極小の「マンション(豪邸)」で迫る生命の起源 進化の出発点が見えてきた?
現代ビジネス より 220301 藤崎 慎吾
【前回】無生命でも増殖する
私たちの細胞を包んでいる細胞膜は「リン脂質」という分子が2層にぎっしりと並んでできた袋です。もし内部や表面にDNAのような核酸もタンパク質も何もない、ただの膜だったら、水中を漂うシャボン玉のようなものです。
ところが、ちょっとした化学反応のしかけをほどこすと、それだけでも勝手に複雑な構造になったり、分裂して子供をつくったりします。前回(〈無生命でも増殖する"人工原始細胞"の誕生〉)はそのことについて、詳しくお話ししました。
最近の研究で、そのリン脂質の膜には、さらに驚くべき性質が秘められているとわかりました。もしかしたら、その性質があったからこそ、生命は誕生したのかもしれません。
そして研究に使われた手作りの装置は、約40億年前に始まった「化学進化」の舞台を再現している可能性もあります。一方で、その装置は将来、生物に似たロボットやAI(人工知能)をつくるのにも役立てられそうです。
⚫︎生命は海底の温泉地帯で誕生した?
木枯らしの吹く寒い日は、温泉が恋しくなります。そうでなくても時間とお金さえあれば(そして感染症の流行がなければ)、湯治場を訪ねたくなる人は多いでしょう。それは必ずしも日本人ばかりではないようです。私たちは、どうして温泉が好きなのでしょうか。
開放的な場所でお湯に浸かれば,それだけで気持ちがいいのは確かです。加えて地の底から運ばれてくる熱や温泉の成分が,元気にしてくれるように感じたりはしないでしょうか。感じるとすれば、それは私たちの細胞に刻まれた約40億年前の記憶によるものかもしれません。
地球上の生命は、どこで誕生したのか? 彗星の上から地の底まで諸説ありますが、有力な候補は温泉です。主な理由としては、まずエネルギー(熱)があります。それが化学反応を進めてくれます。また湧きだしてくるお湯には、有機物の材料となる物質や、生命に必要な金属などが豊富に含まれています。
ただ温泉で誕生したと考える研究者も、一枚岩とは限りません。しばしば「陸上」派と「海底」派とに分かれます。それは温泉が陸上ばかりでなく、海底にも出ているからです。海底の温泉は「熱水」、噴きだし口は「熱水噴出孔」、あちこちから熱水が噴きだしている場所は「熱水噴出域」と呼ばれます。
現在の熱水噴出域は、しばしば太陽光も届かない深海に広がり、そこには微生物から大きな魚まで、様々な生物が集まって暮らしています。筆者も一度「しんかい6500」という潜水調査船で海底火山のカルデラに潜り、そこかしこで噴きだす透明な熱水と、その周辺に群がる真っ白なカニや眼のないエビなどを見たことがあります。それ以外の場所は岩ばかりなので、まるでオアシスのように思えました。
深海の熱水噴出域。煙突のような構造物(チムニー)から出ている、白っぽい煙のようなものが熱水。左側のチムニーには、白いカニがびっしりと群がっている。右上の白線は1メートルの長さを示す photo by East Scotia Ridge - Plos Biol 04.tif: Zoloderivative work: Hogweard, CC BY 2.5, via Wikimedia Commons
「生命は海で誕生した」と聞くことは多いように思います。それは旧ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリン(1894〜1980)の「化学進化説」や、それを実験で補強したアメリカの化学者ハロルド・ユーリー(1893〜1981)とスタンリー・ミラー(1930〜2007)の影響が、いまだに強いためでしょう。
オパーリンは原始の海が濃密な「スープ」のようなもので、その中に様々な有機物の集合体である小さな液滴「コアセルベート」が生まれ、それが化学的な進化をへて生命に至ったという説を立てました。
ユーリーとミラーは、1950年代当時の知識で考えられていた「原始大気」を模したガスと水蒸気をフラスコに詰め、そこに雷の代わりである電気火花を散らして、アミノ酸ができることを示しました。これが海に溶けこんでスープ状態になっていたというわけです。
オパーリンやユーリー=ミラーの説を全くそのまま受け入れている人は、もういないと言っていいでしょう。とはいえ生命が「化学進化」という過程を経て誕生したという考え自体は、今も多くの研究者に受け継がれています。また海全体が濃密なスープだったという説も廃れましたが、特定の場所に生命の材料が豊富だった可能性は多くの人が認めています。
