝日という雑誌がある。確かこの8月号には、1968年頃に東京で開催された、世界生物学会議だか遺伝学会議だかで、木村資生 岡崎遺伝学研究所教授の説が解説されていた。後に木村先生は、英文で「分子進化の中立説」という本を書かれており、その主張は遺伝子を構成する化学分子が定期的に変化して、それが生物の環境の変化に対する適応を創り出している。という主張だった気がする。DNAの永い鎖の塩基の位置変化である分子遺伝学的進化論であった。

当時の私はメンデルの法則くらいは頭に在ったが、分子遺伝学の詳細な論拠は知る由もなかった。で、中立説だって?、遺伝子の中立って何だ?構造の何が中立なんだ?、くらいの認識しかなかったのは仕方のない事です。1968年の夏ことであり今から55年も前のことですから。当時は進化論全盛の時代です。より強い高等な物がそれ以外の生物を駆逐するという狂暴な誤解がまかり通る時代でした。それは生物の歴史から否定されたのも係わらず、そう言った錯誤は今現在にも残っております。それが現実世界を左右しているという間違った認識です。

初期の進化論の歴史はとても面白いものが在ります。それはCharles・Darwinという人間の面白い知的成長過程から辿ることです。成長期に問題を抱えていたこの人は、その著書にもある通り当時有名だったライエルの地質学を勉強し、地層や化石という物に興味を示しました。Darwinはビーグル号航海記で有名です。その後の進化論に関しても問題を生み、その後の進化論論争のタネを作っている。DNA分子は熱の為に常に揺らいでいる。それは、生物の変化と常に関係してゐて適応と進化の差異は、現在でも多く議論される問題です。現在では「分子進化学」という分野が出来て居り、或る一定期間の間に、塩基の変異が一定量存在するという、時間的な分子進化の問題です。DNAの分子ラセンは固定したものでは無く、常に熱力学的に揺らいでいる。これはおそらく熱的な揺らぎであり、謂わばらせん自体が熱による振動をしているイメージです。熱的な振動であれば分子進化も単位時間内に一定量の変異が起きるのは誰でも推測できる。この熱的遺伝構造の分子置換がでは進化にどれだけ影響を及ぼしているか、それが問題です。

分子進化学は、その辺の現象を理論的に解明したいという動機で、起こった学問分野です。それは生物の個体変化を解くカギになる。

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古神道と修験道との関連性について

2023年05月19日 21時25分58秒 | 分子進化と集団遺伝学

 現在の日本には修験道の本場は、出羽と葛城、の三か所が在るという。修験の大元には古代神道があり、その系譜の中に道教と仏教が入り混じったのだろうと推測する。信仰と宗教は異なったものであろう。信仰とは人間が生まれ落ちたこの世界の、外部に対する感受性から発生したもので、其処には数々の古代の智慧ともいうべき自然哲学が存在する。日本文明はこの縄文期から段々に形成され、その知恵は日本人の心性を形作る際に決定的な要因となった。神道の信念は我々を含めた諸々の命は互いに補完し合いながら生きてゐるという信念である。地球規模の大自然に生かされて存在するのがあらゆる命であり、それは生態系の関係と深く関連し縄文神道は発想豊かに形作られている。山を尊び祖先を敬うこころ、此れこそが神道の核心部であり、その自然哲学は仏教的な要素と結びつき、山での修行とこころの汚れを落とす修験の作法が段々に整備されて行ったのだろう。

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飛翔の追求と生物の自己目的

2023年01月20日 23時26分58秒 | 分子進化と集団遺伝学

 昆虫類は多く飛ぶ能力を持っている。子供の頃の昆虫採集に夢中だった日々を振り返ると、あの強大な甲虫であるカブトムシも、表面の硬い殻の下には、空中を飛翔する為の面白い透き通った薄い羽根を蓄えている。生物の進化と変化の系統図から言えば生物の大元は海という海水の中で発生したと考えられている。海水の成分や太陽の紫外線から体を守る為に海という揺籃の世界が不可欠であった。水中という世界はそれなりの環境条件が在る。まずその深さに応じた水圧力であり、また移動の為にはヒレを使うことが便利であり、その海中生物は体型も環境条件に応じた形態となり、ヒレもより効率的に発達した。それが魚だ。水中で生息し移動する美しい体形となった。やがて魚は蘭雄類が整えてくれた現在の大気の組成に近い大気が形成された為に、陸に上陸することが出来た。魚から両生類が現れ、両生類から爬虫類が出現し、地を這う種類も地上を歩く巨大な種類も現れた。その中でこの空気という海で空中を飛翔する爬虫類も現れ、それが現在の鳥類の始祖であろう。いつ空中を飛翔する夢を実現したのか?。

形は、恐らく小型で捕食者がら逃げる為に走っている内に、飛び上がり、飛び上がり、している内に飛翔を覚えたのだろうか?、これは明らかにラマルクの考え方である。進化と適応は未だに議論されていて、真の解答に到達してはいない。ヒレの発生と翼の発生は系統連系から見ると大いに関連する物だ。環境が異なれば同じシステムで同じことが起こるのである。

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因果律は保存されるかー②

2023年01月14日 09時17分58秒 | 分子進化と集団遺伝学

①で虚時間に附いて少し書いたが、もう一つ深く想像してみょう。因果律は文字の通り原因とその結果である。こころと謂う問題を扱い場合に、最初に当惑するのは心と物体は、どういう関係にあるか?という事だ。因果律はそこで成立しているのか?、日常の常識に捉われている人は、生体を離れてこころや意識は無いと思っている。それがこの世界に生きている普通の感覚だ。だが本当にそうか?。では、あなたのこころ、いや、あなた自身という意識は物質の投影なのか?。そうではあるまい、単なる物質は質量を持つが、意識を持たないという通念でこの社会は動いている。二元論の世界認識である。二元論とは心と物質は別なものだという理解である。自然科学はこの二元論を物質でもなく、こころでもない、或る別な段階に昇華させようとする。心とは感覚の統合された次元を云う。生命体は感覚を持っている。そして顕在的な感覚の個数を五感という。だが、それだけではないのであって、太古から受け継ぎ喪失した感覚はもっと在るのだろう。

Aー わたしという意識は本来は存在しない。では、わたしが存在しているように見えるのはナゼなのか?。それは世に満ち溢れている時間の函数である因果律のためである。因果律はナゼあるのか?、それは詰まる所時間があるからだ。ナゼ時間はあるのか?、それは平準化のために宇宙が動いているからだ。因果律は時間の進行から派生するもので、すべてが停止すれば因果律の謂う原因から結果への道筋は無い。わたしという概念が幻想であるのは、私という物が在るように見えるのは、生物体の保存のためだろう。

