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映画『東京家族』について

映画 『東京家族』 (その47) 『珈琲時光』(2)

2013年11月29日 | 映画『東京家族』

 エチオピア【Ethiopia】 アフリカ北東部の連邦民主共和国。「シバの女王の国」と称して世界最古の王国とされ、四世紀頃からキリスト教国となる。(後略)
 
                                                                『広辞苑 第六版』





 ※ エチオピアから一時帰国しているが、あまり知られていないせいか、船橋三番瀬国際空港は、成田に比べてガラガラである(笑)。
   
   今回、思うところがあって、映画『珈琲時光』のメモを作っておく。





 「古義人は、紙表紙の薄い本を二冊、スーツにはさんでトランクに入れて来たのだった。
  千樫も幾冊か読んだことのあるモーリス・センダックの、しかし自分が知っている印象とは別の絵本“Outside Over There”と、こちらはなじみのセンダックのスタイルの、愛嬌のある怪物が表紙に小さくあしらわれた“Changelings”という小冊子。」

                              『取り替え子 チェンジリング』 大江健三郎 (2000年12月5日 第一刷発行)
 










 誠心堂書店 (午後4時過ぎ)


   ハジメのいる店内に、陽子が入って来る。


ハジメ 「おう」

   陽子、本に気付いて、

陽子  「お!」

ハジメ 「これがねえ…」

陽子  「うん」

ハジメ 「話してた内容に、すごく、近い」

陽子  「オーゥ、“Outside Over There”」

   それを読む陽子と、柱時計の音。


  『珈琲時光』 侯孝賢監督 (2003年)








 “飛び上がって喜んで、ウーウー悲鳴をあげて笑うだろうな。”   『狂人日記』 魯迅 竹内好 訳


 “他们没有杀人的罪名,又偿了心愿,自然都欢天喜地的发出一种呜呜咽咽的笑声。” 『狂人日记』 魯迅








 “もう英語で小説を読む暇のない吾良は、ムジールの顔写真のあつかいが面白い装幀を調べてみた後、窓の外に目をやって、紅葉が始まったばかりのハナミズキや、濃い赤の花をつけている秋咲きの薔薇を眺めていた。”


                   『取り替え子 チェンジリング』 大江健三郎
               

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 『リーダーズ英和辞典』 第2版~第3版

2013年11月21日 | 映画『東京家族』

 ※ 天候不順で、昨日と同じ場所にいる(笑)。
    こんな時は、辞書を読むに限る。









「style」 (2a)文体,スタイル;話しぶり,表現法;《芸術上の》様式;《建築》様式,様(よう);
         《特定の国・時代・流派・個人の》独自の風,芸風,流派:

          the ~ and the matter of a book  本の文体と内容 /

          in a familiar [heavy,plain,pompous]~  くだけた〔重苦しい,平明な,大仰な〕文体〔話ぶり〕で /

          a writer without ~ [with a ~ of his own] 文体をもたない〔独自の文体をもった〕作家 /

          the Gothic [Norman,Renaissance]~  ゴシック〔ノルマン,ルネサンス〕様式《建築の諸様式》 /
 
          in the ~ of Wagner ヴァーグナー風に.


           (2版,3版とも同じ)





「late」 (2) 終わりに近い,後期の,末期の(opposite. early):

        ~ spring 晩春 /

         a boy in his ~ teens ハイティーンの少年 /

        ~ in life 老齢になって,晩年に.

        ★ 比較級を用いると時期がいっそう不明瞭になる: the later Middle Ages 中世の末ごろ.


