(口絵は、「蘇軾と佛印」)
《論語心得》の第二回・「心の道」では、人間の心の持ち方の大切さを述べています。長い人生の中で、自分の意に沿わぬことも多々ありますが、心の持ち方一つで、それを良い方に持っていくことも、益々悪い方向に陥ることもできるということで、多くの人にとり、共感を得られる内容であると思います。
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□ 彼女が店先に立ちつくし、ぽかんとしていると、店員が彼女に言った。「お嬢さん、あなたの亜麻色の髪の毛は本当に綺麗だ。もしそれに薄緑色の髪飾りを付けたら、きっととても綺麗ですよ。」彼女が値札を見ると16ドルと書かれていて、高くて買えない、やっぱり付けてみるのはやめようと思った。けれどもその時店員はもう髪飾りを彼女の髪に付けていた。店員は鏡を持ってきて彼女に自分を見てみさせた。少女は鏡の中の自分を見ると、突然びっくりしてぼおっとなった。彼女は未だ嘗て自分がこんな容貌をしていることを見たことがなかった。彼女は一輪の花が自分を天使のように顔が美しく光り輝くように変えてしまったように感じた。彼女はもうためらわず、お金を出してこの花を買った。彼女の心はこのうえなく陶酔し、このうえなく興奮し、店員から4ドルおつりをもらうと、身を翻し、外に走り出た。その結果、ちょうど入口を入ってきた老紳士の体とぶつかった。彼女はその老人が彼女に何か言ったような気がしたが、もう上の空で、ゆらゆらと前へ向かって走って行った。彼女は知らず知らずのうちに村の真ん中の大通りまで走って来ると、全ての人が彼女に驚きの眼差しを投げかけ、人々がこう議論するのが聞こえた:「この村にあんなに綺麗な娘がいるとは知らなかった。あの娘はどこの家の子だろう?」彼女はまた自分がこっそり慕っているあの男の子に出会った。その男の子は意外にも彼女を呼び止めてこう言った:「あの、今晩あなたがクリスマスパーティーのダンスのパートナーになってくれたらありがたいのですが。」少女はうれしくてたまらなかった。彼女はせっかくだからもう一回ぜいたくをし、残った4ドルで何か買おうと思った。それで彼女はまた浮き浮きしながらさっきの店に戻ってきた。入口を入ると、さっきの老紳士が微笑みながら彼女に言った。「お嬢さん、きっとあなたは戻ってくると思っていました。あなたはさっき私とぶつかった時、この花を落としましたよ。私はずっとあなたが取りに戻ってくるのを待っていました。」
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□ 物語はこれで終わりである。本当に一輪の花がこの少女の生命の中の欠点を補ったのだろうか。実際には、欠点を補ったのは、彼女の自信の回帰である。ならば、人間の自信はどこから来るのか。それは心の中の冷静な判断と落ち着きから来るものである。孔子は言った。「仁者は憂えず、智者は惑わず、勇者は惧れず」(《論語・憲問》)と。心の内面の強さは、生命の中のたくさんの遺恨を氷解することができる。心の内面を強くしようと思ったら、一つの前提は、自分の外にある物の損得を気にしないことである。あまりに得失にこだわる人を、孔子は“鄙夫”(ひふ。“卑夫”とも書く)と呼んで叱責した。“鄙夫”の意味は“小人”と同じで、公(おおやけ)の場所に出てこない見識の狭い人のことである。孔子は嘗てこう言った:このような小人が国家の大事を謀ることができるだろうか。できない。このような人は利益を得ることができないと、利益を得られなかったと恨むが、利益を得ると、今度はそれを失うのを恐れる。利益を失うのを恐れる以上、今度は手段を選ばず既得の利益を守ろうとする。このように損得にばかりこだわる人は、広い心持ちなど持っておらず、泰然自若とした気持ちは無く、真の勇敢さなどあり得ない。真の勇敢さとは何か。それと匹夫の勇とはどのように区別されるか。《論語》の中では、“勇敢”はどのように解釈されているのか。
■[3]
□ 皆さんがご存じのように、孔子には子路という弟子がいた。彼はたいへん率直で、勇敢な事には特に気にかけていた。孔子は嘗て冗談半分にこう言った。もしいつか私の説く道理が世の中で通用しなくなったら、私は舟を浮かべて川に漕ぎだそう。その時、私に付いて来られるのは、おそらく子路だろう。子路はこの話を聞いて、たいへん得意であった。その結果、先生は後でまたこう言うことになる。私がこう言うのは、子路という人物は、勇敢であることを除いて、他に何も無いからである。(《論語・公冶長》)「勇を好む」というのは子路の特徴であるが、彼の勇敢さには内に秘めたものが欠けていた。それでもなお、ある日、子路は先生に尋ねた。「君子は勇を尚(とうと)ぶか?」君子は勇敢さを尊ばなければなりませんか? 孔子は彼に言った。「君子は義を以て上と為す。君子の勇有りて義無きは乱と為り、小人の勇有りて義無きは盗と為る。」(《論語・陽貨》)その意味はこうである。君子が勇敢さを尊ぶのは間違いないが、この勇敢には制約があり、前提がある。この前提というのは“義”である。義の文字が先に来る勇敢が、真の勇敢である。