<浪商高校のハンドボール部員「ひじ打ち」ラフプレーで波紋。インスタで「ぶっ殺す」発言も>
「スポーツ」が悪であるのか?をこれ以上説明する必要があるのでしょうか?
目的もなく、スポーツをしているためにこのようになってしまうのでしょう。
学生は「勉強せず進学するため」
コーチや教師は「仕事のため、お金のため」
にスポーツをしています。
「スポーツを通して体を鍛えて、強い精神力を身に着ける」
「強い精神力を身に着け、正義を貫けるよう、悪や誘惑に打ち勝つ」
これがスポーツの目的だと思います。
しかしスポーツをする人たちは「クリーンプレー」「ルール遵守」を
「ペナルティ、罰則を受けると不利になるから」という理由だけで守るだけです。
相手チーム、相手選手への敬意や感謝もへったくれもありません。
「スポーツに経済や打算、損得勘定などの悪い欲望が入ってしまっているから」
ではないでしょうか?
私たちはこの「肉体」をもらったのですから、「健全に維持」しなくてはいけません。
「ファッションで刺青を入れたり、ピアスを開けたり」することは自ら傷つける「リストカット」や「自称行為」と同じです。
また他人に危害を加える「暴力など」で相手を傷つけることも、私たちを創ってくださった作り主に対して許されることではありません。
当然そういう人にはいずれ、裁きがおこり、不幸が絶えません。
私たちは「他人を害することなく、思いやる心で生きること」を全てのことを通して学び、実践していかなくてはいけません。
残念ながら現在のスポーツは教育的側面がありませんし、「技術」や「試合結果」だけを追求しかしていないことが明るみに出始めています
ハンドボールはボディコンタクトが激しい「格闘技に近い球技」とも言われ、ドイツ発祥の球技です。
<シュートを阻止する選手>
高校生が意図的に試合中、肘打ちをするという暴力行為をする事件がありました。
どのような事件なのか見ていきましょう。
・・・・・・・・・・・・(浪商高校のハンドボール部員「ひじ打ち」ラフプレーで波紋。インスタで「ぶっ殺す」発言も 故意か、偶然か…。ハンドボール名門校が真っ向対立。ハフポスト日本版編集部)
大阪体育大学浪商高校ハンドボール部の選手が、試合相手の桃山学院高校の選手に対して、故意に「ひじ打ち」を入れていた疑惑が報じられて大きな波紋が広がっている。
なにがあったのか?
問題の試合は6月10日、大阪・堺市であった男子ハンドボール大会。インターハイへの出場を賭けた予選の決勝だった。
浪商高、桃山学院高とも全国大会に出場する強豪校。インターハイの常連でライバルだという。
試合時間は前半・後半。それぞれ30分。FNNによると、問題のプレーは試合終盤の後半13分に起こった。
浪商高の選手が桃山学院の選手の前にぴったりと付いた瞬間、浪商選手が体を右にひねった。すると、桃山学園の選手が背中から突然倒れた。浪商高の選手の「ひじ打ち」が、桃山学院の選手にあたった瞬間だ。
ひじ打ちを受けた選手は鳩尾(みぞおち)のあたりを押さえ、その場でうずくまってしまった。桃山学院側はファウルをアピールしたが、審判は別のファウルに対応中だった。そのため心配は「ひじ打ち」を見ておらず、ファウルはとられなかった。
試合は浪商高校が勝利し、全国大会出場を決めた。
Instagramで「ぶっ殺す」発言も
今回の「ひじ打ち」をめぐっては、試合前に浪商高の選手がラフプレーを予告するような動画をInstagramに投稿していたことが明らかになった。
7月4日放送のテレビ朝日「モーニングショー」によると、決勝戦の前日に浪商高のハンドボール部員はInstagramに投稿した動画で「ぶっ殺す」「やっちまいましょう」などと、犯行予告とも取れる内容を叫んでいた。
同番組によると、浪商高の部員がLINEのグループ会話で、被害を受けた桃山学院のエース選手の名前を挙げて「ぶっ殺す」などのメッセージをやりとりしていたという。
桃山学院は試合後、大阪高体連(ハンドボール専門部)に調査を依頼した。
大阪高体連は、事情聴取や映像の確認などの調査。その経緯と結果をホームページで報告した。
概要は以下のとおり。
