井頭山人のgooブログ

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カオス・ゆらぎ・フラクタル

2020年08月18日 21時30分53秒 | 数理科学の世界

 20世紀の後半部から21世紀にかけて、非線形現象の解析が先端の科学的対象になり出した。大方の自然は、どちらかと云うと単純な線形的なもので割り切れる対象ではなかったのだった。この非線形現象は我々の回りの至る所に見ることが出来ますし、また存在するものです。こう云う現象を取り上げて議論できるように成ったのは、恐らく電子計算機の発明とその発達が根本的なエポックに成っています。計算機の発達が無ければ、このように複雑な問題は見過されていたに間違いありません。算盤はじつに安価な計算機でしたが、それを遥かに上回る機能を持つLSIで動く電子計算機が開発されて、この非線形現象の背景の解析が議論できる時代になった。その進歩は著しく、電子計算機といっても、ごく初期の計算機はコップのように大きい真空管で動いて居ましたので、何万本もの真空管の発熱はもの凄く、我が家の風呂水を二・三分でお湯に変える。その電機量タルヤ凄まじく、発熱で溶けてしまう真空管を、それを冷却するには大変なものでした。それがICチップとなりLSIから超LSIとなり、最近では「量子もつれ」というEPR相関の原理を応用し、それを背景とした量子コンピューターとなって現れようとしています。

計算機の速度の発達は、10年で千倍に成る展開で来ましたが、ともあれ、この量子コンピューターを個人で持てるように成れば、大変な複雑で面倒な計算は緩和されると思います。然し乍ら、この記事で云いたいのは計算機のスピードの事ではありません。自然に含まれつつ、今まで分からなかった自然の驚くべき構造と調和に関するものです。この問題は20世紀の後半から夙に目立ちだし、恐らくは21世紀の前半部の主要なテーマとなり得るものです。半面この技術は不安な未来を予想させるものでもある。J・オーウエルが描くような全体主義的独裁国家の党が、徹底的に個人を管理する、ある意味での地獄を予想させるものでもある。非線形科学の人工知能(AI)研究も、実際の人間の神経系の探究も、この先端科学の分野に入る事に成り、やがて意識と自己組織化の機能的背景が探求される事に成ります。

自然が作り出す有機的な作品の数々、これ等に関しては以前から関心がある分野があるが、それは「自己組織系」とか「自律系」とか謂われている分野で、自然の本質を捉えるには最も重要な考え方のフィールドです。誰かが目的性をもって作ると言う物ではなくて、自分から互いに作用し合って対応・相互関係、作用関係、を作り上げて行くシステムというフィールドです。こういう考え方の中にこそ、ごく自然に原子核とか、原子構造、分子化合物、遺伝子、惑星系、そして我々のような生命体、言葉、生命体の合目的な性質、生殖系、そして最後に脳神経系の創成と言う物がその対象として在ると思われます。このフィールドを耕すための道具としては、まず数学的な土台を固めることが必要です。それを固めた後にその方法論を指針として諸現象を解析して行くそう謂う方法論と手順がある。

およそ自然は無駄を好まない。そしてDNAは古文書の最たるものであり、それは地球の発展史を現わしている。我々の言う物事の本当の理解というものは、内的動因の外的作用を現わす一連の手順を知る事にある。それが法則といわれるものだ。真理はそこらへんに転がっているのだが、われわれの認識レベルが、それらに対応できないだけに過ぎない。あと5000年、人間が好奇心をもって生きていれば、その方法は自ずと開けるかもしれない.

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人間雑感

2020年08月13日 09時06分33秒 | 日記
チロチロチロ、コロコロ、リーッリーッ・・・。台風が去って急に秋の気配が濃くなりだした。
今年の夏は、幸い五月、六月の異常な暑さから予想された猛暑の夏ではなかった。
いや、蒸し暑さはあったのだが、あの、ギラつく太陽を目にした日は少なかった。
農業など外で仕事をする人には、好ましい夏だった。

いま迄生きて来た歳月を振り返ってみると、
いろいろな場面で人に助けてもらった事を思い出す。
ある時期にには、Iさん、ある時期にはTさんに、
随分助けてもらったと思う。
思い出してみるに付けありがたい気持ちが湧く。
その点で、自分は人の恩を感じ、人の徳を知った。
だが、世の中には、いつ如何なる状況に於いても、残念だが悪しき者と善き者がいる。
それは偏見ではなく明らかに事実なのだ。

