井頭山人のgooブログ

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「おらんだ正月」の頃

2020年09月28日 12時47分24秒 | 書誌・古典文献

「おらんだ正月」という青少年向けの人物事典があります。この本の著作者は森銑三という方で、冨山房新書として発刊され、初版は昭和十二年(1937年)でした。戦後は岩波文庫にも収録されて、誰もが手に取りやすい著作です。内容は主に江戸時代の自然科学者・蘭学者(当時は科学者という言葉は無かったが)、52人を取り上げて、その人物の学問や業績を説明なさっている人物集です。本草学~医学~暦学~神道・儒学~蘭学、まで、幅の広い分野の傑出人を取り上げている。子供の頃にこの本に接して、見も聞きもしなかった偉い人が、昔はこんなに居たのかと感じたことがありました。手にした本は現代の新書よりも少し大振りで、それなりの厚さがありかなり古いものでした。この本を買ったのはもちろん私ではないので、たぶん戦前に父が購入したものでしょう。陽に焼けて埃と染みで汚れています。

本との出会いは、例により親父の書棚を物色していると、万葉集とか古今集とか孫子とかクラウゼヴィッツなどの間に、おらんだ正月という文庫より一回り大きい本があった。子供の事ですから、最初に書名から感じたものは「おらんだ」にも正月があるのか?、餅を搗いて雑煮でも食うのか?と思ったのですね。

本を開いてみると最初に絵が出てきて、大きなテーブルを二つ並べて、何やら宴会のようなことをやっています。テーブルにはガラスの水差しやコップが置かれてワインだかビールだかを楽しみながら、和気あいあいと談笑している図です。何やら右手の奥の方には椅子に座った外人が帽子をかぶって蘭学者の談笑を見ています。花瓶には梅の枝らしきものが活けられていますので、二月か三月の事でしょうか。題名のおらんだ正月は、太陽暦の一月一日を祝うとありますので、江戸時代の太陰暦とはひと月近くズレる事になります。

まあそれは置くとして、この様な蘭学者を中心とした学問の愛好家たちが集い、こんな会をしていたとは思いませんでした。蘭学と云えば新し物好きの人達で、こんな人が世の中には必ず居て、彼らは西洋の文化に大いに関心があった訳です。余談ですが学問のみならず、僕らの時代にはファッションについても、お洒落に関心を持った知り合いは多かったです。イギリスのフアッションとかアメリカのフアッションとかイタリアのモードとか、特にUSAモードが一世を風靡しました。まあトラディショナル(伝統的な)な服装が好まれたようです。ところで日本のトラディショナルと云えば羽織袴ですが、公式には武士の裃姿ですか。いくら伝統的服装が好きとは言っても、着物に羽織で町を歩けば遊び人その物です。また、僕が車を買うためにデーラーに行ったら、販売員が羽織に着物で、出て来て、「いらっしゃいませ」という商談は出来ないでしょうから、日本は万事の生活様式が江戸時代とは異なる国になってしまった。

さて、五十二人の江戸時代の学者事典ですが、森先生がここに取り上げなかった人たちも数多い。森先生は主に蘭学を中心に本草、東洋医学、西洋医学、暦学、天文学、書誌・古典文献学、などで選ばれたようです。一人々、此処では書きませんが、これは少年少女のための、易しくか書かれた個性的な蘭学者を説いた本という説明でしたが、言葉は易しいが内容は本格的です。子供の内は記憶力が驚異的ですので、この五十二人は内容と名前を覚えてしまうことでしょう。

江戸時代の人物を思い起こすと、このおらんだ正月の人物が出てきますが、これは小五の時以来僕の種本です。森銑三先生は、この他にも十数巻の人物評論集・考証集を多く出されている。アメリカ軍の無差別爆撃は全国に亘りますが、東京の大空襲では下町を中心に10万人が焼け死んだと書いてありますが事実は15万人以上の一般市民の焼死でした。この爆撃で長年集め書き溜めた森先生の夥しい原稿の大半が焼失しました。傾注した情熱の成果、努力の結晶が一夜にして消えてしまった。それにもメゲず、研究に邁進された強いお気持ちは感嘆する以外にないです。書誌学は、塙保己一以来余り陽の当たらない地味な分野です。書誌学と文献学の、どこが、どう違うのかは知りませんが、この分類し保存する分野が無かったら、我々は過去に消えて居たかも知れない古文献を読むことは出来ない。地味だがとても重要な分野です。

