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自然把握のための分岐の概念

2018年11月11日 14時47分53秒 | 分岐現象の原則

 分岐現象の把握に付いては、以前にこのブログでも記述したらしいと思うが忘れた。それで、もう一度、初めから書いてみたい。分岐現象が自然記述の根本駅な基礎概念であることは間違いない。分岐過程を確率的な概念で定義できないか?と思う。

分岐は最も普遍的な概念である。宇宙の始まりも素粒子の生成消滅も分岐現象のひとつである。分岐現象で我々の普段に目にするのは、植物の成長であり、ガラスのビーカーの中に落としたインクの拡散で有り、みそ汁の中に描かれる湧き出しと下降の模様で有り、化学現象ではベルーソフジャボチンスキーの模様である。古くは寺田寅彦の割れ目も洋に研究の同様である。大昔1956頃に、万能計算機の概念で有名なチューリングが、生物の形態形成に付いて化学物質の電位勾配が形態の形成を誘導するものではないかと書いた事が有る。確かに、まともな想像だが、この時には未だ遺伝の情報体の構造は確定されて居なかった。現代の分子遺伝学では、この構造的情報体と、具体的な形態形成の対応が出来なくて、壁に突き当っている。詰まり分り易く言えば、この情報の概念と実体としても化学物質の挙動の対応が出来ないので先に進めない。こう云った場合は、もう一度、初歩、出だしの戻って考えなければならない。

すると思い出すのは模様の研究である。縞馬の模様、豹の模様、ホルスタイン牛の模様、生物には特徴的な模様が多々存在材する。これらの一般的な模様の原因を確率的に提起したい。此れを進めるには厳密さと大胆さの両方が必要だ。宇宙の始まりも素粒子の生成も元素の出現も、すべては分岐という一般現象の範疇には入る。「分岐学」を進める為には、先ず手始めとして、数学的な定義が可能ならば試みて見たい。その場合どのような分野を用いるか、わたしは確率論的な手法を使えないかと思う。特に条件有で使われるベイズの定理を使って出来ないか?と思うが、それで駄目なら他の方法を使う。そして分岐だけには他ならず、集合関係についても、この分岐と対応関係にある集結の現象もおなじ土俵に在る。集合状態について言えば、簡単には多体問題に成る。多体問題は古典的な力の関係で、代表的な例としては三体問題が挙げられる。二体問題までなら手計算でも簡単とは言わないが解ける。だが三体以上の多体問題に関しては、人間の能力ではお手上げだ。

あれほどアンリ・ポアンカレが苦労して解こうとして解けなかった問題が、電子計算機の発明と発展に因ってそれを解いた。勿論一つの解では無い。解は揺らいでいる。1970年代にカオスが発見されて、ポアンカレの努力が結局数学的な一つの厳密な解には行き着かず、解はゆらぎのパターンを示していた。同時期にフラクタルも発見されて、自然は人間が考えるほど単純では無いことを認識させられた。分岐と集合の自然現象は、まだまだ未知の領域で、これからどんな驚く事が待ち受けているか分らない未開の世界である。集合関係では核物理に於ける元素の存在領域に関する新知見が出て居る。天体の元素合成と関連して、周期律表の外側に広がる未知の元素の全体像を明らかにしなければならない。電子計算機の発達は、人間の直観的な予想をコンピュートする計算で、今まで複雑で概要さえ不明な分野を、力技で進める可能性が出て来た事だ。

所謂、計算実験が出来るのである。この効果は大きい、計算物理学と云う分野が成立する。それと同時に理論を進めてゆくアイデアも今まで以上に最重要課題となる。大掛かりな実験設備はもちろん必要だが、それには莫大な資金が掛るのだ。例えば素粒子物理学の実験設備は、莫大な資金を必要とすると同時に、半径20キロメートルの加速リング状の設備で実験を行う。その様な土地と資金は確保に困難な事だが、電子計算機では、3次元の仮想空間上で莫大な粒子を使い、仮想の実験が出来る。この事が、数学も物理も進歩させた。より複雑な現象を再現するには、計算速度の速い計算機が要る。