桃山学院の選手にユニフォームを引っ張られていた浪商高の選手が、それを振りほどこうとして身体をひねった際に、肘が相手選手の胸辺りに当たったことが確認された。
両校の監督立会いのもと、浪商高の選手から桃山学院高の選手へ謝罪があった。
当該行為を審判が現認していれば、反則行為に当たるものであったことが確認された。
本事案については、審判が当該行為を見ていなかったことにより、混乱をきたしたものと判断。
問題のあった試合の審判・役員に厳重注意を行うとともに、反則行為について当該選手、監督に指導した。
6 月20日、専門委員長から両校の顧問に対し、謝罪と説明を行った。
大阪高体連は「ひじ打ち」行為が反則行為にあたると認定。試合中に判定できなかった審判らを厳重注意し、浪商高の監督と選手にも指導した。
一方で高体連は、桃山学院が主張する「ひじ打ちは意図的ものだった」という意見については、相手を振りほどこうと体をひねった時に、ひじが当たった偶発的なものだったとした。
故意か、偶然か...主張が対立
・桃山学院側「意図的なものだった」
選手がひじ打ちを受けた桃山学院側は7月4日、問題のプレーについて記者会見を開いた。
同校ハンドボール部の木村雅俊監督は、被害を受けた選手について「決勝の試合でも28得点のうち10得点」をあげたエース選手だったと説明。
木村監督は「数十秒立ち上がれない状態は、誰が見ても何かあったに違いないなということは見て取れる。左手をつかまれているにも関わらず、右腕を振りかぶってひじが当たったということについては、偶然当たったものではないと認識しています」と話した。
また、桃山学院側は浪商高部員がInstagramに投稿した動画について問題視。「保護者の方は試合の前にはSNSに関する情報が入っていて、自分の子供が何かされるのではないかという不安の中で試合を応援されていたそうです」としている。
桃山学院は大阪高体連に対し、真相究明と再発防止の要望書を提出する方針だという。
・浪商高校側は「故意ではない」
FNNによると、浪商高校側はひじ打ちは故意ではないと強調した。
同校の工藤哲士教頭は「故意というかそんな気持ちはなく、ただ当たったことは事実なので、そこは申し訳ないと思っております。ご迷惑おかけしたことは、深くお詫び申し上げたいと思います」と説明。
<教頭と一緒にインタビューに答えたハンドボール部の徳永昌亮監督は、暴行の疑惑に対して話しているにも関わらず、ヘラヘラと笑いながら答えており、まるで他人事のよう>
部員によるInstagramの投稿については、冗談のつもりだったという。「投稿した生徒と、ひじ打ちをした生徒は別人でラフプレーの予告ではない」とし、プレーとの因果関係は否定した。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
スポーツと関係ない暴行で当たりどころが悪くて相手が死んでしまったらどう責任をとるつもりなのでしょうか?
「勝てればいい」
しか教えていないのです。
「汚いことをしても勝てばいい」のが現在のスポーツ界です。
「汚い人が最後に勝つ仕組み」が現代スポーツなのです。
スポーツだけではありませんね。
全てのことが「汚い人が最後に勝つ時代」です。
「富むものがさらに富、貧しいものはさらに貧しくなる」という暗黒の時代を子供たちがスポーツを通して象徴しています。
どうしてここまで「自己中心的な人間ばかり育つ」のでしょうか?
「肘打ちして相手を怪我させてまで試合に勝って」一体何になるのでしょうか?
「恨みや怒り」が残り、いずれ復讐されるだけです。
せっかく好きになったハンドボールも続けるのが嫌になってしまうかもしれません。
監督やコーチはこういったプレーを通し、何を考えたのでしょうか?
私たちは「成長」「人間性を磨く」などという言葉は知っていますが、「一体どのように成長させるのか?」
を知りません。
盛和塾・稲盛和夫は
「人間は魂を磨くために生まれてきた。魂を磨くには目の前の仕事、会社で頑張って他人のために働く、利他の心をもって奉仕するしか方法がない」
と堂々と奴隷制度を肯定し、サービス残業を正当化して社畜になることが「魂の成長」と言い切っています。
何が「経営の神様」でしょうか?
