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旧精神科医療は思想警察なのか?

【常識と真実は違う】やりたくもない勉強をして時間を無駄にするくらいなら、高校、大学は二部、夜間で十分だという理由

2019年02月08日 | 子育て論

「授業中に寝る」

「予習をやってこない」

「復習してこない」

「無断欠席、遅刻をする」

日本の教育現場においてこういった生徒はごまんといると思います。

さて、視点を社会人、サラリーマンに切り替えて見てみましょう。

「授業中に寝る」⇒「勤務時間中に寝る」(休憩時間の仮眠は除く)

「予習をやってこない」⇒「仕事の準備をしない」

「復習してこない」⇒「同じミスを何度も繰り返す」

「無断欠席、遅刻をする」⇒「打ち合わせ、仕事の予定、アポイントをすっぽかす」

 

なぜ、日本の学校、教育現場では上記のようなことが罷り通ってしまうのでしょうか?

思い出してください。

高校の授業内容を。

そして、大学入試をされた方は、受験勉強内容を。

正直、それらは役立っていると思いますか?

鮮明に思い出して、話すことができますか?教えることができますか?

 

きっと大半の人はできないと思います。

私が以前、家庭教育のバイトをしていた時、

「先生、どうして勉強(受験勉強)なんてしなくちゃいけないの?」

「先生、どうして高校、大学なんか行かなくちゃいけないの?」

と質問された時がありました。

その時私は「学歴は職業選択の幅が広がるから、勉強しているんだよ」

と曖昧な答えを返していました。

 

高校、大学に行って、「高卒認定」「学士認定」資格を得て、本当に職業選択の幅は広がるでしょうか?

学士を持っていないとできない職業なんて、医師、獣医師、薬剤師くらいなものじゃないでしょうか?(他にもあれば教えてください。)

これらの仕事は法律でそううたってあります。

ということは、学士、つまり「大学卒業しなくてはならないような仕事を職業にしたい」と考える人以外は、「大学に行く必要がない」つまり「大学入試のための受験勉強なんてする必要はない」ということになります。

 

高校で学ぶ内容は役に立たないと感じるのは、丸暗記だからです。

おおよそ世の中で使えない内容の事ばかりを学習させられるため、「丸暗記」になってしまう。

つまり、世の中で使えないことを機械的に暗記させられて、暗記力大会をさせられるのが、「高校の学習内容」であり「大学入試試験」なのです。

高校での学習内容を全て使って仕事をしている職業なんて、高校の教諭か塾会社、教材開発出版社くらいなものじゃないでしょうか?

高校を卒業して10年も経てばほぼ全て忘れてしまっていると思います。

 

つまり、私たちは義務教育以降は「いかに無駄なことを暗記させられ、いかに無駄な時間を過ごしているのか」ということを知りません。

それはなぜかと言うと、

「高校は進学して当たり前。義務教育だけで、高校すら卒業していない人間はアホ」

「今時、大学くらい卒業していないとまともな仕事につけないよ。」

「お隣の旦那さん、高卒だから年収が400万円以上いかないんだって」

というような「常識」がこの日本ではまかり通っています。

これらは本当に真実なのでしょうか?

いくつかの記事を参考にこれらのこを紐解いていくことにしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・(高卒と大卒はどっちがいいのか?収入とか幸福度とかで比較する 2016/3/12)

■たしかに給料は大卒がいい
会社の給料ということに限定すれば、高卒と大卒では大卒の方がいいです。古い年功序列型の企業であれば、その傾向は顕著です。

当然と言われれば当然です。求められる責任が違ってくるからです。大卒の方がアカデミックな専門技能を求められることが多いし、マネジメント能力が求められることが多い。



求められる責任が違うということは、そもそも仕事が違ってくるということです。なので、給料は大卒の方がいいかもしれませんが、求められていることが違うのに、給料を比較するということが、そもそもおかしい気がします。

■生きづらいのは大卒の方
これは個人的な印象なのですが、働いていて生きづらいような感じがするのは大卒の方です。むしろ高卒の方がストレスなく仕事しているような気がします。見ていて嫉妬するほどに。これはなぜかというと、以下のようなことが考えられます。

・そもそも求められる仕事や責任が違う

 