いま感じるのは、私は古文は読めるとしても、漢文が読めない、江戸時代の和文の書き下し文でさえ読めないのです。江戸までの文明は滅びたか?。崩した字が読めないのです。鎌倉、室町、戦国、江戸の手紙や古文書は結構残っているのですが、興味があっても素人には読めない。書いてあることが正しいか偽りかは別にして、先ず、読めないのでは資料判断が出来ないわけです。我々は普段手紙などは、まだ手で書きますが、段々に手紙もメールで、原稿までワープロで書き、「書く」文化から「打つ」文化に移行しつつある。その上に書道や毛筆から遠ざかっているので、もはや一次資料が読めないのは無べなるかなですね。森先生は好いお仕事を残された。それにしても焼失した原稿が惜しい。手で書く速度はkeyを打つ速度より遅い事は確かです。特に日本語ワープロは、漢字が多い文では速度は圧倒的に早いです。

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お彼岸の日に

2020年09月24日 16時28分15秒 | 日記

はや、父が逝って18年、母が逝って5年、
だがいまだに私の脳裏には、父の歩く姿も、母のまなざしを、
昨日のことのようにあざやかに浮んでいる。
今日はお彼岸である。

仏教の開祖、ゴータマ仏陀の出家は、彼の重い鬱病に発しているという。
あるとき、釈尊の弟子は師に訊ねた。
「先生、個人的自我は死後も保存されるのでしょうか」と。

師はその問いに直接答えることが無かった。
だが、師は間接的に弟子の問いに応えて、

「それを知ることは、おそらく、
我々の人生にとつて根本的なことではなかろう。
我々にとって大切なことは、
現に出来る最良の行為を行い続ける事なのだ」。

質問した弟子には不満も残った事だろう。
師は、それが何か知って居るのに教えてくれないのだと。
では、弟子は何を期待してその問いの答えを求めたのだろうか。

個我ー「自己意識に起因するあらゆる記憶と為した行為のすべて」

もしも、個人的な個我は、死ののちに残らない。とするならば、
弟子は、人の道に反れて悪行のすべてを為しても、
死後の地獄で審判官の、何らの報復を得ることは無いと解釈するだろうか?。
弟子は、地獄の恐怖の為に、彼は見せかけの善を為し、
閻魔庁を欺けると思うのだろうか。
そんなものは地獄の審判官には丸っきり見通しである。
およそ考えられる以上の責め苦を科すだろう。

だが、多くの檀家や門徒は、この答えを聞きたがる。
殆ど答えようのない、生きている者には答えられないこの問いを。
唯物論的に、或いは物質科学的に言えば、
個我が死後残らないのは明白である。物質を超えた何かが
在れば別の話だが。

個人的な我の意識は唯識の中でも色(感覚)によって
一番表面に展開される識のひとつに他ならない。
ゆえに、死後に生理的機能が停止し
焼却によって肉体が蒸発する際には
表層の識は記憶の元が消滅する。

(色)ー しきとは、生きてある、その個体が発散し、
また感受する全感覚機能を言う。

では、何が消滅し、何が残る、のだろうか。

我々の現世的な物の価値一切は消滅する。
個人的意識(個我)は勿論の事、肉体に起因する
その業の全て、容貌、知能、教養、博識、美声、
利己心、性欲、憤怒、吝嗇、虚言、強欲、狷介、
収集癖、詐欺癖、窃盗、破産、脅し恐喝、名誉、
勲章、預金残高、博士号、助平好色、すぐやる課、
名車、妾、友情、借金、恋、妄想、狂信、悪友、良友
権威、痴呆、
グラムシ、ミノムシ、サナダムシ
ありとあらゆる表層的なもの、
フィネガンの通夜に出て来る俗人たち、
諸々の業(カルマ)のすべてが、消え去る。
われわれは、みんな、青い交流電流の幽霊
の効果だ。

