佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

釣り堀紀州

2020-06-06 19:34:53 | 釣り

やっとコロナからの解禁?

久しぶりに釣り竿を握りました、長く釣りをしていなかった感じがします。

実際その通りですが、密になるといかんという事で釣りも禁止だったのがOKとなり

急だったのですが、今中師匠に誘われて三橋氏を無理やり誘い6日行ってきました。

前日に仕掛けの段取りもして早朝4時過ぎ起きて三橋氏の家まで迎えに行き2人で

高速を1時間少し駆けて広川の紀州釣り堀に着きましたら、なんと、駐車場は満員御礼

受付の手前の方においてくださいと、モギリのおばさんが言う、ちょうっと待ってと

いつものモリナガグループのところまで行き、無理やり少し開けてもらい置かせてもらった。

さすがにフアンの多い紀州コロナも負ける人の出、でも全員がマスク姿なのでよかった。

その数ザット100人以上、皆さん待ちわびていたのでしょう。

お天気は曇り空で気温はこれから高くなりそうな感じ。

私たちの森永グループはA地区に10にんで入った、果たして今日は釣れるのでしょうか

行く前に今中師匠から今日は釣れへんと思うデーなんて言われていた、なんせ今週の初めの

オープンでバカスカ青物も釣れたというから、居残り組もいないのではないかなとの推測

僕は大体紀州は釣れないのですが・・・

案の定第1投から竿のガイドトラブルみんなが釣れだしてるのに、直すのに余計に焦る

やっと直して第2投目すぐにタイが食ったホットして竿をたてまき始めたら、ハリ外れ

残念、情けないやら悔しいやらトラブル解消してすぐ来たので気をよくしたのに、

エサを付ける前に再度タナを図り良しとエサを付けて同じポイントへ。

ゆっくりとしたあたりからウキが入った、良しと合わせを十分に入れて巻き上げた

今度はばっちりと針がかかっていた。やっと坊主逃れ、その間に三橋氏はシマアジを釣り上げていた

青物を主に狙っている私ですが、今日はイシダイ用の中の小さめのアブのタイコリールを付けての

青物仕掛けの道具立てを変更しての試の仕掛けなのですが、青物の時間になり放流もしてもらった後

それぞれにアタリがあり釣れだしたが、私のアジには1度だけの食い逃げで終わってしまった。

結局今日もタイ2匹で終わった、アー腹立つ下手なんだろう、皆さんが釣れてるのに僕は釣れない

悔しいが仕方がない、なぜかトラブルがあるからなのであろう・・・

釣り堀の横でのイカダ釣り

 

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釣り場の解禁

2020-06-05 19:07:31 | 釣り

府県を超えての移動は自粛との事から釣り場にも皆さん行けなくなったのが、

なんとかやっと近場の所は行けるようになった。

まだ遠征は皆さん控えているのではないでしょうか、7月になれば釣りに限らず

各地でドット動くのではないかなと思いますが、その関係で密になり、第2波が

こなければよいのだが・・・

このコロナは年寄りはかかると一発で駄目になるというから動きにくいが、

釣り堀もようやくOKとなり釣り場なら密になりにくいだろという事で

土曜日に和歌山の広川の紀州に師匠に連れてもらうことになった、

そしてよく週の水曜日には本拠地の淡路じやのひれにもいつもと違うメンバーで

行く段取りを付けた、淡路はいつも山形社長の家に泊めてもらっての釣でしたが

今回は日帰りです、少しは気分転換になるであろう。

 

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住吉さん

2020-06-03 21:00:46 | 日々の思い

昨日何年ぶりかの住吉神社に行きました。

亀井先生が住吉のカメの調査をしていたとの事からのぞきに行きました。

中学時代に行って以来だと思います、懐かしい太鼓橋も見てきまして、写真も撮ってきました

そして近くのウナギ屋さんに案内してもらい[うな丼]をよばれてきました、美味しかった

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私の宝物2

2020-06-02 19:25:40 | 日々の思い

昨日に続いてトンボ玉の事

私がこのトンボ玉を研究されて作られておられる藤村さんと知り合いになり、色々と話を

聞いていくうちに、自分の工房を建てたいとのお話になり、どのようなものを建てるのが良いか

という事から、大きさ予算、構造と決めていき、平面プランもその段階から話し合っていきました。

鉄筋コンクリートの2階建てで将来3階建てに増築できるようにとの希望で平面計画をしました、

夕陽が丘の比較的地盤の良いところでしたので、べた基礎の3階建ての計画ですがとりあえずは、

3階部分は庭園としました、今でいう緑化で土を40センチほど入れました。

その数年後このあたりのマンション計画で残念ながら売却されて、今は藤井寺のほうにお住まいを

変えられましたそして今は友人の息子と孫さんが後を継いでおられるようです。

そのお父さんが作られた日本でも最高のトンボ玉が「小桜トンボ」

 

