新古今和歌集の「三夕歌」については、古文の授業でも触れられていたのでよくご存知と思います。
出典:http://y-tagi.art.coocan.jp/shiko036.html
「新古今和歌集」秋上に並んでいる、第五句が「秋の夕暮れ」である三首の和歌を「三夕歌」と呼んでいます。
寂しさは その色としも なかりけり 槙立つ山の 秋の夕暮れ (寂蓮法師)
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ澤の 秋の夕暮れ (西行法師)
見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ (藤原定家)
まあ、「秋の夕暮れ」を最後に歌うのは当時の流行りだったようで、今なら歌謡曲のようなものだと思います。
秋の訪れとともに多かれ少なかれ「もののあはれ」を感じるようになるのは人間の性のようなものです。最近では秋になっても暑いので、それが感じづらくなってきたことは否めませんが。
私自身を振り返ってみても、秋の夕暮れに「もののあはれ」を感じていたのは、高校生の頃までだったかも知れません。感受性の問題というより、日々の過ごし方の問題だと思います。
「もののあはれ」もそもそもは、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つとされており、いわば流行りものの一種です。
情緒的な表現が少しずつ減少してきた現代では、「あはれ」は「哀れ」、つまり人を可哀想と思う心のようになってしまいました。そこに歌枕は存在しません。
「秋」というお題で何か文学的なことを書こうかなどと画策しましたが、そんな素養も持ち合わせない無粋な人間なのでこれくらいにします(笑)
「もののあはれ」を感じることのできる感受性の強い人になりたいものですね。
今はそれよりもファジの昇格争いの方が100倍大事な秋の夕暮れです。無粋なことで申し訳ございません。
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