おじさんのスポーツおたく奮戦記? 第2章:issanの諸国漫遊記!?

岡山のスポーツチーム、出身選手、岡山に関係する人々などを勝手に応援するissanの日本国内漫遊記 !?

北の富士カレー!?

2025年02月01日 06時51分47秒 | 大相撲

郵便局に寄った際に見つけたので早速買いました。「国技館カレー」とか「国技館ハヤシ」などはよく目にしていたのですが、北の富士カレーは昨年11月に亡くなった北の富士勝昭さんを偲ぶ意味でも良いかなと思って買いました。

北の富士さんが大関昇進前の3場所合計の成績が、28勝17敗(8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗)だったことは、舞の海さんがご本人を茶化すネタにもなっていましたが、ご本人も全く大関昇進を予想だにしていなかったようで、伝達式当日に紋付も足袋も用意していなかったというのは、割とよく知られている事実です。伝達式を考えていなかった当時の出羽海部屋では親方が外出していた為に横綱の佐田の山が代理で使者を出迎えたというのも笑い話として残っています。

九重騒動で九重部屋に移籍した北の富士さんは怖い兄弟子がいなくなったことで部屋頭となったこともあり、稽古嫌いも相まって成績が著しく低迷します。一念発起して横綱に玉乃島(後の玉の海)とともに横綱に同時昇進したのは1970年一月場所後です。大関21場所を経ての横綱昇進は当時の最長記録でした。(現在の最長記録は先代琴櫻と武蔵丸の32場所が最長記録)

これが苦労人として評価されないのが北の富士さんの良いところ?です。稽古嫌いというのもあり、スピード相撲を目指していたのですが、叩きや引き技も多く、角界からもあまり良く見られていなかったというのもそれを後押ししていたのかも知れません。入門時に体重不足で新弟子検査に不合格、水を大量に飲んで再検査にギリギリ合格したという話や、入門30場所以内に幕下に昇進しないと廃業させられる当時のルールにも危うく引っかかるほどの力士でした。当時から仲の良かった玉の海とは三段目の頃「お互いに大したことのない力士」と思っていたそうです。

玉の海が1971年10月11日に右肺動脈幹血栓症による急性冠症候群で急逝した際には、その訃報を聞き人目をはばからず号泣したそうです。その年の11月場所に8回目の優勝を飾った北の富士さんは玉の海の四十九日法要を優先し、自身の優勝パレードを後回しにして法要に駆けつけたという逸話も残っています。

貴ノ花(先代)との「つき手」か「かばい手」かの論争を巻き起こした一戦は、2005年に貴ノ花が亡くなった際、この取組が思い出として多く取り上げられるようになると、北の富士さんは「あの大相撲は、本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』で、しかも貴ノ花は完全な『生き体』だった。当時は認めたくなかったが今は認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っていました。

さて、北の富士さんがご存命なら、今回の豊昇龍の横綱昇進をどのように批評したか? 非常に興味深いところですね。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌

コメント
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