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井頭山人のgooブログ

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光とはなにか。

2025年01月07日 21時12分32秒 | 天文学と宇宙論

 光りは私たちの生活と常に共にあるので、「光とはなにか」、と問われても、あまり驚くことはない。寧ろ、陳腐な問いと思われかねない。だが本当は我々は光に附いて何も知らないに等しい。光は波動である、然り、光は粒子である、然り、波動であると同時に粒子でもある。光の実体はなんなのだろう。光の速度は最も速いとされる。光の粒子は質量がごく少ない。なぜ光は存在するのか?、光は電磁波である。電磁とは電気と磁気、電子の誘電率と磁気の透磁率が、交互に互いを誘発させその連続が電磁波であり、光は電磁波のある段階の波動である。ヒトの眼に見える光とは、或る範囲の周波数で後の周波数はヒトの眼には見えない。この世界には様々な周波数の電磁波が溢れているのだ。物事も異なる周波数の下では見え方がまるで違うのだ。

更に光は、我々の心に強い影響を及ぼす、心理的な物であは有るが、その影響はとても大きい。それは我々というよりも地球生命全般であろう。光の無い世界は暗黒の闇である。それが宇宙ではごく当たり前の常態だ、光りは有意な現象と言えるのだろう。人もも光り依って覚醒し、光りによって世界を見ることが出来るのだから。智慧は見ることを通じて光の中から現れる。闇の世界には生まれ乍らの方でない限り中々耐えられないであろう。勿論光以外にも世界を把握する力を持つ者もゐるが。光りは反射を通して世界を見ることが可能だ。そう言うことから宗教的感情を励起させ、信仰がうまれた。光りを崇拝する多くの宗教がある。古代イランのゾロアスター教、通称、拝火教だ。仏教にもその側面があり、密教は火を崇拝する。火は神聖であると共に智慧の象徴なのだ。

我々の感覚器官である眼は、ひかりに起因して現れた。我々の眼は、太陽のひかりの中の或る周波数に反応する様につくられた感覚器である。むかし、古代インドに興った原始仏教の中に「唯識」という学派があった。唯識派はそのコトバの如く「識の本質」を大系付けることを目指した学派であった。識とはいわゆる感覚器により得られる「認識情報」のことであるが、それだけに留まらない自我意識を超える潜在意識を想定した。それで唯識派は、人間の感覚器の分析を始めた。先ずは正常にうまれた人間ならば持ちえる感覚器、眼、耳、舌、鼻、皮膚感覚(触覚)、そしてそれをお統一して現れる自覚的意識、に分けた。更に、生れながらに持ちえた末那識という潜在意識をいれ、更には、最も深い存在の意識である阿頼耶識を最終精神の究極とした。そして此の阿頼耶識には個人的な意識は残されていない。この一つの葉が経験したすべての記憶の蔵は、その死と共に消え去るとした。個人的な記憶が存在するのは末那識までであるだろうとした。勿論それが正しいものかどうかの結論は出ていない。飽く迄も、その論を作った物の見解に過ぎない。

原始仏教のコノ様な論は、人間の認識力の概容とその限界を問うことの必要性から生まれたと思う。「知るとは何か」、「知れる限界は何処までか、それは何故か」という意味をこの問いは指示している。実に深く豊かな奥行きがある問い掛けだ。例えば、それはこの様な根源的な問いが為される、将来の数学は、人間の数学を超えるものであろう。人間の数学はまだ知力の展開の上では幼児期に在る。現在の数学とはまったく別な数学が存在して何ら不思議ではない。もっと根源的な数学の事を言っている。いま僕がこの様な事を書き記しても、たぶん解ってくれる人は限られているのではなかろうか。哲学とは根源を考察する分野であるので、それは数学も物理も天文も化学も生物の遺伝学もすべてをふくむものだ。

光りが自覚的意識を生み出し、更には物事の現象を広く感知しその原理を探る意識が生まれる事は智慧が生まれる事に等しい。依って光りは智慧を生んだという俗説もあながち間違いではない。