「社員を奴隷にして利益を上げる、洗脳教祖」です。
しかし、このハンドボールの生徒の親もこういった稲盛和夫のような悪徳教祖に騙され、こき使われているため、子供にもこのような悪徳な考えをしてでも結果を出してもいいと教育しているのかもしれません。
社会が悪のため、子供にも「悪が当たり前」となってしまうのかもしれません。
ここまでくると、「学校でスポーツをさせたくない」と思うのは正常な考えとなるかもしれません。
こんな悪事を働かれるくらいなら、学校終わって「コンビニバイトでもしてレジでもやっているほうがマシ」です。
得意なことだけ好きなことしかしていないくせに、なぜか認められる「学歴とスポーツ」。
かといって会社のためだけに奴隷のような生活をするサラリーマンも「できることしかしない高校生と同じ」です。
・・・・・・・・・・(人生の取扱説明書の値段はいくらが適正か?)
我々人間にとって、この人生はたった一度きりしかありません。
にもかかわらず、私たちはこのたった一度の人生をどのように生きればいいのか、どのように生きれば幸せになれるのか、幸せとは何なのか、といったことを全く知らずにこの世に生まれてきます。
一応、悪魔教の世界では「輪廻転生」があることになっていて、人生は一度きりではないという話になっていますが、それでも誰ひとりとして前世の記憶を持っていない以上、この世の生き方を知った上で母の胎から生まれ出てくる人は誰もいません。
そのため、私たちはこの世に生まれ出た後から、一から人生の生き方を学び、習得していかなければならないわけですが、いざその生き方を真剣に学ぼうとすると、「自己啓発」「スピリチャル系」「宗教」といったものに首を突っ込まざるを得ません。
そして、そういったものに深く首を突っ込むと、莫大なお金をとられてしまいます。
どんなものを買っても、取扱説明書はタダでついてくるのに、人生の取扱説明書だけは巨額の値段がついてしまうわけです。
しかも、恐ろしいことに、そういったものに首を突っ込んだ多くの人が、人生をより良く改善していくのではなく、かえって人生をダメにしてしまう場合が大半です。
もっとも、中には少しは人生が良くなったという人もいるのかも知れませんが、それもあくまでほんの少し良くなっただけ、という場合がほとんどでしょう。
莫大なお金を払っても、それほど大きく人生が改善されず、むしろ人生をダメにしてしまうのなら、最初からそんなお金など払わない方がマシというものです。
しかしながら、数多くの不幸を経験したり、大きく成功したいという野心に燃えたりすると、やはりどうしても人は「自己啓発」や「スピリチャル系」や「宗教」などに手を出してしまいます。
そういったものに頼りたくなります。
そして、悪魔(イルミナティ)どもはそんな人々をカモにしてお金儲けしようと虎視眈々と狙っているのです。
所詮、悪魔とはそのような性根をもった生き物だからです。
彼らは人を騙しながら巨額のお金を巻き上げようとすることしか頭にありません。これまでの調査を通して、それがはっきりと分かってきました。
それでは、一体どうやって我々人間は悪魔に騙されることなく、お金をぼったくられることなく、人生の生き方を学んでいけばいいのか……。
一応、私はこれまで繰り返し、その答えは「聖書」にあるとお話してきました。
しかし、悲しいことに、日本人の多くは悪魔に洗脳されきってしまっているため、「聖書」に対して強い偏見を持っています。
だから、私がいくら「聖書」を勧めても、読まない人は一向に読もうとしません。
しかも、例え「聖書」を読んだとしても、一人ではとてもその内容を理解しきれないので、どこかの教会に通おうとするのですが、この世に氾濫している教会のほとんどが悪魔に乗っ取られています。
そのため、教会に通いはじめても、間違ったデタラメの聖書解釈を教えられ、かえって人生をダメにしてしまうケースが大半です。
私自身もそのような苦痛をさんざん味ってきました。
だからこそ、私はこのブログを通して、その憎き「悪魔」の化けの皮を一枚一枚剥がすような活動をしてきたわけですが、このブログを始めて二年も経たないうちに、人類が何千年間も解けなかったような数多くの難問を幾つも解くことができるようになりました。
私自身も、この快挙にはとても驚いていますし、とても喜んでいます。
しかし、このような私の活動を見て、心ない数多くの人たちが「こいつは何か裏があるのではないか」「こいつは何か巨大な組織とつながっているのではないか」などと疑い、実際にそのようなメールを何度も書いて送ってきました。