これはどういう事なのだろうか。
思うに、人は生まれながらに
その性格は、その徳は定まっている。
自分ではどうにも成らない事でもあり、
或る意味、恐ろしい事だがどうもそうらしい。

友人達と話すと、育成歴だの、学業歴だの、家族歴だの、職業歴だの、
彼らが考える、後天的な原因に関する意見や見解の多くを聞いた。
だが、本当に人が教育歴で変わるのだろうか。
それは知識とか理解とかの、知的ストックの訓練と技術の面であって、
人が秘めている心と呼ぶものの全体像から謂えば
意識の層のごく表面の層に他ならないのではないか。

最も深部の層は、おそらく教育や環境では変わらない。
それは過去を受け継いでいて、生まれながら一種の刻印で定まっている。
それは、体も心も構成している遺伝子が大まかには決定しているのだろう。
だが、その束縛律がどの程度かは、今のところは分からない。
また、心の傾向のすべてが、その核酸情報で決まるとも思えない気がする。
それでも、精神的傾向の色彩に、かなり強い因果性を持つに違いない。

我々は通常、自己意識がすべてを決定すると思い込み勝ちだがそうではない。
何を求めるかは、自己が決定できない種類の古い根源的な衝動である。

脳の構造を見れば、それは一目瞭然である。
我々の意識の根源の本質的な部分は、
生命体が生まれた当初の脳幹の部分に在る。

そして進化論が主張するように、脳神経系の構造は、
魚類~両生類~爬虫類~哺乳類への様相を示している。

我々の日常意識は、一番上部の新皮質に乗っている意識だが、
それを動かして居るのは、古い皮質の衝動なのだという事も事実なのだ。
ただ古皮質の衝動には限りがあり、
人に因ってその本能の力の組み合わせには差異があるという事なのだろうか。

                                   2017年 9月 日記から
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夢十夜について

2020年08月07日 06時25分39秒 | 日本の古典

 漱石ー夏目金之助はその作家人生のなかで、「猫」から「明暗」まで多くの長編小説を書き上げている、然し作家としての創作期間はわずか十年ほどに過ぎない。それは彼が持病の胃潰瘍の為に49歳で死んだ為である。今で云えば若死にの部類に属する生涯であった。仮に彼が長生きし80歳まで創作を続けて居れば、その創作の傾向と内容は、漱石文学の研究家に因って何段階かに分ける事が為されて居た事であろう。漱石の幾つもの長編をすべて読んでいる訳ではないが、投稿者は、長編より「硝子戸の中」とか「永日小品」とか、此処で取り上げる「夢十夜」などの随筆や短編の方を好んでいる。短編は短いだけに一気に読めると誤解し易いが、果たしてそうか?、むしろ脚色することなく即興で書く短編随筆に、漱石と云う人物の性格や拘りが出て居て興味深い。まあ、短編は、漱石という創作者の個人的な特徴を知る事が出来るのではと思うからで、それは元より投稿者の好みや思い込みに過ぎない。投稿者は作品の単なる鑑賞者でしかないので、感想を書き下す際に独断と偏見を交えて書くことを許して貰えると思っています。

明治という言う時代は、日本がその縄文時代以来の二万数千年の歴史的連続性の中で、最も基本に在るものは、多神教的自然信仰であり、また後年はその上に常に外国の文化を参考にしつつ、それを日本人の心性に合った独自の加工を通じて、日本文明に取り入れて来た。(漢字)も(仏教)も(儒教)も、日本的神道に溶け込み、全てではないが好い所は根付いた。唐の制度を見て、それを真似した律令制度もその様な物である。だが支那人の核心部である、宦官も科挙も日本は取り入れなかった。その意味では日本文明に合う必要なものは何でも取り入れ、合わない物は真似しなかった。結果的に日本的な民族性に加工して導入し、更に発展させるという方法を取った、これは世界的に見て特異な文明である。島国という特殊な事情が反映されているのでは無かろうか?。わたしはその様な文明を他に見た事がない。日本人は長くその事に気が付かなかったが、外圧による開国の「明治」という時代を迎えて、日本の特性は次第に明らかになった。まったく異なった文明同士が、日本に取って否応なく交渉に晒されたのが幕末であり、更に国内での攘夷か開国かの紛争の後に多くの有為な人物が亡くなった。明治という時代は、開国の時代のそれに伴う軽薄さ(廃仏毀釈)があり、また江戸の精神的資産をすべて否定して、事情も分からず脱亜入欧の欧化政策を迎えざる得なかったのが実情である。

