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映画『東京家族』について

写経 33. 『レイテ戦記』 (3)

2013年08月21日 | 『レイテ戦記』

“Thou hast nor youth nor age / But as it were an after dinner sleep / Dreaming of both.


Here I am,an old man in a dry month,
Being read to by a boy,waiting for rain.
I was neither at the hot gates
Nor fought in the warm rain
Nor knee deep in the salt marsh,heaving a cutlass,
Bitten by flies,fought.”  『Gerontion』 T.S.Eliot




わたしはここにいきついた、老いた男が乾いたひと月のなか、
少年に生存の本性を読み上げさせつつ、雨を待っている。
わたしは暑き城門で
生ぬるい雨のなか戦ったことはなく
膝を湿った塩の沼地の深みにはめ、短剣を振りあげ、
飛ぶ虫の群れに刺され、戦ったことはさらにない。

 『ジェランション』 T.S.エリオット

(深瀬基寛訳を参考にして、石川訳。)


 


 『レイテ戦記』 大岡昇平  「第九章 海戦」から


 “この戦記の対象はレイテ島の地上戦闘であるが、(昭和十九年)十月二十四日から二十六日まで、レイテ島を中心として行われた、いわゆる比島沖海戦は、その後の地上戦闘の経過に、決定的な影響を与えているので、その概略を省くわけに行かない。
 これが日米海軍の最後の決戦となったことは周知の通りである。聯合艦隊は艦船の八割を挙げて出撃し、敗れた。レイテ島周辺の制海権は米国に帰し、同時に地上戦闘もまた決戦の意味を失ってしまうのだが、大本営は海戦の経過のうちに出現した航空特攻に望みをかけた。敵がわが抵抗に手を焼いて、戦争を止そうといい出すかもしれないという希望を、終戦ぎりぎりまで持ち続けた。”



 

 “しかし「武蔵」沈没は多くの悲惨事に充ちている。前代身聞の巨体が活動をはじめた時は、また意想外の事態も発生する。対空戦闘のため主砲も三式弾という対空焼夷弾を発射する。合図のブザーが鳴ると共に甲板上に増置された高角機関銃の射手たちは、適当な遮蔽物を見付けて避難しなければならないのだが、戦闘中でブザーの音が聞えなかったり、実際鳴らなかったりするから、多くの者が海上に吹き飛ばされた。発射後爆煙が艦上を傘のように蔽って、突込んで来る敵機が見えなくなった。
 空から降って来る人間の四肢、壁に張りついた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦低における出口のない死、などなど、地上戦闘では見られない悲惨な情景が生れる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない。

(以下、pp191-192にかけて、「海ゆかば水漬く屍」渡辺清 から引用。) 『レイテ戦記(上)』 大岡昇平 (中公文庫版)




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写経 32.  『レイテ戦記』 (2)

2013年08月20日 | 『レイテ戦記』

 この8月16日、『東京新聞』の「千葉版」に、こんな記事が載った。 http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20130816/CK2013081602000134.html

