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宮沢賢治の世界とその夢の図書館

2018年07月30日 07時19分20秒 | 日記

 人間に物語が生まれるのは、例えば蝶が大空に羽ばたく羽化の為に吐く糸である。羽化への過程には、様々の困難と苦しみがあるが、天の声に導かれて自らが変態する。宮沢賢治の諸々の童話は、繭が羽化の為に吐く糸であったろう。宮沢賢治は37歳までしか生きなかったが、彼の全集を見ると、書き残した詩と童話と評論など、相当な量に達する。世の中にはそれこそ賢治愛好者が無数に居て、彼の残した小さなメモの紙片や、適当に書き散らした構想を書いた古いノートまで探し出し、研究誌に発表している。賢治は自分の作品を心行くまで改変する事を惜しまなかったので、初稿と最終稿とは微妙にあるいはまるで異なっている場合が多い。子供の頃から、ネコの漫画や童話を読んできた我が家の子供たちも賢治の大ファンである。実を云えば、遠いむかしに小学校の図書室で目にした「風の又三郎」という童話があった。研究書によると、この本は最初「風野又三郎」という題名で出されたのだと云う。この本は暇をもて余す夏休みに、家の中で寝転んで読むには好いかもしれないと、借りて来た事が有る。家には、ロビンソンクルーソの冒険やガリバー旅行記やトムソーヤーの冒険、アンクルトムの小屋などが有ったが、これは私の知らない内に、父が文学に親しませる心算で、シリーズ物を買って来たのだろうと今では推察する。世界文学全集は大抵は外国の話で、巌窟王やああ無常などフランス物やイギリス物、クオレ、ピノッキオなどの伊太利物、アンデルセンなどのデンマーク物も有った。ドイツを始めとして、思えば世界中に童話は存在する。しかし子供には、何処のどういう国の作品か?など分る筈がない。外国物はほとんど一緒くたである。


そんな中で日本の童話の伝統を見ると、明治以来、子供の為の童話雑誌としての「赤い鳥」などの少年雑誌には多くの作家が秀逸な作品を書いているし、感動的なお話は自然に子供の心に対人関係や社会性を醸成する役割を果たしている。同時に日本の有名な作家たちも、個人的に童話の作品集などを発表しているから、その作品に宿る個性は読んで見ると明らかである。どんな時代でも、親は子供が健康で慈悲に飛んだ利発な子供として育って欲しいと願いがある。だから子供に与える読み物には注意を払ったに相違ない。なにもそれは開国してからの話では無い、江戸時代に於いても、子供の読み物は確かにあった。忠義の物語や人情物という、遠くは庶民への教化の為に様々な説話集さえ書き継がれているではないか。日本霊異記も宇治拾遺物語も今昔物語も御伽草子も、それこそ大昔の話ではあるが、みな同じジャンルに入るのではなかろうか。子供の物語は、その国民性がもろに出る。多くの物語文学、説話文学、日記文学、評論物、随筆、紀行集、など共々に日本語という物の特徴と起源をすこし考えて見たい。日本語はいつ頃から定着した物であろうか?

話し言葉は、それこそ起源が古い。日本に人類が住み出す様になってからもう10万年を超える。この列島の人類の起源は石器時代にはすでに住んでいたのだ。こんなにも古い時代から石器を磨き、縄文土器を焼いてきた我々の父祖が大いなる母がいる。わたしは日本の精神の基層には呪術的な文化が有り、それは神道ともシャーマニズムともいえる自然崇拝が基礎に有ると思ってきた。特に東北には、この精神が残っていると信ずる。それは二万年も、何千年も変わらず継承されてきたと感じる。修験道にしてもそうだ。東北にはそれが色濃く残っているのだ。方言は特に貴重な話し言葉であり、これは消滅する前に残したい。東北のシャーマニズムに月山信仰があり、人物を挙げて云えば、平安時代、空海の実家である佐伯氏は東北の出自であり、江戸時代には平田篤胤がいる。斎藤茂吉、宮沢賢治、棟方志功、何か共通性が感じられないか?土俗的な縄文を思い出させる。