・同じ会社内では大卒というだけで、給料が高いというように見られる

 

・会社の仕事に向いていないのに責任が求められる

つまり、大卒の方が、会社員の向き不向きをはっきりと自覚しやすい環境にあると感じます。それゆえに、向いていない仕事をしているとき、その息苦しさがグロテスクなほど露骨に出てくるのです。

世間体や給料を気にするのであれば、高卒より大卒の方がいいでしょうが、その代償はかなり大きいような気がします。

■フリーランスでは関係ない
世の中には会社員に向いていない人も、絶対数として多いわけで、将来独立したいと感じている人も多いです。自分もそのなかの1人です。

そうなってくると、もはや高卒とか大卒とかは関係なくなります。

「なぜ、この人たちは金持ちになったのか」(トマス・J・スタンリー著、日経ビジネス文庫)を読むと、いかに高学歴と成功が関係ないかが繰り返し書かれていますし、他の自己啓発書でも、学歴と成功がいかに関係ないかが書かれています。

特にフリーランスになれば、いかに利益を得られるかで収入は決まってきます。大卒だからってアフィリエイトの報酬が上がるとか、コンサルの単価が上がるとか、そんなことはありえません。


別記事で、いかに高学歴と成功が関係ないか、高学歴が成功の弊害となりやすいかについては、別記事で詳しく書いていきたいと思います。

■結局幸福度が高いのは?
ここまでまとめると、大卒会社員は若干給料は高いかもしれないが、精神的なリスクが高いこと、フリーランスではどちらも変わらないということになります。

大卒だからって得られるのは、専門技能の習得です。それ以上でもそれ以外でもないのです。どんなに難しい方程式を解いたりしても、実世界では役立たないことも多いです。



高学歴の方が虚栄心を満たせたりすることもありますが、大人になってからわかるように、誰もその人の出身大学なんて興味ありません。

今どき合コンで学歴で近づいていくる女子なんていないでしょう。いるかもしれませんが、そんな女とは結婚したくないですね。間違いなく後々苦労するので。

トータルで考えれば、収入面でも大卒の方が良いというのはいささか疑問です。そういうことを訴える人は、会社を辞める気はないのでしょうか?大きな理由なく独立思想のない人とは、極力付き合いたくないものです。

幸福度に関しては、もはや高卒も大卒も変わらないのです。大卒でも浪費家なら経済的自由は得られません。そもそも、高卒、大卒、どっちがいい?という質問じたいが意味ないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

この記事では

『「なぜ、この人たちは金持ちになったのか」(トマス・J・スタンリー著、日経ビジネス文庫)を読むと、いかに高学歴と成功が関係ないかが繰り返し書かれていますし、他の自己啓発書でも、学歴と成功がいかに関係ないかが書かれています。』

と述べていますが、ここが真実かもしれません。

学歴とは、「1000円の時計か100万円する時計どちらに価値があるか?」という話をしているだけです。

「そりゃ100万円する腕時計のほうが価値があるよ。デザインも洗練されていてカッコイイし、ちょっとした会議やレセプションパーティ、同窓会などでも堂々とつけていけるしね」

と答える人がいるかもしれません。

「1、000円のバッグか30万円のブランドバッグどっちがいい?」という話にも似ていますね。

「有名スターやモデルも使っていてかわいいし、友達も使っている。1000円のバッグはダサい。人前では使えない」

という声が聞こえてきそうですね。

しかし、「時計の機能とは”時間を知ることができること”」であり「カバンの機能とは”荷物を安全に運べること”」ではないでしょうか?

機能美は別としても、時計もカバンも原価はせいぜい、500円くらいです。

これらのものは、実際の価値よりも「高い」と信じているだけであってその価値はありません。

ただ、それらの価値を「常識(多数決)」として信じている人達の間で「価値があると思ってもらえる」と考えているため、実際の物の価値と大きく乖離していても大金をはたいてでも手に入れようとする、さらに新しいデザインや新しいメーカー商品を有名人、芸能人、スポーツ選手が使用していれば「また欲しくなってしまう」のではないでしょうか?