その1つが熱水噴出域です。そこでは雷(電気)の代わりに、熱が化学反応を進めてくれるというわけです。
⚫︎陸上の温泉のほうが有利かもしれない
ほとんどの仮説がそうであるように、生命の「熱水噴出域」起源説には、いくつかの弱点があります。そのうちの1つが物質(分子)の濃縮です。
化学反応は、どこか区切られた場所に、一定以上の分子が集まらないと始まりませんし、その状態がある程度の時間、維持されなければ進みません。ところが海には当然、水があって、そこに含まれている様々な分子は絶えず流れたり、拡散したりしています。ずっと揺すられている桶の水に、色とりどりのビーズが浮かんでいるようなものです。そのままだとビーズが、特定の場所に集まり続けることはありません。
生命が陸上の温泉で誕生したと考えれば、この「分子濃縮」の問題は解決できます。とくに、いつも湧きでている温泉ではなく「間欠泉」が、よく引き合いに出されます。時々、勢いよく噴きだしては止まり、またしばらくして噴きだすという温泉で、アメリカのイエローストーン公園や、アイスランド、ニュージーランドにあるものが有名です。日本では宮城県鬼首や大分県別府などに、小規模なものがあるようです。
間欠泉が噴きだして止まると、一時的に水たまり(湯だまり)ができます。その水に有機物の材料となる分子や、化学反応の触媒となる金属分子などが溶けていたとしましょう。
しばらくすると水は蒸発していき、それらの分子は濃縮されていきます。まさにスープです。最終的には水たまりだった窪みの底に積もっていくでしょう。桶の水が蒸発すれば、浮かんでいたビーズが底に積もって集まるのと同じです。
アイスランドにある間欠泉。周囲に多くの水たまりがある photo by iStock
そういう状態であれば、化学反応は進みます。完全に干からびてしまえば難しいですが、間欠泉ですから時々、湿り気も与えられます。そのうちに原始的なタンパク質や核酸などが、生まれたかもしれません。さらにいいのは、それが膜に包まれていく可能性もあることです。
細胞膜は「リン脂質」といってリンを含む脂のような分子でできています。生命が誕生する前にリン脂質はなかったと考えられていますが、それに近い性質をもつ「脂」はあったかもしれません。その分子が、やはり水たまりに混じっていた場合、タンパク質や核酸のような物質を包んで、細胞に似た袋になったかもしれないのです。
このような話をすると「あれ、本当に生命は海で誕生したのかな」という疑いが芽生えてきませんか? 実際、研究者の中でも最近は陸上派が増えていて、とくにアメリカでは海底派を上まわる勢いのようです。
生命が海で誕生したのか、陸で誕生したのかについては、分子濃縮の問題以外にも、様々な根拠を挙げての論争がくり広げられています。もし興味があれば、拙著『我々は生命を創れるのか』(講談社ブルーバックス)に詳しく書きましたので、読んでみてください。
⚫︎「ベシクル」が分子を包んで細胞に
本記事では、いささか分が悪くなってきた海底派にとって、最近、朗報となりうる新発見があったことを紹介します。海の中でも、分子が濃縮される可能性が見えてきたのです。
その発見をしたのは、前回もご登場いただいた自然科学研究機構 生命創成探究センター 博士研究員の杉山博紀(すぎやま・ひろのり)さんと、東京大学大学院 総合文化研究科 准教授の豊田太郎(とよた・たろう)さんを中心とする研究グループです。お2人とも化学者で、共通する専門分野は「合成生物学」です。
ここで、ちょっと前回のおさらいをさせてください。細胞膜を構成するリン脂質は水にも脂にも溶ける「両親媒性分子」です。模式図では、たいてい丸い頭に直接2本の足が生えているように描かれます。その丸い頭が水になじみやすい「親水基」、2本の足が水になじみにくい(油になじみやすい)「疎水基」です。
このリン脂質を、いったん水やエタノールのような溶剤に溶かしてから乾燥させると、容器の底に薄いシートになって積み重なります。ちょうどミルフィーユのような状態です。そこにまた水を垂らすと、積み重なったシート(脂質膜)の間に水が入りこみ、くるっと丸まって袋になります。これを「ベシクル」と呼びます。脂質の頭は水とくっつこうとし、足は離れようとする、その性質で機械的に丸くなるようです。