しかし、そのようなメールが送られてくる度に、私はかえって自分のやっていることはやはり凄いことなのだな、と再確認し、ますます自負するようになりました(笑)。
いずれにせよ、今ここで改めてはっきりと言います。
私はその辺のどこにでもいるごく普通の庶民です(笑)。
何か巨大な組織からお金をもらったこともなければ、何かの情報をもらったこともありません。何らかの協力を受けたことも一度もありません。
ただし、私が他の人と大きく違うところが一つだけあります。
それは「聖書」の言葉を誰よりも熱心に信じ、「聖書」の言葉通りに熱心に生きてきたことです。
そして、この世の誰よりも数多くの本を読んできました。
しかも、ありとあらゆる分野の本を、まんべんなく、特に偏見をもつことなく、好き嫌いせずに読んできました。
易しいと言われる本も、難解と言われる本も、低俗と言われる本も、高尚と言われる本も……どんな本も分け隔てなく読んできました。
そして、今でもネットに溢れるありとあらゆる情報に目を通しながら日々を過ごしています。
その上で、今まで蓄えてきた情報を辻褄の合うように組み合わせながら、一つの理論を組み立てています。
そのような人生を何十年と歩んできたことによって、現在の私があるわけです。
しかし、私のような人生を送ってきた人がこの世には余り多くないので、どうしても私は他の人たちから奇異の目で見られてしまうわけです。
とはいえ、私としてはこれが自分自身の望んできた人生なので、今では心から神様に感謝せずにはいられませんし、これからもこのような人生を送りつづけるでしょう。例え誰が妨害しようとも……。
ということで、今回の対談は、私について「何か裏があるのではないか」「何か巨大な組織とつながっているのではないか」などと疑っている人に対する一つの回答であり、なおかつ、この人生をどう生きていけばいいのかという悩みを抱えて生きている人に対する一つの回答になっています。
もちろん、皆さんの抱えている疑問の全てを解くことはできないかも知れませんが、それでも一つのヒントぐらいにはなるのではないでしょうか。
ということで、今回は先ず一つの参考として、前回(第85弾)の対談を聞いたある読者の方からいただいたメールをご紹介したいと思います。
----------------(メールの転載ここから)
RAPTさんお疲れ様です。
今日の対談は聞いててスカッとしました。
占いで法則なんかない
絶対にそう思います。
以前、細木和数子が「占いは統計学だ」ってTVで言っていました。
もう一つ気に入らないのは、「厄年」といってビビらせて、お祓いをさせる事です。
こちらは日本人の多くが信じているので厄介です。特に年寄り。
あのように、年齢でいい悪いを決める事で、いい人も悪い人も同じように、危機が訪れる事になるので、定期的にお金を稼げます。
みんな恐がってお祓いしていて、なんとかならないものかなと思います。
恐がらせて稼ぐのは詐欺師なのに、寺がやると、みんな疑わないんです。
仏教を見ていると本当に儲け主義だなという気がします。
金、金、金、で本当に嫌になります。
神社仏閣に寄付した人の名前が刻まれた、石っていうんですかね?、そういうのがいっぱいあって、「私が金を出しました!」とこれみよがしに書いてあって不愉快です。
多額の寄付が出来ない貧乏な人は肩身が狭いと思います。
学校の成績表を張り出すみたいで感じが悪いです。
今読んでいる本にも以下のように書かれてありました。
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(【隠された】十字架の国・日本 逆説の古代史 ケン・ジョセフ/シニア&ジュニア著 )
一方、日本で死者を弔う際に用いられる「位牌」にも、景教の影響があります。
日本の仏教の寺では、人が亡くなったとき、その戒名と日付を書いた「位牌」を用います。
佐伯好朗教授によれば、この風習は、もともとは景教のものでした。
景教徒は、死者を弔う際に、亡くなった人の洗礼名と日付を書いた二つ折りの位牌を用いたのです。
そしてこの風習は、もともと仏教にはなかったものです。
さらに「戒名」というもの自体、景教の影響だとも指摘されています。
なぜならインド仏教に、「戒名」というようなものはありませんでした。
タイや、スリランカ、ミャンマー、カンボジア、ベトナム、中国、韓国などにおいても、戒名の風習はありません。
それは日本仏教界の発明なのです。