日本の文学は、遠くは万葉集や古事記に始まるし、五世紀に仏教が伝播し、それが日本の伝統的な自然崇拝の思想と融合して日本文明に独特の仏教説話集を創り上げた。永い平安時代を経て、多くの鏡文学また鎌倉期には御伽草子、鎌倉幕府の政務記録である吾妻鏡、平家物語などの武士の物語、西行などの旅と歌の日記文学、中世歌論、方丈記、明月記数えれば多々有り、当時の文学レベルに於いて日本国は世界的に見ても最高峰の文化を体現していたと、そう言って過言では無い。たぶん日本語の創作性、哲学性が、文化の創出に強い力を与えている。元々日本人は、過大な自画自賛を下とし、控えめを上とするが、敢えて言えば日本の歴史的事実は世界的に見ても最高の文学を持って居たと思って好い。

それは室町期に於いても、太平記を始めとした日本の今に通ずる文化の発生がこの室町の世に発する事が多いのだ。連歌、茶の湯、大和絵、書院作り、作庭、製陶、数多である。室町の習慣・習俗は、戦国、江戸を通じて、この今につながる歴史を有している。数限りない分野の中で、ここでは一つ絵巻物に付いてすこし書いてみたい。歴史的な絵画は西洋にもあるが、十数メートルに亘る絵巻物のレベルと、その多さは日本が特出して居る。どうやら日本人は、事件や歴史を絵巻で現し残す、という特技があるらしい。その中で、対極にある物として、一遍上人絵伝、と鳥獣戯画を取り上げて見たいが、絵伝は一遍の生まれ育った環境とその後の教えを説いて歩く人生を活写している。これは一遍の後をついて歩いた弟子の一人に絵の上手がいて、それが見た事実から描いたものだろう。それに対して、漫画の始まりとも目される鳥獣戯画は、鳥羽の僧正という坊さんが制作した物であるらしい。これもまたキツネやカエル、サルやウサギ、イノシシやウシウマが、繰り広げる愉快な風体を活写して、一度見たら決して忘れられない印象を残すものだ。

風の又三郎、銀河鉄道の夜、なめとこ山の熊やグスコーブドリの伝記、猫の事務所、注文の多い料理店、ドングリと山猫、これらの童話を、鳥獣戯画の作者が読んだら、直ちに絵巻にせずには居られない物だろう。日本霊異記も鳥羽の僧正は絵巻物化すべきであったと私は思うのだが。

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思考と言語、あるいは(声と音)

2018年07月13日 16時47分52秒 | 日記
思考と言語

思考とコトバの関係について、少し公理風に要点を書いてみたい。


「コトバをつくる力とは、音を構造化する力である。」

では、その力が、どこから来るのか?を考えてみたい。

A-その力を知ることは、何が分るのですか?

B-それを知ることは、思考の実体が何なのかが分るだろう。思考とは、記憶の再現なのか?記憶の組み合わせなのか?或いは、新たな創造の形成なのか?が分るだろう。




*- 問題を、もっと細かく述べれば、コトバの機能とは、何かの意志を伝える為に、声帯で発生させた空気の振動を、構造化して伝える力であるが、その力が、どこから来るのか?を探ってみたい。
別な表現では、述べる力であるが、それは定性的で月並みだが、こころとか、自我とか、いう所の対象に近い。


1- 音としてのコトバが無ければ思考は出来ないと云う考えの人は、どこか考え違いをして居る。

2- 言葉は、思考の結果であって、思考の原因では無い。日本人の思考は幾何学的、視覚的だ。それは音声とも兼ね合い、どちらかと云うと単なる音では無く空間的なのだ。

2-Aー コトバの習得時代は特に母語としての思考と表音の枠組みを作る時代は、コトバが理解の要因かも知れないが、言葉という物は単なる純粋な音では無い。意味に連れて行く指標ではあっても。

3- 思考内容の表明が、言葉と云う方法を通じて表示される由縁である。聴覚を通じて、概念と概念をつなぐ媒体が声であって、それは音+αである。もう一つの方法論が在る。それは視覚を通じて、概念と概念をつなぐ媒体が、文字である。特に表意文字である漢字である。象形文字は特に特有の読み方は無い、ただ慣習的に呉音読みと日本語の訓読みがあり、だから漢字に関しては、言ってみれば、如何読んでも本来は差し支えないが、古来慣習的jな読み方があるので、それに従っているだけで、本質的にはどの音を当てても間違いでは無い。象形文字とはそういうもので、形に意味があるが本体は、音には対応して居ない。

4- では極まる所、思考と言語の関係は、どうなのか??「思考と言語」は、むかし若い頃に読んだ、ロシアの言語学者ヴィゴッキーの著作の表題(タイトル)でもあるが、「思考と言語」を「声と音」に読み替えて、この問題の根源を探求してみたい。この問題は、どうも一筋縄では行かぬ問題で、ずいぶん古くから、多くに人が頭を痛めて来た難問である。ここで一つの試論を探求してみたい。