蛍光顕微鏡で撮影したリン脂質のベシクル。大小、様々なタイプがあり、中には入れ子状になっているものもある
同じ現象が、先ほど述べたように間欠泉の水たまりで起きたかもしれません。くるっと袋になる時には、様々な分子が溶けた水を中に包みこんでしまいます。それがタンパク質や核酸のような分子だったとしたら、リン脂質の膜は基本的に細胞膜と同等ですから、わりと細胞に近いものが、できてしまうわけです。
ベシクルには他にも、いくつかのできかた(つくりかた)があります。これも前回の記事で詳しくお話ししましたが、ある種の両親媒性分子を水に溶かすと「加水分解」という化学反応で、勝手にベシクルができあがっていくという現象を豊田さんは発見しました。
つまり、いったん乾かさなくても、水中でベシクルができる可能性はあるのです。後でまた触れますので、頭の隅に置いといてください。
ベシクルの大きさは、100ナノメートル(1ナノメートルは100万分の1ミリメートル)以下のウイルスサイズから、1マイクロメートル(1000分の1ミリメートル)を超える細胞サイズまで様々です。細胞サイズのベシクルは、とくに「ジャイアントベシクル」とも呼ばれます。しかし膜の厚さは、いずれも4〜5ナノメートルで、本物の細胞でも全く同じです。
膜の断面を見ると、満員電車で押し合いへし合いしている人々のように、リン脂質がぎっしりと縦に並んでいます。しかも、それが2層(2重)になっていて、お互いに足のほうを突き合わせています。これは細胞でもそうですが、ベシクルの外側と内側に水があるので、頭がそちらを向くからです。このためリン脂質の膜は「脂質二重層」とも呼ばれます。
リン脂質の分子が2列にぎっしり並んで細胞膜(脂質二重層)になる
⚫︎脂質二重層はあまり分子を通さない
杉山さんは、この脂質二重層には「相反しているような働きがある」と言います。
細胞膜として考えた場合、それは1つの生命と周囲の環境とを分ける壁、あるいは区画となっています。つまりはアイデンティティを規定しているとも言えるでしょう。
細胞が生きていれば、膜の中には様々な分子が濃縮され、ぎっちりと詰まっています。それが化学反応を起こすことで、代謝などの生命活動が支えられています。単細胞生物の場合、もし膜が破けてしまったら、その中身は周囲に拡散して、もはや生命活動を続けることはできません。つまり死ぬことになります。
一方で脂質二重層は、壁であるがゆえに透過性が悪くなっています。小さな水分子などは通すのですが、それ以外の分子になると、ほとんど弾いてしまいます。これはこれで困ります。なぜなら化学反応(生命活動)を続けるには、外の環境から分子を取りこみ、反応が終わった分子は排出しつつ、一定の濃度を保たなければならないからです。
脂質二重層は化学反応の場を提供しつつも、どこかの段階でそれを阻害してしまうことになるわけです。
この問題を解決するために、実際の細胞膜にはタンパク質でできた一種の出入口が埋めこまれており、特定の分子を内外でやり取りしています。基本的には私たちに食べ物をとる口や、排泄物を出す肛門があるのと同じです。
他にも細胞膜には様々な働きをするタンパク質が埋めこまれており、それらをひっくるめて「膜タンパク質」と呼んでいます。膜タンパク質は、複数のタンパク質を組み合わせた非常に複雑な「機械」です。これが生命の誕生当時からあったとは、とても考えられません。
ここで生命は熱水噴出域で誕生したとする海底派の立場に戻ってみましょう。豊田さんの実験が示唆しているように、水中でリン脂質のような両親媒性分子の袋が勝手にできる可能性も、なくはありません。実際にできたとして、その中にまずは分子を濃縮できれば、陸上派に対する弱みの1つはなくせます。しかし透過性と分子を溜めこむ仕組みの問題が、そこに立ちはだかっています。
⚫︎マイクロサイズの「高級住宅街」を開発
ジャイアントベシクルを研究対象にしていた杉山さんらが、その問題を解決する新発見をしたのは、実は狙ったわけではなく、いくつかの偶然が重なったためでした。まずは研究の道具としてつくった、ある装置の存在があります。
ジャイアントベシクルのような細胞サイズのものを、顕微鏡の下で観察し続けるのは、けっこう大変です。生きていなくても、ふわふわ動きまわるし、写真や映像を撮るにも、なかなかフォーカスを合せられなかったりします。何時間も追いかけたのに、結局、面白い結果が得られないことも、しばしばあります。