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こどもの頃の思い出、「歳を取るとはなんだろうか?」

2017年11月17日 21時41分51秒 | 分岐現象の原則

 誰しも子供の頃の思い出を記憶の底にもっている。私は子供の頃に「よく泣いた」らしい、らしいと云うのは、自分に明確な記憶は無いのだが、しかし、母はわたしを見て「カラスの鳴かない日は有るが、おまえの泣かない日はない」と言ったものである。悲しいことでもないのに、よく泣いたのだろう。子供の頃の一日の、私の目からは、今の私の何年分もの涙が出た事になる。なぜそんなにも泣いたのだろう?。コトバが上手く話せないので、あんなに泣いたのだろうか?。どうも、そうでもないらしい、分って居て母に甘えて泣いた事もある。光が眩しく青く点滅し、世界は奇妙さに溢れて居た。なぜ泣くのかについて、母の子宮より出る事の、不安から泣くのだと云う事が言われたりする。そう、確かに我々生き物は生殖細胞の連続性で時代を継いでいるのだ。ドイツの生物学者ヘッケルは、生物は、「個体発生」の過程で「系統発生」を繰り返すということを主張した。一つの卵細胞が精巣細胞と合体して発生が始まり、卵割が進み、やがて形が形成される。神経網、消化器、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、脳、生存形など諸々の機能の上に、我々が物理的に捉え様のない「心」という「ある状態」が形成する。

これこそ我々が云う「世界」なのだ。宇宙は闇なのだが、そこに或る時に光が現われる。それは物質反応の信号といえよう。精神の本質とは、本来は闇に近しいものであり、光は忌まわしい恐怖なのだが、生まれ出ずるに従い、逆になる。この長い個体発生のための系統発生は、その過程で神経網としての心を創り出す。それは「神秘の中の神秘」と云えるものである。いのちの全ては、その道を歩って来たのだが、それはうまれ落ちると共に忘れている。プラトンを出すまでも無く、それが記憶の本質と云える物だ。もちろん言葉も持たないが、こころや意識はある(こころと意識の区別は難しいが)。この辺の原初的が存在と意識の接点は、むかしの原始仏教以前の、六師外道と言われた人々が謂わば瞑想によって詳しく分析している。「唯識とか」「中観とか」「瑜伽とか」言われる深層心理分析と言うべきものだ。本来、現象と認識を、分り易く的確に話する事は、余程、その世界の遊んだ者でなくては難題だ。心は迷妄に陥り易い、ゆえに論理学や深層心理、他にも数学全般や理論物理学全体(熱力学、統計力学、量子力学、素粒子論、非平衡熱力学、カオス、ect…)、生化学、薬理学、分子遺伝学、形態発生学、言語学、などの全体的識見がその手法裏付けとして必要だ。

 大昔の心理分析の手法が、現代的な問いかけに何処まで通用するか疑問だが、反対に古代の原始仏教の瞑想者が行った様な心理分析は、現代に於いては、まったく遣る人が居ない。時折、心理分析家が遣ったり、寺の坊主が禅の瞑想の中で遣ったりする。然しこの瞑想の方法が、全く胡散臭く、価値が本当に有るとは言い切れない面がある。子供は明らかに、何らかの記銘、記憶をもって生まれて来ると考えられる。おそらくは、いま直ぐには結論は出ないだろう。この問題は、今の流行りには成りえず、科学的(数量的)とは言えないからだ。

いまこの世界の在る者は、必ず歳を取り、そして人は生まれて来るし、死ぬわけで有り、このような範疇の問題には、人生の日々の、何時かに必ず出会う問題や事柄と成る。我々の意識はいつ措定され、この世界を認識する様に成ったのだろうか?。わたしは、人の意識にはC・ユングが云う様な、個人的な物とは異なる、生命史の次元での意識が根底に在り、わたしたちの、例えば日本人としての日常意識という物は、最も表層に在る意識で、我々がこの世を終えると共に、消えて仕舞う物だと云う気持ちも何処かに在る。それが正しいものかどうか?決定的には分らないのだが…。