思考と言語は、想像力の問題と深く関連しているので、最近話題のAIの問題とも関連している。人間の想像力を機械に持たせるには、それこそ遠い問題だが、機能的には意外にも何十年もかからず実現できる可能性は在る。謂わば疑似的想像力は、流れ図的に言えばサブルーチンを幾重にも重ねて、組み合わせることで、それに似せる事は可能だ。改良するには失敗数が有効だ、機械同士を闘わせて、改良流れ図手順(プログラム)の学習資料(データ)を積み重ねる事で、機械に一種の疑似的思考力の機能を持たせることが出来る。だが戻り手順(サブルーチン)を膨大にすることで、関門(ゲート)が増え、強力な速度の電子計算機(コンピューター)が必要になる。

これは最近、算法(アルゴリズム)が開発されて、俄かに現実味を帯びた、量子電子計算機が組み合せれば、大いに進む分野であろう。だが機械は機械である。それに対して必要なのは、人間の実際の神経系の探求である。マッカローやピッツに依り、脳神経系の論理は、すでに昔から研究されており、人工知能(AI)の問題は、機械と生体の組み合わせを計った、N・ウィーナーの計測と制御の科学(サイバネティクス)の拡大された思想的萌芽である。人造人間(ロボット)が電子計算機の支援を受けて、人間に近い能力が現実味を帯び出したのだ。ただ電源を切れば、死んでしまう機械に連続した能力を持たせるには自己発電能力が必要だろう。コトバとココロの言語的な関連を探検してみようと始めた主題(テーマ)だが、のっけから思わぬ方向に行きそうだ。

では(1)の問題で、ひとは視覚で物を考える事が出来る。あるいは図式で考察を進める事が出来る。という事象を調べてみよう。この声と音の差異を考察する上で、日本語は最適な道具だ。耳と目を最大限に融合させている言語が日本語だ。象形文字を導入して以来、日本語はそれ以前の音標文字と相まって、表現の自由度を持っことに成った。本当に不思議な言葉である。コトバが発達してきた背景には、その国の自然環境が創り出す国民性という物が、大いに規定する。日本語は環境である自然のコトバを聞く言語なのである。音楽的で擬音語が際立って多い。それは言葉の母音の構造も関連して居て、それは日本の文化的な背景を構成して居る。日本語という珍しい言葉が無ければ、おそらく、珍しい日本文化は形成されなかっただろうと考える。

むかし読んだ角田忠信氏の「日本人の脳ーその東西文化比較」は、本当に驚く研究であった。コトバの違いが脳神経系の動作機構に多大な影響をもたらす事だ。これは自然に対する感受性が産んだ言葉である。生体が意志?を持って発する信号が声である。それに対して単なる石と石がぶつかり発するモノは音と考えて差し支えない。声には音の側面が有り、というより声は、音に乗せている何か?なのだ。我々が住む空気という導体の環境の中では、声帯を震わせて音を発する行為には、当然個体の意志が反映されている。それを言葉と云い、言葉が大規模になれば言語という。意志の発生がフィードバックされて意味の発生へとつながり、やがて言葉は音の制御に一定の原則を形成さる。それが最初の文法だ。我々は言葉が音の側面を持つからと云って言語はすべて音だけで出来ているなどと考えては成らない。音だけで出来ていると云う考えは過去にもあった。ブルームフィールドたちが主張する「構造言語学」である。それが言語に対する錯誤で有ったことは、今では殆んど常識だが、当時は、言葉は空気の波動(音声)を通じて行われるので、音が全てで有ると云った考えが有ったことは、理解できる積りである。でも言語の特質は何か?という問いに、迫れなかった。

ブルームフィールド流の構造言語学から出て来たのが後の生成文法である。チョムスキーの初期の著作「文法の構造」はその走りであるが、後の生成文法の考え方の源泉に成って居る。詰まり音を操る構造をどこに得るか、何処が発信元か、構文を論理的に構造的に分解して、その論理構造を抽象化して調べると云う方法論です。