生命の起源は別に地球起源でなくともよい。アミノ酸を含む有機化合物は星間物質の中でも確認されている。大きく言えば生命それは太陽系が産んだものだからだ。大きなことを言うようだが、太陽系を含む宇宙といのちは繋がっている。すでに、それは聴覚の研究から脳の探求に進んだ医科歯科大の角田忠信博士がご指摘されている。脳の自律サイクルと太陽とその惑星としての地球は同期して居るのだと仰っている。日本で一番最初に思い出す人はそのことに気が付いてゐる。遠い過去に居た。日本ではいまから1200年ほど前の宗教家、私は宗教家と云うより自然哲学者だと、その著作を読みながら感じている。高徳の宗教家であるが同時に自然哲学家でもある。彼の時代には精密な観測技術は無かった。応用数学もそれほど発達していない中で、この人は相当に果敢なことを言っている。この人の想像力と核心を掴む感性はもう人間業ではない。こんな凄いひとが居たんだなと驚く。もしも可能ならば対話してみたい方だ。現代の自然科学と数学はもう一度飛躍が必要だ。物を細かく分けてゆき究極の存在を確認するのも好いだろう。然し細かく分けて行くのは際限が無いという人も居るし、ある地点で細分化は終わりだと思う人も居る。それと生命の起源はダイレクトには関係が無さそうだ。むしろ原子レベルで生命体のシステムは説明できるのではないだろうか?、あるいは原子まで行かなくても分子レベルで済むかも知れない。

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自己完結組織系の生成について

2022年09月23日 07時51分59秒 | 分子進化と集団遺伝学

 今回のタイトルは、「自己完結性の組織系の生成について」という題です、タイトルだけを見ると何の事か判断が付かないテーマです。それで書こうとしている意図を少し説明したいと想います。人間の一人の誕生は雌雄の性の下、父母の遺伝子を受け継いで母の子宮で育ち生体的には未熟児として産まれる。受精と言う事柄は、いわば神秘そのものの現象が始まる最初です。卵子も精子も、その物だけでは一瞬んは生存するがすぐに死ぬ。受精卵になり初めて生体への道を踏み出すわけです。一瞬の間もなく生殖細胞は最終的には次の受精卵を産むための道に踏み出す事に成ります。ここまでの過程は普通の常識人ならば、誰でも分かって居ることです、受精卵は二分割四分割八分割と卵割を進めて最終的には一兆個の細胞を統治する事に成ります。でもこの過程を詳細に追った分野は今のところ存在しない。発生過程はシュペーマンを始めとして、むかしの人にも神秘的に映ったらしく、各種の生物発生学として研究されて居ました。これは主に形の変化を追う記述内容です。1950年代の初めに遺伝情報が細胞核の中に在りその情報が解明されるに従って分子遺伝学が長足の飛躍を成し遂げました、それは遺伝子工学のような遺伝子の機能を弄くるもので生命体の発生と変化の目標を察知するのもとは遠かった。遺伝情報を単なる道具的対象として操作しているに過ぎない。訳の分からぬ操作で異常な病原体迄も創り出すに至った訳です。謂わばキメラを創り出した。これ等の遺伝子工学の所作は危ない事この上ない所作と想われます。それは自然の原理に基づいて居ない事が問題なのです。人間の浅はかな思惑から、根源的な原則を壊してしまう事が問題なのです。此処には深い未知の不安と危惧があります。

ここで言をうとしている事は上記の事柄とは違います。此処では一つの受精卵が胎盤に定着して、更なる発生過程と自己形成過程の原理、その力動的過程の構造的な面を数学的に捉えることです。この自己形成過程は多くの現象を含んでいる。感覚器官の発生やその統合、また脳の発達です。これは将来の言語環境に適応するための準備も含まれていると考えるべきでしょう。生体の発生過程には無作為の出鱈目な事は起こりません。発生過程には今の時点では察知出来ていない目的性が明らかに在ると想われる。それは遺伝子の傾向の中にも含まれている物だ。遺伝子情報は単なるデータの記録に他ならない。未知の力や個体としての自己形成の作用問題はもっと奥にある。それは固定された記録の中にはない、DNAという記録にしても、ではそれを創り上げた力は何か?、という問いに成らなければ意味は無い。DNA情報は生命体の過去の重要な遺産です。物質と生命と言う物は普通断絶しているという発想ですが、そうでは無くて繋がっていて形成過程で見ると、情報エネルギー体の流れな訳です。その流れは事故を組織化する力で、幾らか似た表現では負のエントロピーと言うシュレーディンガー達の様な謂い方も出来ます。負のエントロピーという或る意味では不真面目な言い方は余り自冗談としては気が利いて居るにしても感心は出来ない。この場合の本質は自己形成過程を牽引する力だという事です。

さて、この完結組織系の事柄は多くの表面的な現象も含む過程で、生まれてから作用する言葉の習得という大切な手法もその自己完結組織系の中に入っている。発生過程はその形態的な変化だけでなく、もっと目に見えない部分の変化を含んでいる。それは、こころと言う過程の発展と展開です。こころと謂う物はすでに原初に在った。その心を完成させる為に視覚・聴覚・臭覚・味覚・身体覚・が形成される。五感を統合する神経網の中心に脳神経がある。脳神経と言う物は漸次、生存環境を発展させた際には新たに脳神経系も新たに展開される。人間は現在生存中の生物の中では、謂わば一番栄えている主種であろう。だが人間を形成して居るのは、人間に成る以前の生物の心であり、脳神経系も一番外側の大脳の下部には、両生類や爬虫類や魚類の魂を宿している。先ず大事なことは、全生命は連続しているのであって孤立した生物は存在しないという真理です。

数学を学んで行く内に、人間が数学の様な論理構造、関係性を組み立てることが出来たのはなぜなのだろう?という考えが芽生えて来た。その理由に、いつも頭のどこかで関心を持って来た。もしかするとその原因は、生きている万物の命が持つ感覚器に在るのだろう。と謂う結論に達した。感覚器が原因ならば、その感覚器が出来た理由又は必然性は何か?、という事に成る。数学も言葉も、結局のところは感覚器が基に成っている。文字は眼が無ければ話に成らないし、話し言葉や音楽は耳が無ければ無意味だろう。我々のある程度完成された社会では、眼が駄目なら点字という方法、耳が駄目なら手話という方法もあろう。それは人工的な仮の手段で自然のものでは無い。声帯を震わす声は自然に近いものだが、文字は数学と同様に人工のものだ。恐らく起源は同じだろう。では感覚器(五感)の起源とその原因、必然性は何なのだろう。初期の生命体が生きる為に外部世界を把握する方法として五感を創った。なぜ五感なのか?五感んで十分なのか?十感は必要ないのか?、我々の分類では感覚器を五感としているが私は疑っています。感覚の五感(眼・耳・鼻・舌・皮膚感覚)が基本ではあるが、本来はもっと在っても好い。人間が都市生活を始めてから失われた能力は幾つかあります。電磁波に対する予知能力なども失われた範疇に入ります。此処ではそれでも、まあ五感として置きましょう。