では、何が残るか、

それは、弟子の問いに還ることになる。

個人的自我は保存されない、死は生理的機能の停止である。
脳神経活動は停止する。体は焼却され
残るのは骨のカルシュウムと化合物のみである。
そのような中で人間の生理的機能が生成するという、
心は残らないのだろうか。

残るのか、残らないのか、それを弟子は、師に聞き質したのだ。
残るとすれば化学元素か化合物のかたちである。
デオキシリボ核酸も、焼却の熱で構造はバラバラに成る。
遺伝情報は保持されない。

では、行く先が不明なら、
来た道を帰ってみょう。

遠い記憶の種子のすべてがそこに在る
永い永い命の発展史である
仏教が謂う種子とは種で、それは正しく遺伝子であろう
燻重とは遺伝子の中に含まれる分子のもつ
塩基情報であろう。
我々は、いのちのはじまりから生命体の全歴史を
受け継いでいる。

われわれは、0.2ミリの卵と0.05ミリの精子の合体である
そこに心は常在している。古来から物質とこころの関係は
議論されてきた、仏教しかりである。

さらに心とか精神と呼ぶものは物資に起因するものか、否か、
心は物質に起因しないものであるとしたら、それは残る。
というより、元々消滅しないものである。
それは唯識の阿頼耶識に相当するものか。
阿頼耶識は、存在の最小単位でありうるか、
宇宙の意思を体現するものであるか。

それは比喩的に言うのならば原子であり、
実体は原子核を構成する陽子であり、
現代的にいうなら、super・stringのDブレーンであり、
単位でいえば涅槃示寂である。

そこには、もう我々がいう意識はないのだろう。
我々は、なにゆえに、この宇宙と世界に在るか。
風がドゥと吹き、木の葉はその緑をキラキラと光らせていました。

仏教はこの様に、存在の究極を探求する、また常に心を探求する。

ショーペンハウエルは、仏教を心理学と呼んだ。
この感想は正しかった。
現世に生きるひとのこころは、
生きる為の活動と闘争、欲望と打算のために泡立っている。

泡立ちの濁りをときには澄ませるために
一人座るのも好いだろう。
禅はその療法のひとつである。

例えば、禅の公案に

「人間にとって、数とは何なのだろう」という公案があるとする

たぶん外的世界に数という物質は無い、
それは、外に投影した人間の「内的概念の展開」に過ぎないのではないか。
数とは何か?、と謂うこと自体、数というキーワドを使い
意識が合理性的基準の下に、数という概念の構造化をする為の内部展開である

たとえば、数が外的に存在するとするなら(数は人間のイメージであって、外的な存在では無いと思うが)
仮にそれが、存在するなら、それは、惑星や岩石と同じ。
人間は好い自然把握の手段を持ちえたものだ、
数概念は、思念を展開するための謂わば駒のようなものだろう。


父と母への思い出を抱いて、
お彼岸の日に。

 

死とは何か?

進化の果てに積み上げられた生理的機能の停止である。それはもう生理的な円環の活動を停止することだ。死という事に関して直ちに具体的な想像では、意識が停止し無くなるという事だ。では意識とは何か?それは五感の感覚の幻影である。それらの総合された感覚が、謂わば存在の幻影を創り出している。空間が在るというのも幻影だ。我々は腕を振り回せる空間があるではないか?と人は謂う。然し、空間は幻影なのだ。五感の齎すものは幻影である。然しこれが事実だとしても、生きて社会的存在でいる間は、間違っても幻影だなどと主張してはならない。空間はある物として、物質はある物として、この社会が機能しているからだ。死とは何かを問う場合、それは意識とは何かを問う事と似ている。

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スリニヴァーサ・ラマヌジャン

2020年09月17日 19時43分02秒 | 数学と哲学

 数学者ー「シュリニバーサ・ラマヌジャン」の神秘は、現在でも十分に解明されているとは謂い難い。彼は、南インドのクンバコナムという町に生まれ、或る奇跡が重なって驚くべき数学の世界を展開した、ほとんど数学史上類似を見いだせない稀有の人です。彼の学歴、かなり通常のコースから外れた人です。この様な人は珍しい事ではないが、この人の場合、通常の教育課程を経ることなく頂点以上の事を究めた驚異の人でした。それは人間の能力の本質とか、その可能性とかについて、まったく驚嘆の感を抱かさせられます。人の能力とは、本当は何なのだろうかという自問です。数学者と書いたが、彼は専門的な数学の訓練コースに入った事が無いと同時に、その講義を受けた経験を持たない、謂わば独学の数学者でした。彼の生まれた家はとても貧しく、本来だったら高校にもやれない程の貧乏な家庭であったが、インドのヒンズー教徒の階層段階から言えば、最上位に位置する「バラモン」の階層にあった。母親は大変に信心深く、幼いラマヌジャンに貧しくとも精神的なバラモンの誇りを教え、社会に出て一角の人物として貢献することを願った。彼の小・中学校の日常は殆ど分って居ない。