 自我は果たして、消えてしまう物だろうか??これには、一言で答える事が出来ない。むかし読んだユングの自伝には、仏陀の弟子が、我々が死ぬと、今この意識は消えてしまうのでしょうか?、との問いに、(その意識を哲学風に現存在意識と呼んでも好いが)、仏陀は弟子の質問に直接答えず、それを知る事は、我々がこの現世を、意義深くいきる事には寄与するものではないだろう。と、答えたと書いて居る。結局の所、仏陀は弟子の問いに、イエスともノーとも云わなかった。多分、己と思っている自我の表層意識は、こころを構成する要素では在っても、不滅の根源的なものとは言い難い物なのではなかろうか。我々の心に関する知識は、所詮この程度の、こんなものでしかない。

一個の人を成り立たせている意識、或いはこころと呼ぶものは何なのだろう?。それは個体の死と共に消え去る物だろうか?

恐らく私たちが単純に、心と呼んでいる対象は言語的な次元での「記憶と反応」なのだ。だが真の心の実体は捉える事が出来ない程、もっと遠く深いものだ。多分この宇宙は計算機で出来ている(笑)。我々は所詮、表層意識の中に住んでいて、心の現象を捉えるには、もっと記憶を下がらなければならない。日常的意識では、その本質は深く把握できないからだ。眠りが一番好い、雑音が消えるからだ。これは現代のテーマ・課題と言うより未来の物だ。たぶん意識は地層の如く成り立ち、一番底の部分には、生命の初期の意識が宿っている。そして魚類になり、両生類に成り、爬虫類になり、哺乳類に成る。此れでは丸で段階的に意識は発展するのだという、Hegelの精神現象学の着想ではないか?Hegelの、その着想が、Rousseauなのか?Darwinなのかはわからないが、時代的に言えばDarwinではない。だが意識の発展の着想は、すでに我が国も空海の著作の中にも現れている。生命進化の意識の系譜、その様な物が我々の土台なのだ。そして生命も環境の所産である。

 歳を取るとは、こう云う事に思わず関心が高く成ることだ。死はごく身近にあり、世界認識は遠く、自分自身がその世界その物に成る。子供の頃を思い出したければ、「谷内六郎さんの絵」を見れば好い、あそこには日本人共通の、子供の頃の不安と夢の思いが詰まっている。不思議な懐かしい絵の数々だ、不思議なと云うのは、いつの間にか自分がその絵の中に入っていることに気が付くからだ。欲をかいても身に残る物は何もない。大切なのは思い出やよろこびの記憶なのだから。それもいつかは消える、宇宙の根源とは何なのだろう。我々は何かの把握できない必然性の下にその人生を生きている。心は中空に残る物か?残るとしたら、その存在時間は?

実際は、分らない事ダラケであり、真理は、考えや想像とはマルッキリ異なって居るかも知れない。この様な死後の意識の継続時間という物は、云わば科学の対象に成らない。それでミョウチキリンな宗教的妄想の独壇場となる訳である。しかし、そういう幼稚な妄想とは異なり、明らかに心の探究は、我々自身の存在の根源、生きている状態の起源の探究である。系統発生と個体発生の問題、卵から個体への形の変化と共振する心の形成へと、具体的な科学の手法を持って探求できると思う。それを発生の現象から求めた人物の一人に三木成夫がいる。三木の哲学が、科学的ではないと批判する者も居るが、本来の科学とは、出来上がった物では無く、人間の好奇心の手の届く限界まで広げる事に因って形成されてきたものなのだ。三木の考察は、そういう意味での心理発生学の第一歩なのである。遠い母の記憶を、今によみがえらせる機会が発生学にはある。将来この分野は最も重要な人間の知識となるだろうし、それは社会にも深い大きな影響を与えるものだ。

