今回の記事は歌舞伎の勉強をさわりだけする内容となります。
結論として、
市川海老蔵は千葉県の成田山新勝寺にお参りに行きます。
このお寺には、真言密教の不動明王が本尊として祭られており、不動明王を中国から日本にもたらしたのは、空海でした。
(歌舞伎の演目にと「空海」「橘逸勢(たちばなのはやなり)」が出てきます。)
空海は、嵯峨天皇から見初められ、真言宗のお寺は現在でも仏教の中でもあがめられています。
海老蔵の先祖の、市川團十郎は歌舞伎十八番で「助六」という「荒事」で「任侠=ヤクザ」演目を行いますが、これが現在の「ヤクザ」演目に繋がりがあり、大うけしたそうです。(当時の任侠とは表向きは「強気をくじき、弱きを助ける」という痛快なキャラらしいですが…)
彼らが使う「歌舞伎十八番」とは何でしょうか?
・・・・・(歌舞伎十八番(かぶきじゅうはちばん)
天保年間に七代目市川團十郎(当時五代目市川海老蔵)が市川宗家のお家芸として選定した、18番の歌舞伎演目。当初は歌舞妓狂言組十八番(かぶき きょうげん くみ じゅうはちばん)といい、それを略して歌舞伎十八番といったが、後代になると略称の方がより広く一般に普及した。
十八番の演目は、いずれもかつて初代團十郎・二代目團十郎・四代目團十郎が特に得意とした荒事ということになっているが、そのなかには、すでに撰者の七代目團十郎の時代には内容がよくわからなくなってしまっていたものも含まれている。そうした演目は、いずれも明治以降に大幅な創作が加えられた上で「復活上演」されている。
十八番のなかで最も人気が高い(=上演回数が多い)のは『助六』『勧進帳』『暫』の三番。『助六』は原型となった演目の初演から100年近くも経った七代目團十郎の時代に現行の体裁に落ち着いたもの、『勧進帳』はその七代目自身が数年の歳月をかけて新たに書き下ろしたもの、『暫』に至っては明治の中頃になって九代目團十郎が現行の型を完成させたもので、これらはいずれも初代や二代目の團十郎とは関連性が希薄な、当時における事実上の新作といえるものである。
・・・・・・・(転載ここまで)
我々が普段何気なく使う「おはこ=十八番」はここから来ているのでしょうか?
18=6+6+6「悪魔の数字666」ですね…。
知っていたら使わないのにと思います。
それで、荒事の原型が「助六」となっています。
<荒事>
歌舞伎演目の助六とは何でしょうか?
・・・・・(助六)
京坂の助六はというと、江戸の幡随院長兵衛と並び称されるほどの侠客だったという。これが総角(あげまき)という名の京・嶋原の傾城と果たせぬ恋仲になり、大坂の千日寺で心中したのが延宝年間のことであるという。ただし詳細は伝わらず、したがって異説も多く、助六は侠客ではなく大坂の大店・萬屋(よろずや)の若旦那だったとする説、総角は大坂・新町の太夫だったとする説、そして事件も心中などではなく喧嘩で殺された助六の仇を気丈な総角が討ったものだとする説など、さまざまである。
助六寿司
稲荷寿司と海苔巻きを折り詰めた寿司のことを「助六寿司」という。これは助六の愛人・揚巻の名が稲荷の「油揚」と「巻寿司」に通じることを洒落た命名である。
・・・・・・(転載ここまで)
助六寿司のルーツも荒事にあるとは、、、、。
「京坂の助六はというと、江戸の幡随院長兵衛と並び称されるほどの侠客だったという。」とあります。
・・・・・・(幡随院長兵衛ばんずいいん ちょうべえ)
幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。
元和8年(1622年)、誕生。唐津藩の武士・塚本伊織の一子とされているが諸説あり、滅亡した波多氏の旧家臣の子であるとする説[1]や、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職・向導の実弟または幡随院の門守の子という説[2]もある。
父の死後、向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され殺害されたという。
芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺されたとしている
・・・・・・・・・(転載ここまで)
いかがでしょうか?
幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)といい助六といい、暴力団の元祖(任侠)の古典だと言ってしまっても過言ではありません。
ヤクザの元祖を礼賛をした「成田屋」の市川團十郎が現在でも格付けが高い、芸能界でもチヤホヤされていると考えられるというのは、芸能界を取り仕切る暴力団としては、当たり前のことですよね?
つまり、「伝統芸能」とは「暴力団の歴史を語り継ぐひとたち」のことだと解釈できます。
それでは、市川海老蔵と成田山新勝寺について見ていきましょう。
・・・・・・・・(2018.4.20 22:54 海老蔵さん親子お練り、成田山1080年記念)
成田山(千葉県成田市)の開山1080年を記念して、「成田屋」の屋号を名乗る歌舞伎俳優、市川海老蔵さん(40)が20日、長男の勸玄(かんげん)ちゃん(5)と新勝寺の参道でお練り行列をした。
海老蔵さんは約2万人の見物客に手を振って応え、「新勝寺と成田屋は350年の付き合いだが、父、私、せがれの代まで末永く応援よろしくお願いします」とあいさつ。勸玄ちゃんは「歌舞伎の道に進みたいと思います」と元気に話した。
また、海老蔵さんは昨年6月に乳がんのため34歳で亡くなった妻でフリーアナウンサー、小林麻央さんのお別れの会を、非公開で開く意向を明らかにした。
・・・・・・・・(転載ここまで)
「350年の付き合い」と発言していますね。
では、成田山新勝寺を見てみましょう。
・・・・・・・(成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)
、日本の千葉県成田市にある真言宗智山派の寺院であり、同派の大本山のひとつである。山号を成田山、寺号を新勝寺というが、山号を省略せずに呼ぶのが通常で、寺号のみで呼ぶことは少なく、むしろ山号のみで呼ぶことが珍しくない。本尊は不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動、お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山は平安時代中期にあたる天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋は葉牡丹。
参詣者数において関東地方屈指の寺である。初詣の参拝客数は、2006年に約275万人、2007年に約290万人を数えており、神社仏閣としては、明治神宮に次ぐ全国第2位(千葉県内第1位)、仏閣に限れば全国第1位である。現在ではおおむねこの順位を維持しているが、以前は神社仏閣として川崎大師に次ぐ全国第3位、仏閣に限れば全国第2位であった。今も昔も加持祈祷のために訪れる人が多いことでも知られる。
歴史
成田山新勝寺の縁起は、平安時代中期、東国で起こった平将門の乱が朝廷を悩ませていた最中の天慶2年(939年)、将門調伏祈願の密勅を朱雀天皇より賜った寛朝僧正が総国へ下向したことに始まる。寛朝は、京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて総国へ下り、明くる天慶3年(940年)、難波津から海路で上総国に入って尾垂浜から上陸すると、陸路で下総国公津ヶ原へ入り、この地にて朝敵調伏を旨とする不動護摩供を奉修した。ややあって、寒の戻りの風に乗った一本の流れ矢が将門を射て乱を見事に“鎮めた”のは歴史の知るところである。
(※ これが春一番というやつです)
天皇は、不動明王の法力と勲業いさおしに歓喜した。また、摩訶不思議なことに寛朝が帰京しようとしても不動明王像が現地を動こうとしないとの報せを受けて感動し、彼の地にて東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、寛朝に開山せしめ、神護新勝寺の寺号を下賜したという。
永禄年間(永禄9年〈1566年頃〉と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地といわれている。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。
江戸時代には、江戸(征夷大将軍の城下)でたびたび成田不動の「出開帳」(現代の語感でいえば、「秘宝特別出張公開」)が行われた。元禄16年(1703年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺となったが、塔頭寺院が1896年〈明治29年〉名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。
歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
(※ 初代市川團十郎がお祈りしたら、子どもが授かったというエピソードがあります)
明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年(昭和20年)の敗戦に至るまで、「成田市史年表」から拾い出すだけでも、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し、武運長久を祈願、お札を身につけている。 第18世住職・荒木照定は1928年(昭和3年)に新更会を設立、「成田町報」などを通じて、地域の民衆に対して、日本古来の伝統的思想の教化に積極的に努めた。1938年(昭和13年)には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納している。また、真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した。
(※明治時代は戦争神社でもあったのですね!)
