佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

釣りカルタ

2020-05-16 20:16:33 | 釣り

カルタの「イ」の欄は多くあります、のその中から代表を1つ作ります。

[い」 イスズミ

   よく似てるイスズミとグレ間違えず

同じような色合いと体形、磯釣りに初めて行った人は必ずと言って良いぐらいに間違う

そのくらい小さいものほどよく似ているが、小さいイズスミのことを釣り人はババタレ

とかキットとよぶが、これは釣り上げたときに、必ずフンをするからです。

このイスズミが大きく冬になると、とても馬力のある魚になるのです、ちいさな頃は

上物の竿でも上がるのですが、50センチを超すような大きさにもなると,底物竿で

狙うようになるのです、そしてこれを専門に狙う人もいる、この魚は大変順応性がよく

石鯛場に居着くイスズミはイシダイのエサである赤貝を取りに来るというのを男女群島にて

体験しました。

ただこの魚は和歌山では冬の鍋料理として重宝されるが、夏はよほどうまく料理しなければ

食べられない、この魚を夏に釣った知人が友人にあげた所、翌日なってその人が大変な剣幕で

怒っていたという、何も知らずに煮炊きしたところ魚を食べるどころか室内迄くさくなったという。

 

 

 

 

 

 

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自分の歴史②(仕事の歴史)

2020-05-15 20:00:00 | 日々の思い

コロナ騒ぎでどこにも行けない、仕事もできない、毎日家に閉じこもりで公園がすいているような時間に

散歩に行っています、それ以外は家の中、多くの仲間が心配をしてくれて誰かが電話してきてくれての

監視?ありがたいことです。

この騒ぎが終わったら一気に行くところが増えそうです、釣り堀、石鯛釣りのお供,カセ釣り、磯釣りと

目白押しですが、果たして何時の事やら・・・

それ以外に漁村の子供たちに送りたい「魚のかるた」の製作のための費用を稼がなくはならないのに。

2度死にかけての命、何か世の中に恩返しをしなければと思い仲間の皆と東北の大震災の時に多くの小学校

へ配った、Jリーガーの帽子6000個ほどその時の東北の仲間が今も頑張っている、彼との約束のカルタ

もう少しでできる。

少しは60年から頑張って働いてきた自分の仕事の歴史の自慢?を見てもらおうと書きはじめています。

今回は九州にて設計した処理場です。

大分市津留雨水排水処理場 (平成6年)

   下水道の設計としては四角な建物が多い中で円を多く使った建物で、当初は事務所のものと

   OKは出にくいだろうと話していたが、採用されたので喜びました。

   この処理場の特徴は後ろに15mからのスクリュウポンプを斜めに設置するための、将来計画のために

   5基設定、5×15mを、5基設定するのに電動の屋根を計画しかけたが予算的に無理なので1基づつの

   取り外し式となった、大変大掛かりなものです。

 

 

 

 

 

 

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魚のカルタ

2020-05-14 20:00:00 | 釣り

魚のカルタをまとめるのになかなか前に進みませんでしたが、イロハ48文字の中の「ん」は本来は

入らないものとしてイロハ47文字の魚を描き出して何とかそろってきました。

ただ、できるだけ釣り人との写真を集めたいと思ってるのですが、それができません、

釣り人とのコラボが駄目の所は、松永さんにお願いして魚拓をいただき、それでもない分は、

小西さんにお願して図鑑からとか一般写真からでまとめていってます。

でも釣り人との写真があればと、また名前を書きますのでお持ちの方がおられましたらご協力よろしく

お願いします。

 

現在写真のもの

①リュウキュウハタンポ ②ルリハタ ③ワカサギ ④ネンブツダイ ⑤ウスバハギ ⑥ネズミゴチ(ガッチョ)

⑦ゲンゴロウブナ ⑧フグ ⑨ヘダイ

 

魚拓

①ニザダイ ②ホウボウ ③トビウオ ④ヌマカレイ ⑤サヨリ ⑥ナポレオン ⑦ミノカサゴ ⑧オジサン

⑨カンパチ ⑩ライギョ ⑪テンス ⑫エソ ⑬ヒラマサ ⑭フグ  ⑮ウツボ

 

釣り人とコラボ ①イシダイ ②ローニンアジ ③バラクーダー④チヌ ⑤ツルクエ ⑥グレ ⑦ヤイトカツオ ⑧マダイ

⑨アオブダイ ⑩スズキ ⑪太刀魚 ⑫エベッサン ⑬ギンガメアジ ⑭シマアジ ⑮クチジロ ⑯メジロ ⑰ヨコワ 

⑱イサキ ⑲ソウシハギ ⑳セトダイ 

以上の内訳です、もしお持ちのかたがおられましたら、写真よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

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だぼ鯊の戯言(たわごと)

2020-05-13 19:00:00 | 釣り

逃げろやアカメ

「釣りガール」がメバリングで三十センチ超えを両手に花、「学生アングラー」がテクトロで良型シーバスを爆釣、なんて光景も最近は珍しくありません。このように近年、ショアでのルアーやエギング、オフショアのバーチカルジギングなどでは、古い時代の釣り観念を打ち砕くハプニングが多々報告されています。

 

逃げろやアカメ

   ずっと遠くへ!