また単に観察しているだけではなく、溶液に外から色々な物質を加えて、ベシクルの挙動を見るということもよく行われます。この時、人の手で加えていると、その量などが本当に毎回、正しいのかという不安が生じてしまいます。
こうした問題を解決するために、杉山さんは数十個のジャイアントベシクルをいっぺんに、しかも自動的に撮影し、画像解析までやってくれる装置を開発しました。溶液に物質を加える(流す)作業も、ポンプで自動的に行えるようになっています。さらに画像解析と連動して、どんな時にどんな物質を加えるのかも設定できます。
個々のベシクルには「ネスト(巣)」と呼ばれる、直径でベシクル自体の10倍くらい広い部屋が用意されています。まるで高級住宅街のようなので「MANSIONs(マンションズ)」という名前がつけられました。この場合の「マンション」は集合住宅ではなく、英語本来の「大邸宅」「豪邸」という意味です。とはいえ数十個のネストが並んでいる領域の大きさは、数ミリ程度です。
顕微鏡やポンプ、マイクロ流体デバイスなど、様々な装置を組み合わせた「MANSIONs」と、それを開発した杉山さん。
このような自動化を含む計測装置の開発は、杉山さんが学部4年生のころから細々と進めていました。一方で博士課程では、それ以上に優先して取り組もうとしていた別の研究課題もありました。ところが修士論文を出したころに自宅の階段から転げ落ち、左腕を骨折する大怪我をしてしまいました。こうなると満足に実験などはできません。やむなく、MANSIONsを組み上げる作業に専念したという経緯があります。
そして完成後、実際にジャイアントベシクルをネストに入れ、溶液に色々な物質を流し入れながら装置のテストをしていたところ、奇妙な現象に出くわしたのです。
⚫︎光るはずのないベシクルが光った
MANSIONsでは、溶液が常に流れている状態にできます。個々のネストにも溶液が入って出ていく流路があり、その中にあるベシクルは、ずっと流された物質にさらされた状態になります。そこで後から流し入れた物質がベシクルの周囲にちゃんと届くかを確かめるため、杉山さんはウラニンという緑色に光る蛍光分子を流してみました。すると、まずベシクルが明るい緑色になり、それからネストの中がぼんやり緑色に染まっていきました。これは、ありえないことでした。
なぜならベシクルの脂質二重層は透過性が低いので、ウラニンの分子は、ほとんど入っていかないと考えていたからです。となれば、むしろベシクル内部は暗いまま、その周囲だけが緑色に光るはずでした。もし分子が入れたとしても、全体が同じ明るさの緑色になるだけだったでしょう。ところが実際は、ベシクルのほうがネストの他の場所より明るくなってしまったのです。
これはウラニンだけの話ではなく「ATP(アデノシン三リン酸)」という生物がエネルギー源としている物質に、蛍光分子をつけたものなどを流しても、同様な結果が得られました。
(MANSIONsのネストにジャイアントベシクルを入れた後、ウラニンを流し入れている時の顕微鏡写真。溶液は全体的に左から右へ流れており、ベシクルは右の壁に押しつけられている。ネストの何もない領域や流路の緑は暗いが、ジャイアントベシクルは明るい緑色に光っている。これはベシクル内の分子濃度のほうが、周囲より高くなっていることを示す。なおベシクルの入っていない空っぽのネストもある。右下の白い線の長さは、100マイクロメートル)
上図の結果が得られるまでの過程を示す顕微鏡映像(240倍速)。ジャイアントベシクルは、最初は赤い色に染まっている。そこにウラニンを流すと、まずベシクルが緑色に光って、その後、周囲がだんだん緑色に染まってくる(https://youtu.be/mCj8Ij_GWpk) movie by Hironori Sugiyama
実験に何か不備があると思った杉山さんは、当時、指導教員だった豊田さんに「どうしたら、こんな変な見えかたになってしまうと思いますか」と相談したそうです。
ところが骨折のリハビリも兼ねて、あれこれと原因を究明しているうちに、どうやら分子が実際にベシクルに入って濃縮されているらしい、とわかってきました。つまりMANSIONsのような環境があれば、出入口になるタンパク質のない単なる膜でも、内部に分子を取りこんで溜めることができるらしいのです。
