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映画『東京家族』について

 『ニーチェの馬』 , 『反時代的考察』  フリードリッヒ・ニーチェ (続き)

2013年12月28日 | 映画『東京家族』

 “われわれドイツ人は抽象によって感覚する、われわれはすべて歴史によって堕落させられた。この命題はなんと絶望的に響くことであろうか――これは次に来る国民文化へのあらゆる希望を根こそぎにする命題であろう。というのは、そのような希望はいずれもドイツ的感覚の真正と直接性とに対する信仰、不可侵の内面性に対する信仰から生え出るからである。もし信仰と希望の泉が濁らされてており、内面性が跳躍し、踊り、扮装し、抽象と打算によって自己を表現し、次第に自己自身を失うことを学んでしまっているならば、いったいなお何が希望され信仰されるだろうか! そして自身の統一的内面性に対する確信がもはやなく、形を損ぜられ堕落させられた内面性をもった教養ある者と近づき難い内面性をもった教養なき者とに分裂しているような民族のもとで偉大な生産的精神はなおどのようにして耐えうるであろうか! もしも民族感覚の統一が失われて行ってしまい、その上に、民族の教養ある部分と自称し、国民的芸術精神の持ち主であることに対する権利を自己に要求しているまさしくこの一部分において感覚が偽造され彩色されていることがわかるならば、生産的精神はなおどのようにして耐えうるであろうか。”




“ここそこにおいて個々人の判断や趣味が一層洗練され醇化されたとしても――これは生産的精神に対する償いとはならぬ。いわば一宗派に対してのみ語らざるをえなくなり、己れの民族の内部ではもはや必要でなくなったことが生産的精神を苦しめるのである。おそらくこの精神は今やむしろ己れの宝を埋めたく思うであろう。なぜなら己れの心が万人と苦を共にすることで満ちているのに、一宗派によって尊大な態度で庇護されることは嘔吐を催させるからである。民族の本能はもはやこの精神を出迎えてくれない。その本能に向かってあこがれに満ちて腕を拡げても無駄である。生産的精神に今なお何をなすことが残っているか、生けるもの、生を産むものとしての己れにとって破滅であり辱めであるもの、少なくともこれに審判者として有罪を宣告するために、あの妨害的束縛に対して、己れの民族のいわゆる教養のうちに築かれた柵に対して激しい憎悪を向けること以外にはない。かくして生産的精神は創造者にして救助者であるものの神的快楽を己れの運命の深い洞察と交換し、そして孤独な知者として飽満せる賢者として終わる。これは極めて痛ましい光景である。いやしくもこれを観る者はここに聖なる督促を認めるであろう。彼はみずからに言い聞かせる、これはなんとかしなくてはならぬ、民族の自然と魂のうちにあるあのより高き統一は危急のハンマーに打たれて再び消失しなくてはならぬ、と。では、どういう手段で摑むべきか?ここでもまた彼の深い認識以外に何が残っているか。すなわちこの認識を発言し、言い触らし、両手にいっぱい持って撒き散らしながら、彼は一つの欲求を植えつけることを希望する。強い欲求からはいつか強い行動が発生するであろう。そして私は、以上の危急や欲求や認識の例をどこから取って来たかについて疑いを残さないために、ここではっきりと私の証言をしるしておかなくてはならぬ、われわれが追求し、しかも政治的統一より以上に熱烈に追求するものは、あの最高の意味におけるドイツの統一であり、形式と内容の、内面性と因襲の対立が絶滅した後でのドイツ的精神とドイツ的生の統一であること、すなわちこれである。――  ”     

                                           『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』  フリードリッヒ・ニーチェ 小倉志祥 訳     

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 『ニーチェの馬』  冒頭のナレーション

2013年12月27日 | 映画『東京家族』

1889年1月3日
トリノでのこと
フリードリヒ・ニーチェは
カルロ・アルベルト通りの
部屋を出た

散歩か それとも
郵便局へ向かったのか

その途中
間近に あるいは遠目に
強情な馬に
手こずる御者を見た

どう脅かしつけても
馬は動かない

ジュゼッペか カルロか
恐らくそんな名の御者は
烈火のごとく怒り
馬を鞭で打ち始めた

ニーチェが駆け寄ると
逆上していた御者は
むごい仕打ちの手を止めた

屈強で 立派な口ひげを
たくわえたニーチェは
泣きながら
馬の首を抱きかかえた

ニーチェは家に運ばれ
2日間 無言で寝椅子に
横たわっていた後――

お約束の
最期の言葉をつぶやいた
“母さん 私は愚かだ”

精神を病んだ最後の10年は
母と看護師に付き添われ
穏やかであった

馬のその後は誰も知らない








ぎょ-しゃ【御者・馭者】  ① 馬を取扱う人。

              ② 馬車の前に乗って、馬をあやつり走らせる人。



うま-ひき【馬引】  うまかた。まご。



うま-かた【馬方】  ① 駄馬をひいて客や荷物を運ぶことを業とする人。





                                                『広辞苑 第六版』

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 『ニーチェの馬』 , 『反時代的考察』  フリードリッヒ・ニーチェ

