金の海陵王、完顔亮の北京(中都大興府)遷都
第二節 金代の中都
金初の南京
金初の対南京統治 1127年(金太宗天会五年)、金軍は北宋の滅亡後、徽宗、欽宗の二帝、后妃(皇后と妃)、皇子、公主、及び宗室の貴戚(皇帝の親族)三千人余りを捕虜とし、並びに汴京(開封)の宣和殿、太清楼、龍図閣の図書書籍、珍宝、文物を全て北に持ち去った。その中には、有名な天文儀、岐陽(岐山の南)石鼓、九経(儒家経典)石刻、宋仁宗の篆書の針灸経石刻、定武(今の河北省定県)蘭亭石刻(『蘭亭序』の真跡)など珍しい文物が含まれていた。これらの文物は少数が途中で散逸した以外は、後に燕京に保管された。この他、金人はまた多くの工匠(職人)、俳優や芸人を捕虜にし、彼らは大多数が燕京に置かれ、「各人で生計を立て、有力な者は店を出し、無力な者は売り物を脇に挟んで呼び売りし、老いた者は市で物乞いをした。南人(漢人)は身分に応じて互いに結婚した。」徽宗は捕虜にされて燕京に連れて来られ、延寿寺に監禁された。欽宗は憫忠寺に監禁された。しばらくして、何れも北方の五国城に移された。
金が燕山府を占領して後、また名前を南京と改名し、元々平州に設けていた南京中書枢密院をここに移した。南京の中書枢密院、或いは行尚書省は、何れも当地の漢人の世家(名門)、例えば劉彦宗、時立愛、韓企先などを任命して相前後して宰相を担当させ、税糧を搾り取り、軍丁を徴発する責任を負わせた。およそ地区に属する一品以下の官吏は皆、制度を受け入れ、役職を拝命した。これは正に遅れた女真族の統治者が、急激な武力による領土拡張の中で、先進的な征服地域に対し、力をかけずに直接統治を行うやり方であった。『南遷録』の記載によれば、粘罕は曾て燕京建都を志し、また「遼人の宮殿は内外城が四城築かれ、それぞれが三里(1.5キロ)の長さがあり、前後に各一つ城門があった。城壁の櫓や堀は、尽く国境地帯の町のようであった。それぞれの城の中に食糧倉庫と武器庫を設置し、それぞれ通路を穿って内城と通じるようにした。」『南遷録』という書籍の真偽はずっと疑われていて、このためこの記載の信頼性は依然として考古資料による裏付けが待たれる。
燕京、華北地区の人々の反抗 女真族が華北を占領して後、遅れた残虐な統治を行い、勝手気ままに金や絹、子女、田地の略奪を行い、壮丁を大量に徴発して軍に入れた。多くの人々を奴隷にし、甚だしきは彼らを韃靼や西夏に追って、戦馬に換えた。彼らはさらに民族の迫害や差別政策を進め、頭を剃って辮髪を強制し、漢服の着用を禁じた。こうした暴挙は華北の人々の断固とした反抗を引き起こした。河北では王彦が率いる「八字軍」、河東では紅巾を目印にする忠義民兵、沃州(今の河北省趙県)五馬山では信王の名を騙った趙恭と馬拡が率いる義軍がいた。京南の中山、劉里忙は境界を山に接し、数万の人々がいた。楊浩はまた自ら南京城中に到り、虚実を探り、仲間をかき集めた。これらの義軍は、大多数が南宋の愛国将校宗澤、岳飛らと連係を保っていた。1140年(南宋の紹興四年、金の天眷(けん)三年)、岳飛の大軍の先鋒は鄭州、洛陽等の地に及び、北方の義軍も敵の後方で歩調を合わせて出撃し、燕京以南では、金の号令は既に行えなくなった。金の華北地区の統治が不安定で、また当時の金政権が依然原始的な遅れた状態であったことから、金が華北を占拠した最初の十数年は、まだ会寧府(今のハルピン東南)を引き続き首都にしていた。
金の中都の建設
海陵王の遷都 1149年(天徳元年)完顔亮は金の熙宗を殺して即位し、歴史書では彼を通称して海陵王と言った。
この時、金と南宋の対峙は、東を淮河に始まり、西は秦嶺山脈に至る線で落ち着いていた。金の太宗呉乞買の時、河南で勃興した劉豫の傀儡政権も、とっくに消滅していた。金の統治区域は、東北から華北、中原までの中国の北半分で、首都は依然として会寧に偏っていて、これは明らかに益々統治上の必要と符合しなくなっていた。