・・・・・・・(転載ここまで)
開山は寛朝僧正がしたと書いてあります。
念仏の力で、当時関東一体で猛威を振るっていた平将門を神風(春一番)で討ち取ったというエピソードが、成田山新勝寺の創設の理由のようですね。
寛朝僧正は天皇家から出家した真言宗東密声明中興の祖です。
空海も「東密始祖」といわれています。
・・・・・(寛朝僧正)
寛朝(かんちょう、かんじょう[1]、916年(延喜16年) - 998年7月13日(長徳4年6月12日))は、平安時代中期の真言宗の僧。父は宇多天皇の皇子敦実親王。真言声明の第一人者でもあった。洛外・広沢池ほとりの遍照寺の住持であったことから「広沢僧正」「遍照寺僧正」とも呼ばれた。
926年(延長4年)祖父宇多法皇の下で出家し、948年(天暦2年)寛空から灌頂を受けた。967年(康保4年)仁和寺別当を経て、貞元2年(977年)6月権律師、同10月権少僧都・法務、11月東寺三長者・西寺別当に補任、加えて広沢房を御願寺として別当に補せられたため、年に六度の賀ありと言われ、986年(寛和2年)真言宗では初めて、また、日本では三番目の大僧正に至った。この間、円融天皇が受戒する際の戒和尚を勤めている。989年(永祚元年)10月26日円融天皇の命により広沢湖畔に遍照寺を建立した。この際の供養の記事が藤原実資の日記小右記に載っており、円融法皇を始めとして多くの公卿が参列したことが分かる。密教の事相・教相に詳しく「金剛界次第」「不動次第」などを著している。また「理趣経」読誦の音調を整備するなど声明に通じ、東密声明中興の祖とされる。
平将門が関東で反乱を起こした際には自ら関東に下向し祈祷をした。その時に祈祷した不動明王を本尊として創建されたのが「成田不動」で有名な成田山新勝寺である。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
初代団十郎と成田山の不動明王とのエピソードは以下の通りです。
・・・・・・・・・(江戸歌舞伎の第一人者である初代團十郎の願い)
歌舞伎の舞台に暫や鳴神に代表される荒事を取り入れ、人気を博した初代團十郎。しかし、跡継ぎに恵まれず、成田山の当時の本堂である薬師堂で一心に子授けを祈願します。すると見事、待望の長男を授かったのです。
お不動さまの御 利益りやくにむくいる父子で演じる「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」
初代團十郎が中村座で親子共演した「兵根元曽我」は、お不動さまへの祈願が成就して長男を得たことに感謝をあらわした舞台で、不動明王をテーマにした初めての歌舞伎でした。この舞台が大当たりしたことに感謝し、成田山に大神鏡を奉納しました。また、この共演を機に市川家は、「成田屋」の屋号を使うようになったのです。
成田山の江戸出開帳の始まり、喝采を浴びた「分身不動」
成田山が江戸深川で行った最初の出開帳と同時期に、初代が胎蔵界不動、二代目が金剛界不動を演じた「成田山分身不動」という歌舞伎が大変な人気となります。成田屋市川團十郎の深い帰依と、お不動さまの御霊験が江戸中に知れ渡った瞬間でありました。 「成田不動の申し子」と言われた二代目
二代目團十郎が、10歳で初舞台を踏み、子役の礎を作ります。父の死により、17歳の若さで團十郎を襲名。荒事から、助六のような和事まで見事に演じ、「成田不動の申し子」と賞賛されました。
成田山のお不動さまへ祈り、病の平癒を得る
父に劣らず深い不動尊信仰を持つ二代目は、團十郎を襲名した同年、成田山で断食修行をして芸の上達を祈願しました。また、眼病や難病にかかった時も、御本尊への祈願により平癒するという御霊験談が多くあります。
・・・・・・・・・(転載ここまで)
ここでやたらと出てくる「不動明王」について見ていきましょう。
簡単に説明すると、不動明王は、空海が唐(中国)から持ち込んだ神様です。
そのルーツはインドのシヴァ神です。(詳細はこちら)
では、彼が持ちこみ、現在でも真言宗で拝まれている「シヴァ神」とは一体どんな存在なのでしょうか?
・・・・・・(魔術のいけにえで5歳男児を斬首したインドの事件は、我々日本人と全く縁のない事件ではありませんでした。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます