中国語学習者のブログ

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中国の泥人形(8)季節の泥人形、「兎児爺」

2021年07月10日 | 中国文化

兎児爺

 

中国の泥人形について、その歴史や各地の泥人形を紹介してきましたが、もうひとつ、季節の行事で使われる泥人形として、「兎児爺」を紹介したいと思います。

 

「兎児爺」tùéryéというのは、中秋節、お月見の時に使われる、粘土で作られた、首から下は人、首から上はウサギの人形のことです。毎年中秋節前に北京の街中で販売されました。

 

清代の富察敦崇は『燕京歳時記』の中でこう言っています。

「毎年中秋節になると、市井の手先の器用な人が黄土を捏ねてヒキガエルやウサギの像を作って販売し、これを「兎児爺」と言う。服を着て冠を被り傘を差したのや、甲冑を纏い旗を帯びたの、虎に乗ったもの、黙って座っているものがある。大きいのは三尺(1メートル)、小さいのは一尺余り(30センチ強)、職人たちが技巧の限りを尽くして飾りたてる。」

 

潘栄陛は『帝京歳時紀勝』でこうも言っています。

「都では黄砂を使って白い玉兎(月に住むという白ウサギ)を作り、色とりどりに飾り立て、様々な姿かたちのものが集まり、市が立ちこれを商う。」

 

ここで言う「黄砂で白い玉兎を作る」が指すのが「兎児爺」です。

 

各種の兎児爺

 

「兎児爺」は月の神への崇拝や月に関する神話、伝説に起源を発するものです。玉兎が月に住むという神話の起源はたいへん古く、屈原(紀元前4~3世紀、戦国時代・楚の政治家、詩人)は『楚辞・天問』の中で、「夜光は何の徳ぞ、死してまた育む。厥(そ)の利それ何ぞ、菟を顧みれば腹に在り」と書きました。東漢(後漢)の王逸の『楚辞』の注より、ここでの「菟」はウサギのことであるとされ、歴代そう解釈され、多くの研究者も認めています。ウサギが月に住むという神話は春秋戦国時代より前に生まれました。清代の林雲銘はこれに異議を唱えました。聞一多も「それはヒキガエルのことを言っており、ウサギではない」と断言しました。1970年代末に四川師範学院の湯炳正も「菟」は虎のこととする見解を出しました。しかしこう考える人もいます。月に最も古くは虎が住むとされ、後に虎がウサギに変化し、更にウサギがガマガエルに変化した、と。まとめると、月に関する神話は何れも三つの動物に関係しています。出土した画像磚や画像石を資料とし、イメージの考察を進めると、次のことが分かります。晋以降、ガマガエルと虎は次第に姿を消し、「玉兎」が独り月の図案の主流を占めるようになりました。例えば江蘇省丹陽県で1960年に南朝(5~6世紀、南北朝時代の南朝)の被葬者不明の陵墓で出土した「日月輪」画像磚で、「月輪」磚には一匹の薬草を搗く「玉兎」だけが描かれています。類似する図案は晋以降歴代の彫刻、絵画の中に見られます。それよりこう推察できます。ウサギが月に住むという神話はおおよそ晋以降になって流行したと。

 

「玉兎」が月に住むという神話は広範囲に伝播し、人々の心に深く入り込み、ウサギを月の象徴とするまでになりました。北周(6世紀南北朝時代の北朝の国)の庾信は『斉王進白兎表』でウサギは「月の徳」であると称え、唐の権徳輿はウサギは「月の精」であると称えました。それと同時に、ウサギで以て月に代えるようになり、例えば唐の廬照隣は『江中望月詩』の中に、「鈎(釣り針)を沈めれば兎影が揺れ、桂(金木犀)を浮かべれば丹芳動く(丹薬を搗く香りが広がる)」の句があり、「兎影」はすなわち月のことを言っています。この他、「兎輪」、「兎魄」などの言葉を用いて月のことを言う詩文がありました。ウサギと月が互いに双方を比喩する現象は、月にウサギが住むという神話が既に誰もがよく知る常識になっていたことを表しています。こうしたことが、おもちゃの「兎児爺」誕生の文化的な基礎となりました。

 

古い民間の風習では中秋節に月を祭る際に、太陰星君(道教神話の中の月の神)の位牌をお供えしますが、これがすなわち「月光碼儿」或いは「月亮碼儿」と呼ばれる一枚の絵で、太陰星君が描かれ、その下には必ず一匹の薬を搗く玉兎が描かれました。富察敦崇『燕京歳時記』によれば、「月光馬は紙に描かれたもので、上には太陰星君が菩薩像のように描かれ、下には月宮と薬を搗く玉兎が描かれ、二本足で立って杵を動かし、極彩色でたいへん美しく、市井では多くの人々がこれを買い求めた。長いもので7、8尺(2―2.5メートル)、短いもので2、3尺(1メートル弱)で、てっぺんには赤と緑、或いは黄色の旗が2本掲げられ、月に向かって供えられ、線香を炊いて拝礼をした。祭礼が終わると、千張、元宝(紙で作った馬蹄銀の形の張りぼて)などと一緒に火にくべて燃やした。」

 

月光碼儿(月亮碼儿)を掲げたお供えの机

 