 

学歴も同じようなことが言えると思います。

上記のブログ記事から、「学歴というのはその人間の実力には比例しない」と書かれていますが、実際に私が社会で体験したことを書いていきます。

実際、私が警察官として勤務していたころは、警視、警視正クラスで大卒の割合は10%以下でした。

本部長、警務部長クラス、いわゆる警察官僚、キャリア組だけが有名大学(旧帝国大学)卒の学歴があっただけで、人事の流れを見ていても、地方の県警に赴任してくるようなキャリア警察は、警察庁長官にまで登り詰めることができる人はごくわずかだと言えます。

警察官時代、大半が高卒の上司ばかりだったのですが、大卒の係長(警部補)や主任(巡査部長)がとりわけ優秀だったか?と聞かれるとそうではなく、仕事のでき、不出来に学歴は関係ないということは論より証拠であります。

むしろ警察官という職業は「大卒がすべき仕事ではない」と直感的に感じましたし、実際勤務してみてもそう思いました。

大学で4年間費やすよりも、高卒で4年間早く現場に出て仕事の経験を積んだ方が、よっぽど「立派な警察官になれる」と上司、先輩を見ていて感じたからです。

(「立派な警察官≠立派な人間」ですから注意が必要ですけど。)

警察として立派な人というのは、実社会では使い物にならない人が多い。

「警察の仕事しかできなくなってしまう」のが本音だと思います。

有名大学の法学部を卒業していた先輩や同期生もいましたが、「大学レベルの法律知識では到底、現場の実務では使えない」と毎回話していました。

つまり、現場に出て法律の実際の使い方を一から学ぶことになるのです。

「知っているのとできるのでは違う」のです。

ですから、司法試験を通過できるような頭脳を持っていないと、法学部学士程度の知識では公務員採用試験の勉強程度にしかならないということになります。

ですから、「公務員、警察官に学歴、一般教養は必要ない」と感じてしまいますので、中卒、高卒で十分な仕事なのです。

警察時代の上司に有名大学を卒業した方がいましたが、警察官としては優秀ではありませんでした。

なぜかと言うと「要領ばかりよくて、怠け者で無責任」に私には映ったからです。

実際に捜査書類は乱雑であったし、仕事の丁寧さの微塵もなかった。

何より「嫌々仕事をしているなぁ」と感じたからです。

この時も「やっぱり警察は大卒じゃないほうがいいなぁ」と感じました。

続いて、キャリアパスというものを見ていきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・(大卒の13%が不安定雇用)

文部科学省「学校基本調査(2017年)」によると、2017年5月1日現在、直前の3月に大学を卒業した約56万人の中で、「正規の職員等でない者」「一時的な仕事に就いた者」「進学も就職もしていない者」の合計は約7万人もいます。安定的な雇用に就いていない者の割合は約12.6%。

不安定な雇用にはフリーターも含まれます。 フリーターとは、15~34歳の若者(学生と主婦を除く)のうち、パート・アルバイト・派遣等で正社員でない人や、働く意志があるのに無職の人のことを指します。新卒時にフリーターだった人の半数以上はその後もフリーターを続ける、といわれています。

ちなみに、パート・アルバイトの場合、年収は200万円未満が多く、年齢層が上がっても賃金は20代前半からほぼ横ばいです。仮に200万円で計算しても、200万円×38年=7800万円と、生涯賃金は1億円にも満たなくなります。大卒の男性が、正社員で働く場合と比べ2億円以上の差になります。

フリーターから起業家やアーティスト、芸人になったり、資格を取って独立・起業し、大逆転することもあるかも知れません。決してネガティブなものだけではないですが、大逆転の可能性は決して大きくはないでしょう。

目的なく安易にフリーターの道を選ぶことは、親不孝にもなりかねません。親も、正社員として就職する、そうでなくても安定した生業をもつまで、見届けなくてはならないようです。

はじめにキャリアプランありきの時代
あくまでも現時点の傾向といえますが、学歴を問わず大企業に就職し、勤めあげることが生涯年収を上げることになります。しかし、今どきは転職も当然な時代で、同じ会社で勤めあげること自体が珍しいこと。転職をしても、スキルアップ・収入アップにつながる転職をすることで、生涯年収を維持できるのだと思います。

学歴が就職のパスポートになった時代はすでに終わっているといえそうです。

良い大学・大学院を出ればいいという時代ではなく、もっといえば、どんな仕事をするのかを見据えたキャリアプランを、中学・高校時代にある程度固めて、そのための手段として進学をする、という順番で考える時代なのかもしれません。

本当にやりたいことを早くに見つけ、最短で進めるようにサポートすることが、親の役割になりつつあるのかもしれませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

 

大卒でもフリーターが13%いるということは、「大卒=就職が有利」とは関係ないかもしれませんね。

ちなみに、高校や大学に行っても、友人や教員から影響を受けて将来の職業選択が広がったり、考え方が変わるという機会は少ないです。

それは何故か?