 
 「戦跡を歩く(3)佐倉連隊営所(佐倉市) 跳下台から戦地へ」   “陸軍歩兵の訓練に使われた跳下台を案内する渡辺さん(写真)=佐倉市城内町で
 
 佐倉市城内町の佐倉城址(じょうし)公園に、スイレンの花が咲く小さな池がある。周囲の青々とした草むらを奥の方に向かうと、枝葉が広がる木立の間から、何とも場違いなコンクリート製の階段が姿を現す。
 試しに高さ約三メートルの十二段を上り切っててっぺんに立ってみた。急角度と踊り場の狭さに足がすくむ。下りるときは恐怖心がさらに増し、完全に腰が引けてしまった。
 「上るための階段じゃない。飛び降りるためのものなんですよ」と佐倉城址公園ボランティアの会代表の渡辺宏さん(78)は言う。どういうことか。
 二十一ヘクタールを超す園内は江戸初期に築かれた城跡であるとともに、佐倉連隊と総称される陸軍歩兵連隊の営所跡でもある。第五十七連隊は平時なら県内から毎年約八百人が入営。二年間の訓練で戦地の道なき道を前進する体力、精神力を養った。
 この階段は跳下(ちょうか)台と呼ばれる。日清、日露戦争の反省を踏まえて、歩兵の訓練を体系化した「体操教範」にも記載されている訓練器具だ。
 兵士の卵たちは、飛び降りる段を少しずつ上げながら恐怖心を克服し、最終的に背のうを身に着けて最上段に立ち、自信を付けて旧満州(中国東北部)へ、上海へと出征していったのだろう。
 佐倉連隊に関連した遺跡として、兵舎の便所跡、車道の石碑、軍犬・軍馬の墓なども園内に散在している。中学校の平和ツアーなど、子どもたちが戦争について勉強に来ることが多いという。
 渡辺さんは「残念ながら旧日本軍は兵隊を消耗品と考え、悲劇も多い。それでも直視すべきだと思う。散策しながら歴史をかみしめてほしい」と話す。連隊の遺跡は、太平洋戦争でほぼ全滅した部隊の悲劇を思い起こさせる。

 渡辺さんには、戦争末期に暮らしていた東京の空襲が激しさを増し、静岡、富山への学童疎開の記憶が残る「いなかの寺で寝泊まりし、遠くの空が爆撃で赤く染まったのを覚えている。ガイドしている理由の一つかもしれない」と話した。 (小沢伸介)

    ◇

<佐倉連隊> 1874(明治7)年から1945(昭和20)年の終戦まで佐倉城址に置かれ、陸軍歩兵第2、第57、第157、第212などの連隊を編成した兵営の総称。第2連隊は西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。第57連隊は満州事変や日中戦争に出征し、レイテ島でほぼ全滅した。連隊長は、後に内閣総理大臣となる林銑十郎や陸軍大将となる今村均が務めた。 ” 

                                『2013.8.16 東京新聞』 



  『レイテ戦記』 大岡昇平  「第十二章 第一師団」から

 “(昭和十九年)十一月一日、方面軍派遣のレイテ島決戦師団の第一陣としてオルモックに上陸したのは第一師団(通称玉)である。師団は歩兵第一聯隊(東京)、第四十九聯隊(甲府)、第五十七聯隊(佐倉)の歩兵三個聯隊を基幹として編成されていた。”



                「第十三章 リモン峠」から

 “五十七聯隊長宮内大佐がリモン峠の頂上に着いたのは、(昭和十九年十一月)三日の暮れ方であった。聯隊付大隊長要員としてマニラで配属された長嶺秀雄少佐、副官間宮正巳大尉のほかに、大隊砲一門、一個分隊の兵を連れた仁木少尉も一緒であった。
 片岡中将(第一師団長)は一個小隊の「歩兵」を連れて来いと命じたのだったが、伝達の誤りから、「小隊砲」となった。小隊砲なんてものは日本の軍隊にはないから、多分大隊砲だろうということになったのである。リモン稜線にさしあたってほしいのは、歩兵なのであるが、いまさらそれをいっても仕方がない。大隊砲はあっても邪魔にはならない。兵は峠の諸方に散開して敵の動きを監視することになった。
 片岡中将はマナガスナスで受けた米軍の定量砲撃の経験を語り、兵たちにとにかく壕を掘らせろといった。宮内聯隊長に、須山参謀指導の下に稜線の守備を命じ、自分は宮内聯隊長の乗って来たトラックで後方に急行した。師団主力を掌握し、配置を決定しなければならない。忙しいことであった。
 宮内良夫大佐は、十六年十二月一日蒙疆駐屯の独立歩兵第二大隊長から転補された、片岡中将と同期の二七期生である。鹿児島県の出身、温厚な指揮官で、房総人の粘り強さを理解していた。結局リモン北方稜線で、米二一連隊と対抗したのは、五十七聯隊だけとなるのだが、その頑強な抵抗は、この気質の強味を遺憾なく発揮したものといわれる










 


 “佐倉市城内町の佐倉城址(じょうし)公園に、スイレンの花が咲く小さな池がある。”






 

 “この階段は跳下(ちょうか)台と呼ばれる。”















