◎ ーこれは、(重要な事なので)探求の為の問題設定をしてみょう。恐らく矛盾しているものや、錯誤も有るとは思う。


*- 言語とは他人との思惟の共有化を図るための外延である。

*- 内語とは言葉に翻訳される以前の原初的な言語化のプロセスである。

*ー 深い問いには、すでに正答への道が用意されている。

*- あなたの頭が混乱しているのは、問いのプロセスか、問い自体が間違っている為である。

*- やはり一つの言語と云うものの背景には、継続された歴史性と、生まれて習う個体性がある。

*- 言語(ことば)が無ければ思惟が出来ないという人は、本当の思考をしたことがない人だ。

*- 図形を使って図形を動かして思惟する人が居る、独創的な数学者は皆そんな方法を使っている筈だ。

*- 禅の瞑想は、自分の思念を注意深く反芻し、再度、頭の中で再現している、それもスローに。それも言葉の発話の際の、現象を観察している。

*- おそらく意味が出てくるのは、記憶の再現性が確立されてからだ。

*- 自分とは何であろうか?、たぶん内語的空間に自我は発生しない。

*- 内語は、発生過程のプログラムに入っている。すでに言葉の原基は神経系統の構成の中で形成されており、出生後の適切な外的刺激で、一つの言語を持つようになる。

*- 感覚器の統合として得た概念の重複が自我として認識される、その外延として言葉が設定されていると考えた方が、方向性としては現状に合致する。

*- およそ、人が物事を真に分かったと云えるのは、理解を別な表現で言い替えられる概念を得たときである。

*- 得た体験・経験を象徴化することで言葉が生まれる。で、その逆も成り立つ。我々は実際に体験・経験しなかった象徴から、言葉によって実体験・経験をしたかのように理解する。言葉の相互互換性とは、まさに、この点にこそある。逆が成り立つことで、人は実際に経験もしない経験を蓄積してきたと云える。文明とは、そのような蓄積の集合体である。

然しつくづく感じるのは、日本語のルーツと云う事もあるが、それ以上に遺伝子と言葉と数論の見えない繋がりであり、その背後に在って繋いでいる糸である。これ等の現象を深く知ることによって、これらを結ぶ糸が何なのかを察知する事は、生物の出現と生命の意味を知る新たな世界観を開くことに成ると思う。DNAは生物としての最も重要なデータであるし、また言葉は、生物の種の行動、思考、の外延として成り立っている。また数論は、これらとは一見関係のない概念分野の様にも見えるが、そうでは無く物事が進行する際の、規範は、数論の様な一見制限された秩序に則っていると思うからだ。この事の具体的な証拠はまだ無いのだが、空想だが遺伝子と言葉と数論は、もっと高次の概念の別な表現になっているのではないだろうか?この問題は中々簡単には解決できぬ問題でしょうが、未来を概観するプログラムとしては大変魅力のある問題の様に思えます。

将来、学際的な人間と文化の研究プログラムのの中で、関係を繋げている糸の実体と、背後に在って今は明らかでは無い未知のXに、先鋭的な人々の中で、より現実的な問題として取り上げられるだろうと思います。そして思う事は、確かに言葉は、声帯を震わせる事に依って発生する空気の振動であり、地上に上陸した生物は、空気の海で声帯を震わせ、空気の振動を利用して意志を伝える方法を確立した。勿論の事だが、それには聴覚機関の存在が不可欠なのであるが、ブルームフィールドが云う様に、確かに音声が言葉のすべての様に見えない事もない。だが、察知力のある人間ならば、言葉の本質は音ではなく、音を統合しているある種の能力か心という物に在る。つまり音とは、すでに在る意志を伝える道具に過ぎないと云う事なのだ。言葉とは、その音が全ててあるとした所に、ブルームフィールドの錯誤が有った。然し、アメリカ的な機能主義の伝統からすれば、現に有るもの、目耳で確認できるものが全てである。と云う考え方がすべてなのである。

だが、音声に乗せて発するところの「心と云う形態」の表現形式は、単なる音に収斂する物では無いのだ。であるからして、表題の件にある「声と音」の差異をここで論ずる必要が有る。声とは生命体の意志の外延である。音は、小滝の音、川風の音、松風の音、雫の音、と生命では無い物が発する音である。
ところが日本語はムシの声は声として当然の事であるが、川風や松風にも声として聴く事が有る。ここにあらゆる外国語とは異なる日本語の特徴がある。森羅万象のずべてに神々の声を聴く日本語の特徴は、この言語の特異な性質に在るのではないか?日本人に一神教が、嘘の如く感じるのは、この日本語と云う先人に感謝すべきコトバの特徴に由来している。
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