教員、教諭と呼ばれる「人を育て、導く職種」につく人達自身が教員養成課程を修了し教員採用試験さえ合格すれば

「人生経験が乏しくても職につける」

「人生の目的や人間はどのように生きればいいかという人の道を知らなくても職に就ける」

からです。

以下の記事を見ていきましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・(「世間知らず」の日本の教師に進路指導ができるのか 諸外国と比較すると日本の教員の社会人経験の少なさは際立っている 2016年1月19日(火)16時00分 舞田敏彦(教育社会学者)


陸の孤島 日本では教職以外の勤務経験、いわゆる社会人経験が皆無の教員が大半を占めている 

 教師は「世間知らず」、とよく言われる。大学まで学校で学び、新卒で教員に採用されてからもずっと学校で働くことになれば、確かに学校以外の社会は経験上知らないということになる。教育の使命とは、社会が求める人材を育成すること(社会化)にもあるのだから、それを担う教員が社会を知らないというのは、いささか心もとない。

 そこで最近では、教員採用試験で社会人特別選考枠が設けられたり、教員が対象の社会体験研修が組まれて民間企業などに派遣されたりしている。2014年度の公立学校の教員採用試験では、採用者の5.3%が民間企業などの経験者となっている(文部科学省調べ)。

 いかにも少ない気がするが、諸外国では社会人経験のある教員の割合はどれくらいあるのか。経済協力開発機構(OECD)が2013年に実施した『国際教員指導環境調査(TALIS2013)』では、各国の中学校教員を対象に、教育職(教職、教育委員会勤務など)以外の勤務経験を調査している。<図1>は、主要国の回答分布をグラフにしたものだ(ドイツは調査に回答していない)。このグラフでは、教育職以外の勤務期間を社会人経験とみなしている。

 日本では、教員の8割が社会人経験ゼロだ。韓国もまったく同じような分布になっている。

 しかし欧米諸国の調査結果はかなり違う。社会人経験のある教員が多い。アメリカでは社会人経験ありの教員が8割を占め、3人に1人が10年以上の社会人経験がある。生徒に対する進路指導も、実社会の経験に裏打ちされた、リアリティのあるものが期待できる。

 各国別に教員の社会人経験の平均年数を出すと、日本が0.8年、韓国が0.7年、アメリカが8.0年、イギリスが5.3年、フランスが1.6年、スウェーデンが5.5年となっている。

日本と韓国は、欧米諸国にくらべて格段に短い。ちなみに、教員よりも社会人の経験年数が長いケースの割合を出すと日本は3.2%しかいないが、アメリカでは32.4%もいる。<図2>は、上記の2つの指標のマトリクス上に、調査対象の32カ国を配置したグラフだ。

 右上には、アメリカとカナダが位置している。北米では,社会人経験のある教員が多い。中南米のメキシコとブラジル、その他オーストラリア、イギリスもこのグループだ。対極の左下には、日本と韓国、マレーシア、それにフランスとポルトガルもこのグループに属している。学校しか知らない教員が多い国、ということになる。

 日本では、学校とそれ以外の社会の間に深い溝ができている。アメリカの哲学者デューイの言葉を借りれば、学校が「陸の孤島」になっている。


 こうした現状は、変えていくべきだろう。最近、生徒の職場体験学習やインターンシップを実施したり、地域住民の意向を学校運営に反映させたり(学校運営協議会制度)する取り組みが進んでいるが、教員採用の門戸を社会人にもっと開放するべきではないだろうか。

