瓊華島
第二節 金代の中都
社会経済(続き)
農村の経済概況 都の郊外の土地は、政府、貴族、官僚と大地主の手で掌握されていた。漢人の名門の大地主の中で、韓、劉、馬、趙の四つの姓が、遼以来幽燕地区の大金持ちであった。官田と放牧地は国家が直接管理する土地であり、中都路の放牧地は全部で6万35百顷(1顷は6.667ヘクタール)余りに達した。貴族が賜ったり略奪したりすることで大量の土地を占有し、都城内の170家の宗室の占有地が3,683顷に達した。一般に猛安(女真語で「千戸」の意味)、謀克(同「百戸」)の民戸が内地に移り住んで後、政府が各戸に土地を賜い、そこを耕作させ、平時の口糧とさせた。貞元の遷都(1153年。金の海陵王、完顔亮の中都への遷都)に伴い、上都で元々太祖阿骨打、遼王宗干、秦王宗翰に属していた猛安(三者は合併して「合扎猛安」となった)と右諫議の烏里補猛安、及び太師勗、宗正宗敬の親族は皆、中都に引っ越した。その他の人戸はそれぞれ山東、河北の各地に引っ越した。多くの民間の田畑はこのために略奪を受けた。これらの軍事を職業とする猛安、謀克の人戸は、おごり高ぶり怠けて、田畑を耕したり穀物を植えたりせず、土地を漢族の農民に分けて耕作させ、重い租税を徴収した。金銭の浪費が過度であったので、彼らは二三年先の租税まで予め徴収した。このため広大な土地が荒廃してしまい、桑や棗の木が勝手に伐採されて柴にして売られ、「一家百口、畝には苗がひとつも植わっていなかった。」このように、内地に引っ越した猛安、謀克は、貧困に耐えきれなくなり、軍役に対応する力がなくなった。女真族の腐敗と貧困を防ぎ、軍隊の戦闘力を維持するため、世宗は再び良田を接収し、再度彼らに分配し、彼らが農耕生産するのを督促したが、全く効果が無かった。一方、多くの漢族の農民は小面積の土地しか無かったものさえ失い、甚だしくは先祖の墓地や井戸、竈さえも、彼らに囲い込まれてしまった。人々はこのために恨み骨髄に達し、民族間の矛盾が激しくなった。
都の近郊の農民は、重い租税と徭役の負担以外にも、多くの特殊な搾取や制限にも耐えねばならなかった。王侯貴族の家は、しばしばみだりに人夫を徴用した。いくらかの田地は囲い込んで牧場にされ、人々は無償で政府のために馬の飼育をさせられた。皇帝が狩猟を行う需要を満足させるため、政府は京畿(都の付近)より真定、滄、冀、北、及び飛狐に至るまで、数百里内を皆立ち入り禁止とし、狐やウサギを捕殺する者は厳しく罰せられた。
都の近郊の土地では、稲、麦、桑、麻、瓜、野菜類を除いて、『金史・地理誌』によれば、大いに金、銀、銅、鉄の生産を興隆させ、漢方薬として、滑石(かっせき、タルク)、半夏(はんげ)、蒼朮、代赭石(たいしゃせき)、白龍骨、薄荷、五味子、白牽牛などがあった。良郷の金粟梨(洋ナシ)、天生子(イチジク)、及び易州の栗は、小さくて甘く、何れも有名な果実であった。範成大は詩の中でこう詠んでいる。「紫爛山の梨や紅皴棗、総じて運び易く栗は十分甜い。」南宋から来た使節は、これらの名果を心行くまで楽しんだ。
園陵名勝
遼代以前、燕京地区の名勝は、主に規模の広大であったり、古い歴史のある廟宇であった。金の海陵王が遷都して後、ここは一代の王朝の首都となり、いくつもの皇帝、貴族が遊覧した離宮、別荘で、文人、詩人たちが遊びにふけり、詩を吟詠した風景や古跡が時が経つ毎に生み出された。とりわけ金の章宗の在位期(1190年から1208年まで)は、世宗の大定(1161年から1189年まで)の全盛期を承けて後、国は富み、政治は安定し、朝廷も民間も、贅沢が習慣となる傾向にあった。章宗本人は「退廃的な音楽や女色を楽しむのをたいへん好み、」都の郊外の多くの名勝は、皆彼が造営し、評価し、行幸したので、その時代は有名だった。それゆえ、「西山の古跡は、多くが金の章宗の造るところ」と言われた。