三木は「胎児の世界」を書いたとき、人間までの命の連鎖が魚まで遡れることを示した。然し、其れをもっと敷衍すると、無脊椎動物や、真核生物まで辿れる可能性は大きい。その過程で、精神とこころを通底するものがある。原初的な基本の心は少しも変って居ないが、体形の巨大化の変化により、いま現在、人間と言う生物が地球の主であるが、これは必然の結果と言うより、かなりの程度、偶然の結果なのだ。中生代は、巨大化した植物と又、巨大化した爬虫類の世界であった。食物連鎖により肉食竜が数の上では少数であるが連鎖の頂点に居た。しかし或る時、地球史に、極めて大きなインパクトを与える事態が出現した。今では、それが「火山活動」とも「小惑星の衝突」とも、言われている。そうした環境の大変化により巨大恐竜類は絶滅した。また、別な推測では極端な氷河期が来たことに因ると云う説もある。地球自体が雪で閉ざされた時代が有ると云う。地球環境は基本的に寒冷化と温暖化を繰り返しているが、長さの点では、断然に氷河期が基本なのである。温暖期とは、永い氷河期と氷河期の間のわずかな時期に過ぎない。

地球史では、その年代を固有生物の種の繁栄と絶滅を境としている。爬虫類の時代である中生代は恐竜が巨大化して、絶滅した時代である。3億年続いた中生代が終わると新生代が始まる。それは小型の恐竜から、環境に適応し変化した哺乳類の時代である。ネズミの様な小さな先祖から現代の人類は始まった。命の基本的仕事は、まず個体保存と、次に、子供を産む事であり、それが生物としての一番重要な仕事である。ネズミはその過程を経て、様々な環境に適応して生きて来た。地球上では生物の遺伝情報体である「DNA」の変化が自動的に起こる。「遺伝子浮動」による「分子進化」である。地球と云う惑星の上の大自然の現象と適応の意味を考えた場合、この「分子進化説」は面白く、多くの想像を掻き立てる。地球環境に小惑星衝突の様な、根源的な破滅の事態が無く、このまま数億年続くならば、地球の主はどんな生物が成っている事だろう。その生物が、我々人類の末裔なのか?それとも別な系統の生物の末裔なのか?は、今の所は分らない。しかし、その生物は確実に、今この現在にどこかに存在していると云えよう。

 歳を取るとは、必然性を信ずることが出来るように成ることだ。頑なに生きることなく、強迫観念に惑わされることもなく、生の始まりと生の終わりを柔らかに受け入れる。それは惑星の上で起きる生命の流れの中に自分もあること、流れと一緒に成ることだ、その流れ自体に成ることだ。星の時間に比べて我々の時間はごく短いのだ。歳を取る事で、益々、心の軛から自由に成ること、それが禅の悟りに近いものだし、釈尊の言葉にも「他人に頼るな、権威に頼るな、自分自身の中にこそ宿る法(ダルマ)を導きの光として、犀の様にひとり行け」と。かなり、突き放した言い方だが、それは、「もう私なんかに頼るなよ、貴方はこの闇の中でも、十分にひとりで歩いて行けるよ」。という応援のコトバでもある様です。


 人は、ただ一人だけではよく生きられない、この世ではもう二度と会えない人であっても、ただアノひと一人は、いつも自分を理解して呉れていた。そう云う隣人が人間には必ず必要なのだ。人生は人との出会いでも有ろう。そんな人を探すための永い旅だ…。きわめて風変わりで、奇妙な数学者であった岡潔は、過って、「人は出来るなら道端に咲く菫のように、誰が見ていようと、見ていまいと、己の中心に在る真如の命ずるが儘に咲き、ヒトならば是はと思った仕事を懸命にして生きる、そういう事が太陽系の自然の命ずる、究極の方向なのだ」、と謂う様なことを書いている。人は何の為に生まれて来て?、何の為に死ぬのか?、おそよ、その答えは、この殆んど言葉を絶する星雲が命じているのだろう。そして岡潔の風変わりな言葉の中に燦然と輝いているもの、これこそ命の存在の意味に関する至言であろう。

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