私たち人間には、肉体と精神と霊が存在しています。
私たちは脳、つまり精神が命令した通りに肉体が行動します。
そして、その脳、つまり精神をコントロールしているのが、霊なのです。これを魂と表現することもできます。
言い換えれば、発想の源が霊であり魂なのです。
つまり、行動を変えるには、考え方を変える必要があり、考え方を変えるには、霊を成長させなけらばいけません。
悪い考え方が浮かぶのは、霊が汚れているからです。
霊が汚れていると、思考回路、考え方が利己的になり
認められたい、
偉くなりたい、
楽したい、
結果、快楽のため欲望を満たしたい
という罪の考えや気持ちでいっぱいにならます。
それが、行動となって表れます。
これらが全て罪であるということを私たちは生まれてこの方、誰からも教わって来ませんでした。
むしろ、
『正直者が馬鹿を見る』
『要領良く生きろ』
『必要悪だ』
『正しい事がしたければ、偉くなれ』
『勝てば官軍、負ければ賊軍』
などと悪魔側つまりメディアが発する情報の影響を何の疑いもなく信じ込まされてきました。
天国に入るためには、この肉体がある内に天国で生活するのに相応しい人間になっていなくてはいけません。
天国は、全く罪のない世界です。
この世の中は光と闇がありますが、天国には光しかありません。
つまり、心の中、精神の中に、嘘隠し事、やましい気持ちや考え、不道徳な考えが1ミリでもある状態で生きている事が『心の中に闇を抱えて生きている状態』であるのです。
つまり、裏表がある人は闇の中で生活はできても、光だけの世界では生活ができません。
仮に、闇を抱えている人が光だけの世界に入ると、闇の部分が消されてしまうため、残った光の部分だけの力で生活していかなくてはいけなくなるため、この地上で得てきた地位や権力や富や実績は全く使い物にならなくなり、それこそ精神崩壊を起こして毎日、地獄の様な苦しみを味わうことになります。
ですから、天国には当然入る事が出来ないのです。
私たちは、闇の力、これは罪の力と言い換えられ、これらの力で、この肉体の世の中、地球上で生活をしている部分があるのです。
そして、残念ながら、この世の中で権力を握っている人、力を持っている人達は、闇の力、悪魔の力でその座に居座っています。
ですから、私たちは闇の力を手に入れて、闇の世界で認められたい、名を残したい、実績を残したい、闇の勢力に認められたいと、闇の勢力が認めてくれる、考え方や行動をとり、闇の結果、負の結果を沢山得ることが幸せだと洗脳されて来ました。
闇の勢力は、この世において成功するために、本人の努力や才能プラス、何処かで罪を犯させることを仕組みます。
権力や富と言う名の成功という餌をばら撒き罪の誘惑をを置いておくのです。
ですから、この世の中では、罪を沢山犯した人がえらいという価値観であることに気付いて下さい。
彼らは人を騙し、人を酷使して、収奪し、自分達は贅沢三昧、怠惰な生活を送っています。
私たちは
『贅沢や楽をするために生きている』わけではありません。
『喜びや感謝、感激に満ちた日々を送るため』に生きて行きたいはずです。
しかし、就職や進学や勉強、スポーツなども
何処かで『認められる大金を手にするため、将来楽するため、人より贅沢するため』にやっていないでしょうか?