           (2版,3版とも同じ)





      (1)の説明が、第3版では深化している。

       ~ dinner 夜の正餐  (第2版)

       ~ dinner 遅い夕食;《Victoria 朝時代の子供を同席させない》夜の正餐  (第3版)














    それにしても、この他に、「理化学辞典」や「広辞苑」なども持ってきているので、リュックが重くて仕方ない(笑)。

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 「八ツ橋をくれたおじさん」 沢田研二

2013年11月20日 | 映画『東京家族』

 ※ エチオピアの首都に来ているが、偶然入った古書店に、日本語の本があった(笑)。
   重要な「音楽論」が載っていたので、再録しておく。

   なお、ネット環境が不明なので、次回の更新は、いつになるかわからない(笑)。


 






 “僕がまだ小学生のころである。銀閣寺のあたり、哲学の道と呼ばれる、疏水のほとりに、八ツ橋の工場があった。そこの前を通ると、プーンといい香りがして、時折、ちょこちょこと工場に入っていって、おじさんにヘタをわけてもらって食べていた。きっとあれは品物にならないクズか切れ端だったんだろう。ペロペロしたあの八ツ橋のヘタが、なんとおいしかったことか。今も八ツ橋は僕の好物。粒餡が入っていたりするが、あれはダメ、焼いたのもダメ。断じて生八ツ橋。なかでもヘタへの憧れ……。カステラの焼き損って焦げたところがおいしいように、お菓子は市販品にならないところのほうがおいしい。
 そして河道屋の「蕎麥ほうる」。幼いころ、親父がお土産にもらってきてくれたのを、貴重品のようにして食べ、おいしいなァと感じたことを思い出す。
 京都の人だから、おいしいお菓子は食べ飽きているでしょう、羨ましい……と言われるが、京都人がお寺回りに熱心でないように、熱心なのは、京都以外の人たち。僕が食べたこともないようなお菓子を、東京の人が詳しく説明してくれる。京都に住んでいる人で、どれだけこれほど知っている人がいるだろうかと、おかしくなってしまったりする。
 なにごともそうだろうが、身近にあるものには、あまり関心はひかれないものである。京都に住んでいたころは、僕もそうだった。遠く離れた今、偶然にお菓子の名前を聞いたりすると、ああ、こんな形だった、あんな色だったと、フッと頭に描いて、懐かしい思いがすることもある。離れてこそ、よさが判るというものなのだろうか。
 見直してみれば、京都のお菓子はじつにきれいなものである。手をかけ、洗練され、器にもこっている。特に夏のお菓子。あの透きとおった、清浄なうつくしさは、他のものに置きかえられはしない。冷たくして口に運ぶ。京の夏がここにある。京都のお菓子に対する僕のイメージは、ここに凝縮される
 京都のお菓子を音楽にたとえると、どんな音でしょう、と妙な質問をされたことがある。これは難しい。どんな音、どんな音楽……? やっぱり和風の音かなあ、お琴の音かなあ、と僕は答えた。しかし、これじゃあまったく外国に行っているときの日本料理って感じじゃないか。まだ答えは出ない。 
 今も銀閣寺のあのあたりには、八ツ橋の香りは流れているだろうか。あのときのおじさんは、もうおじいさんになっているだろう。もし、訪ねていったら、昔のようにヘタをわけてくれるだろうか。しかし、ここまでくると、思いはとどまってしまう。幼いころと同じに「ああ、おいしい。ああ、うまい」と感じられるだろうかと……。
 思い出の中に封じ込めたあの味は、今も再現されず心を揺さぶるのである。”


      『京のお菓子』 「暮しの設計 118号」 中央公論社 (昭和53年2月1日 発行)

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 “The Arthur Waley Translation”

2013年11月10日 | 映画『東京家族』


今度、エチオピアヘ真珠を探しに行くことになったので、ブログをすこし、お休みする(笑)。





 

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  ♪ ラップ ♪ (2)

2013年11月06日 | 映画『東京家族』



  


 


  『小学館版 日本の歴史 7』







 







 “親鸞は『教行信証』で「海」という言葉をよく使う。”  『日本の霊性』 梅原猛 (佼成出版社)


                                                          (→「あけくれ」 『2013.11.3 東京新聞』)







                       














  『教行信証』  「顕浄土真実教行証文類序」


 竊かにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(かい)を度する大船(たいせん)、無碍(むげ)の光明は無明(むみやう)の闇(あん)を破(は)する恵日(ゑにち)なり。