そのメカニズムは、まだ完全にはわかっていません。杉山さんは今のところ、流れがあることと、それによってベシクルがネストの壁に押しつけられること、そして脂質二重層にあるリン脂質と濃縮される分子の両方が負の電荷を帯びていること、これらの3つが重要ではないかと考えています。
非常にざっくり説明すると、まずベシクルが壁で動けなくなっている間に、脂質二重層に並んでいたリン脂質の一部が、流れによってポロポロ抜け落ちていきます。すると膜が少しスカスカになって、分子が入りこみやすくなります。これだけなら逃げていきやすくもなっているはずですが、ここで電荷がきいてきます。
いったんベシクルの中に入ってしまうと、膜も分子もマイナスですから、お互いに反発し合って動けなくなってしまうわけです。脂質二重層の内側の層は、外側の層より抜け落ちるリン脂質分子が少なくて、多少、密度が高い可能性もあります。
ただ、これまでの実験で分子濃縮に成功したのは、負電荷のリン脂質を含むベシクルの溶液に、負電荷の分子を流した時だけでした。中性や正電荷ではだめなのです。
予想される分子濃縮のメカニズム。ネストに流れがない時、蛍光分子はほとんどベシクル内に入っていかない。しかし流れがあるとリン脂質がポロポロ抜け落ちて、蛍光分子が入っていきやすくなる。一方で中に入った蛍光分子は、内側の膜にある負電荷のリン脂質に反発されて外へ逃げにくくなり、だんだんとベシクル内に溜まっていく figure by Hironori Sugiyama
⚫︎分子濃縮は「膜だからできる」
さてMANSIONsのような状況が、熱水噴出域にはあるでしょうか? 実は、ありうるのです。熱水噴出孔には、鉱物などが沈殿した「チムニー」と呼ばれる煙突状の構造物が、しばしば見られます。このチムニーには無数の細かい穴が空いています。中に水やお湯が通っている場合もあるでしょう。もし、そうした穴にベシクルのような袋があったら、中に有機物の材料となりうる分子が濃縮されるかもしれません。
そして、ここが面白いところですが、私たちの細胞膜には必ず負電荷をもつリン脂質が含まれています(電気的に中性なリン脂質も入っています)。一方、生命にとって重要な物質、例えば先ほどのATPや、DNA(デオキシリボ核酸)、RNA(リボ核酸)、そしてタンパク質を構成するアミノ酸の多くが負電荷を持っているのです。何だか40億年前の秘密に、ちょっと触れたような気がしませんか?
東太平洋の水深2597メートルから採取された熱水噴出孔のチムニー(スライスした断面)。長さ約9センチメートル。大小、無数の穴が見られる。左上の縁にあるキラキラしたものは、主に黄銅鉱 photo by James St. John, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons
「膜タンパク質も何もなくても分子濃縮ができるという状況があると、『膜でもできる』というよりは『膜だからできる』みたいな、何か膜が積極的な意味を持ちうるというインパクトがあります」と杉山さんは言います。たかが膜、されど膜ということでしょうか。リン脂質も、DNAやRNA、タンパク質並みに、もっと注目されていい存在なのかもしれません。
杉山さんは現在、別の研究課題に軸足を移していますが、MANSIONsは今も改良が進められています。次の使命は、ある意味で次の進化を引き起こすことです。
前回も触れましたが、豊田さんも参加している「科研費学術変革領域研究(A)分子サイバネティクス」というプロジェクトでは、化学的なAIを開発しようとしています。情報を受取る「センサー」と、それを処理する「プロセッサー」、その処理結果をもとに変形する「アクチュエーター」という、3種類のユニットを組み合わせて、脳のような構造をつくるのです。
これらのユニットは、いずれもDNAやタンパク質などを材料に構成され、それぞれがジャイアントベシクルで覆われます。そして電気ではなく、私たちの体にもあるATPで動かされるのです。そうした分子を供給する装置に、次世代のMANSIONsが使われるかもしれません。果たして人工の「熱水噴出孔」は、生物のようなAI誕生の母体となるでしょうか? 期待しましょう。
第9回は3月30日公開予定です
このコンテンツは、科研費学術変革領域研究(A) 分子サイバネティクス(https://molcyber.org)の支援を受け、ジャーナリストが研究者に長期取材する「ジャーナリスト・イン・レジデンス(JIR)」の一環として制作されたものです