2013年12月27日 | 映画『東京家族』

 “われわれドイツ人は抽象によって感覚する、われわれはすべて歴史によって堕落させられた。この命題はなんと絶望的に響くことであろうか――これは次に来る国民文化へのあらゆる希望を根こそぎにする命題であろう。というのは、そのような希望はいずれもドイツ的感覚の真正と直接性とに対する信仰、不可侵の内面性に対する信仰から生え出るからである。もし信仰と希望の泉が濁らされてており、内面性が跳躍し、踊り、扮装し、抽象と打算によって自己を表現し、次第に自己自身を失うことを学んでしまっているならば、いったいなお何が希望され信仰されるだろうか! そして自身の統一的内面性に対する確信がもはやなく、形を損ぜられ堕落させられた内面性をもった教養ある者と近づき難い内面性をもった教養なき者とに分裂しているような民族のもとで偉大な生産的精神はなおどのようにして耐えうるであろうか! もしも民族感覚の統一が失われて行ってしまい、その上に、民族の教養ある部分と自称し、国民的芸術精神の持ち主であることに対する権利を自己に要求しているまさしくこの一部分において感覚が偽造され彩色されていることがわかるならば、生産的精神はなおどのようにして耐えうるであろうか。”
       

                                『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』  フリードリッヒ・ニーチェ 小倉志祥 訳     

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『ニーチェの馬』  第二日目の対話

2013年12月25日 | 映画『東京家族』


 「(クランク)イン前の参考試写。内容が似てるというだけで選ぶのではないんだ。もっと、大切なことをみんなで共有するためにやる。」 山田洋次                     

                                                  『ある晴れた日の東京家族』 犬童一心



「焼酎(バーリンカ)を分けてもらえないか」

 (中略)

―― なぜ町へ行かずに

「町は風にやられた」

―― どうして?

「めちゃくちゃだ」

―― そんなバカな

「すべて駄目になった
 何もかも堕落した
 人間が一切を駄目にし
 堕落させたのだ
 この激変をもたらしたのは
 無自覚な行いではない
 無自覚どころか
 人間自らが審判を下した
 人間が自分自身を裁いたのだ
 神も無関係ではない
 あえて言えば加担している
 神が関わったとなれば
 生み出されるものは
 この上なくおぞましい
 そうして世界は堕落した
 俺が騒いでも仕方ない
 人間がそうしてしまった
 陰で汚い手を使って闘い
 すべてを手に入れ

 (音楽 徐徐にin)

 堕落させてしまった
 ありとあらゆるものに触れ
 触れたものを全部
 堕落させた
 最後の勝利を収めるまで
 それは続いた
 手に入れては堕落させ
 堕落させ手に入れる
 こんな言い方もできる
 触れ 堕落させ 獲得する
 または ―
 触れ 獲得し 堕落させる
 それがずっと続いてきた
 何世紀もの間延々と
 時には人知れず 時には乱暴に
 時には優しく 時には残忍に
 それは行われてきた
 だがいつも不意討ちだ
 ずるいネズミのように
 完全な勝利を収めるには
 闘う相手が必要だった
 つまり優れたものすべて
 何か気高いもの…
 分かるだろう?
 相手にすべきではなかった
 闘いを生まぬよう
 それらは消え去るべきだった
 優秀で立派で気高い人間は
 姿を消すべきだったのだ
 不意討ちで勝利した者が
 世界を支配している
 彼らから何かを隠しておく ―
 ちっぽけな穴すらない
 彼らはすべてを奪い尽くす
 手が届くはずがないものでも
 奪われてしまう
 大空も我々の夢も奪われた
 今この瞬間も 自然界も
 無限の静寂も
 不死すら彼らの手の中だ
 すべてが永遠に奪われた
 優秀で立派な気高い人間は
 それを見ていただけだ
 その時 彼らは
 理解せざるを得なかった
 この世に神も神々もいないと
 優秀で立派な気高い人間は
 最初からそれを
 理解すべきだった
 だがその能力はなかった
 信じ 受け入れたが
 理解することまでは
 できなかった
 途方に暮れていただけだ
 ところが ―
 理性からの嵐では
 理解できなかったのに
 その時一瞬にして悟った
 神も神々もないことを
 この世に善も悪もないことを
 そして気づいた
 もしそうなら
 彼ら自身も存在しないと
 つまり言ってみれば
 その瞬間 ―
 彼らは燃え尽き 消えたのだ
 くすぶった末に ―
 消え失せる火のように
 片方は常に敗者で
 もう片方は常に勝者だ
 敗北か勝利か
 どちらかしかない
 だがある日
 この近くにいた時
 俺は気づいた
 それは間違いだったと
 俺はこう思っていたのだ
 “この世は決して変わらない
 これまでも これからも” と
 だが大間違いだった
 変化はすでに起きていたのだ」



―― いい加減にしろ くだらん










 “きょうも風がつめたい。”

 “さわやかな風が吹いている。”
                


                    『親鸞 完結篇』 五木寛之 (東京新聞)

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『ニーチェの馬』 題名

2013年12月22日 | 映画『東京家族』

 原題は、ハンガリー語の、『A Torinói ló』である。



 【a】 は、定冠詞。

 【ló】 は、馬;軍馬,騎馬。


          『ハンガリー語辞典』  今岡 十一郎 (大学書林)


 【Torinói】 は、上記の辞典には載っていなかったが、トリノであろう。英題では、『The Turin Horse』となっている。

 ハンガリー語での発音は、「ア トリノーイ ロー」 という感じだろう。
 
 辞典に【Torinói】がなかったので、この単語を分解して調べていたら、




 【Tor】〔名詞〕 供応,供宴,宴会;

 【női】〔形容詞〕 女の,女性の;


 などがあって、これも推測だが、「トリノーイ」という意味の音に、上記の二単語も反義的に、少し想起されるようにと、題されたのかとも思った。


 この「トリノ」はイタリアの都市で、冒頭のナレーションで明らかにされるように、ニーチェと関係がある。
 
 
 この冒頭部は、第二日目の後に、詳しく書く。  (続く)
 

 
 


 

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