その日本でも、昔は戒名は生きている者だけがもらったものです。
ところが今は、死んだ者のために、遺族が代金を払って買うというシステムになってしまっています。
戒名はもともとは無料のものでした。
景教徒は昔、洗礼を授けた人々に、洗礼名を授けていました。もちろん無料です。
仏教徒はどうもこの習慣を仏教に取り入れたようです。
そしてはじめ仏教徒は、戒名を、仏弟子となって受戒をすませた人たちだけに与えていました ― 無料で。
ところが、のちに日本仏教がいわゆる「葬式仏教」と呼ばれるものになったとき、戒名は、死んだ者のために遺族が高い金額を払って手に入れるものになってしまいました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
昨日の対談でパワーストーンの話が出てきたので、
昔読んだ、以下のサイトを思い出しました。
石の効能以前に、天然石の販売自体がデタラメで、無知をいい事に荒稼ぎしています。
これを読んだらいかにこの業界がバカバカしいかわかります。
陰謀論とは関係ないですが、読み物として面白かったので少しだけ紹介します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(本当は恐い天然石のはなしより)
「天然」表示に関する疑問
http://isinohanasi.com/article/55213479.html
今回いろいろと問い合わせをする中で一番ショックだったのは、ほとんどのショップや業者の方が、天然石に対する処理の有無を記載することを避けていて、そこに拘る私の方が異例だという態度を取られたことでした。
「拘りたいならうちでは買わないでください」
「これ以上ご案内いたしかねます」
「これくらいのことはどこでもやってます」
「うちだけ処理内容を記載するのはちょっと…」
「その値段で本物だと考えるほうがおかしいのでは?」
「もっと値段とのバランス感覚を持って取引するべき」
「本物が欲しいなら自分で掘りに行けばいい」
「あなたのように神経質で面倒なお客の相手はしていられない」
「処理内容を記載しろという方がおかしい」
などなどなどなど。
これらはみな、加工の有無を問合せる中で実際に言われた言葉です。もっとひどいものもありました。果し状まがいのメールが送られてきたことも。
けれど問題は、そのような態度をとられたことではなく、最終的にそのような態度を取ったほとんどの業者さまが、最初の質問メールに対しては、
「うちは大丈夫です。信頼できる仕入れ元からしか仕入れていませんし、長年の実績もあります。品質には自信がありますので安心してください」
という旨の返答を返してこられたことなのです。
これはもうパターンといってもいいくらいです。
最初の質問に対しては「大丈夫」と太鼓判を押され、次に個人的に疑わしいと思う天然石について質問をすると返答に濁りや曖昧さが漂いはじめ、さらに質問を続けると段々と雲行きが怪しくなり、最後には暗礁に乗りあげる。
暗礁に乗りあげるという表現を使ったのは、結局処理についての情報が分からないまま、話がうやむやになるからで、そのほとんどが「返品していいからもううちでは買わないで」というものでした。
私は返品がしたいのではなく処理の情報が欲しかったのですが、処理の質問に答えるよりは返品対応を望まれる業者さまがほとんどで、不明確な石の多くが返品対応期間を過ぎているにも関わらず、ペナルティーなしの返品として処理されました。
正直、より天然に近い石を手に入れることが、こんなに大変だとは思ってもいませんでした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://isinohanasi.com/article/55216534.html
一般的に施されている処理の数々
ここに私が知り得た「当たり前とされている」天然石の処理を記載しておきます。
ちなみに私は最初に天然石を購入した時、これらの処理が「当たり前」であることをまったく知りませんでした。
・アクアオーラ・サンシャインオーラ等のクリスタル系(水晶に人為的加工を施したもの)
・レッドタイガーアイ(タイガーアイに含まれる鉄の成分を加熱により赤鉄鉱化したもの)
・ターコイズ(含浸処理)
・アズライト(圧縮処理)
・アズマラカイト(ワックス処理・プラスチック、樹脂の注入処理)
・コランダム系(色の改善を目的とした加熱処理及び拡散処理、含浸処理など)