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見えない五つめの次元に付ゐて。

2024年11月25日 17時27分16秒 | 天文学と宇宙論

 我々の存在する世界は三次元+時間の四次元で構成されているとされている。物の存在は、一応、縦・横・高さ・の三つのベクトル+時間で、空間内の変化の挙動表現が可能だ。ユークリッド幾何学の描く物のかたちは、X・Y・Z・軸で表現可能である。一応そういう事に成ってゐる。我々の眼のもたらす映像は、この三次元の中で生成されたものであるので、当然と言えば当然の事であるが、我々の眼も脳も多次元を感知する様には出来て居ない。ところが物理学の冒険的最先端では、現象の説明にもう一つの次元を要求する場合がある。それどころか世界は10次元とか11次元とか、果ては24次元でなければならないとまで主張する者まで居る。

我々の世界の物事の構成には基本的な4つの力が働いているとされているが、それはなぜ4つに力なのか?、そこに謎がある。その内の2つは我々の感知しない力である。もう2つは身近に感じる現象を司る力である。感知しない二つの力とは原子核を構成する陽子と中性子などを構成する、我々の存在次元とは異なる力である、我々を構成している次元では、重力と電磁気力しか解らない。私たちの心は電磁気力と重力で作られている。陽子は三つの構成子から成りその構成子間を結び付ける力で強い力と呼ばれている引力(此処で仮に力を引力と呼ぶ)である。強い力とは陽子を破壊してもその構成子に分離できないからで、相当、強烈な力で結び付けられている。次に原子崩壊を司る弱い力と呼ばれている引力がある。この力は重い重量の原子が電子と中性微子を放出して一段軽い原子に変異する時に関係する引力である。この二つの引力は我々の目に見えない段階での引力である。次の二つの力は電磁気力と万有引力である。

この電磁気力と引力を一つの物として考えられるのでは無いか?と考案した幾つかの構想の内、ヘルマン・ワイルとカルツアークラインの物が今も生き残ってゐる。特にテオドール・カルツアーのアイデアを後にオスカー・クラインが発展させた、カルツアークライン理論が有名で、此れは結局上手く行かなかったが、このアイデアは応用範囲が広く、今でもこの理論の焼き直しされたモノが時々提案される。

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ブラックホールと天文学

2024年09月07日 07時32分55秒 | 天文学と宇宙論

 宇宙は私たちの眼のまえに広がっている。フッと空を見上げれば、其処は宇宙そのものだ。地球に生息している我々は宇宙の一部である。天文学の永い探求の歴史の中では、ブラック・ホール、という言葉は比較的新しいネームです。インドやギリシャ時代の従来の天文学は人間の生活や生産活動を律する暦の制作のために始まったとされています。それは人間が生きる為の米や麦など、穀物などの生産活動に強く結び付いた指標となるものでした。

太陽の動きを正確に把握する為、古代ではストーン・サークルが創られ、後で天文台が建てられた。日本で言えば春夏秋冬を正確に把握し、コメの作付を主に多くの作物を植え付ける目安となった。暦を創るには天体の正確な観測が必要であり、太陽と星々の運動を把握しなければ為らない。これは口で言うが安く実行は難しです。

ガラスの屈折率に気が付いた時計屋がレンズ効果を発見し、それは天体の観測に、微生物の存在に、実に多くの決定的な影響を与えました。レンズの発見以前には、すべて観測者が自分の眼で星空を観測して居たのです。そして太陽は裸眼では見ることが出来ず困難を極めた。レンズの発見により、裸眼では観る事の出来ない、遥か遠方の星々や月の表面の観測が可能となった。インドの天文台もアステカ文明の天文台も、そして近代天文学の発祥の地点となった、ティコ・ブラーェのフュン島の天文台でも裸眼で星々の運動を調べていた。「むかしは眼の好い人が居たのだな!」、というユーモアでは語れない、本当に真剣な観測だったのです。

ティコ・ブラーェの正確な観測データは、神聖ローマ帝国の占星術師兼数学官、ヨハネス・ケプラーにより計算検討され、星の運動を三つの法則にまとめ上げた。だがケプラーは現象面で運動法則を捉えたが、星の運動の原因を知ることが出来なかった。それがハッキリするのは「引力」を原因とした力学を待たなければ為らない。更に、軌道計算をしてケプラーが驚いたのは、惑星の軌道が真円ではなく楕円だった事です。ケプラーは深く神学を信じていた為に、天体の運動は、完全性を備えた理想的な物であり、それを裏付ける真円であると信じていた。ところが軌道は楕円であり真円では無かったのです。ケプラーは、最初、自分が計算間違いをしたのだと思い込み、何度も何度も計算を試み、それが間違いではない事を認めざる得なかった。