江戸時代人ー夏目漱石が体験した時代は、文明の急速な変化のストレスが個人の精神の上に残った時代でもある。江戸から明治へ、彼が生きた時代は、そのような日本の歴史に於いても特異な時代なのである。軍事力を背景にした植民地化の危機は、当時の為政者は皆共通に持っていた。押し寄せてきた一神教文明にとは、本質的に異なる日本在り方、日本の社会的要素と精神構造の差異に、ある種の被害を受けたのは一方的に日本文明の方である。その困惑は特に明治という時代の特色であり、それらは漱石の文学には深い影を落としていると私は想う。それは江戸時代人が産業革命を通して武闘力を発展させて来たイギリスという国と正面から対峙し、そしてどう折り合うかという方法論にも起因している。

江戸時代の新宿の永代名主の倅は、明治という時代に連なる為に英語を学んだ。そして教員として自分が生きている時代の本質と状況に向き合わねばならなかった。彼の最初の人生の出だしは、その出生からして多難だった、勿論のこと、それは彼が選んだものではない。幕府が瓦解した後は、これからは教育程度が社会的地位と、食う為の生活を左右するという雰囲気が有って、13~16くらいまでの若い時代に大いに悩みもしたであろう。共立学校とかの英学塾で英語や二松学舎で漢学を学んだ。漱石の本音は英語より漢学の方が好きだったが、英語を選んだのは、時代が縦の物を横にする事でしか立身ができなかった為でもあろう。そして大学予備門に入学し、その後帝国大学に進んだ、彼はいわゆる知識人インテリとして、社会の知的な頂点に立つ事を厭わなかったが、学生に英語を教え続ける人生に確信が持てなかった。漱石の心の動きという物、また悩みという物は、それは小生にも分からない。(私の個人主義)という様なものも書いて居るので、公表した立場は確認出来ようが、それ以上の内面は分からない。わたしは今になって、元号はその時代の目的と特性を現して居る事に気が付く。明治という時代はもっと研究されていい時代だ。大正・昭和・平成・令和、と続くが、どの時代にも暗に歴史的な目的が有った様に思う。歴史の法則などは無いが、自ずと要請される時代の特徴は必ずあるのだ。

さて、「夢十夜」とのタイトルの如く、この小品には「こんな夢を見た」という書き出しで十篇の夢が書かれているのだが、勿論の事、漱石自身が実際に見た夢ではない。夢の記述に付いては日本でも幾つかは知られている。例えば鎌倉初期の僧、明恵上人の「夢記」がある。夢に託して、現実を批判する形式もある。ただ漱石の夢十夜は、人の生活上の描写としては中々明治と云う時代の意識の側面を知る上で参考に成るものだ。この十夜は今までも多くの人に読まれているに相違ない。中学生の夏休みの課題にさえも挙げられている。一種の小話やスリラーとしても面白かろうが、読む人の年代によつても絶えず感想が変わる作品でもある。



(第一夜) 気が付くと、ある女の枕元に座っている。いつの時代でも理想の婚約者を見つけて結婚をするのは、現実にはまず不可能に近い。この男も道ならぬ思いを寄せる女(誰かという詮索はやめよう)の枕元に居て女の最期をみとる場面になっている。おんなは「もう死にます」というが、おとこにはおんなが到底死にそうには見えない。「でも死ぬんですもの・・・」、「そうかね、死のかね」、「ハイもうすぐ死にます」。死んだら庭に穴を掘って埋めてください。必ず百年後に会いに来ますと謂う。そうする内に段々に目の色は光を失い、おんなはパタリと死んでしまった。自分は庭に穴を掘って、おんなを埋めて丸い石を一つ乗せた。そうして、一つ、二つ、と自分は数えだした。そして幾つもの、幾つものノッペリとした陽が出ては落ち、出ては落ち、幾ら数えたかわからない。自分は嫌気がさして数える事を止めた。じぶんはウトウトと眠りだし、気が付くと苔生した墓から一本のユリの茎が伸びてきて、じぶんの鼻先で骨身に堪えるほど匂った。自分はその時もう百年は来ていたのだなと悟った。そういう話の筋である。