コランダム系=ルビー、サファイア等
・シトリン(色の改善を目的とした熱処理及び放射線照射)
・スモーキークオーツ(色の改善を目的とした熱処理及び放射線照射)
・オニキス(染色)
・アクアマリン(色の改善を目的とした熱処理)
・モルガナイト(色の改善を目的とした熱処理)
・アパタイト(色の改善を目的とした熱処理)
・ラピスラズリ(ワックス処理・染色処理)
・オパール(オイル、ワックス、プラスティック、樹脂の含浸処理)
・カルセドニー(染色)
・フローライト(照射処理・加熱処理)
・クンツァイト(加熱処理・照射処理)
・タイガーアイ(染色処理・漂白処理・加熱処理)
・トルマリン系(加熱処理・照射処理・オイル、樹脂の注入処理)
・アンバー(琥珀と天然琥珀は別物)
アンバーのイミテーションには、粉を高温高圧で加工したアンブロイド、
化石化してからの経過年数が少なく琥珀酸を含まないコパールなどがある。
・さんご(充填処理、染色)
・カーネリアン(色の改善を目的とした熱処理・染色)
・トパーズ(色の改善を目的とした加熱処理及び放射線照射・拡散処理など)※白以外
・翡翠(染色処理・漂白処理・樹脂含浸・プラスチック含浸など)
・タンザナイト(色の改善を目的とした熱処理)
・ラブラドライト(表面へのワックス、オイル処理)
・アズライト(表面へのワックス、オイル処理)
これらの情報は今回私が個人的に知り得たもので、完全ではありません。
他にも「当たり前」とされている処理が存在する可能性は否定できません。
また上記に記載した天然石は、販売されているもの全てが処理品というわけではありません。
もちろん無処理品も存在します。しかし処理品であっても商品説明欄には何も記載されていないことが多いので、私のように「より天然に近い石」を求められる方は、自分が購入しようとしている石に上記のような処理が成されているかいないかを、事前に問合せされた方が無難だと思います。
追記
オニキスなどアゲート系の天然石に施される染色は、通常の染色とは違い鑑別機関に出しても識別ができないとの情報を得ました。
また現在天然石市場に流通しているアゲート系の天然石は、特別な記載がない限り染色品である可能性が高いようです。
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私が天然石をお譲りし続ける理由
http://isinohanasi.com/article/55209684.html
オークションを通して今後も天然石をお譲りし続けることを決めた大きな理由のひとつは、業者さまの販売に対する姿勢や対応に疑問を感じるケースが多かったからなのですが、これまでに疑問を感じた内容(の一部)を箇条書き出すと、下記のようになります。
・天然石に対する知識や情報をほとんど持たずに販売をしている業者さまが多いこと。
・知っていながらあえて処理情報を掲載しない業者さまも多いこと。
・仕入れ元の情報鵜呑みで、取扱商品に対して責任を負う姿勢が見られないこと。
・簡単に責任転嫁されること。
・天然石の処理について簡単な質問をしただけで、神経質で迷惑な客扱いを受けるケースが多いこと。
・都合の悪い問合せに対しては、高圧的な回答される業者さまが多いこと。
・根拠のある問合せをしても軽くあしらわれるケースが多いこと。
・虚偽表示を指摘すると一方的に取引を拒否されたこと。
・虚偽表示を指摘すると逆切れをされたこと。
・鑑別に出していないにも関わらず「出している」と嘘返答をした業者さまがあったこと。
・購入した天然石を個人的に鑑別に出した結果、かなりの数の業者さまが処理品や虚偽表示品を、十分な説明のないままに販売されている事実がわかったこと。
・鑑別の結果「明らかな虚偽表示品」であることが証明された場合でも、購入した天然石の返品に応じるだけで、鑑別などにかかった費用は一切補償しないと回答された業者さまが多かったこと。
・天然石の価格や販売実績などの情報だけでは、消費者側が購入判断をするのは難しいこと。
・一般的な消費者にとって天然石の鑑別はまだまだ敷居が高い作業ですが、そのことを逆手に取って嘘情報を記載し、利益を得ている業者さまを多数見かけたこと。
・染色品について返品を希望したところ「(染色品ではありませんが)質の低い方の石ですので、身につけていると色褪せたり白っぽくなっていくんです」と、堂々と嘘の説明されたこと。(鑑別の結果、染色品でした)