月を祭る時、「月亮碼儿」は「月神」として尊ばれ、屋敷の中庭の母屋の前に掲げられ、お供えを飾る長机が置かれて拝礼が行われ、長机の前には枝豆の枝(飼葉を象徴する)、ケイトウの花(霊芝を象徴する)が供えられ、更に西瓜、桃、月餅、ダイコン、レンコンなどが並べられました。月の神は陰に属し、古い風習では男子は月を拝むのは良くないと言われ、民間では「男は月を祭らず、女は竈を祭らず」という言い方があり、それで月を祭るのは必ず婦女子が行いました。子供たちは、多くの場合女性が面倒を見たので、月を祭る儀式は子供への影響がたいへん強く、そのため子供たちが月を拝む習慣が形成されるようになり、「兎児爺」は子供たちにとって、月の神様の象徴となったのです。「兎児爺」が生まれた背景には、中国の神話、風俗、宗教といったものが、子供のおもちゃに強く影響したことを表しています。

 

昔の北京、家の中庭で月を祭る(1)

 

昔の北京、家の中庭で月を祭る(2)

 

「兎児爺」の古い記述は、明末、紀坤が著した『花王閣剰稿』に見られます。

「京師(都)では中秋節に多く粘土を捏ねてウサギの形にし、衣冠は人のようにして、子供や女がこれを拝む。」

 

最も古い「兎児爺」は、おおよそ明代に誕生し、清代に最も盛んに作られました。中秋節の前には、北京城内の街や横丁には数多く「兎児爺」を専門に販売する屋台が設けられました。

 

「兎児爺」を売る屋台

 

人形の絵柄や品種はたいへん豊富で、大きなものは高さが1メートルほどもあり、小さなものは3センチ足らずで、首から上はウサギ、体は人間で、衣冠をきちんと身に着け、多くは薬草を搗く杵を持ち、鎧を羽織るもの、赤い長衣の中国服を身に着けたものがありました。また虎や鹿、馬、麒麟にまたがるもの、蓮の花を手に持ち座るもの、流れる雲、花を持ち座るもの、更に背中に旗を挿したもの、頭に兜をかぶったものなど、各種各様で枚挙にいとまがありませんでした。

 

薬草を搗く杵を持ち、背中に旗を挿した兎児爺

 

「兎児爺」は、多くの場合、型で押して作られ、下地を塗った上に上絵を施し、着衣の華麗さと顔つき、目鼻立ちの表情を重視しました。

 

型押しで作り、下地を塗った上に絵付けをする

 

よく見られる表情は、両目をまっすぐ見つめ、上唇が縦に裂けたみつくちの唇を固く閉じ、頬にうっすら紅が施され、みめうるわしい中にも威厳があり、端正な中にあどけなさが残り、活発で生き生きとして見る者を惹きつけたました。

 

清代の兎児爺

 

「兎児爺」は実際には子供たちが月を祭る行事の中での神様とされ、子供たちの尊敬を受けました。買って帰ると、大人が月を祭るのと同様に、お供えして礼拝しました。清の乾隆年間に楊柳青(天津市西部、北京との境に近い鎮)で作られた木版年画、『桂序昇平』は、当時の子供たちが「兎児爺」を礼拝した様子を描いたものです。

 

木版年画『桂序昇平』

 

絵の中で、「兎児爺」はお供えを並べる机の上座の位置に置かれ、その前には西瓜、ザクロ、桃、月餅が供えられています。ふたりの子供がひざまずいて地に頭をつけるお辞儀を行い、もうひとりのやや年長の子供が馨(けい。古代の打楽器)を打ち鳴らして興を添えていて、絵の情景は見る者の心を動かします。こうした情景は中秋節の夜には随所で見ることができ、庶民の家々がそうであっただけでなく、宮廷内の皇族たちの間でもこうした風習が行われ、「禁中もまた然り」(徐珂『清稗類鈔』)とあり、故宮博物院には今でも清代の皇族の家庭の子供たちが月を祭った遺物が収蔵されています。

 

「兎児爺」は子供たちが使うものである以上、神様として扱われる以外におもちゃとしての機能も併せ持つ必要がありました。「兎児爺」は元々太陰星君(道教神話の中の月の神)の家来の侍従であり、且つ星君のような尊厳は持っていませんでした。つまり「兎児爺」は必ずしも子供が手を触れてはならないものではなく、「兎児爺」の実際の役割はよりおもちゃに近いものでした。拝んだ後は好き勝手に手に取って鑑賞し、遊び戯れてよく、たとえ不注意で壊してしまっても、あまり咎められることはありませんでした。こうしたことから、手足を動かしたり音が鳴ったりする「兎児爺」が出現し、例えば「口の動く兎児爺」は、中が空洞で、唇が動くようになっていて、糸でつながれ、糸が体の中から引き出されていて、糸を引っ張ると、兎の唇が激しく動き、カタカタと音がしました。また、「腕の動く兎児爺」は、糸を引っ張ると、両方の腕を振り回し、薬草を搗くような動作をしました。こうした「兎児爺」は神様の身分を完全に失い、完全におもちゃとして扱われました。

 

北京以外では、天津、山東省済南にも「兎児爺」や「兎子王」がありました。

 

済南「兎子王」

 

「兎児爺」が民間の季節の玩具であることは1950年代初めまでずっと続きました。1980年代初頭より、北京で「民間玩具研究委員会」が創設され、「兎児爺」の復活が提唱され、民間の作家に生産の復活が要請され、北京っ子たちに喜ばれました。今日、少数の工芸美術品メーカーが「兎児爺」の生産を続けていますが、製品の意味合いは大きく変化し、室内に飾る置物や旅行の土産として販売されており、人々の生活に潤いを与え、中秋節の雰囲気を盛り上げる役割を果たしています。