“われわれドイツ人は抽象によって感覚する、われわれはすべて歴史によって堕落させられた。この命題はなんと絶望的に響くことであろうか――これは次に来る国民文化へのあらゆる希望を根こそぎにする命題であろう。というのは、そのような希望はいずれもドイツ的感覚の真正と直接性とに対する信仰、不可侵の内面性に対する信仰から生え出るからである。もし信仰と希望の泉が濁らされてており、内面性が跳躍し、踊り、扮装し、抽象と打算によって自己を表現し、次第に自己自身を失うことを学んでしまっているならば、いったいなお何が希望され信仰されるだろうか! そして自身の統一的内面性に対する確信がもはやなく、形を損ぜられ堕落させられた内面性をもった教養ある者と近づき難い内面性をもった教養なき者とに分裂しているような民族のもとで偉大な生産的精神はなおどのようにして耐えうるであろうか! もしも民族感覚の統一が失われて行ってしまい、その上に、民族の教養ある部分と自称し、国民的芸術精神の持ち主であることに対する権利を自己に要求しているまさしくこの一部分において感覚が偽造され彩色されていることがわかるならば、生産的精神はなおどのようにして耐えうるであろうか。”
“ここそこにおいて個々人の判断や趣味が一層洗練され醇化されたとしても――これは生産的精神に対する償いとはならぬ。いわば一宗派に対してのみ語らざるをえなくなり、己れの民族の内部ではもはや必要でなくなったことが生産的精神を苦しめるのである。おそらくこの精神は今やむしろ己れの宝を埋めたく思うであろう。なぜなら己れの心が万人と苦を共にすることで満ちているのに、一宗派によって尊大な態度で庇護されることは嘔吐を催させるからである。民族の本能はもはやこの精神を出迎えてくれない。その本能に向かってあこがれに満ちて腕を拡げても無駄である。生産的精神に今なお何をなすことが残っているか、生けるもの、生を産むものとしての己れにとって破滅であり辱めであるもの、少なくともこれに審判者として有罪を宣告するために、あの妨害的束縛に対して、己れの民族のいわゆる教養のうちに築かれた柵に対して激しい憎悪を向けること以外にはない。かくして生産的精神は創造者にして救助者であるものの神的快楽を己れの運命の深い洞察と交換し、そして孤独な知者として飽満せる賢者として終わる。これは極めて痛ましい光景である。いやしくもこれを観る者はここに聖なる督促を認めるであろう。彼はみずからに言い聞かせる、これはなんとかしなくてはならぬ、民族の自然と魂のうちにあるあのより高き統一は危急のハンマーに打たれて再び消失しなくてはならぬ、と。では、どういう手段で摑むべきか?ここでもまた彼の深い認識以外に何が残っているか。すなわちこの認識を発言し、言い触らし、両手にいっぱい持って撒き散らしながら、彼は一つの欲求を植えつけることを希望する。強い欲求からはいつか強い行動が発生するであろう。そして私は、以上の危急や欲求や認識の例をどこから取って来たかについて疑いを残さないために、ここではっきりと私の証言をしるしておかなくてはならぬ、われわれが追求し、しかも政治的統一より以上に熱烈に追求するものは、あの最高の意味におけるドイツの統一であり、形式と内容の、内面性と因襲の対立が絶滅した後でのドイツ的精神とドイツ的生の統一であること、すなわちこれである。―― ”
『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』 フリードリッヒ・ニーチェ 小倉志祥 訳