■[1]
( ↓ クリックしてください。中国語原文が見られます)
・無名火 wu2ming2huo3 怒りの炎。激怒。
・高高在上 gao1gao1 zai4shang4 [成語]お高くとまっている。指導者が一般大衆から遊離してしまっていること。
・呵斥 he1chi4 しかりつける。
・政績 zheng4ji4 官吏の在職期間中の成績。政治的な業績。
・唯唯諾諾 wei2wei2nuo4nuo4 [成語]唯唯諾諾(いいだくだく)。少しも逆らわず、相手の言いなりになる。
・点頭哈腰 dian3tou2 ha1yao1 ぺこぺこする。
皆さんは、こんな話を聞いたことはないだろうか。誰でも分かることだが、人は時には激怒することがある。人に相談できないことだが、どんな役職にも就くことができない、或いは金儲けをしようと思ったが儲からないような時、人は公然とした理由にかこつけ、それを怒りに転嫁し、こうした怒りの炎は繰返し出現する。またこんな話がある:一つの会社、組織で、最もえらそうにしているのは、そこの社長である。この人は役職が最も高いので、いつでも部下の誰でもしかりつけ、その人を責めることができる。この仕事を、あなたはどうしてうまく出来ないのだ。あなたがちゃんとやってくれなかったら、私は業績を残せない。このポストをうまくやれなかったら、私は名誉を得られないと、全ての過ちをあなた一人の運営能力のせいにする。あなたの業務手腕がどうであるか、帰って反省してみなさい。彼の部下としては、ただ相手の言いなりになり、頷いて、はいそうです、と言うしかない。家に帰ると、この怒りの矛先は奥さんに向けられ、奥さんを大声で叱りつける。私は苦労して外で稼いできて、この家の名義を買い、そうしてはじめておまえはこうして楽に暮らしていける。けれどもおまえは家をちゃんと管理できないし、子供をちゃんとしつけられない。おまえは私にこんな生活を送らせるのか。奥さんをひとしきり口汚く罵ると、奥さんもただ頷いて聞いているしかない。それというのも、毎月この夫から金を受け取らないといけないからである。けれども、しばらくすると、気持がおさまらなくなり、子供を説教する。ごらん、私はおまえのためにこんなに苦労している。私はこの一生を差し出し、こんなに苦労しているのに、おまえは勉強に努力せず、今のこんな成績で、おまえは私にすまないと思わないのか。この子も、ただ頷いて聞いているしかないが、しばらくすると怒りがこみ上げてきて、この子はこの家で飼っている犬を罵り始める。ごらん、おまえはなんてわからず屋なんだ。上ではこんなに多くのおとなが僕をいじめるのに、家に帰るとおまえは相変わらず僕の言うことを聞かない。そして犬を殴りつける。犬は、主人の命令を聞かなければならないし、ここに住まないといけないと分かっているが、彼にも怒りの炎がある。彼は家では何も言う勇気がないので、しばらくして家の外に出ると、怒りの矛先を野良猫に向け、家を出るやずっと休まず野良猫を追いかけ、その猫に噛みつく。猫の方でも犬と喧嘩しても勝てないのが分かっているので、じっと我慢しているしかないが、その後この猫は必至でネズミを追いかける。なぜなら、ネズミの対してしか、猫の怒りの捌け口がないからである。実際、私たちがこのように言うと、一人の社長の怒りと一匹のネズミの忍耐の間にいったいどれだけの連鎖があるのだろう。これこそが私達人間社会の一つの隠れた規則である。実際、私達は一人一人心に怒りの炎を持っていて、私たちが本当に心安らかになろうと思うなら、ちょっと振り返って荘子を読んでみるとよい。これが心の中の原因によるものではないか、見てみよう。それは他人が私達にもたらした、たくさんの忍耐なのか、それとも私達自身が名声と利益という二艘の船を看破できていないからなのかを。
■[2]
・吊唁 diao4yan4 弔問する。
・追本溯源 zhui1ben3 su4yuan2 [成語]事の根源を明らかにする。
・坦然 tan3ran2 平然としている。平気である。
・牽絆 qian1ban4 しがらみ。
・苦楚 ku3chu3 苦痛。苦しみ。
ご覧なさい、古代の文字の創造はたいへんおもしろい。人の心の中の悩みは、どのように言うのだろうか。この“悶”という字は、“門”という字の中に“心”という字を入れるに他ならない。つまり、あなたは自分の心を扉の中に閉ざしておいて、心の悩みを叱責するというのか。扉を開き、全てを自分の下に置けないか。いわゆる“看破”の2文字は、扉を開け放つことに他ならない。それでは、人が生きている間、“名”と“利”の2文字が最も重要とするなら、最後の終極の状態で、名と利は見てはっきり分かるが、生と死は難しい。浮世に居る時、荘子はこう言った:むしろ生きて尻尾を引きずり泥の中に居たいと。生きて泥水の中に居る方が死ぬより良いと、こう荘子が言ったなら、彼は真に生と死の問題を看破できたのだろうか。
こんな有名な話がある。荘子が長年連れ添った妻が先に亡くなった時、恵子は彼の親友として、弔問にやって来た。荘子の家に着いて見てみると、荘子は盆を叩きながら歌っていた。
連れ合いが死ぬと、人々はしばしば悲しみに苦しむが、それなのに荘子は妻が死んで、どうして盆を叩いて歌を歌うことができたのだろうか。荘子は富に無欲で、名利を看破したのに、どうして死に対しても、荘子は独自の見方を取るに至ったのだろうか。荘子は生と死をどのように見做していたのだろうか。