 

その習性上、動く標的を黙って見過ごせないフィッシュイーター(魚食魚)たちが易々とルアーアングラーの術中に落ちる…ちょっと切ない気になるのは私だけでしょうか。

切ない、といえば、ヘビー級のルアー対象魚として知られるアカメ。あるところで地元の古老がこんな話をしてくれました。

《その昔、河口域で干潮時に海へ帰り損ねたでっかいアカメがタイドプールで甲羅を干しているのがしばしば目撃されました。村人は声をかけ合って農機具の鍬(くわ)や鋤(すき)を担いで掘りに行ったものです》と。

たぶん浅瀬で居眠りをしていて不覚を取ったのでしょう、そんな漫画チックなキャラクターの持ち主。「おやおや、しまったな、お前!」と味方したくなります。

実は四十三年前、七センチほどの四万十川産のアカメと出会いました。自宅の水槽で五年飼育、五三センチにもなり手に余って寄贈した東京の海水水族館で二十年、再会した時は優にメーターオーバーに成長していました。このわが子のようなアカメがご縁で、漫画家の矢口高雄さんと拙宅で半日アカメ談義の時を。

それからしばらくして週刊少年マガジン「釣りキチ三平」の「四万十川のアカメ」が上梓され、空前のアカメ釣り時代の幕が切って落とされたのです。それからのアカメ狂騒曲の経緯はことさら僕が申す事もないでしょう。

ついに二年前、正確には二〇一二年晩秋NHKでは「ダーウィンが来た・生きもの新伝説=四万十川に潜入!巨大魚アカメ」の衝撃的ドキュメンタリーを全国に放映しました。僕は以前、アカメが単なる興味本位の珍奇な大物釣りの対象魚になり果ててしまったときに味わった喪失感に似た脱力感に襲われました。

なにが衝撃的だったか…現場で釣り上げた八十センチほどのアカメの体に動きを記録するセンサーや超小型のビデオカメラを背負わせて放流。アカメ自身に「アカメラマン」になってもらって幻の魚の、謎のベールを剥がそうという試みだったからです。    

移動中に川岸のヨシ原を長時間休憩場所として利用する、獲物を追うアカメのダイナミックなハンティングの実写=急上昇、攻撃、急反転=などなどアングラーの目には攻略のポイントとなりそうな「内部告発」のヒントも数々明かされていました。

でも誤解しないでください。どこかの掲示板で「メカアカメって虐待?」なんて書き込みがありましたが、決して前代未聞の調査を行った東京大学大気海洋研究所の先生方に恨み言を申し上げるつもりはございません。科学は真実に迫るものですから…。

それでは、いったいお前さんは何が言いたいのか、と、読者諸賢に訝られそうですね。

ハイ、釣りキチ三平が最終章でロープをほどいて「潜水艦(アカメ)」を四万十川河口の沖合へ見送ったように、「逃げろやアカメ、ずっと遠くへ!」と、みんなに声をかけてあげたいのです。(イラストも・からくさ文庫主宰)

 

 

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自分の歴史①(仕事の歴史)

2020-05-12 18:51:10 | 日々の思い

読売新聞に自分史のことを書いたらという記事があり書いてみました。

色々とブログとして書いてきていますが自分の仕事の歴史というのを考えてみました、最近今までの釣りの

歴史「釣り三昧」として書き始めてますが、これだけ釣りに没頭してこれたというのは、亡き女房のおかげで

あると、日ごろから言ってはいますが、仕事もたくさんしてきました、一時は24時間営業なんて言ってました

その当時を振り返って、この年になるまでに自分の設計した作品を亡き女房と見て歩きたかったのですが

かないませんでした。

特に独立してから主に35年に渡りやってきた、上水と下水の処理施設をどのくらい設計に従事したのか

調べてみたら100カ所近くありました、北は金沢から南は沖縄までで、関東方面はありません。

すべて、コンサルタント会社の協力会社として、当時の下水道事業団などに登録されています。

その中でも一番記憶に残り今までにもない最大の規模の処理場は大阪の津守のポンプ場です。

これは天下の日建設計さんのお手伝いでした、昭和62年から7年近く工事はかかったと思います、規模が

平面が約90m×85mで、地上21m、地下がなんと32mもあり、延べ床面積が35000平米からのものでした。

大きさを説明するときに心斎橋の大丸を例にとり、この建物を地下に埋めた大きさと話していました。

建屋としての規模はこれが最大ですが、一般的な処理場としての最大は高松の水処理場などのほうが

面積的には大きいものがあります、100m×300mの平面で屋上が公園としました、これには大変なエピソードが

ありましたが、また聞いてもらいます。

少しは自分の設計屋としての人生での自慢のものですので見てください。

当時の設計図より

立面図

断面図

この地下の盤の厚みは3mからの所もありました、このぐらいに深くなると海の中にもなるので

建物が浮き上がるのです、水圧というのはものすごいものです、そのためにも重量で対抗して

持たさなければならないために、このように地下が深い工事は水との戦いです。

 

追記

昨日コメントいただきました、2017年8月22日の書いた小島(児島)氏の所で

写真に続いて男女群島にてお世話になÞぅた田中氏のことを書いたのが児島氏と混同するような

書き方になり済みませでした、その時に田中氏がなくなられたとの事、お世話になった

田中氏のご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

 

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