当時のインドはブリテンの酷く収奪された植民地であり、インド人は宗主国イギリスに経済的に暴力的に搾取され、文化的には一種の軽蔑を受けていた。イギリス人は蒸気機関を模倣して機関車を作り上げた者たちの手首を切ったという。インド人は、それほど白人植民地主義の悪党には人間扱いされなかった。インドは巨大な国土と人口を抱えた多民族国家であり、また、ヒンズーのカーストに分断された社会である。インド大陸には、百近い方言ないし言語があり、デカン高原の台地には、各部族が住み多くは農業に勤しんでいる、日本から見れば混沌(カオス)に近い世界である。ラマヌジャンが、どんなどの様な初等中等の学業成績を終えたのかは、是また明確ではないが、両親は乏しい生活の中から学資を貯めて彼を高校へ遣った。その頃の事だろうか、彼の友人が一冊の本を提供した、それは、S・カーというイギリスの数学者が書いた、受験参考書の副読本のような種類の有り触れた数学事典であった。そこには7000個ちかい数式と定理が書かれており、証明は一切書いて居ない。レベルは中学・高校から大學初年級までの範囲で公式が書かれていた。カーの本は出版当時の最先端の公式まで含まれていた。「初等函数」詰まり、指数、対数、三角関数、素数定理、因数分解、因数定理、数列、級数、微積分、偏微分、フーリェ解析、確率変数、統計学、解析幾何学、位相幾何学、などなど、が網羅されていたのだと想像する。

この数学の数学事典を手に入れたラマヌジャンは、その定理の一つ一つを、左辺から右辺へと自分自身の力で解き、式を導いていった。果たして、一体こんな事が可能なのだろうか?、それは不可能ではないにしても、たぶん、並みの集中力を超えた驚くべき継続した集中力が要る。絶対に言えることは、これは桁外れに「頭が強くないと」できない事だ。我々の集中力は、最大に強く深くなっても精々15分~20分、頭と心と訓練してゆくと40分、少なくとも半日は絶対に無理だ、精神的に変調をきたす。それを実施した当人が書いているのだから嘘ではない。必ず、他に気を散らされて集中が出来ない。それは外的な面もあるだろうが、むしろ内的なものだ、雑念があっちこっちで動く。そういう時は寝るしかない。本当にそうなのだ、寝るしかない、真面目に研究する積もりならば。気分転換に散歩でもしょう。とか、一杯飲みに行こう、とかしていたら絶対に前には進まない。壁にぶち当たったときは、岡潔のように眠るしかないのである。ポアンカレなどは、彼の有名な四部作の中で、何か気を散らして別のことをやっている期間に、解けない問題の糸口が見いだせる事を、「思念の発酵期間」などと云っているが、もう自我意識のレベルでは進み得ない為に、降参して、あとは無意識下で動く自動的な進展に期待するほか無いらしい。岡潔はやれるだけ遣った後は、もうこれ以上は無理と分かれば、寝て仕舞う。やれるだけの事をやってみて、もうこれ以上は、もうお手上げの場合には寝てしまうという。それは「思考の熟成期間」とか、「思念の自然発酵」に期待したのであろう。ラマヌジャンもその領域の人らしい。

