雪の猫神様
千葉県西北部・某所
五郎右衛門の猫
長野県北安曇郡小谷村北小谷
一夜限りの「猫神様」...
1. 純白の「雪」の「猫神様」
今回は短く、即席の「猫神様」の話題を一つ。
既に古い話題となってしまったが、先週末は全国的に寒波が広がり、滅多に積雪を見ない首都圏の平野部でも、数センチほど雪が積もった。雪国の皆さんからしたら、何ほどのこともない量の雪も、慣れない我々からすると、寒かったり冷たかったり、滑ったり転んだり、とにかくちょっとした新鮮味のある話題なのである。
不良中年の筆者は、近所の猫たちに挨拶しがてら、深夜に家を忍び出して、新雪の上で散歩など...と洒落込んだのである。人気のない夜の空気に、みずからが踏みしめるわずかな雪の軋みだけを聞きつつ歩いていると、ふと雪だるまをつくりたい衝動に駆られた。
思い立ったら吉日で、幸い人目もさほどなし、むさ苦しい中年男は、せっせと街灯の下で雪だるまをこさえたとさ。少しばかりサービス精神を発揮しようと、素早く耳と手足に、目と尻尾を足すと、瞬く間に真っ白に輝く「猫神様」が、夜の街角に降臨し給うたと。あとは、前髪も横分けに整えるだけ。うーん、まさに自作自演...。
本当は、近所の猫たちをおびき寄せて記念撮影を、とも思ったのだが、きゃつらもさほど簡単にはこちらの詐略には乗ってくれるものではない。馴染みの猫たちが二匹、あんた何してんの? と云いたげな顔で通過していっただけであった。まあ、あまり人目につくのもよくないから、それで良かったのかもしない。猫たちよ、寒い中、見学有難う!!
雪国の皆様、どうか無事に寒い雪の季節を乗り越えられんことを...。
ついでに、寒さに震える猫たちにも、ちょびっとばかしの愛情を...。
一夜、そんなことを筆者は、「猫神様」にお願いしたとさ。
2. 「五郎右衛門の猫」と「小谷村・姫川温泉」
それにしても、元々、熱帯地方の原産である猫は滅法、寒さに弱い。古来、「猫は炬燵で丸くなる」と歌われるほどだから、もうこれは請け合い。もっとも、聞いた話では、「モスクワ」の野良猫は、零下何十度の厳冬も、雪の穴倉を掘って耐え抜くと云う。しかし、以前訪ねた「仙台」の「三居澤の滝」の辺りでは、野良猫は冬の間に凍死するものが多いらしく、不動尊の傍に猫の祠があったのも思い出される。やはり「ロシア」とわが日本では、猫の耐寒性に違いがあるのだろうか。
我が国の「猫の伝説」を見渡しても、「猫」と「雪」を組み合わせた話は、極めて少ない。雪の多い日本海側の地方では、ときおり、雪の上に巨大な山猫の足跡が残されていた、などと云う、「世間話」程度の話が聞かれたりするくらいか。そんな中でも、「猫」と「雪」の物語と云って筆者の脳裡に真っ先に思い浮かぶのは、やはり「五郎右衛門の猫」のお話である。
昔、『まんが日本昔ばなし』と云う名テレビ番組があったが、その中で放送されたこともあったから、この話を御存知の方も多いかも知れない。あれは、やり切れないほどに悲しい話だった。もっとも、あの番組の昔話と云うのは、放送用にかなり改変され、派手な演出を加えられたものがほとんどなので、「五郎右衛門の猫」の元の話も、もう少しばかり地味なものではある。テレビの前の子供向けだから、しょうがない気もするが、一方で、あれを本物の民話だと信じている人々には残念なことかも知れない。民俗学やフォークロア研究の側からすれば、かなり問題含みのことではあろう。
あのお話の舞台は、確か、「長野県北安曇郡小谷村」の「姫川温泉」だったと思う。主人一家が疫病で死に絶えた後も、雪の降り荒ぶ村はずれの峠道で、道に迷いかけた旅人を無事に里まで導く猫のいじらしさは、思うだに胸を裂かれる。雪なんか本当は大嫌いのはずの猫が、足跡を点々と残しながら、また山の方へと戻っていく姿は、切ない中に、尊くさえあった。
「長野」と云う土地は、何度旅をしても、嫌な思いをしない不思議なところである。特に媚びるような気質はないのだが、総じて他所ものにあっさりと親切である。その上、地元の人々が本来、極めて礼儀正しい土地柄のようである。山深く、冬にはわずかばかりの険しい交通網さえ閉ざされる「信濃」の人々にとって、物資の輸送は死活を左右する問題だったはずである。もしかしたら旅行く人々は、「信濃びと」にとっては、決して「他所もの」ではなかったのかもしれない。
「小谷村」は、峠を越えると「越後」の国である。遠く「日本海」に面した「糸魚川」から「千国街道」を「塩」が運ばれた、そんな「信濃」側の険しい玄関口なのである。「謙信」が「敵に塩を送った」道でもある。旅人の難儀を猫までが救う、そんな思いが「塩の道」には滲み込んでいるのだろうか。
いずれにしても、「五郎右衛門の猫」を思うにつけ、悲しさと切なさの他に筆者が思うことと云えば、「信濃」の人々のべたつかず、さらりと当たり前に品のいいホスビタリティの精神である。「長野」と云っても広い、と云う勿れ。「更級」の国は、どこへ行っても、上の感想ばかりは変わらない。
「五郎右衛門の猫」の話は、いずれ「長野県の猫神」のシリーズの中で、詳しく紹介出来たらいいなと思っている。
3. 最後に、付け足し...
でも、つくって三十分も経たぬうちに、「猫神様」にちんちんを付けていった通行人よ、あんた、いくつになってそんなことしてるんだい? と云いたいが、いい年して雪だるまつくっている中年親父としては、年甲斐のないことに関してはあまり人のことは云えないので、「千葉もん」は、とまれ、とほほである。
「猫神様」は、翌日の三時頃には、ふたたびどこかの北国へと御帰還めされました...。