近代的天文学の曙はこうして始まったのが、然しそれよりも2000年前のギリシャ時代に、サモス島出身の天文学者アリスタルコスは、月の大きさを比例的に算出しています。アリスタルコスは月食の時に、月を隠す弧が地球の円周であることを知って居た。月に映る弧を書き写し、その孤を延長すればそれは地球の円周に成る。もうお分かりだろう、それを比べれば地球とその衛星である月の大きさが出て来る。アリスタルコスの業績で、驚くべき事には地球から太陽までの距離まで議論しているのだ。さらにアレキサンドリア図書館長、エラトステネスは地球が球体であることを信じて、その大きさを出している。

人を雇いエジプト中部のシエネ付近からアレキサンドリアまで歩かせてその距離を求めた、それは夏至の正午シエネの深い井戸では太陽は底まで照らす、その同じ夏至の正午にアレキサンドリアでの仰ぎ角を求めた。その角度で360度を割ると商が出る。其の商をシエネからアレキサンドリアまでの距離に掛ければ、球体の一周の長さがでる。今で謂えば小学生の問題です。この様に簡単な計算から地球の円周が出る。この誤差は現在の値と比べて驚くほど小さい、2500年も前に、何でこんなに賢い人が居たのだろうと驚愕する。

彼らは幾何学の「三角法」今で謂う三角関数の熟達者だった。彼らは三角法を駆使することで驚くべき結論に達して居たのです。この人達は地動説を信じていて、太陽系の生成を空想していた事は有り得ることです。若しかすると銀河系宇宙をイメージとして持って居たかも知れません。だがこれらの業績は次に継承される事無く消え去りました。再発見したのはブルーノやコペルニクスでした。我々は宗教的狂信性に因って、どれだけ間違った宇宙像、天地像、に惑わされたか分からない。

さて、この記事の表題は「ブラックホールと天文学」です。先に述べたようにブラックホールというネーミングは比較的新しいことばです。このコトバは1070年代に、原爆開発に関連していたJohn・archbolt・ホィーラーが命名したことに成ってゐる。此れからはブラックホールをBHと訳します。BHは、当初、日本語で言うと「重力崩壊星」と云うオドロオドロしい名称でした。星々の核融合反応が終わりに近づき、核融合燃料が減る事で星を燃やし、維持する事が出来なくなり、その質量に因り潰れてしまい、急激な収縮が起きる。その潰れた質量は極端にまで収縮し、恐るべき質量となる。原子核のまわりを回る電子も周りを回ることが出来なくなり陽子の中に埋め込まれて陽子は中性子に変わってしまう星が、中性子星と呼ばれている巨大星の終りの姿です。この辺の本当のメカニズムは未だ解明されてはいない未知の領域です。

さらに、もっと大きな質量を持つ超巨大星は、もう極端にまで潰れて光も脱出できなくなるB・Hとなる。B・Hは、異常な特殊な天体だと思われ、単なる空想上の存在でしか無かったが、大気圏を越えた所に望遠鏡と言う天文装置を打ち上げ、依り遠方の精細鮮明な映像を得るに連れて、BHが空想の所産ではなく、現実の存在する現象であると認められてからは、天体物理学はその多くの部分がB・Hと関連する様に成って来た。B・Hの根源は質量が及ぼす重力の作用である為に、理論的な枠組みでは一般相対論を拠り所にせざるえなくなる。

Einstein以前は、空間と時間は別物で、それは互いに関係のないCategoryと思われていたが、1905年に出された特殊相対論は、時間と空間、そして質量は、互いに密接な関係を持ち、互いに独立的な概念ではない事になった。その成果は実に驚くべきもので、我々の宇宙観、世界観を一変させ。。特殊相対論のとても分かり易い解説のYouTubeがあるので、このブログでも取り上げたが、1915年に発表された一般相対論は、特殊相対論を下敷きにEinsteinが重力の本質を探究した成果である。