・「どこでもそんなもんですよ。うちだけじゃないんだから、別にいいじゃないですか」と開き直られたこと。
・「最近は購入される方もアクセサリーパーツとして買っていかれますから、別に染色品や処理品に拘ってないんじゃないですか」と他人事のように言われたこと。
・その一方で、天然石やパワーストーンの効果や効能を確信犯的に利用していること。
・根拠のない情報操作が、天然石の価格をあげてしまっていること。
・これまでは屑石(混ざり物が多い石)という理由から流通していなかった天然石に、勝手なコマーシャルネームをつけて販売しようとする業者様が増えてきたこと。
などなどなどなど。
要するに、私が垣間見た天然石業界とは、いったい何を信じれば良いのかさえかわからない無法地帯だったのです。
業者さまの多くは、自分たちにとって不都合な情報はあえて表示されませんし、たとえ虚偽表示の商品を販売したとしても、返品以上の補償責任はないと言われます。
だからといって、虚偽表示品を販売しない為の努力をしてくださるわけでもありません。
抜き打ち鑑別は「採算が合わない」の一点張りです。
----------------(メールの転載ここまで)
そもそも、人間は「万物の霊長」と言われていますし、実際にその通りです。
人間はこの世のどんな万物よりも最も高い知能をもった存在です。
にもかかわらず、その人間が、自分よりも知能の低い(知能のない)「石」などの万物から力をもらおうと考えている時点で、その人は自分で自分のことを万物以下であると認めているようなものです。
そのような人が、どうして自分の人生をより良く改善していくことができるでしょうか。
もし何かに頼りたいと思うなら、自分よりも知能の高い存在に頼るべきではないでしょうか。
大学生が小学生に頼っても、何も得られないことは誰にでも分かりきったことではないでしょうか。
なのに、その小学生にも劣る「石」などの万物に頼るとはどういうことなのか、私も首を傾げざるを得ません。多分、偶像崇拝を禁止している「神様」は、私以上に首をひねっていることでしょう。
しかも、悲しいかな。
この世の多くの人々が人生を良くしようとして「自己啓発」や「スピリチャル系」にズブズブとハマり、いつしか「悪魔」のことを「神様」だと思い込み、「悪魔」に頼りながら何かを得ようと必死になっています。
これもまた、大学生がヤクザの知恵に頼るのと同じようなもので、そんなことをしていたら、いずれ自分までヤクザのような悪人になって、地獄のような辛い生活を送るハメになるでしょう。
しかも、「悪魔」の語ることは、この世の学者が語る「物理」や「経済」や「政治」や「歴史」と同じく、複雑でややこしく難解です。
「悪魔」自身、全く何も知らず、全く何も分かっていないので、知ったかぶりをしながら、ただひたすら嘘をついて人々を騙し、煙に巻くしかないからです。
そんな「悪魔」たちから何かを学ぼうとしても、いつまで経っても何らスッキリとする答えを得られず、むしろ深い迷路の中に彷徨い込み、不安と絶望の中に沈み込んでいってしまうのは分かりきったことです。
ならば、そんな痛い目に遭わないためにも、最初から「神様」にすがって、「神様」から力と知恵と能力をもらえばいい、と私は思うのですが、いざ私がその道を勧めても、多くの人々が拒絶します。
その理由は人によって違うとは思いますが、恐らくその道がとても大変そうに見える、というのも一つの理由でしょう。
しかし、「悪魔」にすがっても大変、「石」にすがっても大変、「自分の拳」にすがっても大変であることに変わりはありません。
しかも、その先に待っているのは地獄のような苦痛のみです。
ならば、例えどんなに大変な道だったとしても、最初から「神様」にすがり、「神様」に従って、神様の力と知恵を得ながら生きていくほうがよほど幸せではないかと私は思うのですが……。
もちろん、その判断は皆さん一人一人にお任せします。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「スポーツで成功すれば幸せになれるのか?」
「勉強ばかりして良い大学にはいることで幸せになれるのか?」
私たち大人が「一体どのように生きるべきなのか?」「人生の解説書は存在するのか?」を求め続け「正しい世界」を「子供たちのために今日から作っていく」しかありません。
1日でも早く子供たちが安全に生活できる日本となることを願うばかりです。
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