その五感を一つ一つ、挙げて検討してみましょう。

まず「眼の形成」です。

眼という光に反応し世界の様相を知る第一の手段は、生命体が環境の中で生きて行く上では、最も必要不可欠の能力です。眼が無ければ獲物を取る事も出来ない。生殖行動も不自由になる。光の反応する能力、これこそが目の発生でしょう。光と謂うのは物理学の重要な対象でもある。世界は光で構成されているとは言わないが、光は最も重要な存在です。この光に反応する機能が眼が形成された理由です。ですから、人間に限らずあらゆる生命体はこの光に反応する機能を開発して来ました。魚は眼が発達しています。蛸や烏賊などの海の生き物も眼は発達しています,然し、如何やらイカやタコの眼の形成と動物である哺乳類の眼の形成は、発達の過程が異なっているようです。この辺の事情は生物の適応進化が絡んでいるようです。生息環境の差異は、その機能が最も活用される目的を持つという事を頭に置いてみる必要があります。宇宙に充満している光子に反応する眼は、宇宙でも地球の様な惑星上でも、また海という海水中でも、媒体を必要としない一番汎用性の高い能力です。この光子を応用しない方法はありません。ただし、この光を応用する能力の為に、眼が開発された。眼や聴覚の形成には遺伝情報が絡んでおり、未だDNA情報と眼の発生上の対応は付いていない。然し眼は相当古い能力です。我々の眼は進化の過程の中で魚の眼の起源から改良されて、現在に至っている。原始的な細胞が光に反応する。その反応こそが現在の眼の起源だ。光という電磁波に反応するのは、なにも動物だけではない、むしろ電磁波に反応して、動物を陸地に上陸させた植物の方が大本である。植物は動物の生存を支える神なのです。植物こそは、餌を他に求めないものです。植物は光という電磁波を蛋白質に替える光合成の能力をもっている。彼らは光と水と二酸化炭素が有れば生存を続けることが出来る。

次は「聴力」です、

この能力も基本中の基本であり、地球上のあらゆる生物が依存する能力です。この能力は地球上の水と空気という生存環境で生じた能力です。動物の言葉はこの聴力を基に形成された通信手段です。光は媒体を必要としません、ですから宇宙空間でもその力は有効ですが、音は光とは異なり媒体の振動が情報を伝えるという現象上に生じた能力です。我々は何もない媒体の中では、存在は出来ないし、その中で辛うじて生きて居る訳です。その媒体である空気や水という物が波動を伝える媒体です。媒体は振動を発するエネルギーを遠くまで伝える。人間の声帯ですと100mが精々の所でしょうが、ある種の吠え猿は、3000メートルほどの遠方まで声を伝えることが出来ると謂われています。人間では大声を出しても、正確な言葉として伝えられる距離は100mが好いとこでしょう。現在は空想の所産である、テレパシーの様な脳の活動電位からの発信ですと、交信は其の電位の届くところまで伝わる事に成ります。これは聴覚というよりも直接的に脳に伝わる事に成ります。謂わば内語のように波動を伴った言葉と謂うよりも、意識に直接届くという現象として理解する事に成ります。この辺の事情は未だオカルトの分野でしょう。既存の科学はしり込みする分野です。この聴覚に関する分野では、角田忠信博士の驚くべき研究が有ります。今でもスタンダードな分野に成っていないのですが、人間の聴覚と精神、そして日本語を考える上で画期的な深い世界です。但し、かなり難しくこれを進めるには其れなりの才能が必要な分野でしょう。角田先生の予言では、人間の永い進化の時間軸の中で、惑星の律動は地球生物の脳神経系を形成する上で深く関与している。この様な研究は未知の扉を開く最も根源的な研究です。

次に「臭覚」です。

これは視覚から派生した幾何学とか聴覚から形成された言語と謂うより、もっと生命体の本質に近い情動的な生殖行動に絡んだものと成ります。フェロモンという科学物質が有ります。それは文字や言葉を使えない昆虫や野生の動物の言葉でもある。昆虫や野生動物だけでなく、人間もこの匂いに大きく影響されています。人間は動物です、ですから好い匂いのする女の人に着いて行きたくなるのも、動物としての人間に深い強い影響力を与えている。それは単なる香水の事では有りません。性行動に影響を与えるフェロモンのことです。フェロモンは本能に作用する分子構造の化学物質です。生物の体内では様々の酵素やホルモンが作用して生物の変化を促し、生命維持に必要な恒常性を保っています。謂わば一つの生命体は実に多くの調和的な構成で運営されている一つの宇宙でもある。匂いは日本人の取ってなじみ深い感覚でした。平安時代の昔から香道という遊びがあります。色々な匂いの元を混ぜそれを焚いて何の匂いが合わさっているかを当てるものです。此れには鋭敏な嗅覚が要ります。何と何の匂いが混ぜ合わさっているか?を分けなくてはならない競技です。これは現代では難しい競技です。何故なら、巷には様々の合成樹脂などが溢れていて人間の鼻は嗅覚の力を失い掛けている。犬の嗅覚は人間の千倍ほど鋭いと言われますが、犬ほどでは無いにしても、環境の自己家畜化から段々に人間の嗅覚は鈍くなっていると思う。

次は「味覚」に付いてです。

味覚、それは何のために在るのでしょう。味覚が無くても生存できるのでしょうか?、何だか、味が分からなくても生きては行けそうな気がしますが、それは本当でしょうか?、卑近な例から言いますと、私の知り合いには大変な食通の美食家が居ます。それに言わせますと、本当に美味い物を食う事は、それ即ち生きている事なのだそうです。人間は美味い物を食う為に生きて居るのでしょうか??、私はそうは思いません。知り合いの考えには賛成できません(笑)、でも、美味い物は有り難いな、とは思います。さて、その食通に云わせると人間の味覚は、甘い、苦い、辛い、渋い、酸っぱい、が基本に成って味が構成されるのだそうです。それの微妙な配合の違いが、多彩な味を創り出すのだと云う。私の味覚の考えは、食うと危険なものはあまり食べたがらない様に出来ている。例えば辛い物や苦いものです。元々、食うと危ないものは不味い味がする。人間は大昔から自然の中に薬に成る物を見出して来ました。それはいわゆる植物に多いのですが、動物性の熊の胆とか、マムシ酒とか、脳下垂体の成長ホルモンとか、動物性由来のものもあります。多大な植物の中から病気に効く薬を調べる際に、それを食うという事をして来た。食うと謂うより、舐めると謂うべきか、植物には特有の毒があります。植物のアルカロイドには動物には毒に成る物も多いのです。医薬を探求して来た古代シナには偉大な医書が有ります。神農本草経です。また、黄帝内経、黄帝外経などの医書も有ります、これが東洋医学の源流とも成っている。薬に成る植物を編纂しています。医薬と農業を開始した偉大な神農の言説には「毒と薬は紙一重である」と言います。将に毒は薬であり、その匙加減が薬か毒かを決める。動物にも植物にも病気があります。動物のお医者さんも居ますが、私達がお世話に成るのは人間を対象にしたお医者さんです。漢方医学は見直されて好いと思います。漢方系の医学は、投薬と生活全般の処方に成ります。つまり医食同源であることです。自足自給の時代ならまだしも、現在ではメーカーが作ったものを大衆が食べている。これは或る意味では不安も在ることなのです。多くの添加剤が混入されている。病気もそれを元に起こることが有ります。このブログを読んで下さる方は、その事を少し考えて欲しいものです。