*この夢十夜の作品のなかで、百年という語句は幾つか出て来るが、漱石の云う百年は時計の針の百年ではない。心に刻まれた思いの消え去る時間、煩悩の溶ける或いは消滅する心の時間だ。こころの時間の定義は難しいが、それが物理的時間の長さじゃない事は確かのようだ。執着は残るのか?は、自分には分からない、或る思いが仮に中空に残るとすればそれは余り気味の好い話ではない。Freud流に言えば、恋は性欲の昇華した欲動に過ぎないのだが、好きと云う感情は性欲論では充分な納得の説明が出来るとは思えない。相性の好くない結婚は有る、それは互いを不幸にする。相性が悪いと云って離婚するのは大昔では考えられなかった。

統計によれば現代では普通の男女が一年に何千組も離婚するという。昔は「子は鎹」といった。子供のために互いに不満を持って居ても離婚までには至らない。互いに自制して破局を避ける。そういう夫婦は現代でも何万組もいるに違いない。明治以前の世の中では、夫婦は家を継ぐ子孫を残すための基本だった。そして結婚して子を産みながらも、女子ばかりを産む妻は、女腹とか謂われて離婚された。生殖の基本を知らぬ時代の珍事であり、丸で理不尽な理由である。男か女かを決めるのは、性遺伝子のX・Yで、それは精子の中に含まれており、精子にはX・Yがある。男女を決定するのは男の方なのだが、それを女のせいにしている。

むかしから、日本は母系社会であった。女が家を取り、男は女の家に通う通い婚であった。日本文明南方説の根拠の一つだが、これは日本文明独特の基層なのではないだろうか。江戸時代は武士の時代で、亭主関白の世の中だという者がいるが、然し、武士という戦闘集団の家は、一般的なものではない。農民・町人の家では、女の力は大きい。現在でも世界的に見て、男が働いた稼ぎを、すべて妻が管理している家庭は多いに違いない。こんな何気ないところに、その文化の基軸が現れるものだ。アメリカ人の様な連中に言わせると、日本人はバカではないか?、命の次に大事な金銭を、選りにもよって妻に預けるとは狂気の沙汰だ。と、云う事に成るらしい?。我々にはアメリカ人の価値観が理解できない。なぜ離婚に至るのだろう? 理由は幾らでも挙げられるが、端的に謂えば離婚の敷居が低くなった為だ、女一人でも努力すれば食えるという世の中。離婚の原因は、先ずは「飲む打つ買う」の三道楽であろう。次は「生活費が稼げない夫」、「それから破産した夫」という事に成る。そういう切実な経済的理由の外に、なかには夫の靴下が臭いので離婚するなどと言う馬鹿げた理由もあるらしい。そんな女とは早く離婚しろと云いたい。離婚の理由が陳腐化しているらしい。結婚する最初からお互いに配偶者を見誤ったと云える。然し内面は表から見えない為に単なる容姿のみで選択することが多い。然しそれだと間違うのだと謂う。女の方から見ても学歴もシッカリとした稼ぎの好い職業の立派な体格の男を選びがちだが、それで上手く行かない例は多い。AとBは相性が悪いが、AとCは好い、BとCも好い、CとDは相性が悪い、AとDは好いがBとDは相性が悪い。これは単なる組み合わせの例だが、この様な関係の中で相性が好いとか悪いとか言うのは、なんなのだろう。相性とは何か?妻からのクレームと夫からのクレームが有る。どちらも公正に聞かないと正しい判断は出来ないのだが。漱石と細君は、あまり相性が好いとは思えない、モット相性の好い女を細君に迎えて居たら、彼は早死にしなかったかも知れない。



(第二夜) どうやら寺の一室らしい、雰囲気からすると禅宗の寺か? 自分は悩んで参禅し、和尚の指導を受けている侍(武士)である。設定は鎌倉か江戸時代か、何に悩んでいるのかは書いて居ないが「悟り」が核心らしい。悟りは仏教の永遠のテーマである。それは原始仏教の最初からある。実際に仏陀は生老病死を超える心の在り所を「悟り」と云った。釈尊の仏教は誤解を恐れずに謂えば、心理学それも意識を探求する「深層心理学」なのである。後年には実際にそうなった。唯識、説一切有部、瑜伽、である。そしてモット言えば治療をさえ行う精神医学の原型であろう。