 社会人経験のある教員とそうでない教員をくらべると、職業への満足度や、職務上の有能観(授業をうまく進められているかといった自己評価)は前者のほうが高い、という調査結果が出ている。進路指導や職業指導といった分野でのパフォーマンスの差はかなり大きいのではないかと推測される。そういった実務上の比較研究も、今後の重要な課題になるだろう。

<資料:OECD『国際教員指導環境調査(TALIS 2013)』>

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

 

これはあくまでも小中高の教員のことを指しているように書かれた内容ですが、「大学の教員」つまり大学教授、大学教員がこれまた困った人達の集まりだと言われています。


・・・・・・・・・・・・・・・(大学の先生は非常識、という常識|日々是口実‐136 カテゴリ:日々是口実2012 hibikore)


大学関係の案内やいろいろな出版物をよく制作してきた。

取材のためにスクールバスに乗っていると、教員と思しき人から話しかけられたことがある。

「先生はどこの学部の人?」

「いえ、私は取材で大学に来ているんです」

「そうですか」

で話をやめるかと思ったら、突然

「僕は大学の教員を20年もやっているんだけど、給料はこんなに少ないんですよ。嘘だと思ったらこれ、見てくださいよ」

と頼みもしないのに給与明細を見せてくれるのだ。見ず知らずの校外の人間にそういうことをするのは、どんな神経かと思った。


出版物のプレゼンテーションをしていたら、審査員の教授から「僕の顔はどこに載っているの?」と質問されたことがある。

「いえ、これはまだダミーの段階ですので」

というとつまらなそうに、

「ふーん」といった。その人の質問はそれだけだった。


取材のために研究室にお伺いしたら、本やいろいろなものがテーブルに積み上げてあって、壁に並んだ本棚は空っぽという先生がいた。

「お引越しですか」

「いや、そんな予定はないよ」

と平然としている。

こんなゴミ箱のような研究室で、何を研究しているのかと思った。


夜中に突然、「今から研究室に来てくれないか、文章直したいから」と電話をかけてくる人もいた。

もちろん、まともな先生も多いのだが、大学は、こういう「非常識な人」の比率はかなり高いのではないかと思う。


大学で研究者を志し、大学院、教員と一般社会をほとんど経験することなく研究生活を続けてきた先生の中には、社会常識を身に着けていない人が多いように思う。もちろん、気位の高い先生も多い。

大学事務局の人からも「この人は気を付けて」とか「機嫌が悪い時は出直したほうがいい」などとアドバイスももらう。

そんな中で、きちっと時間通りに取材に応じてくれて、資料もしっかり用意してくれるような先生が何人かいる。

そういう先生はたいてい一般企業の研究員あがりか、高校や中学の教員上がりだ。世の中を知っているのである。


最近マスコミを騒がしているiPS細胞をめぐる森口尚史氏の話では、実に多くの大学教員が、森口氏の論文に共著者として名前を連ねている。

「頼まれたから名前を貸した」「論文の内容はよく知らない」

などと答弁している。なかには専門外の人もいた。

読んでもいない論文に自分の名前が載っても平気なのだ。

大学の教員の評価は論文数で決まるから、むしろ歓迎すべきことなのかもしれない。

 

象牙の塔と言われ、優秀な頭脳が集まっているはずの大学ではあるが、内実はかなりおかしなことが行われているのではないかと思う。

山中教授のように優秀で常識もわきまえた人もいるだろうが、大学の中でしか通用しないような人も多いと思う。

たとえば企業の研究職などと一定期間トレードをするとか、人材交流をするとか、大学の教員を一時的にでも「社会の風」に当てる必要があるのではないかと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

いかがでしょうか?

こんなズレまくった人達から一体何を学ぶのでしょうか?