Einsteinはその中で、重力場の方程式を提出しているが、その解に関して時を経ることなく一か月の後にシュヴァルツシルトによって解かれた。これは球対称性という極めて正常な条件の下に解かれた初めての解である。残念ながらシュヴァルツシルトは、第一次大戦に参戦し其処で亡くなった。此れが最初の厳密解です、それ以来多くの有名な解が発見されました。オーストラリアの数学者ロイ・カーが発見したカーの解が有名です。しかし、私は葬り去られようとしている、裸の特異点を予言する富松彰と佐藤文隆に因るTS解になにか今の時点では理解できない大切な物が含まれている事を感じます。この厳密解が間違いでない限り、それは何かを示唆している。

B・H天文学は、まだ歴史の浅い分野です。将来どんなことが発見されるか分かりません。宇宙検閲官仮説を提唱したペンローズが間違ってゐる事は十分に考えられます。宇宙の存在はマダマダ謎なのです。それはそうです、そんなに簡単に自然現象の真の起源と歴史が解かる筈は無いからです。私の勘ですが、富松・佐藤の厳密解は、次のブラックホールの認識に大きなステップを齎すと信じます。B・Hの生成と消滅については、まだまだ未知の分野です。

B・H自体が生成を経て消滅に向かう過程が必ずある。巨大星が核燃料を燃やし尽くし、その巨大な質量を膨張力で支える事が出来なくなり、爆発的に急激に収縮しその反作用で周囲の物質を飛び散らせ、中心核にB・Hが生成されるというストーリーが現在の理論的な過程です。生成されたB・Hは強力な引力で周囲の星間物質を集め、それは星雲に成長する。やがて星雲も合体し因り巨大な星雲となり、その星雲も最終的には終わる。B・Hも消滅して消える。その過程で見えないとされた裸の特異点が出現する可能性も充分にあり得ると想像する。

「宇宙の本質を我々の意識は理解できるように作られているのだろうか?」

多くに意見が在るだろうが、私は人間の一般的な知能で理解できるようには作られて居ないと感じている。それは完成された宇宙での理解にとどまるのでは無いだろうか。ひもの理論はどこまで有効だろうか、それは単なる玩具に過ぎないのでは?。一概には言えないにしても、ひもの理論の歴史を調べて見なければ為らない。紐の理論の淵源は、衝突実験で観測される、余りの多い素粒子の数に多くの者は疑問を持った。それが謂わば始まりである。それはそうだ、素粒子という物がそんなに多い筈は無いのだ。叩き壊した破片が何十種類もあるとしたら、それは素とは言えない。素ならば叩き壊した破片は皆一様に同じでなければならない。素粒子構造の奥にある物は当面は把握できないのだから、ならば観測される物だけについて、合理的な構想を想像してみよう。そうした試みがS行列論になる。観測できぬものについてアレコレ言っても誰も信じはしないだろうから、出て来た観測量だけを用いて、素粒子相互の関係で辻褄の合う理論を構築する為に出て来た物が、ハイゼンベルクが提唱したS行列論となる。ところがこの試みは途中で放棄されることに成った。量子色力学がその解釈に力を持ち出した為だ。

ところでブラックホールは、当初、まったく特異な天体だと思われたが、段々に事情が解って来ると、それは特異なのではなく宇宙のシステムはBHを造るために存在して居るのでは無いか?という認識にまで広がった。現代の宇宙物理学はブラックホールが研究の主体となってゐる。それは観測に依って認識が広がった為である。現在では、あらゆる銀河系宇宙の中心にはブラックホールが存在して居ると想像されている。ゆえに島宇宙を構成しているのはブラックホールであると言う事に成った。研究の中心が、特異な天体と思われていたブラックホールに成った。星の生成と死はこの宇宙の中での一連の生成と終焉なのである。更に終焉は再び生成の種となる。将に宇宙は生々流転を繰り返しているのである。その中で、ブラックホールの持つ意味は、星の持つエネルギーの放出とその残骸の結果として認識されつつあり、最終的な宇宙像を我々はまだ知らない。湯川秀樹博士の箴言では「真理は常に少数派から始まる」と書かれている。