彼に似ている人と云えば、200年ほど昔の人で、スイス生まれの数学者レオンハルト・オイラーであろう。オイラーはラマヌジャンに似たような経験を持っている。いや逆ですね、ラマヌジャンがオイラーに似た経験を持っているのです。彼はスイスに生まれて、バーゼル大で有名な数学者一家であるベルヌーイ家の一員である人に見出されて、その人に師事しました。ヨハン・ベルヌーイでしたかね?。当時のカリキュラムがどうなって居たのかは知らないが、現代のような事細かな指導はしていない筈で、一応、課題の本などを与えて勝手にやらせて置く程度の事だろう。生徒はいちいち、先生に手を取って教えて貰える訳ではなく、自分で難かしい「問題をかみ砕く強い顎」を鍛えて置かなければならない。どうもこんな特別の人は、青少年期に思考力を鍛えるために、大変なことを当たり前の様に、自然に行っているようだ。

問題に深く潜るためには「強い頭」が絶対に必要です。「回転が速い頭」では無くて、「強い頭」です。集中力を継続できる強い頭。それが不可欠だ。この強烈な集中力は、多分詩人に似ている。詩人も集中力と放心を繰り返すので、普通人から見ると阿呆か?と思われ、馬鹿にされる。それは思念の夢想にふける為に、他人の話には上の空である。悪気はないのだが、自分の中の空想に浸っている為に、奇妙で痴呆症の様な人に見えてしまう。いったん付き合ってみると、一見した印象とはまるで違い、ユーモアがあり、気さくで、こころから親切な人間が多い。一言で謂えば邪念が無いのである。心いっぱいに自分の研究課題と闘っている為に、邪念など湧くひまがないのだろう。以外にも、純粋な性格の持ち主が多い。

今現在もラマヌジャンは、その全貌が解明されて居る訳ではなく、この人が残した論文で主張していた事の意味が、やっと最近になって漸く解明された。というレベルの人です。詰り奥に進み過ぎていて、その時代のレベルでは、何を言っているんだかサッパリ分からないと云う事ですね。ラマヌジャンの才能は、その事典をもらって載っている公式を解き出したときに始まったと言えるのだろう。普通人では、そんな公式集の公式を、ひとつひとつ解くなどと云う事をやる人は稀です。余程、ヒマだったのでしょうね。その一連の集中力が、あの人の才を開花させた。オイラーも若い時に同じ様な事をやっていたが、これは相当に頭の訓練と成るらしい。だが誰にもできる事ではない、、数学だけやって居れば進級できるという物でもないから、一言でいえば「危ない橋」です。

当のインドでも、今ならば、もうラマヌジャンのような人は出ない。学制が整備されて、カリキュラムが完備すれば、それなりの才が認められれば、奨学金がでるでしょうから、正規のコースに入って仕舞います。1910年代には、偉大な数学者G・H・ハーディの様な人が居なければ、ラマヌジャンは確実に世間に埋もれてしまったと思います。ハーディも書いている様に、「私の人生の最大の業績は、ラマヌジャンを発見したことである」は、ハーディが自分の人生を振り返った時の、正直な感慨なのでしょうね。それだけ彼は驚異的な人物を見出した事に、大きな衝撃を受けたのだと思います。わたし自身としては、、ラマヌジャンは、もう二度と出現しないだろうと思います。それは永い歴史を持つインドの、或る時代と条件が重なった奇跡だと思って居ます。でも人類の歴史にはとても考えられない人が突如として出現することが有る。それは、殆ど遺伝の神秘としか言いようがない。それは勉強して為ることが出来る様なものでは到底ない。我々の作為を越えた所の宇宙のもたらす真の啓示なのかも知れません。我々はこの宇宙が示すものにどこまでも素直で純真であるべきだ。

また、ハーディは人間のもつ思考力の意味と、その射程、可能性についても、他の所で言及している。多くの人達から、「ラマヌジャンが正規の数学コースに入って居たら、どんなにか素晴らしい成果を上げ続けた事でしょうね」と言われて、僕はそれ等の、本質が何もわかって居ない人に、こう答える事にしている。「ええそうですね、彼が正規のコースで訓練を受けて居たら、リーマンかヒルベルト、ルジャンドル、位の人には成って居たでしょう。だが、どんなに優れていたにしても、現実のラマヌジャンには成りえないのです。彼は人間の能力が、本当はまだまだ未知で、大きな伸び代がある事を、現に示したようなものですから」と答える事にしています。と

