武田信玄の軍師・山本勘助は浪人中、「毛利の孫子」にめぐりあった?

2007年01月15日 12時41分49秒 | 演劇・映画
武田信玄の軍師・山本勘助は、永禄4年(1561)の川中島の戦いにおいて、69歳で戦死している。この事実に基づけば、勘助は、おそらくは明応元年(1492)ごろ、生まれたことになる。戦国時代が始まった応仁元年(1467)から25年を経たころである。慶長5年(1600)9月15日、関が原の合戦の108年前に生まれ、39年前に戦死したことになる。武田信玄(晴信)に仕えたのが、51歳のころというから、天文22年(1553)のころであろう。在職は僅か18年にすぎない。
14~15歳ごろ元服し、浪人しながら諸国を放浪し、各地で合戦を目撃したり、ときには、雑兵に紛れて参戦したりしながら、兵法を実戦的に学んだという。NHK大河ドラマ「風林火山」の第2回目(1月14日)は、そのことを連想させる作りであった。
 山本勘助の兵学の師匠がだれであったか、また、兵法の最高峰「孫子の兵法」にいつごろめぐりあい、開眼したかは、定かではない。勘助が浪人中に起きた合戦のなかで、戦国の勢力図を動かしたに主なものには
●北条早雲が三浦義同を滅ぼして相模を平定したのが、永正13年(1516)=山本勘助24歳のころ。
●毛利元就が山陰の雄・尼子晴久を破ったのが、天文9年(1540)=山本勘助48歳のころ。
などがある。このうち、「孫子の兵法」に最も縁の深い家系が、「毛利家」と「武田家」であった。
 「孫子の兵法」は、遣唐使・吉備真備が天平7年(735)、唐から持ち帰った数々の文物のなかに含まれていた。吉備真備も実戦に使い、勝利を得て、天皇、公家から高い評価を得た。平安時代末期、当代随一と言われた学者・大江匡房によって大成され、これが源氏の嫡流・八幡太郎義家に伝授され、「源氏の孫子」となる。これが八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光にも伝えられ、その嫡流の子孫が、武田信玄(正式には、源朝臣・武田信玄)である。
大江匡房の曾孫・広元と源氏の嫡流・源頼朝で合流。大江広元の息子・季光が現在の神奈川県厚木市に当る「毛利荘」の領主となり、「毛利姓」を名乗るようになる。この家が安芸国に領地を得て、その子孫のなかから、毛利元就(正式には、大江朝臣・毛利元就)が生まれる。これが「毛利孫子」となる。
 山本勘助は、浪人中、安芸国にも足を伸ばしていたと言われ、「毛利文書」にも「山本勘助らしき人物」の記述も見られるという。とすると、勘助は、毛利元就の合戦を通じて、「孫子の兵法」を実戦的に見聞、あるいは、体験した可能性がある。
 だが、出身地である三河の隣国である甲斐国の「武田家」が、「孫子の兵法」を継承している家系であるとは、直には、気付かなかったのかもしれない。
毛利元就が「孫子の兵法」を活用して陶晴賢を破った「職厳島の合戦」は、弘治元年(1555)10月1日、山本勘助が63歳のころであった。勘助は、「源氏の孫子」を我が物にして、戦いの日々を送り、知力を尽くして越後の虎・上杉謙信と対決していたのである。
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 【日本における「孫子の兵法」の系譜】
吉備真備(693~775)
  735年(天平7)遣唐使として中国に渡り「孫子」を持ち帰る
     清和源氏の嫡男・源頼信(甲斐守、甲斐源氏始まる)
               ↓
              源頼義
               ↓    
大江匡房 〈孫子を伝授〉→源義家 新羅三郎義光(源義家の弟)
(1041~1111)       ↓     ↓*頼信の孫
大江広元(匡房の曾孫) 源頼朝 武田義清(義光の2男)
 ↓  *頼朝の政治参謀   義経   ↓
大江季光(毛利の荘の領主)     武田信義(義清の孫)
 ↓  *神奈川県厚木市 *甲斐巨摩郡武田村(
大江経光(越後毛利) 現・韮崎市)に住む
                   
毛利元就「尼子家に偽手紙」     武田信虎(石和から躑躅ケ崎
  「陶晴賢に偽手紙・厳島の奇襲」   ↓ 館に移る)
  織田信長⇨〈三方ケ原の合戦〉 武田信玄(風林火山を旗印)
       ⇨〈長篠の合戦〉    武田勝頼(武田軍団壊滅)
毛利輝元 〈関が原の合戦〉  徳川家康
      *1600年9月15日      ↓山鹿素行・荻生徂徠
                  大石内蔵助〈吉良邸討ち入り〉
                    ↓
毛利敬親  〈明治維新〉 徳川慶喜

乃木希典〔素行会を残す〕
     山本五十六〈真珠湾の奇襲攻撃〉
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