以上の様にブラックホールは特異な天体から、ごく普通の現象となった。それは星の生成と消滅に関する一連の解析が進み理解が広まった為だ。現在の主流である多数派の宇宙像は、この我々の宇宙は数百億年の昔、或る特定できない一点(極限の特異点)から、何らかの原因で膨張が始まり、現在も膨張を続けているとされる。尚且つ膨張の根拠は、宇宙背景輻射とエドウイン・ハッブルが発見した遠い天体から来る光の赤方偏移の解釈にあるだけで、遠い星雲を研究している人の中には赤方偏移が必ずしも空間の膨張と同義ではない事を語る者も居る。そして少数派の中には一様な膨張に疑いを持つ天文学者もいる。天文学は星の生成と死や太陽系の生成について大きな進歩を得たが、依然として宇宙の始まりと空間の拡大について明確な理論的基礎を持ち得てはいない。ゆえに完全な証明の上に立ってはいない。物理学は自然現象を相手にして居るだけに、数学の様な意味での公理の完全な証明という物とは区別される。それだけに天文学は新たな知見が秘められている興味深く面白い分野です。天体物理学は私たちの住むこの地表世界全般を包含します。

冬の澄み切った夜空に、東の空から登って来るオリオン座を、皆さんは見る事があると思います。オリオン座は晩秋から真冬の空を彩る星座です。とおい、とおい昔、オリオン座の輝く下で、2月~3月に掛けての入学試験の準備の為に夜遅くまで、ラジオの通信講座を聴きながら、受験勉強をした皆さんは多いと思います。ラジオでは名物講師が居られましたね、とても懐かしい。そして今現在、受験の為に遅くまで勉強をして居る若い人も多く居ると思います。オリオン座は蛍雪時代の苦しくも懐かしい時代と重なった星々です。あなたが勉強に疲れた深夜外に出て見ましょう。冬の大三角形とオリオン座は、寒気の中に、天空に輝いている筈です。若い時代は苦しい事も多いが、15歳~18歳までの青春時代は、人の一生の中で掛け替えのない,二度と繰り返す事の出来ない時代です。

目出度く志望に大学に合格した人、あるいは望む大學に落ちて仕舞った人もあるでしょう。それでも、それは一生の糧に成ると信じたい。遠い星を見上げてください。その星の光は、あなたの生まれる前に親の星を発した光です。星々は小さな人間のこころを拡大し豊かにします。我々は本当に、小さな小さな星の表面に張り付いて生きてゐるのです。嬉しい事も楽しい事も、苦しい事も辛い事も、すべては、皆な皆な星の下で生きてゐる命の時間です。人間の、星の時間は、星々の長さに比べてみれば、それは一瞬のことなのです。其の星々もいずれは自己の持つ物質の原子核反応を終え、強大な超新星となって砕け散るか赤色矮星となって星雲に吸収されることでしょう。そうするとあらゆる存在は終焉を迎えると同時に、新たな誕生の出発となる。宇宙も星も生命も、みな同じです。これら一連の物質の集積は引力の力です。この不思議な力は他の力と同様に宇宙に満ち満ちている。これを不思議と言わずして他に不思議は有るか?と思う。

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果たして空間は本当は存在しないのか?

2024年02月07日 09時21分43秒 | 天文学と宇宙論

「空間は存在しない」という記事を見たのはもう何年前の事だろう。質量の起源に関しての事なのだろうという想像だ。空間には速度を邪魔する未知の粒子が詰まってゐて、まったくの空っぽな空間は存在しないという事で、その粒子をヒッグス粒子と呼んでいる。これもまた奇妙な存在だが、それは粒子という呼び名で果たしてその概要を表現できるのだろうか?。質量は原子毎にその構成原子の存在数で重さが決まっている。質量の起源が構成原子の動きずらさだと言っても、その動きずらさを決めているのがヒッグス粒子だという理屈である。空間(空っぽという意味での)は存在しない。それはヒッグス粒子がビッチリと詰まっていて空っぽの空間など存在しないという意味なのだろう。そうするとヒッグス粒子とは空間そのものではないのか?、ならば我々が今まで空間という概念で理解して来た物は虚構なのかも知れない。またガモフが赤方偏移の事実から想像した宇宙の一点からの膨張は、これも少し納得できない面はある。もしもこの宇宙がある一点から膨張をはじめ、それが今も尚膨張が進んでいるとしたら、宇宙の外側は存在しないものである。この宇宙は飽く迄も内的な空間であり、宇宙のホライゾン地平線は内的な宇宙には適応できても、外側は存在しないのだから、我々のこの宇宙は飽く迄も膨張膜の内側にしか無いないという事だ。ガモフの余りにも素朴な大爆発の宇宙像は単純過ぎて多くの点で疑問が湧きます。