我々は、人間の本質について果たしてどれだけ知って居るのだろうか?、規格化された教育制度は日本に大きな発展をもたらした。その事は確かだ。明治政府の目的として教育制度は、攻撃的植民地侵略国家である、米・英・仏・独に追いつけ追い越せだったから、早く国民の知的レベルを押し上げる為には不可欠だった。一定の知的規格品を創ることは、まったく有効であった。明治政府は学制を施き、「尋常小学校」、「高等小学校」、「旧制中学」、「高等師範」、「高等専門学校」、「旧制高等学校」、「帝国大學」、と、順次作り上げ、紆余曲折を経ながらも英仏の文化的基礎に負けない制度設計を施行した。日本人は永い江戸時代の文化的遺産として非常に聡明であったから、初等、中等、高等、の教育は、立ち処にして或る意味では成功した。それは足った40年で、我々を脅して開国を迫り、あわよくば、植民地としたい、白人たちの海軍力に、十二分に立ち向かえる海軍力を作り上げた事でも証明される。

 だが戦後の現在の時点で、若者の75%が大學に行く時代には教育の目的も変わった。 それは少数の本物の学者や工学の専門家を養成する本物の大學から、学問的には何の貢献もしないが、社会生活で機能する良き社会人を創るという目的へと変化したのだ。良き社会という物は、深く豊かな本物の教養を持つ者が、何%居るかである程度決まる。然し教育で人間の本質が根本的に、根底から変わると思ってもらっては困る。有り体に云えば、知的な人間は上辺だけの教育が無くても、生れ乍らに高い知能を有し知的なのだ。其処を誤解すると、余りに現行の教育に期待と価値がある様に誤解することに成る。現在は高等教育の講義内容自体が、概ね低下している。仮に高等教育を受けた者が、すべて知的に成るならば云う事が無い。だが、日本の現実は高等教育を受けたにも係わらず、一向に知的で無い事は、日本の政治現状を見れば、何の証言よりも明らかであろう。 日本の高等教育は或る時期を境に、特に戦後は明治の偉人たちが期待したほど機能しては居ない。むしろ退化したと謂えなくもない。

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ふと思い出すこと。

2020年09月10日 06時43分01秒 | 日記
 今からもう二十年以上も前になろうか。ある市に定期的に通ったことがあった。週二回ほどその道路を通るわけだが、3回目当りから気に成り出したことがあった。それは、私の車が通過する時間、その道路のある地点まで来ると、青年がニコニコと笑いながら手を振るのである。私は誰か青年の知り合いが出かけるのを見送る為に、道路の車の列に手を振っているのだと最初は思った。私が用事を終わり午後遅く帰るころには、青年の姿は見えなかった。ああ!矢張り知り合いに向かって手を振って居たのだと思った。私は仕事の進み具合やプランを考えながらも、妙にこの青年のことが気に成り出した。ところが青年は、次の週も、その次の週も、私が通り過ぎる時間には必ず道に出ていて、満面の笑みを浮かべて車に手を振っているのだ。これは知り合いに手を振って居るのでない事がわかった。私は思い違いをして居たのだ。たぶん、此処を通る車の運転者の大方はこの青年を見て知っているに違いない。

青年は神に近い存在であろう。子供は車が好きだ、特に男の子は動くもの、飛行機・電車・貨車・昆虫・時計・ピストル・etc…。である。たぶん、私が用事でこの道を通るかなり以前から、青年はこの道の、この場所に出て、風が吹こうが、雨が降ろうが、雪が積もろうが、相も変わらず、気の遠くなるような人生の時間を過ごしていたに違いない。私はこの道を通るのが楽しくなった。あの青年は出ているだろうか?と。時に青年に車の中から手を振ることさえあった。三年間、この道を通ることは私の楽しみの一つであった。三年間が過ぎて、私は道を通ることが無く成ったが、4~5年の後に、この道を走った際に、彼はどうしているだろうかと謂う期待があった。だが青年の姿は見えなかった。わたしは車を止めて土地の人に、青年の消息を聞こうかと思ったが遠慮して止めた。もしも青年がもう既にこの世の人ではないとしたら、私は僅かの時間であったが、この青年に手を振って貰うことで、或る力をもらっていたのだと気が付いた。出会いと呼べるような出会いではなかったが、別れの悲哀を感じないわけには行かなかった。「ひとは何のためにこの世に現れて来るのだろうか…」。

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