さて次は「触覚」です、

これはとても大切な感覚器です。触ると言う事はとても大事なことなのです。人間の文明はこの触覚を通じて発展して来ました。技術の大半は触る事から始まります。人間んが何かの活動をする場合にこの触って触れるという事が無しに何も出来ません。根本的に物の存在も触る事から始まります。実を言えば数学も音楽も触るということから触発されて創られた物です。また有性生殖の起源も触る事から始まります。暖かい物とか冷たい物、柔らかい物とか硬い物、ぐにゃぐにゃしている物とか、栗のイガのように触ると痛い物とか、様々の触覚から派生的に得られます。触覚は感性に影響を与える重要な感覚です。機械的仕組みも総じて触る事から始まります。如何なる精巧な機械でも、人間の手で組み立てられたものが最も信頼できるものです。皮膚感覚で謂えば多くの人は、暖かくて柔らかい物が好きです。それは我々が生まれた時の母の感覚が記憶の底に在るのかも知れません。

次に、いま挙げた各種の感覚器のデータを統合して全体像を形成するのに意識活動が有ります。

その統合された感覚器からのデータが自己意識を創り上げて行く。過って心の起源は仏教でも探求された。「唯識思想」です、これは瑜伽師地論に瞑想の結果が書かれている。唯識二十論、唯識三十項、この瞑想は生と死の境まで降りて行く為に、生の意識に復帰できずに死ぬ者も多く居た。本物の瞑想には真の達人の導師が要る、そうでないと危ない。ヴァイバーシカ、ヴァイシェーシカ、等の学派、説一切有部。奈良時代に日本に輸入された仏教思想には後期仏教の論書や経典以外に、大乗の宗派がある。中論(華厳宗)、唯識(法相宗)、三論、など、奈良時代に伝えられた仏教は未だ日本化されていない、どちらかと云うと大きく言えば生のままの自然哲学とか神秘哲学の部類に属する物であった。もちろんそれ自体は大変に高度な、認識論、論理学、薬学、数学、天文、暦学、土木技術などを伴っていた。未だ仏教が出現する以前の遠い淵源は、ヨーガを伴う自然探求者の群れであった。そして現在の仏教の開祖は約二千数百年前のゴータマ・ブッタに始まると伝説は伝えている。この一人の人物は恐らく実在の人物である。ただ飯を食い自然に生きるだけの存在では無く、生まれ来たこの世界の実相を探求しょうとした、極めて少数派の中の一人である。一人の特異な人物から始まった原始仏教は、ブッタ一人で築き上げた物では無い。彼以前にもその探求者は多く居た。彼らは仏教では六師外道と呼ばれている。外道という言い方は独善的な響きがあるが、仏教は明らかに先人達に寄る成果の内に出た、新しい芽なのである。

人間が如何にして外部世界(外的宇宙)の物事、その本質を把握するには、其れなりの段階がある。古来、人間は自然探求の方法論として遣ってきた事では有るが、その方法を段階的に明確に把握したものに三段階論がある。

①ーその現象を細かい所まで良く観察してその挙動を把握する段階。

②ー細かく観察した挙動をモデル化する段階(つまり観察した挙動データの内容を形象化・数学を使って式化する)であり数学的に現象をモデルとして把握する事。

③ー②から得た何らかの本質を更に抽象し抽出し、定理、ないし法則化すること。

このこの段階を更に繰り返す事で、現象認識がさらに深まり、現象の根源に迫れる。以上は方法論としての、推論の手掛かりであり、日本では戦前に武谷の三段階論として語られる事も有った。

例えば分子生物学の発展を、この方法論で捉えると、先ず、なぜ子が親に似るか?と云う遺伝の現象の観察段階である。歴史的な経緯で言えば、遠くはメンデルに始まり、エイブリーやポーリング等が考えた、何だか解らないが、たぶん親の情報から子の情報が形成される。という情報の伝達が、何に因って、どんな仕組みで、伝わるのか?という現象の観察の段階がある。次は、その観察から得たデーターである染色体が遺伝情報の元であるという推測である。同時に遺伝情報としての染色体の構造モデルを模索する段階であろう。つまり遺伝現象を創り上げている細胞中の物体である染色体を構成している四つの塩基が、どの様な構造を持ってゐるか?という段階であり、モデル化の段階である。この染色体の構造が1953年に一般の科学誌ネイチャーに、足った1ページの論文として掲載された。ワトソン・クリックの二重らせん構造の論文である。遺伝子子構造が分かると、この段階で遺伝子構造を弄るという行為により、様々の弊害が現代社会を危機に貶めて居る事は誰もが承知の事実だろう。

ではでは、次の段階は何かというと、生命とは何か?という、現象の本質を把握する段階である。つまり何故生命が生まれ、その生命体が永い過酷な環境適応の中で生き残って来たデータを、DNAという核酸の二重らせん構造を創り出し、それに記録を託したか?と謂う根源的な部分の認識段階であろう。遺伝という塩基の列の長いデータは言わば生命史の経過時間であり、歴史に他ならない。そこには過去の幾多の危機が刻まれている筈であろう。この段階は、まだ理解するには程遠い段にあり未知の暗部の現象であるが、多くの示唆を含んでいるに違いないと認識している。命の起源は何なのだろう?、人は遠い昔から問いを重ねてきたが、宇宙の自然環境が創り出した物であろう事は凡そ明白な物だと思う。命は一つの現象である。それも化学物質のレベル次元に出現した反応過程にちがいない。太陽系では太陽の放出する光と熱のENERGYが、生命体の存続と維持を握っている。生命体は一つの過程である以上永遠に存続は出来ない。必ず次の世代を生まなければ、そこで終わりである。その為に命は身を削って次の世代を創り上げて来た。その設計図がDNAであり、生命は=DNAではない。命の創り上げたメモ用紙かノートの様なものだ。

先に方法論としての三段階論を述べたが、其れとば別に、我々の外部世界である物理世界は数学的な数理的な方法で成功を収めて来た。これは一連の現象が要素に還元できると言う発想と確信に基づいている。この考え方は近現代自然科学に多大な実績と成功を導いてきたことは事実だが、この要素に還元できない側面は無視するか捨象する事に成る。そうすると所謂、還元できない事象は無いものとして進める事に成り、一番重要な何かを欠落させ捨てる事に成る。それが要素還元論の欠点ないし限界である。物理の様な比較的単純な対象でさえ、その様なことが起きる。例えば重力・引力の本質を厳密には定義できていない。厳密という意味はその原因が何に因って起きているかの大本を定義出来た時であろうと想います。空間の曲がりが重力の源泉ならばまず空間とは何か?、質量が空間に歪を創るのならば質量とは何かがキチンと定義出来た時でしょう。近代科学は数学の力で飛躍的な発展を見たが現象の数式化は把握の為には有効で在っても、数学者は数式で考えている訳では無くて、多分考えている事は、イマージを駆使して現象の関係性を操作しているのだと思います。特に現象世界に関心のある応用数学はそんな考え方をする。