続いて、大学経営について見ていきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・(大学経営の、非常識なあきれた実態〜コスト意識なし、責任回避システム、形式主義…)

 7月11日付当サイト記事『特定大学へ1000億ばらまきに異論噴出…大学迷走の背景に潜む、旧態依然な経営の実態』で、安倍晋三政権の大学への予算ばらまきの実態や、それを受ける大学側の経営がいかにずさんであるかを紹介したところ、賛否両論の反応があったが、否定的な意見が多かったように感じた。中には「ばらまいて何が悪い」という反応すらあった。

 断っておくが、頑張っている大学もあるし、先生もいることは筆者も知っている。

筆者が知る限り、大学は悪貨が良貨を駆逐する世界で、優秀な先生はその他大勢の無能な先生から足を引っ張られる傾向にある。

そして無能な教員が安住できるように、改革などを行わない無能な教員を総長や学長に祭り上げる。

はっきり言ってしまえば、馬鹿が馬鹿を選んでいるのである。この結果、どう見ても日本の大学の経営や教員の質は全般的に下がっている。

 こうした大学に金を渡しても、結局はドブに捨てたことになるということが言いたかったのである。

特に今回のばらまきは、ベンチャーなどへの投資に自由に使ってよいという性格である。ベンチャーへの投資は新しい産業を起こしていくために重要であると考えるが、今の大学のガバナンスでは、到底まともな投資が行われるとは思えないのである。

 事実、記事掲載後も、東京大学分子細胞生物学研究所における43論文の不正認定や、京都府立医科大教授の臨床データ偽装などが立て続けに報道された。どれも研究者としての倫理感に問題があるようなものばかりだ。こうした不祥事は氷山の一角なのではないか。

 大学の「生態研究」で、とても面白い本があることを思い出した。2年前に出版された『キャリア妨害』(菊地達昭著、東京図書出版)という本だ。サブタイトルに「ある公立大学のキャリア支援室での経験」とあるが、読んでいけば、横浜市立大学であることがすぐにわかる。

 本書では、大学経営が戦略性に欠け、ずさんで、そればかりか人間性にも問題があるような教職員が跋扈し、その結果、本来ならば若い学生が自らのキャリアを磨く場であるはずの大学が、学生のキャリア育成を妨害する場と化している実態が赤裸々に描かれている。

「前例主義」「形式主義」「性悪説」「人件費はタダ」「コスト意識ゼロ」という5つのキーワードから、大学運営の実態がいかに腐敗し、堕落しているかについて具体的な事例やエピソードも豊富だ。

本書を読むと、大学の教職員集団は、規律や社会常識が働かない「無法地帯」「犯罪者集団」を構成しているのではないかと感じるほどだ。

 著者の菊地氏は、大手電機メーカー人事部門での経験が豊富で、海外勤務経験もある。

その経験を買われて横浜市立大学に転職し、キャリア支援の責任者として、学生の就職支援などキャリア開発に民間企業の発想を採り入れる改革を行ってきた。

 菊地氏は退職後に『キャリア妨害』を出版したが、横浜市大での約6年間を「エイリアンとの共同作業であった」と書いている。

企業の常識では信じられないことの連続でもあったということであろう。

読むと笑えるが、これが最高学府の実態かと思うと、ぞっとする面もある。「頭脳の棺桶」とは、まさにこのことだ。

『キャリア妨害』の中から、いくつかの事例を紹介する。まずは「多すぎる起案のハンコ」についてだ。開示を急ぐ就職情報の掲示でも起案で決裁を持ち回り、民間企業では課長一人が判断すればいいような案件でも、内容によっては12個のハンコをもらわなければならないケースもあった。ハンコが多い理由は、チェックを強化するのではなく、「責任回避のシステム」であった。

 あまりにも起案件数が多く、大勢でたらい回しにするため、重要な起案書が紛失するケースもあり、 eメールで「起案書が紛失して見当たりません。ご存じの方は誰々まで連絡ください」といった回覧が回るという。本来ならば担当者が持ち回りで決裁を受けるべき、経歴など個人情報が書かれたマル秘の非常勤講師採用の起案書が紛失したこともあるというから信じ難い。

●欠如するコスト意識
 外部講師に出すペットボトルの水の購入や、土曜日にボランティアで後輩に指導するOB・OGに出す昼食の出前にも見積もりを取らなければならない。近所のパン屋が三文判を押して見積書を持ってきたが、社印がないと認められないと経理部門が言いだした。パン屋は個人営業なので、社印がなくて困ってしまった。本質より手続きを重視する姿勢の影響で、かえって労力がかかった。税金で給料をもらっていながら「人件費はタダ」という発想の「賜物」なのだ。