 

「乾隆小桜とんぼ」について

清朝に乾隆という時代がありました、清朝の最盛期で、工芸も隆盛を極め玉器やガラス器も

すぐれたものが作られました、瑠璃敞のガラス器の美しさは遠く欧州の人たちを驚かせたと

いわれていました。

その乾隆時代に造られた玉に小桜トンボという玉があります、小さな5弁の花模様が全体に

散りばめられた美しい玉です。

その玉が我が国に入ってきたのが、二百年余り前のことです、我が国の工人達はその美に

魅せられ同じ球を造ろうと努力しましたが、どうしても造ることができず、似たような花で

玉を造り、小桜トンボと名付ました、しかし花の造り方と、花弁の白の鮮やかさが全く異り

一見してそれと判別できます。

1978年  小桜トンボの説明書      藤村琢磨工房主

                             藤村英雄敬

追記、トンボ玉とは、ガラス工芸に詳しい由水常雄氏が1980年に書かれておられる

   「トンボ玉という本から」

   古代人の美玉を求める強い愛着心が文明の土地で作られた

   科学技術の粋ともいえるガラス製の美玉=トンボ玉を、文明果つる未開の奥地にまで、

   道なき道を通り抜けて伝播させていったのであったという。

  

   江戸中期に書かれたものによると

    地は瑠璃、或いは白きに赤き花の散らし紋あり。

                物の如く見えて、至極うつくし

    つまり瑠璃色や白色の素地に赤い花柄の散らし文様がついている玉という事。

 

 

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私の宝物1

2020-06-01 19:06:36 | 日々の思い

皆さんそれぞれに宝物をお持ちでしょう。

と言ってもそんなに高級なものでもないが自分にとっては大事にしてきたものというのはあると思う。

外にいけない日々が続くと、家の中での整理が次々とできてきます、断捨離という言葉も生まれてきている、

その中で今までしまっていたものが出てくる、何となく懐かしいものも・・・

それを見てもらおかなと、少し長くなりますが読んでください。

「トンボ玉」聞きなれた言葉やなと思う方は見たことがある方でしょう。

私が設計事務所として独立したての頃に友人の藤村氏のお父さんを紹介してもらったそして天王寺に工房を設計させてもらった、(今はもう立ち退かれてないが)

その方は大昔のトンボ玉に魅せられて制作に今から80年ほど前から一生をささげられた偉いお父さんでした。その友人と孫さんがお父さんが亡くなられた後を

継いでおられてます。このお父さんの作品は本にも載せられていますが、

この時の小桜トンボやフエニキアの男性頭部型ペンダント式トンボ玉などはもう作る方はいないのでは・・・

 

「トンボ玉(蜻蛉玉)」

トンボ玉・・目もあやな美しい模様と色彩をもった球の材質は、陶器の釉薬、

七宝焼の薬と同様硝子質で、その色は各種金属の酸化物をまぜて発色させます。

したがってその色は不変であります、模様の深さは5ミリ位、浅いものでも

1ミリ嵌入しています、つまり象嵌細工となっています。

故に砥石で摺った位では消えません。

近頃ガラス玉にエナメルで模様を描いた玉や陶器の玉に上絵付けをした玉を

見かけますが、似ても非なるものです。

トンボ玉は約3000年余り以前、エジプトで初めて作られたといわれていますが

近頃の研究ではメソポタミヤの方が先だとも言われています、いずれにしても

地中海東部の地方で初めて作られました。

その後中東、西域を通って漢の少し前中国に入り朝鮮半島を経て我が国に伝わりました。

その遺物は漢,新羅およびわがくにの古墳からも出土して博物館で見ることができます。

正倉院にも多くのトンボ玉を所蔵しています、しかし上代のトンボ玉やガラス製造の

技術はやがて絶えてしまい世人に忘れられてしまいました。

近世南蛮人の渡来と共にトンボ玉は再び我が国にもたらされました、当時の大名,

有徳人はきそって求め愛玩しました「古渡極品」は土をもってつくねたるが如しと

後の人が評した古渡トンボ玉はこの頃のものです、南蛮人の後から来た紅毛人もまた

トンボ玉をもってきました。

そしてトンボ玉を造る技術も伝えられ長崎・堺・京・大阪・江戸でも作られるように

なりました「装剣奇賞」「万金産業袋」「茶家酔古集」などの書物にもトンボ玉に

関する記述がみられるほど世人にもてはやされました。

その後、大正末期までは主として煙草入・印籠・堤藍等の結〆玉として、または、かんざし

根掛等の髪飾として、あるいは組紐などにつけた装飾品として愛用されました。

                              

1978年  小桜トンボの説明書      藤村琢磨工房主

                             藤村英雄敬白

     

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