この侍は悟りを、強く和尚に求められていて、和尚は侍を追い詰めて嗤っている。侍はイザと成ったら和尚の命を取る、刺し違える積りである。和尚は「今度会うまでに悟ってこい」と謂う。なぜ悟れない、悟れないとすれば、お前は本当は侍ではないのだろう、人間の屑じゃ!と、和尚に嘲られて部屋に帰り、座布団の下に手を伸ばすと隠して置いた短刀が有るのを確かめる。匕首に触れて侍はやっと「安心」する。その朱鞘の匕首を抜くと、匕首の蝋燭に光る刃の殺気は只物ではない、狂気そのものである。もしも定刻に悟れないなら、此れで和尚をズブリと行くのだ。悟りの定刻が迫りつつある。隣の部屋の時計がチーンと時刻を告げつつ鳴り出した。自分は朱鞘の匕首を握り直した。という筋書きである。

この作品では「安心」という二文字が悟りの根源だ。和尚を殺る朱鞘の短刀を握ったとき、侍は例えようも無く「安心」するのである。安心こそ悟りなのだ。侍は悟った証拠に朱鞘の短刀を見せる以外に在るまい。自分は和尚を殺る、この短刀を握ったときに深く安心立命したと。和尚はそれに納得するだろう。悟りとは揺らぎを鎮めることである。生きて居る事は白色ノイズの雑音に揺らいでいる事であり、人の意識も判断も、この揺らぎの結果である。



 (第三夜)  梅雨時の雨が降りそうな細い道である。どういう訳か六つになる子供を負ぶって暗い道を歩いて居る。子供は不思議な事に目が潰れて青坊主になっている。いつお前の目は潰れた?、なに昔からさ、と云う。声は子供だが話し方は対等だ。しかも自分の子供である。
「田圃かかったね」、
「どうして解る」、
「だって鷺が鳴くじゃないか」
すると鷺が果たして二声ほど鳴いた
自分は少し怖くなった
こんなものを背負っていては、この先どうなるかわからない
どこかに打っ遣るところは無いか、と見ると向こうに大きな森が見えた
あすこならば、と思ったとたん
「ふふん」と云う声がした
「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった
「おとっっあん重いかい」
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と子供は言った

森に行く道は暗く手前で二股になっている
「石が立っている筈だがな」と子供が謂う
暗がりの中で好く見ると確かに石柱が建っている
石柱の文字は、イモリの腹のように不気味な赤だ
「左がいいだろう」と小僧が謂う
自分は少し躊躇したが、
「遠慮しなくてもいい」と小僧がまた謂った
森に向かって歩き出すと
「どうも目暗は不自由でいけない」と云った
「だから負ぶってやるからいいじゃないか」
「負ぶってもらって済まないが、どうも人に馬鹿にされていけない、
親にまで馬鹿にされるからいけない」
何だか嫌になり、早く森に捨ててしまおうと急いだ

「もう少しゆくと解る、ちょうどこんな晩だったなあ」と独り言をいっている
「何が!」と自分はきわどい声を出した
「何がって、知っているじゃないか」と子供は嘲るように答えた
すると何だか知ってるような気がした
けれどもハッキリとは分からない
ただこんな晩であったように思える
もう少し行けはわかるに違いない
わかっては大変だから、早くこの子供を捨てて安心しなくてはならない。

雨はさっきから降っている、道は段々と暗くなる
背中に小さい小僧がくっ付いていて
その小僧が自分の過去現在未来をことごとく照らしていて
寸分の事実も漏らさぬように光っている。
自分は堪らなくなった

「ここだ、ここだ、ちょうどその杉の根の所だ」
雨の中で小僧の声はハッキリと聞えた
いつしか森の中に入っていたのだ
一間ばかり先に在る黒いものは杉の木と見えた。
「おとっあん、その杉の根の所だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった
「文化五年辰年だろう」なるほど文化五年辰年らしく思われた
「お前が俺を殺したのは、いまからちょうど百年前だね」
ハッとした自分は、小僧の言葉を聞くや否や、今から百年前の文化五年辰年の
こんな晩に一人の按摩を殺したという自覚が忽然として浮かび上がった
「俺は人殺しであったのだ」 途端に背中の子供は、石地蔵のように重くなった。