さもないと、君子は勇によって乱を犯すことになり、小人は勇敢の為に盗賊に成り下がることになるかもしれない。考えてみると、コソ泥や強盗が門や戸を破って侵入し、ものを強奪し、人を殺すに至るのは、勇敢でないと言えるだろうか。しかし、このような道義の制約の無い勇敢さは、世の中で最も大きな災いである。それでは、この“義”、“道義”とは何か。それは、ある種の心の内の制約である。孔子は言った。「約を以て之を失う者は、少なし。」(《論語・里仁》)人々の心の内に制約があれば、行動の上で過失を減らすことができる。もし人々が本当に毎日「三たび吾身を省みる」(《論語・学而》)なら、本当に「賢を見て斉(ひと)しからんと思い、賢ならざるを見て内に自ら省みる」(《論語・里仁》)なら、制約ができている。そして自分の過ちを反省することができ、改める勇気があるなら、これこそ儒者が提唱する真の勇敢さである。
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□ 後に、蘇軾は《留侯論》の中で勇敢について論述したことがある。彼は本当の勇敢さを“大勇”と呼んだ。彼は言う:「古のいわゆる豪傑の士は、必ず人に過ぐるの節有り。人情に忍ぶ能わざる所有れば、匹夫見て辱め、剣を抜きて起ち、身を挺して闘う。この足らざるを勇と為す。天下に大勇有り、卒然とこれに臨めども驚かず、故無くこれに加えれども怒らず。此において其の挟持する所の者は甚だ大きく、而して其の志は甚だ遠き也。」蘇軾が見るところ、本当の勇者には“過人之節”、人より優れた礼節があり、そういう人は韓信のように股くぐりの辱めを受けても我慢でき、劉邦を補佐して千里の彼方から戦局を指揮し、天下を平らげるという大業を成し得たのである。彼は普通の人のように一時の勇をひけらかしたり、一時の快楽を図ったりはしない。それは、彼の心の中には一種の理性にコントロールされた自信と落ち着きがあるからで、それは、彼が広い気持ちと高遠な志を持っているからである。いわゆる「卒然とこれに臨めども驚かず、故無くこれに加えども怒らず」というのは、実行が難しい。私達は自分が修養を積んだ道徳君子になることを要求し、他人に失礼なことをしないようにすることはできるが、他人が何の理由もなくいつもあなたに失礼なことをしたら、あなたは怒らずにいられるだろうか。
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□ 私達はよく次のような情況を目にすることがある:ある人が月曜日に何のいわれもなく暴行を受け、その人は火曜日に友人にその事件のことを振り返って話をするが、水曜日になると、気がふさいで外に出て人に会いたくなくなり、木曜日になると、ちょっとしたことが気に入らなくなり、家人と喧嘩を始める…… 実はこのことは何を意味しているのか。人が過去の事件を振り返って話をするというのは、もう一度殴られるのと同じであり、事件はもう終わったのに、毎日繰り返し殴られていることを意味している。不幸な出来事が起こった時、最も良い方法は、そのことを一刻も早く過ぎ去らせることであり、このようにしてはじめて、より多くの時間を空けて、より価値のある事に使うことができる。こうしてこそ生活がより効率的になり、心持ちも良くなる。この話が私達に教えてくれることは、生活の中にはたくさんの思い通りにならないこと、不合理なことさえあり、おそらく個人の力では変えることができないが、自分の心持や態度は変えることができる。ある意味において、一人の人が心でどう思っているかにより、その人にはその通りに見えるのである。
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□ 宋の人の随筆の中で、蘇軾と佛印の交流の話が載っている。蘇軾は大文人であり、佛印は高僧であったが、二人はいつもいっしょに座禅を組んだ。佛印はおとなしくて、いつも蘇軾にいじめられた。蘇軾は相手をやりこめて愉快であると、家に帰ってうれしそうに彼の才女の妹、蘇小妹に話をした。ある日、二人がいっしょに座禅をしていた。蘇軾は問うた。「あなたは私がどのように見えますか。」佛印は言った。「あなたはご尊仏のように見えます。」蘇軾はそれを聞くと大笑いで、佛印に言った。「あなたは私が、あなたがそこに座っているのがどのように見えるか分かりますか。牛の糞とそっくりですよ。」この時、佛印はいっぱい喰わされたと、口が利けなかった。蘇軾は家に帰ると、蘇小妹の前でこのことをひけらかした。蘇小妹は冷ややかに兄に言った。「あなたはそんな悟りの程度でまだ禅の修行をしようというのですか。あなたは禅の修行をする人が最も重んじているのが何か知っていますか。それは心を見、性(さが)を見ることです。あなたの心の中にあるものが、眼の中に見えるのです。佛印老師はあなたが尊仏のように見えると言われたのであれば、あの方の心の中には尊仏がおられるということです。あなたは佛印老師が牛の糞のように見えるとおっしゃったのだから、あなたの心の中に何があるか考えてごらんなさい。」
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