これが、罪の考え方なのです。
そして、一時的のそれらを得たとしても、より悪人になるために、罪を犯し続けない限り、それらの一時的な富や名誉は、一瞬のうちに奪い取られてしまい、深い絶望に落とし込まれるのです。
それがこの世の中の仕組みです。
この世の中の価値観、つまりサタンの価値観に沿って生きていても最終的に、肉体がなくなり、霊だけになった時、光の世界、天国には入れないため、
サタンのような霊を持っているため、生前この世の中で体験して来た浮き沈みのある苦しみの延長線上で生活して行くことになるだけです。真理、救いの無い終わりのない苦しみの中で彷徨い続けることになります。
つまり、肉体がなくなってから、天国に入れる人というのは、肉体がある内から、地上で天国を味わっており、肉体がなくなっても、その延長線上にある、光だけの世界で生活することができるという考え方です。
聖書には、天国に入る方法をこと細かく書いてあります。
イエスキリストを神様がこの世に使わせたのは、人類を救うためでした。
聖書を読んで何も感じない人というのは、心が汚れた人です。
悪を行うこと、罪を行うことに何の疑問も感じていない人です。
聖書を読むことで、
『何と自分は罪深い生き方をしてきたのか!』と涙を流すのが、人間の本来あるべき姿なのです。
ですから悩み深い人ほど、最後は聖書に辿り着き、救いの門を叩くのです。
ですが、残念ながら、世の中の教会に行っても、救われている人はいません。
牧師ですら、この世の権力や名誉、性欲や名誉欲に溺れているからです。
聖書の分厚さは、人間が救われるための知恵や方法が書かれているからです。
その知恵や方法は、罪を認めて悔い改め、罪のない清らかな状態になりなさい
と言っているのです。
本当に罪を嫌い、心の中に天国を作ることが救いの道であると書かれてます。
現に世の中は聖書を否定する、聖書と真逆の事ばかりを信じ込ませるために、メディアが必死に宣伝しています。
私たちは、苦しみの中から抜け出すために、酒やタバコ、セックス、不倫や風俗、車や財産、権力や富、社会的ステータスを必死に求めますが、それらは一時的なもので真の救いの道とは真逆なのです。
私たちは真理を求め、愛の道を歩むために、自分の中にある罪を探し出し、撲滅できるよう、日々成長していくしかありません。
それができるのは、肉体がある内なのです。
私たちは日々、罪との戦いです。
今日1日負けない様に必死に戦い抜くことが救いの道であると確信しています。
私たちは脳、つまり精神が命令した通りに肉体が行動します。
そして、その脳、つまり精神をコントロールしているのが、霊なのです。これを魂と表現することもできます。
言い換えれば、発想の源が霊であり魂なのです。
つまり、行動を変えるには、考え方を変える必要があり、考え方を変えるには、霊を成長させなけらばいけません。
悪い考え方が浮かぶのは、霊が汚れているからです。
霊が汚れていると、思考回路、考え方が利己的になり
認められたい、
偉くなりたい、
楽したい、
結果、快楽のため欲望を満たしたい
という罪の考えや気持ちでいっぱいにならます。
それが、行動となって表れます。
これらが全て罪であるということを私たちは生まれてこの方、誰からも教わって来ませんでした。
むしろ、
『正直者が馬鹿を見る』
『要領良く生きろ』
『必要悪だ』
『正しい事がしたければ、偉くなれ』
『勝てば官軍、負ければ賊軍』
などと悪魔側つまりメディアが発する情報の影響を何の疑いもなく信じ込まされてきました。
天国に入るためには、この肉体がある内に天国で生活するのに相応しい人間になっていなくてはいけません。
天国は、全く罪のない世界です。
この世の中は光と闇がありますが、天国には光しかありません。
つまり、心の中、精神の中に、嘘隠し事、やましい気持ちや考え、不道徳な考えが1ミリでもある状態で生きている事が『心の中に闇を抱えて生きている状態』であるのです。
つまり、裏表がある人は闇の中で生活はできても、光だけの世界では生活ができません。
仮に、闇を抱えている人が光だけの世界に入ると、闇の部分が消されてしまうため、残った光の部分だけの力で生活していかなくてはいけなくなるため、この地上で得てきた地位や権力や富や実績は全く使い物にならなくなり、それこそ精神崩壊を起こして毎日、地獄の様な苦しみを味わうことになります。
ですから、天国には当然入る事が出来ないのです。
私たちは、闇の力、これは罪の力と言い換えられ、これらの力で、この肉体の世の中、地球上で生活をしている部分があるのです。
そして、残念ながら、この世の中で権力を握っている人、力を持っている人達は、闇の力、悪魔の力でその座に居座っています。
ですから、私たちは闇の力を手に入れて、闇の世界で認められたい、名を残したい、実績を残したい、闇の勢力に認められたいと、闇の勢力が認めてくれる、考え方や行動をとり、闇の結果、負の結果を沢山得ることが幸せだと洗脳されて来ました。
闇の勢力は、この世において成功するために、本人の努力や才能プラス、何処かで罪を犯させることを仕組みます。
権力や富と言う名の成功という餌をばら撒き罪の誘惑をを置いておくのです。
ですから、この世の中では、罪を沢山犯した人がえらいという価値観であることに気付いて下さい。
彼らは人を騙し、人を酷使して、収奪し、自分達は贅沢三昧、怠惰な生活を送っています。
私たちは
『贅沢や楽をするために生きている』わけではありません。
『喜びや感謝、感激に満ちた日々を送るため』に生きて行きたいはずです。
しかし、就職や進学や勉強、スポーツなども
何処かで『認められる大金を手にするため、将来楽するため、人より贅沢するため』にやっていないでしょうか?
