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北京史(十三) 第五章 元代の大都(1)

2023年05月25日 | 中国史

元大都城復元図

第一節 大都の建設

 

大都の建設

 燕京等の場所で尚書省の統治が行われる 中都の陥落後、ジンギスカンは直ちに腹心の汪古児(オングル)らを派遣し、勝手に収奪を行い、大量の金銀や金銭を荷造りして積み込み、持ち去った。

 

 戦火の下で幸運にも生存した中都の居住民は、孤立した城の中に久しく閉じ込められた後、食糧が無くなり、城中では人が人を食うような惨状まで出現した。蒙古に投降した漢人の将軍、王檝(おうしゅう)の要求により、蒙古の統治者は軍士(下士官)に兵糧を与え、城に入って転売するのを許可し、これにより飢餓の脅威を解決した。当時、城中に蓄積した貨物は、交易するところが無く、遂には銀を飼葉桶、金を酒かめに換え、大なるは千両にもなった。王檝の提案を実行したので、「士は金銭、織物を得て、民は食糧を獲た。」王檝はまた官吏を盧溝橋に派遣するよう提案し、十の中で一を取り、軍士が掠奪した耕牛を捜し出して、農民に与え、一部の農民は復業することができた。ジンギスカンの統治時代、王檝は宣撫使の肩書で職人たちを統率し帰順させた。施雷が監国であった時代、彼はまた汪古部(オングート部)の監国公主の命令により、中都を領有した。彼はこの時期、蒙古の政治代理人となり、中都地区の責任を負う重要な官吏の一人であった。当時、都城の廟学(孔子廟内の学校)は兵火で破壊され、1229年に王檝が旧枢密院の場所に再び廟学を建設し、春と秋に太学の学生を率いて釈菜礼を行い、昔、岐山(陝西省岐山県)の南で見つかった石鼓を庇(ひさし)の下に並べた。士大夫はこれは儒教の道の再興であると称賛し、礼楽の教化が再起した盛事であった。しかし実は、この時期の中都は、極めて不安定な状態にあった。ただ1228年についてだけ言っても、都の南で信安鎮の人々の反抗運動が発生した。反抗者は北山の李密と結びつき、近郊の各県に侵攻した。中都城内の秩序もたいへん混乱していて、盗賊が横行し、甚だしきは車を走らせて強奪を行い、止めることができなかった。施雷は使節を派遣し耶律楚材と共に驛馬を走らせ燕に来て、これらの強盗は皆、権勢家の子弟であることが判った。楚材は処罰を厳格にするよう提案したので、城中の秩序は多少安定した。同時期に燕薊留后長官に任じられた石抹咸得卜は、甚だ貪欲で、殺人が市中で頻発した。別の蒙古将官三模合は金の飾りの付いた龍のベッドで寝て、金の腰掛けを踏み台にしたが、このように贅沢を尽くし、またそれを求めるのをやめなかった。当時の中都の人々は塗炭の苦しみの中にあった。こうした状況の中で廟学を再開したものの、虚偽の粉飾であるに過ぎず、当然維持継続するのは難しかった。

 

 1234年、オゴタイが金を滅ぼして後、胡土虎中州(河南。黄河の中、下流域)の断事官にし、そこに居住する各戸を収奪し、租税を搾り取り、諸王や軍将に領地を分け与えた。南宋の使者の徐霆は、この胡丞相が曾て燕京でひどい搾取を行うのを自分の目で見たことがあり、「下は教師や乞食に至るまで、銀を出させて租税、徭役の対価とした。」燕京で教師を生業とする者が詩を作って言う。「教学を行う中で銀を納めねばならぬ。生徒は少なくあまりに清貧である。金馬玉堂の盧景善、明月清風の範子仁李舎才は道徳の講義をするのを認め、張齋恰は雨乞いの祈祷をする者を受け入れた。相次いで胡丞相に報告したが、この時は「捺殺因」(蒙古語で”好”)を免れた。」これと同時に、蒙古の統治者はまた入札で税を課す権利を売る(税の請け負い)方策を進め、例えば劉庭玉は五万両で燕京の酒税権を買った。これらの豪商は、任意に税額を増加させ、その中から利益を得、重い搾取を受けていた燕京の人々が、更に決まった額以上の苛酷な搾取を受けることとなった。

 

 モンケがハーン(汗)の位に就いて後、燕京などの地域には尚書省を置き、牙刺瓦赤、不只児、斡魯不、賭答児などを断事官にし、天下の全ての財を燕に授けた。同時に皇弟フビライに漠南(蒙古高原大砂漠以南の地)の漢地の軍事、国事、全てを管理させた。 不只児(ブジル)は任を就いた初日に28人を殺した。一人は馬の窃盗犯だったが、既に杖で打たれて釈放されていた。ちょうどこの時に環刀を献上しに来た者があり、彼は釈放された男を追いかけ、自らその男を殺してこの刀を試した。このような暗黒状態に置かれた燕京の人々は、生命の保障も全く存在しなかった。