金と南宋の国境線
早くも熙宗時代(西暦1136年から1148年)、先進的な漢文化を吸収して、女真族の遅れた古い習俗を改変する政治革新の事業を積極的に推し進め、たいへん大きな成果をあげた。しかし、政治改革は保守派貴族の猛烈な反抗を招いた。海陵王即位の後、継続した漢制による旧制度改革の路線は大いに前進した。効果的に華北中原地域の統治を強固にするため、遷都問題は明らかに極めて切迫していた。とりわけ、海陵王は妾腹の子で謀殺を通じて帝位を取得したので、宗室の中では、彼に対して不満や不服を持つ者が多かった。こうした状況から、海陵王にとって遷都を名目として、守旧派の貴族を徹底的に打撃を与え、彼らの妨害から抜け出し、政治革新を加速するという決意を深めた。
1151年(天徳三年)海陵王が公布した『燕京に遷都するを議する詔』の中で言った。「先に鎮撫により南方が服し、行台を分置した。時に辺防は寧ならず、法令は未だ具わらず。本永計に非ず、只権に従うのみ。」行台が既に除かれて後、「京師の一隅、辺境四方の広さ千万里。北は民が清く事は簡便。南は地が遠く事は繁雑。州府を深慮して申せば、或いは半年に至り往復す。住民は困窮し、何ゆえ月を期して周知するか。供応では輸送に困り、使命は旅先の宿に苦しむ。」このため南京経営を決意し、遷都の計画をし、張浩、劉筈(かつ)、劉彦倫、梁漢臣、孔彦舟らを派遣し南京の建設工程の責任を取らせた。宮闕(宮殿)の制度は完全に汴京を模倣し、先ず画工を派遣し汴京の宮室制度を描かせた。幅が狭く長さが短く、曲がりくねっていた。
全ての工程は、城市の拡張と宮殿の建造の二つに分かれていた。 張浩らは真定府潭園の材木を取り、宮室を造営した。工役は甚だしく粗暴な強制の下で進められた。三年の間、使役された住民は八十万、兵士は四十万に達した。涿州から南京まで、人夫や工匠を一列に並べ、かごで受け渡ししながら土や石を運搬した。重い労働に、猛暑の天気が重なり、疫病が流行し、多くの人夫や工匠がこのために死亡した。宮殿は黄金や五彩で飾られ、「御殿ひとつが合計億万の費用となった。」奢侈を極め、南宋人が見ても驚嘆する程だった。
1153年(天徳五年)、宮城が竣工し、海陵王が正式に遷都を詔し、南京を改めて中都とし、析津府を改め大興府とした。その他の上京(会寧府)、東京(遼陽府)、西京(大同府)は旧来とおりで、別に汴京(開封府)を南京とし、中京(大定府)を北京とした。海陵王はそして上京宮殿、邸宅を破壊し尽くし、土地を平らにして耕地にし、皇室の一族も皆、中都に引っ越しさせた。
金の六都城
金大興府行政管轄区略図
海陵王の遷都は単に金朝の発展史上新たな段階に至ったことを示すだけでなく、北京の歴史上も意義が大きい新たな段階に至ったことを示している。これより、北京は一代の王朝の正式な首都となり、これより元、明、清と続いていった。海陵王本人は、歴史上彼が果たした役割は、全体を導いたということでは積極的で、この点は間違いない。彼は南方侵略中に殺害され、世宗完顔雍が位を継いだ。「大定三十余年、禁中の近習は海陵の隠ぺいした悪行は、直ちに美しい仕事とされた。ゆえに当時の史官は実録を修正し、多くこじつけをした。」当時の人々は、すべてのそうした侮辱された攻撃の言葉は、百のうち信用できるのは一つだけだと考えていた。元朝の人、蘇天爵もこう言っている。「海陵が殺され、諸侯は歓迎し、極力彼を誹(そし)り、多く醜悪な事を書いた。」こうした歴史上の事件は、今後紐解かれてくるだろう。
中都の宮殿制度 金の中都は遼の南京の基礎の上に、東、南、西の三方面に開拓してできている。有名な漢の両燕王墓は、遼の時代は東城の外にあったが、拡張後、東城の中に含まれた。城の周囲は三十七里余り(実測では18.69キロ)で、城門を十三設けられた。東に施仁、宣曜、陽春。南に景風、豊宜、端礼。西に麗澤、顥華、彰義。北に会城、通玄、崇智、光泰の各門があった。宮城は城の中央の南部にあり、周囲は九里三十歩であった。南が宣陽門、北が拱辰門、東西両側にはそれぞれ宣華門、玉華門があった。主要な宮殿建築は、城南門、豊宜門から北は宣陽門、拱辰門に通じる直線を中軸として展開された。
金中都城
柳の木陰が覆う大通りに沿って 豊宜門を入ると、前面が龍津橋である。橋の下は河水が東に流れ、水は清く深かった。橋は燕石で作られ、色は真っ白で、上面には精巧な図案が刻まれた。橋は三本の道に分かれ、中間が御道であった。御道に沿って内城に入る南門が宣陽門で、道の脇には水路があり、水路に沿って柳が植えられ、道の傍らは東西に千歩廊があった。文楼、来賓館、太廟は千歩廊の東に分布していた。武楼、会同館、尚書省は千歩廊の西に置かれた。更に北に行くと内城の正南門が応天門で、四隅には何れも垜(と)楼(城壁の上に突き出た櫓)があり、瑠璃瓦で覆われ、朱色の門に金色の釘で飾られていた。内城の御殿は九重になっていて、三十六に分かれ、楼閣の数はその倍あった。前殿は大安殿、後殿は仁政殿で、皇帝が通常朝政を行う所であった。その東の東宮は、太子の居住する所で、寿康宮は母后の居所であった。西側は十六涼位で、妃嬪の居所であった。1162年(大定二年)、世宗が中都に入り拠点とし、「仁政」を行っていることを示すために、何人かの宮女を解放するよう命令した。満足して待っていた何人かの宮女は放免されなかったので、恨み憤り、十六涼位に火を着け、太和、神龍、厚徳の諸殿まで延焼した。世宗はまた再建を進めた。同楽園は玉華門外にあり、その中には瑶池鹘、蓬瀛 、柳庄、杏村などの景勝があった。中都の宮殿は完全に北宋の汴京の皇宮の制度に基づき建築され、ひいては屏風や窓、並べられた玉器や骨董は、多くは宣和時代のものだった。建物の風格も、北宋末年に尊ばれた華麗で繊細な気風を踏襲し、贅沢が溢れていた。「その宮殿は規模が壮麗であった。あぜ道が延々と続き、上は大空に接し、秦の阿房宮や漢建章宮もこのようである。」技巧は余す所がなく、誠に贅沢が極められていた。形式と装飾が追及されたあまり、建物の品質が粗悪になり、このため常に補修や粉飾をしていなければならなかった。世宗はこのため、遼代の仁政殿が、装飾が全く施されておらず、長い年月を経ても破損しなかったことに感心してため息をついた。このことは、金の宮殿の品質が遼に比べずっと劣っていたことを示している。
社会経済
人口、工商業 大興府に属する十県、一鎮は、合わせて人戸が22万5592あった。中都城の民族構成はたいへん複雑だった。漢、契丹、奚は金代には既に全て漢人と見做されていた。この他にも、女真、渤海、北方辺境の諸部族がいた。若干の西域から来た回紇(かいこつ、回鹘 。唐代北方のトルコ系部族。ウイグル族の祖先と言われる) 商人も、ここに定住していた。女真族の奴隷制の影響下、華北地区の奴隷の人数は大幅に増加した。奴隷の来源は主に戦争の捕虜であった。「燕山には人を売る市があった。凡そ軍兵は南人を捕虜にすると、値段をつけて之を売った。」少し後には、たくさんの土地を失ったり、債務を抱えて破産した農民も、没落して奴隷になった。当時は在京の貴族や官僚は皆奴隷を所有し、多い者は奴隷の人数が万に達した。1183年(大定二十三年)の統計によれば、都の宗室の将軍司の戸数は170、人口は28,790だった。そのうち正口はやっと982、奴婢の人数が27,808人であった。大量の奴婢の出現は、女真族の遅れた統治が華北地区の社会生産にもたらした退化と破壊の有力な証拠である。