外的世界に関しては主に五感に因るデータの数理的な把握、又は合理的解釈で、概ね上に書いた様な物だが、恐らくは内的世界についても三段階論は技法としては有効かもしれない。と謂うのは内的世界という物は生命体の営みであり様々な自律系の恒常性が基礎と成っている複雑な有機系だが、先ずはモデルを形作る為のデータを収集しそれを検討する。例えば人間を例に挙げると、様々な機関が相互に連携を取り調和的な生命維持の体系を創り上げている。見事なものだと言う他ない。消化器系、免疫系、循環器系、脳神経系、呼吸器系、骨格と筋肉、その様な基本的なシステムの上に、眼、耳、香り、味、本能系、が加わっている。人間はそのような一個の有機体系の中に精神活動が伴っている。その精神活動も脳神経系の中に納まって動いている訳である。脳神経系はふしぎな機能を有する未知の領域だ。我々の活動する社会は、空気という海の中で動いている。コトバは空気の振動として聴覚を通じて発信されるが、音声を伝える媒体のない世界では脳という発信機が直接つながる必要がある。云わばテレパシー(感応)の世界と言える。現在の時点ではテレパシーは空想科学の世界の物だが果たして根も葉もない物だと言い切れるか?、私はそうは思わない。この世界の実体は未だ未知の領域がワンさと在り、人間はそれに気が付いていないだけだろう。数理科学はそんな世界を科学する領域でもある。

次に書かなければならないものに、内的世界の構造に附いてである。外的世界は五感覚の総合により、概ねの現象を把握することが出来るが、内部世界である我々の恒常性を形成している様々な器官と、その動作関係は把握が困難である以上に、我々の意識下に関係しているがゆえに、外部世界と比べてそれ以上に重要な世界であるにも係わらず明確に成っていない。外部世界の諸現象は近代自然科学の数学的な方法で現象の解析を行い多大な成功を収めてきたが、内部世界は古代に探求されたのみであまり目立った進展はない。古代の瞑想の探求者たち、特に原始仏教の瑜伽の行者たちは、瞑想の技法を使い意識の解析を行った。仏典瑜伽師地論は様々の興味深い事を書いている。我々がこの地球上に突然今のままで現れたものでない限り、我々は古代の生き物から多くの器官とこころを受け継いでいる。我々の内部には、遠い昔、魚であった時代の魂と、陸地に上陸しその中で進化を遂げた両生類と爬虫類の精神を受け継いでいる。そう考える事は、極く自然な正しい推論で在ろう。

【内的世界のテーマについて】好い例が有る。それは人間の一番大切な手段であり、文化と謂って好い言語、【ことばの問題】である。日本語に付いて取り上げてみたいが、日本語の歴史と日本語の習得の問題は分けて考えてみよう。日本語の歴史的形成については難しいので後で詳しく書くとして。先ず言語習得の問題を先に考えてみたい。

言語にはその言語特有の音韻形成があり、ことばを綴る単語を創る際に、母音とか子音とかを使い口語文章を形作る。その際、日本語は概ね母音優勢で言葉が作られ且つ口語として語られる。子音がない訳ではないが、基本は母音形成に依って単語が作られる。これが日本語の特徴で、その為に単語を創る場合に子音優勢の西洋語と較べて音素の数が少なく、結果として同音異語が極めて多い。表現の効率から考えれば、西洋語のように子音を多用する表現の方が音素の数が多く効率的なのだが、母音優位による言語形成、それが日本語の特徴なのだから仕方が無い。果たして、母音優勢の言葉は子音優勢の言葉に比べて、古いのだろうか?その証明はいま何とも言えないが、たぶん古い。角田理論によるとし、子供が言葉の獲得するさいに、母音主体で形成される言語、たとえば日本語は、子音主体で形成される言語、西洋語に比べて、音素に反応する脳内スイッチが異なるという。人間の言語中枢は左脳に在り、脳のある部分に集約される。その際に自然の音は右脳で処理される。が、日本語の習得を経た日本語脳は、言語は左脳で処理される事は外国語の脳と同じだが、日本語脳に関しては自然の音も左脳で解釈処理される場合がある。これは明らかに外国語能とは異なる特徴的なものであり、これが日本文化と密接に関連している。

脳内にあるスイッチの選別機構が、意味のある音声なのか、無意味な自然の音なのか?、通信理論では白色雑音と言われる物が有ります。これは完全にザーァ、ザーァというラジオのチューニングが合ってゐない場合に出るあの音に代表されるものです。自然の音声(滝の音、川の流れ、木の折れる音、虫の鳴き声、波の音、オナラの音、バイオリンなど楽器の音、その他多数)は、西洋人の脳では、それらの音は言葉としては脳の中では捉えられていない。それらは無意味な音として脳内では処理される。ところが日本人の脳内スイッチは、この自然の雑音と見える虫の音楽を、左脳で、つまり言語脳にデータが行き把握する。それらを意味ある声として捉える。その為に、日本語は至る所に耳を澄ませば自然の音を声として捉える機能を持つようです。虫の音を愛ずるのも、日本人ならではの文化であり遠い昔から鈴虫や松虫の奏でる音楽を楽しんで居ました。それは日本人の特徴的な行為であり文化と云えそうです。道理で日本語には自然の発する音を表現する擬音が多い、オノマトぺなどとも呼ばれている表現ですね。この様に我々が普段に何気なしに使いながら、極めて重要なコトバの問題も、内的世界洞察する為の大切な内部機能のひとつです。

ところで、このような問題が出てきた背景は、日本が外国と交渉を始めた明治期以降の事のように想います。ただ明治期に日本に英語教師としてきたラフかディオ・ハーン(小泉八雲)氏は、鈴虫の音を楽しんで居たようです。それは彼の随筆の中に出て来る。世界中を渡り歩いているハーンは、何故日本の文化や風俗に魅せられたのでしょう。確かに、日本文化は外国の全ての文化と異なっている面が有ります。この島国だけで生れた風習とことば、日本語の特異性は多くの言語学者が語るが、それは国語学や言語学を専門にしている方だけでなく、角田忠信氏の様な医学者が実験的に指摘為さっている。角田理論は可なり奥が深い、角田先生のご指摘に成っている事は、人間の聴覚を通しての研究だが、この惑星に生存している生物は、人間だけではない。微生物から植物、動物まで、その数は果て知らぬほどの大数になるでしょう。

そして惑星の表面に発生し、環境に応じて適応をして来た命は、当然の事ながら惑星の提示するリズムを持ってゐる。その例として人間の脳神経系の時系列的な年輪を挙げている。角田理論の慧眼を示す部分でしょう。人間の脳神経網の中に惑星の示す年輪がある。我々の全てはリズムに因って動き成長しているらしい。

ここで少し神秘的な話をしてみたいと思います。それは眼には見えない所の宇宙に附いての想像です。少なくとも我々の宇宙像は完全ではありません。それは千年前の一神教の宇宙像がいかに実在の描写と異なって居たかを知れば明らかな事です。その様に今現在の我々が知っていると思っている宇宙像が完全だと思わない方が正解でしょう。人間の自然認識はより深くなりより広範に成ります。眼に見える物だけが宇宙の全てでは無いと考えた方が、宇宙の実相をより正確に正しく捉えているのではないでしょうか。その議論は、物理学の分野から発する機会が多い、それは常に物理が現象を解釈するのに十分なフィールドを提供しているからだと私は考えています。そして何にしても我々を取り巻く世界は、我々の感覚に因って把握される世界です。こう言った外部世界については、我々の内的意識の世界とはまったく別個に、謂わば何の因果関係も無く存在しているのでしょうか?