 ひそかに考えてみると、わたしたちには思いはかることも及ばない阿弥陀仏の広大な誓いは、渡ることのむつかしい迷いのを渡らせてくださる大きな船であり、なにものにもさえぎられない光は、真理に暗い愚かさの闇を破ってくださる智慧の陽光である。


しかれば則ち、浄邦縁熟して調達(でうだち)・闍世(じやせ)をして、逆害を興ぜしむ。浄業機彰(あら)はれて、釈迦、韋提(ゐだい)をして安養を選ばしめたまへり。

だからここに、浄土の教えをあらわす機が熟して、提婆達多(だいばだつた)や阿闍世(あじやせ)太子による父王の殺害という事態を起こさせ、また浄土に生まれるための念仏とその念仏の人とをあらわすために、ここに釈迦仏は王妃韋提希(いだいけ)夫人に安養の浄土を選ばせられたのである。


(以下、読み下し文、略)


これこそは、世の人を導くために仮に姿を現された方々が、ともに等しく、苦しみ悩む人々を救おうとされる姿であり、釈迦仏の慈悲が五逆の罪と仏の教えを誹謗する罪を犯す人たちや、仏になる因(たね)をもたない人たちに恵みを与えようとお考えになったものである。

 だからこそ、ここにはっきり、完全でなに一つ欠けるところなく融けこんでいる、もっとも優れた徳を具えた仏のお名前が、悪を転じて徳に変える正しい智慧であり、信ずることのむつかしい、金剛石のようにくだけない信心が、疑いを除いて、さとりをえさせる真実の理法であるとわかったのである。

 このようなものである以上、世間一般の人には行ないやすいまことの教えであり、愚鈍なものには行きやすい近道である。釈迦仏が生涯にわたって説かれた教えは、こののような功徳に勝るものではない。この汚れた世を捨てて浄土を願いながら、そのための行に迷い、信に惑って、心も暗く、さとるところも少なく、悪は重く、障りの多い人は、とくに釈迦如来のお勧めを仰いで、かならずもっとも優れた、さとりの捷径(しょうけい)に身をまかせ、ただこの行だけを奉じ、ただこの信だけをあがめなさい。

 ああ、広大な誓いの強いお力には、いくど生を重ねても遇わせていただくことは困難であり、真実の清らかな信心は永遠の時をかけても、うることはむつかしい。さいわいにして、この行と信とがえられたなら、遠く過去からの因縁によるものと、よろこびなさい。もしまた、このたび、疑いの網にまといおおわれて、信心をうることができなかったら、また元のように永劫に迷いつづけていくことだろう。

 本当に、これこそ、救い取ってお捨てにならない真実のお言葉であり、世に超えてたぐいのない正しいみ教えである。よく聞き、思いをひそめて、あれこれと疑ってはならない。

 ここに愚かにも罪深い愚禿釈の親鸞は、うれしいことに、インド・西域(さいいき)の聖典や、中国・日本の祖師たちの解釈の言葉に、とても遇えそうもないところをいまお遇いすることができ、とても聞けそうもないところをすでにお聞きすることができた。そして真実の心(真宗)である、教えと行とさとりについて、その教えを心から敬い信じて、とくにはっきり如来のお恵みの深いことを知った。だからこうして、耳にしたところをよろこび、えたところを讃えるのである。

                                  

                                                              『教行信証 序』




                       (参考文献) 『日本思想大系 親鸞』,『教行信証(文庫)』 (岩波書店)、 『親鸞』石田瑞磨〔いしだ みずまろ〕 (中央公論社)










 たしかに、「序」においても二箇所「海」があるし、本巻でも多くの海のイメージ,姿が現れるようである。

 そこで例によって、「海」の言葉に注目し、これから『教行信証』を読んでいく、かもしれない(笑)。
 









  『2013.11.2 東京新聞』 山口晃 画






























 夏山の東山あり京に来し  『虚子五句集』(岩波文庫)

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