 見積もりを取りながら、実際には高い買い物をさせられているケースもあった。

インターネット経由で勝ったほうが安い事務用品等でも、大学が求める3点セット「見積書、納品書、請求書」を整えてくれる業者から、高くても買うというのだ。出張のケースでも、正規料金より安いパック商品があっても、「それ以上に安い商品があったら住民に説明できない」というおかしな理由からパック商品の購入は認められなかった。

 実際、事務用品はいつも特定の1社から購入していたが、その業者がなぜか他社の見積書を一緒に持って来て、いつもこの業者の金額が一番安い額となっているのが不自然だったという。

そのため、同社が他社から白紙の見積書をもらい、金額を書きこんでいるのではないかとの疑惑が上がった。

 次回は、こうした大学のあきれた体質が、「架空発注事件」にまで発展した例を紹介する。
(文=井上久男/ジャーナリスト)

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

『読むと笑えるが、これが最高学府の実態かと思うと、ぞっとする面もある。「頭脳の棺桶」とは、まさにこのことだ。』

そして、「犯罪の温床」が大学経営の実態であると言えます。

私も含め、無知とは怖いもので

『税金で給料をもらっていながら「人件費はタダ」という発想の「賜物」なのだ。』

という人達が運営し働いている場所に、年間100万円以上の学費を投じて通うことを異常だと感じないのでしょうか?

実際、学問以外何も学ぶことはできません。

ですから、専門性の高いことを学ぶなら「通信課程、二部」で十分ですし、企業に入って企業内研究をするべきだと思います。

理系を卒業したからといって、企業も、いきなり研究職につけませんから、結局早く就職して社内経験、勤務経験を積んで、「研究部署に異動する」のが研究職希望の人には手っ取り早いのです。

加えて、このような腐った体質を持つ大学に集まる人達から教育されたところで人間性が高まり、幸せな人生が送れるかどうかの保障は全くと言っていいほどありません。

ですから

「大学卒だから人間性が高い」

「大学卒だから幸せに生きられる」

というわけではないのです。

大学の教員ですら「人生をどのように生きるべきか?」などということは知らない人ばかりで、大学の教員をクビになったら「社会では使い物にならない人」になってしまうようなひとだらけです。

 

どれだけ大学教育がインチキの塊であるかわかったと思います。

 

私たちの人生は「給料の良い、楽して稼げる仕事につくこと」なのでしょうか?

「楽して、大金を得て、贅沢したり豪遊することが幸せ」なのでしょうか?

周囲からチヤホヤされ羨ましがられる年収や職業についていても

「毎朝出勤したくない」と感じたり、

「嫌な上司がいて気が滅入る」

「仕事にやりがいがなく価値を見いだせない」

と思って生きることが果たして正しい人生の選択だったのでしょうか?

『月曜~金曜は我慢して、土日や休日をエンジョイする』つまり7分の2(約15%)しか人生が楽しくない生き方をするために、私たち人間はそれぞれ個性を持って生まれてきたのでしょうか?

人生が15%しか楽しくない生き方をするために、85%の時間を苦しむことが人生なのでしょうか?

「センター試験で750点以上とる」

「有名大学を卒業する」

「年収が1200万円ある」

「大企業で働いている」

そんなことで幸せを感じ続けることができるのでしょうか?

無理に決まっています。

それらの幸せは一時的なものでしかありません。

そんな生き方よりも

「言いたいことが言える、自分のしたいこと、得意な事を使って、自分にしかできないことを使って活躍し生活していくことができる」

これが人生の喜びであり、人生の目的なのではないでしょうか?

それこそ、「明日死ぬかもしれない」と思って生きた時、幸せを感じながら日々生きていられる道を選択できてなければ、「死んでも死にきれない」と思いませんか?

「お金や名誉や権力なんかより、毎日笑顔で喜びに満ち溢れた人生を送りたい」

これが本音であり、人生の目的ではないかと思います。

どうすれば、「幸せな人生を生きることができるのか?」その方法について、学歴や年収や結婚や家族は教えてくれません。

(人生の成功について知りたい方は「こちら」で学んでください。)

 

子育ての究極の目的は、「子供に幸せな人生を歩んでもらうこと」なのに、親自身が15%しか幸せ送っていなければ、子供はそれ以下の人生しか歩めません。

是非、幸せな人生とは何か?求めて生きてみてはいかがでしょうか?

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