我々の感覚器官は万全の物では無い。しかもそれが我々の外部世界の在り様を規定していると思います。つまり、私達の紡ぎ出す世界像は感覚器から得るデータに規定される。然も、外的世界と内的世界が、何の関係も無く存在しているのではなく、互いに影響を与え合っているとしたら、奇妙な世界像に成る。最小の量子から大宇宙の構造まで、このスケールを一貫して貫く原理とは何なのでしょう。それは我々が未だに関知せぬ世界の実相を表現しているかも知れません。この様な世界像は実際に、私達の知的感覚を超える物で在る可能性が高いと考えます。知ることのできないものは果たして在るのでしょうか?、さらに在るとは何なのでしょう?、いわゆる存在論ですね。存在論は、在ると無いとで二分できる物では無い。物事は在ると無いの、いずれかだと謂う、そんな単純な頭の二分法では世界の実相は捉えられない。私達の世界認識は、端的に言えば私たち自身が持つ感覚器の効果に過ぎない様に思えます。最初に書いたように、私達の感覚器は万全の物では無い。たまたま私達が生まれたこの地球という環境に即して得られ且つ育てられた感覚器能力です。重力と電磁波、此れは我々の遠い先祖である、最初期の生命体がうまれたときに既に在ったものです。この環境の中で、我が先祖は複合化と適応を繰り返して来たわけです。我々の多くの能力はこの過程で開発され改良されて来た。然し、この感覚器に掛らない世界もどこかに在りそうです。

ごくごく初期の生命体の発生時には、そんな世界を感知して居たのかも知れませんが、現在の我々の様に、ここまで授かった能力を特殊化してしまった以上、最早や把握できないものが在って当然でしょう。感覚を発達させてしまった為に逆に見えないものが在ると思う。たとえば、我々は物質で出来ている。つまり極限を辿れば最小の物で出来ている、それは量子で出来ているという事と同じです。其処には新不確定性原理とか、見えない関係性とか、平行世界とか、EPR効果とか、それらは、皆な精神とか、意思とか、こころとか、知るとか、何らかの連続波動性と関連している。もちろん、生きている事にも関係している。死んでも多分関係しているでしょう。この事に附いて以下に少し考えて見たい。

そういう精神とかこころと謂う世界に附いて考え、その像を思い描いてみると、現在多くの人がこの地球上に暮らして居て、情報を他者に伝える為に、色々な言葉を喋っている訳ですが、表面的な言葉を超える物が在りそうです。もちろん、言葉は思考を或る程度規定し、その言葉の表現の歴史性の特有の思考形態を持つ。別けても日本語は世界的に特有の細密で優雅さ持つと私は思っています。現在は世界を席巻している金融家の言語である英語が幅を利かせているが、和歌という文化の日本語を研ぎ澄ませれば英語などの比ではない。ただ、この未知なる存在の感覚から言えば、言葉は根本的な問題ではないのかも知れない。声帯を振るわせる随意運動から発生する空気の振動を基本としない、電磁波で交信する言語が在っても不可思議ではない。この電磁波は見えませんし、波長によっては聴覚に係らないものです。すなわち聴こえない。テレパシーという物は、この電磁波を使って行う交信とも言えます。電磁波は太陽光の周波数レベルでは視覚に掛かりますが、波長によっては視覚に掛からない。我々よりももっと昔の形態を維持している動物は、この電磁波的な言語を使っているかも知れません。

言語論のこう言った問題に立ち向かい、それこそ超絶の洞察を為した人に空海僧都が居られる。彼は、今からおよそ1200年も前に生きた人なのに、我々の呆けた頭脳を遥かに飛び越えた精神力で、深く深く省察を繰り返している。空海さんの著作はその本質的な部分に言語哲学がある。例えば、彼の後期の著作「吽字義」の中で、【ほとんどの人は、唯、かくの如き字相をのみ知りて、いまだ過って字義を解せず、ただ、表相のみに捉われて真言を掴むに至っておらず…】空海先生の当時は、先生が仰る様に将にその様であったのだろう。然し、其れでは現在は迷妄を脱したのかと云えば、全然脱してなど居ない。それどころかもっと酷い事に成っていないか?。

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進化論ー今西錦司とダーウィン

2022年01月14日 16時55分57秒 | 分子進化と集団遺伝学

進化論は19世紀の大きな思潮であるが、この思潮はいつどこから生まれたか。生命の発生と生物の種類に関しては、遠くはギリシャの古代、支那の古代からも論じられてきた。然し、此処で言いたい事は、古代の言説ではない。それはダーウィンと今西の進化論に関する相違であり。生物に対する認識の差異である。今西錦司の生物思想の根源的な信念を現した一つの言葉がある。「生物は変わるべくして変わる」、という言葉である。この言葉をどう解釈するか?、進化に関心の無い者には自己撞着か冗談かと想うに違いない。だが、この言葉は深い、「生物は変わるべくして変わる」、つまり変化は外的要因だけではなく、内的要因で変わるという。ダーウィンとは根本的な認識の違いを持つ事だ。

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言語学とは、いわば交感応答学である。

2021年09月14日 10時25分25秒 | 分子進化と集団遺伝学

人間には生まれ乍らに同種類交感能力、あるいは交信能力が備わっている。その能力こそが様々な言葉を生み出した力である。であるからあらゆる言葉はその能力の賜物である。個体間の交信能力は必ず或る集団においてはそこで通じることばが成立する。 言葉の本質は、たぶん交感応答学とでも謂うべきものだろうと考える。コトバの習得に関して、それは、外的な音声情報(交感応答過程と現象)に因る母語への影響は強い、ただ其れだけでは言葉の本質には迫れまい、恐らくは、その本質の部分は脳の内的サイクルの形成に伴う物であり、個体の神経系統の成長と共に外部言語が獲得される。

「コトバに関する問題で、なにが不思議なのだろう?なにが分からないのだろう?」

声帯が発する発音可能な波長域を集めて来て、意味あるコトバに構成する原理。

それが言葉の創造的な部分であり、それが分かれば、思考の現象本質も、意味も、

その全体の関係を把握できる。

それが解れば、意識の現象も解明されたと同然だ!。

「音は意味ではない、もっと言えば音に意味はない。音に意味を付与しているように見えるのは脳の記憶と意味への翻訳サイクルです」。ブルームフィールドの云う構造主義言語学のプリンキピアは、「言語の本質は音であり、それ以外に無い」というブルームフィールド達の構造言語学派の主張は本質を見逃した無知の賜物であり、真の言葉の現すところの本質を見逃している。音は確かに、それを対応化構造化することで意味を表現するが、意味は 音ではないし、音は、意味ではない。