瓊華島、梳粧台 現在の北京北海公園に浮かぶ瓊華島は、金の中都の東北、つまり高梁河の支流が集まった湖沼地区にある小島である。金朝の皇帝はここに離宮、大寧宮を建造し、島を 瓊華島と命名し、湖の名は太液池とした。史敩(しこう)の『宮詞』に、「宝帯香褠(こう)水府仙、黄旗彩扇九龍船。薰風十里瓊華島、一派の歌声採蓮を唱う。 」この詩からも、当時の緑のハスの葉が天に接し、池に浮かぶ龍舟は色鮮やかな旗がたなびき、ハスの実を採る女たちの歌声が響き渡る場面が想像できる。 瓊華島上の築山や巨石は、汴京から移されたものと伝えられた。宋の徽宗は贅沢や堕落した享楽生活を追及するため、大いに「花石綱」を起こし、江南の奇花異石を汴京まで運び、築山を作った。それから瞬く間に、女真族が北宋を滅ぼし、徽宗は捕虜になり下がり、五国城で客死した。彼が収集した珍宝は、これらの作りが細かく、形の珍しい築山の石も含まれたが、皆敵国の戦利品になった。瓊華島上の 梳粧台は、俗に遼の肖太后の化粧台と言われるが、金の章宗が元妃の李氏のために作ったものだ。
燕京八景 北宋の画家、宋廸が瀟湘(湘江)の風景を平遠画法(ひろびろとした眺望の中に山林・水流・舟人などを描いた山水図。水平線が画面のほぼ中央にくる )の山水画八副を描き、世間から「瀟湘八景」と呼ばれるようになってから、文人が地方の風景を描写する際、習慣として八景、十景などと呼びならわすようになった。『明昌遺事』(「明昌」は章宗の時代の元号)の中でも、いわゆる「燕京八景」という言い方が現れる。それらは、居庸畳翠、玉泉垂虹、太液秋風、瓊島春陰、薊門飛雨、西山積雪、盧溝暁月、金台夕照、である。
盧溝暁月
八景の他、『春明夢余録』には金の章宗の西山八院も載せており、何れも章宗が交遊し宴を催した場所である。「そのうち、香水院は京口山にあり、石碑がなお残っている。その少し東は清水院で、現在は大覚寺に改められた。玉泉山には芙蓉殿があり、基壇が残っている。鹿苑は東便門外にあり、通恵河のほとりにあった。」これらは現在は大部分がもう遺跡も残っていない。
寺廟、道観 金代の中都の仏教寺院は、禅寺が多く、律宗寺院は少なかった。著名な寺院には、弥陀寺(法蔵寺)、護聖寺(功徳寺)、甘露寺(香山寺)、聖安寺、隆恩寺、功徳寺、柏王寺、香林禅寺、大覚寺、雀児庵、従容庵などがあり、そのうち香山寺の規模がとりわけ巨大であった。香山寺跡は遼代の中丞、阿里吉が喜捨したものであった。金代にも大規模な築造が行われ、1186年(大定二十六年)に完成し、名を大永安寺と言った。香山の名は、金李宴の『香山記略』によれば、「言い伝えでは、山にふたつの大石があり、形が香炉のようであったので、元の名を香炉山と言い、後の人が略して香雲と称した。」香山寺には祭星台があり、言い伝えでは、章宗が星を祭った場所であった。その西南には護駕松があり、章宗がここを通った時、道の傍らの松の木の影が密に覆っていて、そのため護駕松と呼ばれた。その他、感夢泉があり、聞くところによると、章宗が夢に矢を放つと、その地に泉が湧いたので、翌日地面を掘ってみると、果たして泉の水を得た。それゆえその名がついたそうである。この寺は、明の正統年間、太監の範弘が拡張し、そのため七十万両あまりを費やした。今日の遺跡の中から、私たちはまだ当時の規模の雄壮華麗さのあらましを想像することができる。
北京昌平県東北、銀山の金代古塔群
道観の中で、比較的有名なものに、玉虚、天長、崇福、修真などがあった。全真教の「七真」の一人の王処一は、玉陽子と号し、何度も世宗、章宗の招請を受けて中都に来て、天長観(今の白雲観)に居住した。世宗は彼に養生と治世の道を尋ねた。王処一は答えて言った。「精髄を含んで以て精神を養い、己を恭して以て無為にす。」後に章宗が彼を体元大師に封じた。