*ここにも第一話と同じく「百年前」という言葉や「安心」という言葉が出て来る。
分かって仕舞っては大変だ、分からない内に捨ててしまおう。
漱石のこころの中に,何か言い知れぬ不安があったのではなかろうか。
この言葉には、たぶん漱石文学の「創作の核のようなもの」、
何かの重いものから、身軽になりたい。その拘りが埋まっているのだろう。
それは漱石論として解明すべき語句かも知れない。
生まれた時代と置かれた環境。

拘りは、その人間を深い部分で拘束し、常の何気ない意識や決定に作用する。
それは見えない人間の無意識の部分を説明する可能性は確かにある。
誰しも生活・健康・経済・人間関係・に何らかの不安を持って居るのが常である。
だがあまりにもそれらの事が行動を左右し、真の生き方を曲げるとしたら、
それは病的なものに変わる。

なるほど、漱石が世の中の人と人、男と女、兄弟と自分、
そういう関係のなかで互いに理解し得ない苦しみを、
厭になる位クドクドと飽きもせず長編で描いて来たのは、
漱石自身の中にそう云う物が、
他人には言えない形で鬱積していた事の証明でもあろう。

文化五年辰年とは西暦で1808年である。
それから百年経つと、明治41年、西暦1908年に成る。
彼に取って百年は輪廻の回る充分な時間を現しているのだろうか。

日本仏教の教理では、死者も49日の中陰を過ぎれば、
早いものは何者かに生まれ変わるという。
生まれ変わる以前の自分が殺めた目暗が、
自分の子供として、次の代に互いに親子として出会う事も無いではない。
自分もまた何者かの生まれ変わりであればである。
生きているすべての物が生まれ変わりであるとすると様相は複雑である。

記憶の影が宿しているものは、自己意識ではなかなか探求の届かぬところではある。
時たま過去の記憶している子供がいると話題に成るが、それは本当か?
青坊主がハッキリと覚えている事をこの作品では仮定している。
江戸時代には、人の前世は確実に信じられていたに違いない。
果たして親の因果が子に報う事はあるか?
漱石はどこかで聞いた話を脚色したのだろう。
だが、漱石は自分の秘密を持って居た。
ゆえにその自分の秘密を詮索する探偵を極度に嫌った。


(第四夜) これは仙人の話かと思う。飄々として茶店で酒を飲んでいる老人。
支那の文学や、山海経などの逸話には道教を起源に持つ多く仙人が登場する。
例えば神社の壁面の透かし彫りには、張果老、菊慈童、張騫、鉄拐仙人、張良吹笙、蝦蟇仙人、郭巨、費長房、琴高仙人、盧傲、などが透かし彫りとして本殿の壁を飾っている。この四夜の話は、琴高仙人であろう。琴の名手で、ある時河に入り巨大な鯉の背中に乗り中々河から出て来ない。やがて河から出て、龍門の滝を登ると鯉は龍となり、天に昇って行ったとする。五月の節句である、鯉のぼりの縁起である。
この様に日本の神社の透かし彫りには、多く支那の仙人が彫られている。
仙人は何人かいるが、必ず琴高仙人は登場する。
琴の名人で鯉に乗るという、大河の中を鯉に乗り水中深く潜り出て来ては巨大な鯉を乗りこなす。鯉はやがて登竜門の瀧を登り龍に変わるという。
五月の空に泳ぐ鯉のぼりの歌そのものだ。琴高仙人はこのように深く水に係わる。
飄々とした、この仙人も茶店で酒を飲み、ほろ酔い加減でいるところに、店の者が
声をかけて、縄が蛇になると言いつつ河に入りとうとう出て来なかったという話である。縄が蛇に、そして蛇が龍になることは無かった。仙人が好まれるのは、自由闊達でありあらゆるしがらみに囚われず、縛られない思いのままに生きる理想を現わしているからだろう。先にも書いたが、仙人は道教の理念の中に在る。本来の道教は、老子や荘子の著作に始まるものだが、後年は、その理念を失い、不老長寿の薬の調合、そんなに生きてどうなるの?。今や日本では80歳の生存年齢に達するという。古代や近代の人には、目をむく驚きであろう。生き物は必ず生老病死が自然である。与えられた時間を精一杯生きる事にこそ智慧・英知が込められる。後の道教は利得・財産・金銭の追求となるのだが、霞を食べて生きる仙人に、およそ銭の勘定をしているなど考えられる筈も無い。それはそれで目くじらを立てる性質のものではないが、長命、利福は庶民の夢なのであるから。
第五話 - 

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