 “横顔に朝陽がとうめいに射している。” 『きことわ』









 

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写経 30. 『レイテ戦記』 大岡昇平 (中公文庫版 上巻)から 

2013年08月15日 | 『レイテ戦記』
 “大本営海軍部はしかし、敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせた戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんなにいいにくくともいわねばならぬ真実というものはある。 
 決戦が迫っていた(昭和十九年)十月十七日、アメリカの機動部隊は健在である。従って比島の飛行場、船舶は一,〇〇〇機以上の艦上機に攻撃される危険がある、ということはこの種類の真実に属していた。
 もし陸軍がこれを知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて、小磯首相が「レイテは天王山」と絶叫するということは起こらなかったかも知れない。三個師団の決戦部隊が危険水域に海上輸送されることはなく、犠牲は十六師団と、ビサヤ、ミンダナオからの増援部隊だけですんだかも知れない。一万以上の敗兵がレイテ島に取り残されて、餓死するという事態は起こらなかったかも知れないのである。
 こういう指揮の誤りは個人の一責任ではなく、その個人を含む集団全体に帰せられねばならない、――これはフランスの歴史家マルク・ブロックの意見である。彼は陸軍大尉として一九四〇年のフランス戦線の崩壊に立ち会い、「奇妙な敗北」でその実態を分析した。(彼はレジスタンス運動に加わって銃殺されたので、戦後の出版である。)
 旧日本軍の軍事機構は天皇の名目的統帥による「無責任体質」(丸山真男)といわれるが、これは必ずしも天皇制国家の特技ではないようである。民主主義国家でも軍部という特殊集団には、いつも形骸化した官僚体系が現れる。夥しい文書化された命令、絶えず書き改められる指導要綱、「機密」「極秘」書類の洪水が迷路を形成する。外部の容喙は許されないし、また不可能である。内部の部課同士でも理解不能なのだから。セクショナリズムが生じ、競争心と嫉妬をもっていがみ合っているのである。
 勝利によって鼓舞されている間は、円滑に働くこともあるが、敗北の斜面を降りはじめると、欠陥が一度に出て来る。
 真珠湾出撃の時はあれほど厳密な電波管制を敷いた日本艦隊が、なぜミッドウェイの前にはやたらに通信を取り交して、艦隊の動きをアメリカに諜知されるようなへまをやったか。山本五十六は六ヵ月の間にばかになってしまったのか。答えは否定的なのである。戦勝におごった軍事組織の全体をひきしめることは、聯合艦隊司令長官個人の能力を越えていたのである。
 海軍は昭和十九年には、日米戦力の比が一〇対一になることを知っていたといってよいくらいまで、的確に予想していた。それなのに開戦に対して「否」といえなかった。いまさら軍備が不十分だ、とは天皇と国民の前でいえなかったからだといわれる。しかしこれは軍令部総長の自尊心と気の弱さにだけ帰することは出来ない。日本海軍全体がそういう合理的な動きが出来ないほど老朽化していたのである。サイレント・ネイヴィの沈黙の内側は空虚だったのだ。”

                           第四章 「海軍」



 “フィリピンのゲリラの歴史は、原住民のよそ者襲撃としてなら、一五二一年にマゼランを殺したマクタン島の酋長にまで遡らなければならない。支配者に対する反抗という観点からすれば、一八九六年スペイン人に対して蜂起したボニフォシアである。一八九八年アメリカが、反乱の拡大によって、実質的にフィリピンの支配者ではなくなっていたスペインと不当な取引をして、新しい主人となってから、反乱は三年続いた。アメリカの歴史は米西戦争に続く鎮圧段階として略述するだけだが、フィリピンの歴史家は米比戦争と呼んでいる。それはアメリカが十二万六千の大軍を送って、三年余かかった鎮圧であった。そしてレイテはアギナルド将軍が降伏した後も長く抵抗を続けた島であった。最後の武力抵抗が終るのは、サマール島南方で一九〇七年のことである。”

                           第二章 「ゲリラ」



 “私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一のことだからである。”
 
                           第五章 「陸軍」

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