そして生命とは小さくは素粒子によって構成される或る条件の下でその反応が継続する形式の現象であるが、最小単位の構成子から生命までの発展的展開は辿る事が難しい。精々化学現象の下に生命体を理解するのがやっとの段階であろう。遠い将来に我々の知能の飛躍的発展が出来るのならば、その答えは得ることが出来るであろう。化学的レベルでは生命形態の理解はこの百年間で相当な進歩を見た。恒常性を保つ機能と生殖を行ない次の世代を産む、それが生命の形態だ。個体は必ずその反応を止める時が来る。その持つ遠い昔からの遺伝子の情報を次世代に繋ぐ為には卵子と精子の合体が不可欠だ。あらゆる生命体はそのようにして次世代を産んできた。もしもそれが途絶えるならその生物は地上より絶滅したと言える。

生命体の現象で、最終的に突き止めたいのはこころの探求である。それは意識と呼んでも好い。化学構造から脳(心)が生まれる現象の事である。これが今の所、想像できるもっとも根源的な問いである。

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日本語の特異性と日本人の脳

2018年12月13日 21時39分54秒 | 天文学と宇宙論
 心というものが今も未知であるように、脳神経の生理が未知である時代が長く続いた。心理学がそれを代用して現象と原因を説明していた時代がある。精神活動の結果としての「記憶の再生」や、思考発想などの頭の中で記憶が関係するデータの融合されると、発想が生まれて理解と言う認知の特徴が定着する。人間の空想の力は未知の事だが、それは内に蓄えられたデータが、相互に相関する現象と捉える事も出来よう。不思議なことですが、自然に問題の解決の方向に進む、解決され理解が出来る方向に自然に進むのです。心と言うか脳神経機構は、この様に自律的な問題解決のサイクルを、すでに生得的に持って居る。これは全くの不思議な事だが、人間の意識下には「自覚的意思のサイクルとは異なる」、もっと基本的で、今現在では、それが何であるかを言えないが、生命体に内在した自然的なサイクルが働いているのではないか?と確信している。 それは普通に言う分析的(単一の対象を出来る限り細かく分けてゆく)で解析的(剛知的な関係を突き詰めてゆく)な、理性とか合理とかと云う事とは異質で異なるものだ。その力やサイクルとは?、何か生命を生んだ根源としての宇宙的で、それは、今までの手法では中々把握できない性質のものだ。これは、何か月並みな方法論では捉えられない、原理現象で動いている様にみえる。また記憶はどの程度までその最初にまでたどる事が出来るのか。音や映像は、どの様な仕組みで心の中に形成され、保存されるのか? また記憶はどの様にして貯蔵され、どの様にして取り出されるのか?こう言った動作と仕組みは、現代では「脳神経科学」の問題として扱われて居て、生理学や薬理学を通じた研究の重要な問題テーマとなっている。

 誠に、困難の多い分野であるが、我々が話す「日本語」に起因した脳活動の特異性を、聴覚の分野から解明した研究がある。東京医科歯科大の角田忠信氏のご研究である。彼は聴覚の感受性を使って、コトバと脳の関係、特に中心的脳の情報伝達メカニズムを解明しょうとして邁進されて来た。中でも角田さんの研究は、聴覚の特性を十二分に応用し、大脳の左脳右脳の差異と特質を中心に、その活動性の原因を追究してきたのであった。これは極めて興味深い、一つの現象を露わにしたと思う。それは日本人の特性とは何か? 言語としての日本語の特徴とは何か?と云う問いを、新たな問題を背景に我々に突き付けた重要な研究であった。