これが、罪の考え方なのです。
そして、一時的のそれらを得たとしても、より悪人になるために、罪を犯し続けない限り、それらの一時的な富や名誉は、一瞬のうちに奪い取られてしまい、深い絶望に落とし込まれるのです。
それがこの世の中の仕組みです。
この世の中の価値観、つまりサタンの価値観に沿って生きていても最終的に、肉体がなくなり、霊だけになった時、光の世界、天国には入れないため、
サタンのような霊を持っているため、生前この世の中で体験して来た浮き沈みのある苦しみの延長線上で生活して行くことになるだけです。真理、救いの無い終わりのない苦しみの中で彷徨い続けることになります。
つまり、肉体がなくなってから、天国に入れる人というのは、肉体がある内から、地上で天国を味わっており、肉体がなくなっても、その延長線上にある、光だけの世界で生活することができるという考え方です。
聖書には、天国に入る方法をこと細かく書いてあります。
イエスキリストを神様がこの世に使わせたのは、人類を救うためでした。
聖書を読んで何も感じない人というのは、心が汚れた人です。
悪を行うこと、罪を行うことに何の疑問も感じていない人です。
聖書を読むことで、
『何と自分は罪深い生き方をしてきたのか!』と涙を流すのが、人間の本来あるべき姿なのです。
ですから悩み深い人ほど、最後は聖書に辿り着き、救いの門を叩くのです。
ですが、残念ながら、世の中の教会に行っても、救われている人はいません。
牧師ですら、この世の権力や名誉、性欲や名誉欲に溺れているからです。
聖書の分厚さは、人間が救われるための知恵や方法が書かれているからです。
その知恵や方法は、罪を認めて悔い改め、罪のない清らかな状態になりなさい
と言っているのです。
本当に罪を嫌い、心の中に天国を作ることが救いの道であると書かれてます。
現に世の中は聖書を否定する、聖書と真逆の事ばかりを信じ込ませるために、メディアが必死に宣伝しています。
私たちは、苦しみの中から抜け出すために、酒やタバコ、セックス、不倫や風俗、車や財産、権力や富、社会的ステータスを必死に求めますが、それらは一時的なもので真の救いの道とは真逆なのです。
私たちは真理を求め、愛の道を歩むために、自分の中にある罪を探し出し、撲滅できるよう、日々成長していくしかありません。
それができるのは、肉体がある内なのです。
私たちは日々、罪との戦いです。
今日1日負けない様に必死に戦い抜くことが救いの道であると確信しています。
救いの道は狭いですね。
必死にもがき、苦しみ、努力している姿を神様はきっと見ておられると思いますよ。
今の苦しみは、神様が与えられた試練であり、この世の物に頼っても救われないと悟らせるためのものかもしれません。
神様に祈って、それでも生かされていることに感謝してみてください。
体調不良の原因は罪と深い関わりがあると思います。
自分の中の罪をひとつづつ探し出し、悔い改めることができるよう、神様に祈ってください。
私は祈り会の音声に合わせて賛美することで罪と決別できましたよ。
私もdaiさんの為に祈ります。
RAPTさんの有料記事も2月の時点で止まっていて前に進めていない状況です。
今まで人生で染みついてきた観念やらに惑わされてしまっているのかもしれないです・・・。
私の目標は昔から変わらず、健康になりたい。ただその1つだけを思っていました。
でもそれは肉体に執着しているのではないかと思ってしまい、呆けてしまって何も手につかない状況です。
そんな状況でゲームに依存し現実逃避をする事で漠然と生きてきたので、未だに脳がかつての染みついた習慣を蘇らせようと抵抗してきます。
早くそんな状況を脱して自分の本当にやるべきことを見つける事ができるようにしたいです。