中都の手工業は、遼の時代の基礎の上に、捕虜として連れて来られた汴京の職人により、一層発展した。政府はいくつかの匠作局を設立した。例えば、少府監が所属する裁造署、文繍署、修内習司などである。これらは皆、役所を設けて管轄、統率させた。職人は政府が銭や粟、衣類や日用品を供給した。民間の手工業者は日当が180文だった。彼らは皆、宮廷の生活のためサービスをした。
中都の商業もたいへん繁栄した。政府は中都都商税務司を設立し、「事実を掌握して課税した。」金制:商業税は、金銀は1%、その他の物品は3%徴税した。大定年間、中都の商業税は16万4440貫余りであった。承安元年には21万4579貫まで増加した。明昌三年、中都路のその年の穀物は不作で、「行商人の輸送販売するものが次々とやって来て」、穀物の価格が多少下がった。このことから、商業活動がたいへん活発であったことが分かる。
運河、交通 京東地区の税糧を転送するため、遼は曾て香河と宝坻の間に運河を開削し、俗に蒼頭河(窩頭河)と呼ばれ、また肖后運糧河とも呼ばれ、上は牛欄山水、窩頭庄水に通じ、下は三路堤口に通じ、北は薊州城南十里の紫金洴(しきんへい)と互いに通じていた。
金朝ははじめて中都から東の通州に到る(食糧漕運用の)運河を開削した。この運河は高梁河、白蓮潭などいくつかの河川を利用し、途中に水門を八基設置し、水流を調節し、山東と河北省粟帠が通じた。しかし川沿いの地勢の高低差がはなはだ大きく、また水量も限られており、船舶の運航は水深が浅く停滞し、通州から中都までしばしば十日以上かけてようやく到着でき、運輸需要を遠く満足できなかったので、当時の運輸は主に陸上輸送に依存することとなった。運河は時を経て土砂が堆積して塞がれ、1171年(世宗の大定11年)、朝臣は盧溝河を金口で開削し、盧溝河(今の永定河)の水を中都城北まで引くよう要請した。これにより堀に入った水を東流させ、運河の水量を増大させようとした。金口水路は完成したものの、「地勢が高く険しく、水質が濁り、険しくて激流がうずまき、岸を崩した。濁流で泥がふさぎ、泥が堆積して水深が浅くなり、船運に耐えることができず、」放棄するしかなかった。金口堰が都城より140尺余り(約42メートル)高く、万一洪水で決壊すると、京師が直接脅威にさらされることを特に考慮し、このため金口水路は再度土で埋めて塞ぐしかなかった。泰和年間、韓玉がまた一畝泉の水を引いて、通州に通じる潞河 の水路を開き、船運を都に到らせるよう建議したが、水量が少なく、効果を上げることができなかった。
都の南方の陸上交通を改善するため、1192年(章宗の明昌三年)、盧溝河を跨ぐ大石橋を建造し、「広利」と名付けた。盧溝橋建造の約百年後、イタリアの著名な旅行家、マルコポーロが自らこの橋を渡った経験を、人々を感動させる記録に残した。彼はこの橋を「Pul-i-Sangin」と呼んだ。ペルシャ語の「Pul」は橋の意味で、「Sangin」は石の意味、すなわち石橋である。彼は橋梁の美しく珍しい各部分を次のように称賛して言った。「橋の長さは300歩、幅は八歩を越え、十騎の馬が橋の上を並走することができた。下には橋のアーチが二十四、橋脚が二十四あり、建造がたいへんすばらしく、極めて美しい大理石のみで作られていた。橋の両側には大理石の欄干があり、また柱があり、獅子の腰がこれを支えていた。柱のてっぺんには別に一頭の獅子が置かれた。こうした獅子はたいへん美しく、彫刻はきわめて精緻であった。一歩ごとに石の柱があり、その形状は皆同じであった。二本の柱の間には、灰色の大理石の欄干が建てられ、歩行者が川に落ちないようにさせた。橋の両側は全てこのようになっていて、たいへん壮観であった。」(『東方見聞録』馮承鈞訳、中冊P418)盧溝橋は明の正統年間に修理をされたことがあり、今日まで橋身は依然として屹立(きつりつ)し、私たちの勤勉で知恵のある先人の土木事業の科学上の卓越した成果を十分に証明した。
盧溝橋