金陵 金の初め、阿骨打と呉乞買の陵墓は上京の護国林の東にあった。海陵王が中都に遷都した後、大房山雲峰寺で地を卜し、陵園を造営し、阿骨打と呉乞買を含め、始祖以下十二帝の梓宮(しきゅう。皇帝、皇后の棺桶)をここに改葬し、万寧県に奉山陵を設置したため、その後は奉先県に改称した。熙宗から章宗までの諸帝をここに葬り、元代になってここはまた房山県に改称した。房山の名は大房山より来ている。大房山は山が高く険しく、優れて麗しく、古来よりここは「幽燕の奥座敷」と称された。金陵はおおよそ金、元の時代に既に壊滅的な破壊を受けていた。明朝の人、儲巏(ちょかん)は、『大房金源諸陵』の詩の中でそのことを詠っている。「翁仲(石像)は半ば存す行殿の跡、苺苔(青苔)は尽く蝕す古碑の陰」。これより、明中期までに陵墓はひどく破損していたことを説明している。
蒙古軍の威嚇下の中都
ジンギスカンの中都包囲 十三世紀初め、蒙古部の首領、テムジンは蒙古草原の諸部を統一し、ジンギスカンと号し、直ちに南に向け金を侵略した。1211年(金の衛紹王の大安三年)、ジンギスカンが自ら軍隊を率いて金の師団を野狐嶺で破り、烏沙堡を下し、徳興府を抜いた。金の居庸関の守将は城を棄てて走り、蒙古の大将は中都に入らず、取り囲んだ。『大金国志』の記載によれば、金人は「京城の金持ちを東子城に移し、百官の家族は南子城に入り、宗室は西城に保ち、帝王の外戚を北城に保ち、各々兵隊二万人を配分した。およそ一般市民は、その逃避を聞いた。」「都の橋梁、瓦や石を尽く四つの城に運び入れ、通行に舟で渡し、運べないものは水に投げ入れた。城に近い民家は壊されて薪にされ、城中に納められた。凡そ城市に備蓄されたものは、そのまま子城内に運び込まれ、隠すことは許さなかった。」蒙古兵が城を攻撃し、城中では何度も市街戦が繰り広げられた。四つの子城は堅守され、内城と連携作戦が取られ、蒙古軍は侵攻を進めることができなかった。これに加え、各地で援軍が招集され、ジンギスカンは暫時北に撤退せざるを得なかった。戦争は中都に極めて深刻な破壊をもたらした。この一年、金に使いした南宋の使者、程卓の報告によれば、中都の南城一帯では「ちょうど破壊を受けたところが補修された。」真定以北は、道中ずっと燕城の修復に向かう壮丁や軍糧を運ぶ軍隊に出会った。金朝政府は通常の租税以外に、王朝による食糧買い付け制度を創設し、初めは借りる等の名目で百姓に対する収奪を重くした。「燕京の米の値は石当たり十貫した。軍兵が合わせて毎月支給された米糧は石当たり銭換算で一貫、時価の十分の一に過ぎなかった。」金人の困窮状況がおおよそ知ることができる。
蒙古軍が勢いを盛り返し再度攻めてくるのに備え、衛紹王は告示を出して賢者を招へいし、名を王守信というペテン師の巫師を行軍都統に任命した。王守信は頭に黒い頭巾を被り、黄色の長衣を着て、手に腊牌と牛の角笛を持った「鬼兵」を一隊組織した。この「鬼兵」は当然敵を退ける役に立たず、毎日城を出ては人々を殺戮しては自分たちの手柄にしていた。
1213年、ジンギスカンはまた大挙して金を攻め、宣徳を落とし、懐来を陥落させ、金の行省、完顔綱、元帥の術虎高琪の軍隊を破った。高琪は居庸関まで退却し、自然の要害に拠って敵の攻撃を防いだ。蒙古軍は北口外で堅く阻止され、侵入することができなかった。ジンギスカンはそれで兵を留めて対峙し、自ら大軍を率いて回り道をして涿鹿に出て、金の西京留守、胡沙虎を破り、紫金口から都の南に進入し、涿州、易州を攻撃して下し、別動隊が南側から居庸関を挟撃してこれを下し、北口の対峙軍と合流した。