角田忠信氏の書かれた「日本人の脳」と「左脳と右脳」を見ながら、その論点の本質と展望を記述してみたい。

 「日本人の脳」の論文の帰結は、聴覚反応の研究から世界中の多くの言語を使用する民族の中でも、特に「日本人の反応の特異性」について発見された事に基づいて書かれた論述である。また「右脳と左脳」は、その後に継続された研究から得られた展望であろう。最初に、特に日本語の特質である母音に関する効果の特異性が語られる。どんな民族でも、その特有のコトバを持って居る。つまり母国語である。外国では自分の生国を、母国とは一般的には謂わないのだそうだが、父国というのだそうです。「ファーザーズ・ランド」でしょうかね?。だとしたら文化人類学的に日本と言う国の成り立ちは、母性に起因して居るとされて然るべきでしょう。日本文明の特徴も、深く母性と係って居る。そう云う事が言えるのでは無かろうか?文化人類学という建物は、多くの柱と柱を支える基礎から出来ていますが、その基礎となる物には、哲学、言語学、数学、物理学、化学、生物学、神話学、宗教学、栽培農学、本草学、経済学、植物学、医学、建築学、伝承民俗学、などが在り、その諸々の基礎の上に建つ建物と云う事が出来ます。例えば国民性とは社会環境の必然的産物です。またその逆も(社会自然環境が国民性を創る)云えるか?国民性はその国民の持つ遺伝的要素の反映と考えられなくも無い。

我々の六識で把握される世界というものは、生物の持つ感覚で把握された総合の上に築かれたビジョン(幻映)と云う事も云える。私達の目の前に広がる世界というものは、感覚の統合が捉えた情報から成り立っている。それは昔の仏教の思索者たちである唯識派が研究した(識)の捉えた情報である。五識とか六識とか云う感覚系統が得た情報の分析のことで、目・耳・鼻・舌・触・識、等の、感覚器官が捉えたモノの上に統合された、実在感のイメージなのである。この他にも、内蔵された「本能」という、意識下の貯蔵データがあるのだが、それは今は挙げない。この五識の中でも、特に目と耳は、世界の様相を形づくる主要な感覚であり、事実上これに因って私達は世界と云う物の実体観を持つことが出来る。


さて視覚と聴覚の何を調べるのか?という事ですが、角田忠信氏の研究は聴覚を基にした左脳と右脳の違いの基本的な特質を確かめようとしたのです。聴覚は、視覚と共に人間の日常生活に欠かせない最重要な感覚器官です。この機能が損なわれると、通常の人間的な自律的活動が不能になります。所謂、障碍者として何らかの介助が必要になります。それ程重要な機能です。これまでの経験は、左脳と右脳の機能の違いは、失語症の患者や脳梁を癲癇などの治療の為に脳梁を切断した人の調査から、ある程度は分って居ましたが、例が豊富では無い為に、確定的な事は謂えなかった。


それにしても重要なのは言葉であると感じた。日本語の基本形は母音が語尾につくことです。このために日本語は、聴く者に非常に柔らかい感じを与える。それは飽くまで、表面的な事柄に過ぎないのですが、最も重要な事は、自然音に対する日本人の脳内スイッチ機構の作用です。「思考と言語」の、関係を分析する際に、音から意味を誘導し導く機構が一番の探究の問題です。コトバの問題で、ここの関係とメカニズムが最も重要な部分です。


 言葉の効果により脳の機能が決定されるのだとしたら、言葉はその民族の特性を決定する。この事の重要さは幾ら強調しても好い。我々はどんな言葉も、つまり通信の手段であって、質の差は無いだろうと高を括って居た。しかし、どうもそうでは無いらしい。根源的な問題は、意識の創生の問題だ。生命体に如何にして意識が発生するのか?勿論、5感という様に、感覚器が神経網の脳に上がって意識を創りだすのだろうと予想するが、その辺は未だ丸っきりのBlack・Boxで合って、議論すらまだ出来かねる。ただ、言語に関してだけは、或る意味では対象が明快であるので、これは議論の余地がある。言葉は最も身近でありながら、その基本的な源泉は錯綜して居て、余程、強い知能が無いと、その洞察は難しい。もう少し、言語の根本問題と展望を考えながら書いてみょう。


さて、根源的案問題を箇条書きに表すと。
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大きな物から小さな物まで構成の原理