 

 大都の造営 1211年にジンギスカンが金を討伐してから1260年にフビライが元朝を建てるまでの半世紀の中で、蒙古軍は絶えず中央アジア、東欧で侵略戦争を発動し、ヨーロッパとアジアに跨る大蒙古国を打ち立てた。この時、汗国の政治の中心は依然として蒙古草原上の哈刺和林カラコルム)であった。燕京は蒙古の統治者が華北、中原を統治する重要な拠点であるに過ぎなかった。フビライは漠南漢地の軍隊と民事の総理を任されて後、駐留地点を草原の端の開平(今の内蒙古正蘭旗の東)に選定し、カラコルムと華北の間の連絡の便を図った。1260年、モンケが死んだ。フビライは急いで鄂州の北から燕京に戻り、直ちに開平で大汗(ハーン)に即位すると、カラコルムの留守を守っていた弟のアリクブケとハーンの位の争奪戦を展開した。フビライは燕京を基地とし、東部諸王や漢人の将軍、読書人、謀臣の支持の下、草原の貴族や保守勢力を代表するアリクブケを打ち負かした。そして積極的に古い制度を改変し、中原の経済の基礎におおむね適応する封建王朝を打ち立て、礼儀を制度とし、漢人の法令を遵守し用いた。元朝初期、フビライの都城は依然として開平にあり、上都と称した。同時に燕京に「宮殿を建立し、省部を分立」して華北、中原地区の統治を併せて顧みることを決定し、戸籍により財政や租税収入を保証し、また今後の遷都のために必要な準備を行う必要があった。このため、彼は1264年(至元元年)燕京を中都と改名し、府の名前は旧来のまま大興とした。

 

 中都の造営は1267年(至元四年)に始まった。前年の十二月、安粛公張柔、工部尚書に任じられた段天祐など同行の工部の官吏に詔して宮殿建立を準備させた。その前後に造営事業に参加したのは、その他に高鐫、野速不花、王慶端、張弘略、劉思敬、及び西域人也黒迭児などがいた。城の土地の測量、宮城の建築計画は主に劉忠、及び助手の趙温、趙鉉より出された。金の中都の旧城は金から元の間の半世紀に破壊されていたので、フビライに旧城址を放棄する決意を促すこととなり、旧城の東北、金代の瓊華島離宮を中心として、新たな都城を建設した。新城は高粱河の下流を選び、宮殿の庭園の水源について、より一層の改善をすることができた。木材や石などの建築材料を輸送するため、再度金口の開鑿を行い、盧溝河の水を引いて西山の木材や石を水路で輸送した。

 

 工事は極めて迅速に進んだ。1267年(至元四年)四月、宮城を新築した。翌年十月には、宮城が完成した。1271年(至元八年)内裏の建設を始め、正式に国号を「大元」と定めた。1272年(至元九年)二月、中都を大都と改め、元朝の首都と定めた。そして元の開平の上都は、毎年夏秋の季節に避暑をする行宮とした。1274年(至元十一年)正月、宮殿が完成し、フビライが正殿の使用を始め、諸王百官の朝賀を受けた。1276年(至元十三年)、城が完成した。1285年(至元二十二年)二月、「詔を発し、旧城の居民の新しい旧城への転居について、身分が高く役職に就いている者を先にし、従来通り、土地八畝(一畝は6.667アール)を一分(一区画)とすると定めた。土地が八畝を越える者や、力が無く屋敷を建てることができない者は、みだりに土地を占拠してはならない。居民の意見を聞いて部屋を作るよう定めた。」貴族や功臣は、悉く封地を受け、屋敷とした。1293年(至元三十年)、最後に大都の東で通州とつながる通恵河が完成し、南北を貫く経済動脈である大運河と接続し、大都全体の造営事業がようやく完成した。このような大規模な土木工事は、主に金から元へ移り変わる時期に長期の騒乱の辛苦を経験し、活力がようやく少しばかり回復しつつあった北方の人々の負担となり、至元四年から十二年までの間、ほぼ毎年幾千幾万という農民や兵士が徴発され、労役に服することとなった。例えば至元八年(1271年)、「中都、真定、順天、河間、平灤の民二万八千余りの人を徴発して宮城を築造した。」元朝政府には「都城修築の詔勅では、凡そ費用は悉く官より給し、諸民から取ること勿れ。並びに樹木伐採の賦役は免除すること」の規定があったが、実際は只の空文に過ぎなかった。徭役のため北方の幅広い人々にもたらした苦しみは、疑いなくたいへん重いものだった。