恵子:あなたの奥さんは家で子供の世話をよくし、今年老いて亡くなったのに、あなたは深く悲しまないばかりか、盆を叩いて歌を歌うなんて、やり過ぎではないか。荘子:ああ、それはこういうことなのです……。
荘子は落ち着いて彼にこう言った:ああ、妻が亡くなったばかりの時は、私の心はどうして辛くないなどということがあったでしょうか。けれども、私は今、突然一つの道理がはっきり分かったのです。何事も「その始まりを調べれば本生無きなり」です。私が本当に事の根源を明らかにし、最初の始まりを調べれば、人は生命がないのではないですか。一番最初の人は生命が無く、生命が無ければ形が無く、形が無ければ何の息吹もありません。これはつまり、一般大衆の言葉で言うと、人がひとしきり生きるということは、実は天地の間で見ると、ここかしこにある“気”が集まって、やがてこの息吹が、次第に一つの形になり、形から生命が生み出される。人とはつまりこのようなものなのです。今、私の妻はこの道筋に沿って元に帰って行ったのです。彼女は私より先に行き、この時この時刻に、彼女はおそらく巨大な密室の中で、ゆっくりと寝ているのです。彼女はつまり解脱したのだから、喜ばしいことではありませんか。このことが分かったので、思わず、盆を叩いて歌っているのですと。どうだろう、これは連れ合いの死であり、連れ合いの死に臨んで、このように平然とほっとしていられるのである。実は、このような心理は、中国の民間では、時に大智慧者がこのようにすることができる。民間で重んじられるお祝い事には二種類あり、“紅白”の喜び事と言う。赤(紅)は嫁を娶るお祝いで、これから新しい生命が増えるというのは一つの喜びである。それでは白はというと、天寿を全うした老人を見送ることで、これも喜び事である。いわゆる“紅白”とは、生命の両端であり、赤は生命が宿る前のお迎えであり、白は命が尽きた後の見送りである。そして生と死の間は、形態の転化に過ぎない。
荘子:大自然は私に形を与え、生活によって疲労させ、歳月によって老化させ、死によって永遠の休息に至らしめる。自然は変化であり、人は自然に従わなければならず、そうしてはじめて喜怒哀楽から解放されるのである。
もし私たちが本当に荘子のような心持になれば、或いは私たちは多くのしがらみや苦痛を減らすことができるかもしれない。
■[3]
・打点 da3dian3 (贈り物や旅装などを)整える。準備する。
・百年之后 bai3nian2 zhi1 hou4 死んだ後。(婉曲な言い方)
・棺椁 guan1guo3 内棺と外棺。“椁”は柩を覆う外棺のこと。
・珠玑 zhu1ji1 宝石。“珠”は(丸い)真珠。“玑”は丸くない真珠のこと。
・蒼鷹 cang1ying1 タカ。オオタカ。
・啄 zhuo2 (くちばしで)ついばむ。つつく。
・有朝一日 you3 zhao1 yi1ri4 [成語]いつの日か。いつかは。
・螻蛄 lou2gu1 オケラ
・豁達 huo4da2 闊達(かったつ)。度量が広く、物事にこだわらないこと。こせこせしないこと。
それでは、皆さんはこう言われるかもしれない。そうです、年老いて病死すると、周囲の人はそれを見送らざるを得ない。けれども本当に自分が身を処する時が最も難しく、自分が死に直面できるだろうか。古より今日まで、どれだけ多くの人が不老不死を求めたことだろう。魏晋時代から、かの「五食散」を作り、薬を飲んだらゆったりした服を着て気を発散させたが、全ての人が追い求めるのは、どうしていつも不老不死なのだろうか。荘子も自分自身の死に直面せざるを得なかったのではないか。彼は多くの弟子たちと相談した:先生が本当にある日、死んだら、私たちはどのように先生の後のことを準備したらよいのか。荘子は弟子たちにこう言った:私が死んだら、何も準備するな。私は天地全体を柩とし、日や月は連璧、星は宝石、万物を副葬品とする。こう言えば、私たちが見ることのできる楚王墓、漢王墓と比べ、どんな王陵墓よりも贅沢だ。私は天地や日、月を連璧とし、玉や宝石は陪葬品で、私はそれらといっしょにいる。こんなに大きな葬礼をすることになるのだから、直接私を外に放り投げておいてくれればよい。弟子たちはそんなことはできないので、何か言おうとした。先生、先生に小さな棺おけを準備せず、外に放っておいて、獣たちに食べられたらどうしますか。すると、荘子はしばらく考えて、弟子たちに言った:私を荒山に放っておいたら、タカやカラス、あらゆる空を飛ぶ鳥や猛禽によって、私の死体はついばみ、食べられてしまうだろう。もし皆さんがちゃんとした、棺おけで私を包んで、地下に埋めたとしても、いつかは木が朽ちて、人体も腐り、今度は私を食べるのは、地下にいるアリや、オケラ、あらゆる地下の虫たちで、私は彼らの餌になるだけだ。皆さんはどうして空にいる鳥たちの餌を奪って、地下の虫たちに食べさせようとするのか。ここで言っているのは、何れも物質が不滅であるということではなく、食べられてしまうということではないか。これこそ、荘子の自分自身の(物質的な)形と生死についての考え方である。実は、こう言うと、私たちはチベット地方で現在も行われている鳥葬を想像する。つまり、人が死んだ後、自分の体を空を飛ぶ禽獣に持って行ってもらうことで、再び天界で一種の有形の形で生命が最初に戻れることを望んだ。おそらく多くの文化の中で、いくつかの理念は相通じるもので、それはつまり、こせこせしないことが、人が解脱する前提であるのだ。
(この項続く)
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