2018年12月06日 15時34分18秒 | 天文学と宇宙論
 いま生きている我々に根源的な問いがあるとしたら、それは宇宙の起源と生命体の発生する過程を知る事である。宇宙と言う極大なものから、微生物、そして素粒子と言う構成物までの間に人間は位置している。そして生命の発生過程で生まれた知能に関する現象の解析である。宇宙の始まり、それはビックバンでは無い標な気がする。それは未だ仮説にすぎない。物事の構成の原則こそ一つにはカオスを生み、フラクタルを生み、自己増殖性を生んでいる、印象としてこの世界を特徴付けると、最大の対象としてこの宇宙論がある。すべては此処に神聖なものも愚劣なものも包含される。この最大のものから書いて行くと、先ず、宇宙論があり、銀河星雲 ー 太陽系生成論 ー 太陽系惑星論 ー 惑星衛星論 - 惑星地球科学 - 地球環境論 - 生命生成論(遺伝子学)-地球環境と生命論 - 動植物論 ー 生物進化論 - 古生代の魚類 - 中生代の爬虫類 ー 新生代の哺乳類 - 森から生まれた現生人類 - 言語学 - 栽培の起源(貨幣の誕生) - 技術と蓄積 - 現生人類の自然への関与(原始宗教の始まり) - 人類の闘争(家族から氏族へ)ー 地方豪族から地方政権へ(民族こ国家へ) - 地方政権から中央集権国家へ(言語的に統一された国民国家へ) - 宗教の始まり(教祖の出現) - 武力国家(軍隊の出現)の定着 - 国家機能(官僚制の誕生) -  学問の誕生 - 栽培農業の誕生 - 土地の争い - 日本の歴史の基本に在るのは、栽培用の土地を誰がどれだけ支配するか!という問題意識を中心に起きた。歴史が始まって以来、農耕用の土地を、どれだけ私有出来るかを巡って争われた。土地=戦争の目的なのである。これが太陽系創生後の今現在の姿である。

 簡略に学問的な構成を書けば、宇宙論ー銀河系星雲論ー太陽系論ー惑星論ー地球環境構造論ー海洋論ー生命論ー進化論ー生物論(遺伝子学、集団遺伝学)ー哺乳類論ー人類学ー言語学ー文字論ー古代国家論ー中世文化論ー現代国家。宇宙論、物理学、化学、生物学、遺伝学、工学、人類学、文化人類学、民俗学、宗教論、芸能論、そして人間界を離れて、もっと微細な細菌の世界、ウィルスの世界、遺伝的分子情報の世界、有機・無機・化学の世界、つまり分子の世界だ。もっと降下しょう。原子レベルの世界、原子構造の世界、核子の世界、クオーク模型の世界、そして紐の世界、超ヒモの世界、膜の世界、最後にPlanck・scaleの世界と云う事に成る。おそらく、必然性という物は時間と関係して居る。時間の実体に付いて我々は未だ何も知らない段階だ。長い間、科学の探究方法は物を分けてゆく事であったし、それは現在も同様である。だが、事は、それだけでは最も大事な究極の問いに答えることは出来ないだろう。それは分ける事を逆に考えれば、すぐ理解できるはずだ。小さなものから大きなものへの、公正の原則は何か?という事だ。

むかし自己組織性とか自己増殖性とか自己構成力とか、多種多様な概念というか、パラダイムが流行った。それらが、目指すものは、詰る所、自然現象の構成の原則を原理を見出す事に在ったのである。この現象の特質を追及する事は、今まで果敢に研究されてはいるが、意外に難しく結論は出て居ないし、方法論でも少し行き詰まっている。原子レベルから分子レベルに世界移行し、自由度は大きく拡大した。分子レベルでの自由度は原子レベルとは比較に成らない自由律がある。

17世紀から始まる、第二次自然科学の伝統は、第一次自然科学の古代ギリシャの伝統も幾らかの継起には成って居る。デモクリトスの原子論はまさにそうだし、ディオフアンタスの数論もユークリッドの幾何学も同様だ。古代の知的頂点は、アレキサンドリア図書館であろう、エラトステネスやアリスタルコスという偉大なる人々が研鑽を積んでいた。その他にも名前の記録されて居ない智者は大勢いたに違いない。これらの伝統がローマ帝国に世追って滅び去ったあと、やく1000年の宗教という抑圧された社会が待っていた。この期間は天上の幻想に浸り、それに疑問を持つ者は殺害される時代であった。ついこの間までも共産党ファシズム社会に似ている。これが1000年も続いたら、人間は確かに退化する。
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