胡沙虎は中都に逃げ帰って後、軍隊は通玄門外に駐屯した。八月、胡沙虎が謀反を起こして挙兵し、通玄門を奪い、東華門を攻略して破り宮殿に入り、衛紹王を殺して豊王完顔珣を擁立して皇帝にした。宣宗である。貞祐に改元した。これと同時に、蒙古軍は三道に分かれて深く華北平原に入り、河北の郡県は、中都等十一城を除き尽く陥落した。1214年(貞祐二年)春、ジンギスカンと諸王は軍を返し、中都の北郊に集合した。宣宗の使者は講和を乞い、岐国公主、色とりどりの刺繍の衣装三千件、御馬三千匹とその他の金銀珠玉を献上した。ジンギスカンの大軍は尽く駆けて山東、両河の少壮数十万を捕虜にし北に去り、漁児濼(今の達爾泊)で避暑をした。この時の中都はひどく破壊されていた。城中は長らく食糧が欠乏し、餓死する者が十中四五、白銀三斤でも三升の米に換えることができなかった。
貞祐の南遷と中都城の陥落 蒙古軍の威嚇を避けるため、気の弱い金の宣宗(「貞祐」は金の宣宗の元号)は百官、読書人、一般の人々の忠告や制止も聞かず、都を南の汴京に遷すことを決定した。1214年五月、宣宗は丞相に完顔承暉と抹撚尽忠を任命し、太子の守忠を補佐し、中都を留守(皇帝が都を離れる時に大臣に命じて都を守らせる)させ、自分は文書、珍宝を尽く発し、親王、宗族と共にあわただしく南巡に向かった。随行したのは契丹人と諸乣(きゅう。遼、金、元の時代に征服された北方の諸族)で構成された乣軍(きゅうぐん)であった。良郷に至り、宣宗はこの軍隊が信用できないと恐れ、支給した鎧兜や軍馬を奪い返そうとした。乣軍はこのため突然反乱を起こし、統帥(司令官)を殺し、共に斫答、比渉児、扎刺児を長とし、隊伍を反転させ、北の方中都に引き返した。完顔承暉は事変を聞き、軍を派遣し盧溝橋に拠って守り、彼らを通過できないようにした。斫答は副将の塔塔児に軽騎千人を率いさせ、密かに出兵して渡河し、北岸から守橋軍を襲撃させ、盧溝橋を奪い北に向かった。反乱軍は北に向かって後、使者を派遣しジンギスカンに投降した。ジンギスカンは三木合拔都 、石抹明安らと乣軍を合わせ、中都を包囲した。7月、太子守忠も逃亡し、汴京に逃げた。
中都を救うため、1215年二月、金は元帥で左監軍の完顔永錫を派遣し中山、真定の兵を率いさせ、烏古論慶寿が大名等の地方の軍三万余りを率い、御史中丞の李英を以て軍糧を輸送し、参知政事で大名行省の孛術魯徳に軍隊の調整をさせて相次いで軍を発し、進路を分けて北進し、中都の包囲を解くよう企図した。永錫軍は涿州に進んだが、蒙古軍に破れた。李英は行軍の途中で大酒を飲んで酔いつぶれ、軍隊は規律が無く、覇州に進んだが、蒙古軍に囲まれ殲滅され、軍糧は全て喪失した。慶寿はその知らせを聞くと、向きを変え、南に逃げた。これより、中都は援軍を絶たれ、孤立し堅守が困難になった。この年の五月、守忠は城を棄て南に逃げた。承暉は自殺し、中都は蒙古軍の手に落ちた。
毎年繰り返される戦争により、中都は壊滅的な破壊を受けた。雄壮で豪華な宮殿は、敗走兵に火をつけられ、火は一カ月余り絶えず、一面が瓦礫の荒涼とした街に変わり果てた。荘厳で華麗な寺院も、破壊の余り、民家に変わってしまった。郊外では田園に雑草が生い茂り、荒野となり、家は廃墟となり、狐やウサギが出没した。当時の中央アジアのホラズム(花刺子模)シャーからジンギスカンのところに派遣された「布哈丁」Puhadingの使節団の報告によれば、彼らが来た時、戦争は既に終結していたが、中都地方の恐ろしい破壊の痕跡は依然として至る所で見ることができた。白骨が山となり、疫病が流行した。中都の城門のあたりには大量の白骨が横たわっていた。彼らはまた、次のように聞いた。当城が陥落した時、六万(?)人の若い女性が、蒙古軍の手に落ちるのを免れるため、城壁より飛び降りて自尽した。なんと悲惨な一場面ではないか。