 

大都の規模

 

 大都の設計思想は、『周礼・考工記』に規定する「匠人が国を営み、九里四方、傍らに三門、国中は九経九緯、経塗(縦方向の大通りの幅)は(馬車)九軌(が並んで走れる幅)。左に祖廟右に社稷、正面に朝廷、後ろに市場の原則を完全に遵守していた。『周礼』は儒家の政治理想の青写真である。元の大都は完全に平地の上に計画的に建造された。少しも過去の因襲による制約を受けておらず、このためある程度までこうした理想が形を変えて実現することができた。フビライは国号を「大元」と定め、「蓋し『易経』の「乾元」の義を取り」、以て「百王を継ぎ常道を行く」と授受の正統を顕示した。彼は年号を「至元」としたが、これも語源は『易経』の「至る哉坤元」から採られた。その他、例えば宮殿の名前は大明、咸寧。城門の名前は健徳、雲従、順承、安貞、厚載、これらも同書の乾坤二卦之辞から採られた。これらは皆、当時フビライが「漢法」を行い、「礼儀制度、漢法を遵守、適用」する、部分的な内容である。これらを通じて、フビライは、新たに打ち立てた蒙古と漢の封建領主連合の専制新王朝が、中原王朝の正統で合法な継承者で、以て漢人地主や士大夫の支持を勝ち取り、また次のステップで南宋を滅亡させ、全国を統一する思想上、輿論上の準備を極めて強く示した。当時、フビライの政治担当の設計師であった劉忠は、出家してまだ還俗していない儒者であり、「『易』及び邵氏の『経世書』より更に深遠であった」。元の大都の宮城の設計思想は、このような歴史背景の下でもたらされたものである。

 

 元の大都城は世界で最も輝かしい都市であった。その建築規模、建築技術、科学的な構造や工事のレベルから見ても、世界のその他の都市とは比べることができなかった。ここはまた当時の世界が嘱目する政治、商業と文化の中心のひとつであった。西方の人は習慣上、ここを「汗八里」と呼んだ。「八里」は突厥語で「都市」の訳である。「汗八里」はすなわち「大汗の都城」(ハーンの都)ということである。ここは雄壮、豊か、華麗さにより、幅広く西方で称賛、羨望されていた。

 城市 大都は北に位置し南を向き、規則的な長方形をしており、その南壁は今日の北京市の東西長安街の南側で、北壁は徳勝門外八里の小関の一線で、土壁の遺跡は、さながら尋ねることができそうである。東、西両側の南の部分は、おおよそ後に城壁で結合された。城の周囲は実測で二万八千六百メートルで、十一の城門があった。正面中央が麗正門(今日の天安門の南)、南の右は順承門(今の西単)、南の左は文明門(今の東単)、北の東は安貞門(今の安定門小関)、北の西は健徳門(今の徳勝門小関)、真東が崇仁門(今の東直門)、東の右は斉化門(今の朝陽門)、東の左は光熙門(今の和平里東)、真西は和義門(今の西直門)、西の右は粛清門(今の北京師範大学西)、西の左は平則門(今の阜成門)であった

元大都城

著名な旅行家マルコポーロはこう記している。「全城に十二の城門があり(記憶の間違い)、各城門の上には宮殿があり、頗る壮麗である。城壁の四面それぞれに三門(北側は実際は二門)、五宮、各角にもそれぞれ一宮が建ち、壮麗さはそれぞれ等しい。宮中には広大な御殿があり、その中では守城者の兵器を蓄えていた。」城壁は土を突き固めた版築が用いられ、基部の厚さは二十四メートルに達した。

徳勝門外土城、元大都健徳門古跡

マルコポーロの記載では、土壁は「壁の根の厚みは十歩だが、高くなるほど厚みが削られ、壁のてっぺんは三歩しかない。あまねく女壁が築かれ、女壁は色が白く、壁の高さは十歩である。」土壁を保護し、雨水のしみ込みを防ぐため、葦(あし)で覆われていた。また文明門の東五里の所に葦場を設立し、毎年葦を収穫し、葦を編んですだれ状にして使用に供した。張昱の『可閑老人集・輦下(天子のおひざ元、帝都)曲』に言う。「大都の周囲には十一門有り、土で築かれた草葺きの哪吒 (北京城の別称)。讖言未来の吉凶禍福の予言)で、もし磚石で包まれていたら、その姿は天王が鎧兜を身に着けているかのようだろう。けれども元の時代を通じて、遂に磚で包まれることはなかった。

元大都城平面略図



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