おおよそ意味と云っている概念は、脳神経の中のサイクルである。こころという物が形成される事がコトバの前提なのです。

音は通信の道具に過ぎない。脳の機能の中に自己サイクルが出来る。その過程が言葉の習得時間なのであろう。更にこの過程は現在の時点で解明されてはいない。

A :  丁寧な説明は要りません。私は音が意味に変わる瞬間は、いつ、どこでか、を聞いているのです。それは我々が、漠然と意識と呼ぶ覚醒空間の中で起きているのだと思いますが、その過程は中々表現し把握するのが難しい。でも、出来ない事では有りません。あなたが、私の言おうとしている事が分からず、若しも、そうでないと考えるならば、その納得できる作用を示してください。

B:ええ、私もその音が意味に変わる瞬間の解析には、むかしだいぶ手こずりましたよ。それは自分の意識の内観を必要とします。よほど強い継続的智力が無いと把握は困難です。私のような魯鈍な性質では解析分析は無理かもしれません。ただ分かる事を少し上げてみたい。それは言葉と数学はおなじ土壌に生えているキノコの様なものです(笑)つまり二つの分野の生えている土壌は一体のものですから、当然つながりは有ります。時間軸の前と後、どちらが大きいとか小さいとかを含む物事の関係性、などは数学の基礎と同じです。生まれて、外の世界に出て多くの外部情報と、遺伝的な内的情報の総合で、コトバが出来上がって仕舞うと、音と意味の相互依存性、つまり脳過程サイクルは相互に補完性を持ちます。つまりコトバをつかって考える、その内容がまた別のコトバを生み、相互補完的に表現を深め、思考自体を深める、さらにはコトバが考える内容を規定する。そうなると「コトバと思考」は、おなじ展望(パースペクティブ)なものとなる。コトバの認識的核心部は此処に在るのです。むかし構造言語学派は、コトバは音が全てだという錯誤の最たる見解を披露していましたが、可笑しな事には彼らの考え方は逆立ちして居ます。現象の事実はまるで異なります。空気の海に生きている我々哺乳類をふくむ地上のすべての生物は、情報を伝えるのに空気の振動しか利用デキナイから、伝達に空気の波動であるそれが使われているに過ぎないのです。声帯を振動させることでね。我々は酸素と窒素の混合物の海に生存している。

すべての生命体は分子構造の上にひろがっている。原子の次元での生命体は、少し考えずらいが、原子同士が構造を持つ分子的世界の中で生命の初期形態が生まれた。「生命とは何か?」その基本の第一章は自己増殖にある。自らを複製できる事だ。原子から分子構造が創られ、やがて何らかの理由に依り自己複製、乃至、自己増殖を行う分子構造が現れる。無性生殖の登場である。やがて紆余曲折をへて真核生物が現れ、雌雄を分かつ有性生殖が出現する。オスとメスの深い溝は此処に始めるのだろう。その溝は後年の哺乳類に至るも厳然として存在する。振り返ってみると男と女は違う生き物なのである。どうしても理解出来ない部分があるのだ。心とか意思とかが現れるのは、この有性生殖の次元であろう。それ以来、オスだけでもメスだけでも、生命体の最も重要な使命である、次の命を産むという事はできない。雌雄は協力し合体しなければ、次世代の卵を孵化させることができない。ここに意思が生じ、言葉が生ずる。コトバはその合体の為の通信手段として発生した。であるから、初期の生物は植物だろうが動物だろうが、互いに通信する言葉以前の意思疎通ができたのだろう。動物同志は疎通ができ、それは植物とも交信可能であり、謂わば語ることが出来たのだった。

ヒトは過っては、あらゆる同類だけでなく、虫や木々は草花の植物とさえ、交信が可能だった。ところが人間の言葉が分化して高級な概念という物を創り出すに至り、原初的言語は方言化して互いの交信は断絶した。或る集団がその方言化に拍車をかけて、集団内での意思疎通が、高度の概念に成れば為るほど、外部のコトバとの疎通が不能になる。その状況が現在の状態である。そのように人間の言語の特徴は限りない方言化の途上にある。言葉と謂う現象を大局的に見れば、以上のような遠大な背景を持つ対象です。ですから日本語とか英語とかその他、数千に達する世界方言がありますが、どの言語が優秀かとか正しいかとかは、到底言えないものです。ひとの精神活動を決定する鋳型のようなものが、言葉と謂えるかと思います。別けても日本語はその自由さ闊達さ美しさで、際立った言葉であると私は信じています。人のコトバは、そう謂った生命体の持つ交感応答の世界の小さな一つである。別けても日本語は世界でも珍しいくらいに方言化が止まった原始的言語である。その可能性は例え様もなく奥行きが深い。

個体生命が神経発達し固有の判断力を持つに至ると、必然的にことばが生まれる。ことばとは、内的なものが外部に表出したものであるから、ある程度の神経の発達した生物はすべてことばを持つ。ことばとは対象外への交信信号とも考えられる。そしてその在り方は多種多様で好い。当面の課題、考えられる謎がある。一つは、ことばと謂う対象を明らかにすることである。二つは、人間の内的思考の枠組みを把握することである。三つは、想像力、概念の形成過程を明らかにすることである。四つ目は、ことばと数学(数という概念の)の手段の共通性を明らかにすることである、と同時に、ことばと数学の方法論を深めてその技法を高めることである。五つ目は、可なり広い問題群だ、それは宇宙の起源から、いまの現在まで、どの位の年月が経過しているのだろう。宇宙の年齢は186億年から189億年に変わった、だがこの宇宙年齢は決定された物ではない。それは宇宙現象を知る事が深まれば深まるほど、経過年数は大きくなる。やがて200億年を超えて1000億年にもなる性質のものである。我々のいま現在生きているこの時間が問題です。地球に生命体がうまれて、現在、我々が存在するに至るまで相当の年月が掛かっている、そのことが大切なのだ。我々はいま制約された形で生きている。真核生物から進化したすべての生き物は生殖活動を行う為にオスとメスを必要とする。オスだけでもメスだけでも次世代を残すことは出来ない。出来なければその種は絶滅する。地球史上絶滅した生物はおおい。それは化石や伝承の形で残されたものだ。また、植物の様に光合成が出来ない為に太陽光のエネルギーを生存には使えない。動物はすべて何かを食らって生存を維持している。ここに争いのネックがある。

さて、「言語ー日本語の起源と特質、その未来に付いて」、それではまず意味とは何かに付いて少し考察してみょう。過去に日本語の特質を研究された何人かの有力な国語学者の日本語に付いての展望は、日本人の「人種の混合説」同様に、日本語は「幾つかの言語が被った言語」であるという見解である。だが、はたしてそれは本当か?記録として残された確固とした日本語の成立は、一応、漢字が渡来してからのもので、カタカナムという神代文字が在るとされるが、本来の日本語の起源ははるかに古く、数万年以前にまで辿れるだろう。ひとが居れば言葉は在るので、絶えることなくその言葉が継承されてくれば、縄文時代にこそ日本語の起源がある。漢字以前の神代文字は未だ定説には成っていない。また、「カタカナ」は漢字の簡略化のように見える。更に、「ひらがな」は、カタカナの金釘流の無骨さを筆で筆記できるように改善した物だろう。この成立は奈良時代か平安初期であろう。どっちが先かは余り意味がないが、多分、カタカナの方が先かもしれない。だがカタカナで和歌や小説を書いたのでは、情緒も恋愛もないでしょう。精々、方丈記の様な随筆ならば許容できるが、だが、方丈記にしても「ひらがな」の美しい文字を流れるように書いた方が「ゆくかわのながれはたえずして、しかももとの水にあらず・・・」カタカナよりは好いでしょう。現在、「カタカナ」は、日本語に入ってきた外国語の音票に使われる。インデペンディンスやセオリーなどの、横文字を音標する際に使われる。我々が日常使うのは、ひらがなと漢字の入り混じった文章である。

「意味とはなにか?」、「意味が通じる」とは、「わかる」という事と同様に使われる。なにか既定の関係を十分に理解している「認識上の記憶」があり、意味が通じるという事は、「その記憶につながる」、という事である。意味が通じるとは別な発想に通じるシステムのつながりである。それゆえに、その認識上の分った記憶が無ければ容易には意味が通じることは無い。意味と云うのは古代(インドやギリシャ)から世界中で追求されて来た対象であり、それは思考過程の段階により説明される。論理学が古代より重要な学科とされてきたことは自ずと理解出来よう。謂って居る事を分けて理解するという行為は概ね数学の分野と等しい。何か、本質的な言説を聞かされた時、それが正しいとしても釈然としない場合に、人はよく「頭がわるいせいか、解ったような気がしない」と言う。解るとはとは何なのか??それは、いろいろな表現の仕方があるだろうが、自分の理解のCategory(規範)から外れた場合に多にしてそう謂う事が起きる。「解るとは何なのか?」という自省は根源的な問いと謂うべきだろう。

ここで少し面白い寄り道をしよう。月は地球の最大の衛星である。例えば昨日は月食だった。いくらか雲はあったが月の食は、ハッキリとわかった。ただ漫然と月の欠けるのを見て居ただけでは少し惜しい。と、謂うのは月の食を食っている円弧は地球の影だからだ。おどろくべき事には此処から月と地球の「大きさの比」を求めることが出来る。月に映る地球の円弧を観測した、古代ギリシャのサモス島のアリスタルコスは月の大きさを地球の三分の一と計算した。そして地球の大きさを計れば、自ずと月の大きさが計算できる。また月の見掛けの大きさからその距離を計算することが出来る。太陽質量までは計算できなかったが、彼は三角法を用いて地球から太陽までの距離を計算している。なぜこんな事が出来たのだろう?。それは彼が数学の力を深く信じて、正しい宇宙の構造の枠組みを持って居たからである。わが大地は丸く、太陽を中心としてその周りを自転しつつ公転している。その事を知って居たからである。彼はなぜ太陽が中心だと思ったのか?、わたしはそれが知りたい。数学の方法論に付いても、それの本質的な根源的な意味を理解しないと応用にはつながらない。問題が解けるだけでは駄目なのだ。解法のパターンを上手に記憶して微積分の問題を解くことが出来る。だがテストの点数は○でも、根源的な理解が無いと応用が利かない。この方法論はNewtonによって始められたが、では、彼がこの方法を思い付いた切っ掛けはなんだろう。Newtonの思考過程を追うことが根源的な理解に通じる。

言語に限らず、自然の現象の中には目を見張る驚異が有る。例えば、ここに云う物事を形創る不可思議な力の事である。この本質的な力は至る所に見えない形であふれている。ことばを言い換えれば予定調和とでも言おうか。予定調和とは個別の調和ではない、個別の整合性を予定調和とは呼ばない。全体的な交感機能を予定調和と呼ぶ。これに通底するものを挙げるとすれば、「ホログラフィー」、「カオス」、「形態形成」、「進化」、「太陽と太陽系」、「統計力学」、「確率過程」、「言語」、「視覚・聴覚」、「知能・脳神経系」、「分子遺伝現象」、「引き込み共鳴作用」、など書き切れないが諸々の現象である。これ等はその底に通底する力が働いていると考えれば解かるものが在る。

自然現象の探求には、其れなりの方法論が有る。それは昔に、武谷三男が弁証法の諸問題に書いた「三段階論」という思考過程の発展の方法論が有る。その第一は、我々の感覚器(視覚・聴覚・臭覚・味覚などの)に架かる現象の把握である、現象を徹底的に観察し記述する段階である。それが第一段階で、次の段階は実体的な段階であり、第一段階の観察で得た記述からモデルを製作する段階である。それには勿論だが、数学的な道具を使う。数学的な道具を使いモデルを製作する。それが第二の実体的な段階である。最後に、第三段階として本質を掴む的な段階が有る。それが本質的な段階と呼ぶ。本質とは、現象を創り挙げて何らかの力を想定する、真理値の段階で、認識的には最終的な段階と成る。私は想うのだが、この事例にピッタリ合う世界認識の大きな例が有る。それは太陽系に関する天体力学の歴史である。第一段階の現象的案は、チコ・ブラーェの目視による遊星運動の把握である。チコのヴェン島に在る天文台は、当時としては最高の観測所であった。歴史上、これ以上の観測所は無い。もちろん他にも無いことは無いが、マヤ文明の天体観測所はデータが残って居ないし、古代インドの天体観測所も、相当な物で在ったことは確実だが、これもデータは残って居ない。で、残っているのはチコ・ブラーェのフュン島の観測所Dataしか無い。この目視による正確無比なデータは、ヨハネス・ケプラーに拠って数学的に検討され、三つの法則が現れた。その法則が何を意味しているのか?、は、ケプラーには解明できなかった。その法則に意味を深く分析し重力を把握したのは、アイザック・ニュートンであった、彼は遊星の運動を把握する為に微分法を発明し、遊星が互いに引き合う引力で結ばれている事を初めて認識したのである。此処には武谷のいう三段階の発展が明快に見られるのです。一段階はチコ・ブラーェの目視観測によるデータの蓄積、第二段階はケプラーに拠るデータを検討した遊星モデルの構築です。そして第三段階の本質的な段階が、ニュートンに因る万有引力の発見です。自然把握はこのように段階を踏んで起きるというのが、武谷の言わんとした三段階論ですね。

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デオキシリボ核酸の塩基情報は、生体合成の際なぜ三つの塩基の組み合わせに成っているか?

2019年01月20日 11時04分56秒 | 分子進化と集団遺伝学

情報は偶数を嫌うか?自然は最大の効率と最小の作用を好む。生物の遺伝情報(デオキシリボ核酸)が対の螺旋構造をもち、それが足った四つの塩基で構成されて居る事を人間は1953年以来知ったが、この情報構造が、なぜどのような経過を辿って出来上がったのかをまだ完全には知らない。DNAにはいわゆる生命史の殆んどが書き込まれていると想像するが、まだその全貌を解明する道は一歩も出て居ないのでは無いだろうか。そこでこれ等の背景に付いて空想を書いてみたい。

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