◆朝日新聞が4月10日と11日の両日、近く制定される裁判員制度について朝刊一面で取り上げている。10日は、一面トップで「裁判官 目立つ市民誘導」の見出しをつけ、「模擬裁判 課題に浮上」と市民参加の裁判員制度への疑問を示している。
一言で言えば、法律専門家であり、裁判のプロである裁判官の判断に、陪席している素人の市民がどうしても従わざるを得ない状況に陥る危険があるとの指摘である。それが、すでに模擬裁判のなかで明らかになってきいているというのである。
◆「お上意識」が、依然として日本人のDNAに組み込まれている状況の下で、司法官僚である裁判長のサイドに陪席する市民が、プロの法律家に誘導されるのではないかとの疑問は、以前から付きまとっていた。それが模擬裁判のなかで鮮明になってきたということである。裁判員制度が実施される前から結論を出すのは、早計にすぎるだろうが、日本に北欧型の裁判員制度を導入しても、失敗するのは目に見えている。無駄と言っても過言ではない。
◆それよりも、むしろ裁判官から切り離した「陪審員制度」を実現すべきであった。日本の近代化に乗り出した明治政府が目指したのは、欧米流の「陪審員制度」であった。そのために「陪審員制度」を導入し、裁判所を建設する際にも、法廷に「陪審席」を設けていた。ただし、民主主義が成熟していない状況に鑑み、「陪審員制度」の執行を停止していた。
この「陪審席」を設けた裁判所は、昭和40年代末まで存在していた。いまは常盤公園という市民憩いの場になっている旧浦和地裁にも、裁判長の頭上に菊の紋章がついていた、法廷の左右は忘れたが、「陪審席」があった。この裁判所は、埼玉県庁の南側に道路を挟んで新築され、その際、「陪審席」は姿を消していた。プロの法律家だけで裁判を行って行くという国家意志が、新庁舎によって示されたのであった。
◆1868年の明治維新から、139年も経ているのにもかかわらず、日本では、民主主義は、まだ熟成していないとでも言うのであろうか。裁判員制度は、「官尊民卑」の尾骶骨であるとも言える。政府は、国民の市民意識に対して、馬鹿にしているのである。もう一度、明治維新当時の指導者たちの志という原点に立ち返って、本来目指した「陪審員制度」の実現に向けて努力すべきである。

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一言で言えば、法律専門家であり、裁判のプロである裁判官の判断に、陪席している素人の市民がどうしても従わざるを得ない状況に陥る危険があるとの指摘である。それが、すでに模擬裁判のなかで明らかになってきいているというのである。
◆「お上意識」が、依然として日本人のDNAに組み込まれている状況の下で、司法官僚である裁判長のサイドに陪席する市民が、プロの法律家に誘導されるのではないかとの疑問は、以前から付きまとっていた。それが模擬裁判のなかで鮮明になってきたということである。裁判員制度が実施される前から結論を出すのは、早計にすぎるだろうが、日本に北欧型の裁判員制度を導入しても、失敗するのは目に見えている。無駄と言っても過言ではない。
◆それよりも、むしろ裁判官から切り離した「陪審員制度」を実現すべきであった。日本の近代化に乗り出した明治政府が目指したのは、欧米流の「陪審員制度」であった。そのために「陪審員制度」を導入し、裁判所を建設する際にも、法廷に「陪審席」を設けていた。ただし、民主主義が成熟していない状況に鑑み、「陪審員制度」の執行を停止していた。
この「陪審席」を設けた裁判所は、昭和40年代末まで存在していた。いまは常盤公園という市民憩いの場になっている旧浦和地裁にも、裁判長の頭上に菊の紋章がついていた、法廷の左右は忘れたが、「陪審席」があった。この裁判所は、埼玉県庁の南側に道路を挟んで新築され、その際、「陪審席」は姿を消していた。プロの法律家だけで裁判を行って行くという国家意志が、新庁舎によって示されたのであった。
◆1868年の明治維新から、139年も経ているのにもかかわらず、日本では、民主主義は、まだ熟成していないとでも言うのであろうか。裁判員制度は、「官尊民卑」の尾骶骨であるとも言える。政府は、国民の市民意識に対して、馬鹿にしているのである。もう一度、明治維新当時の指導者たちの志という原点に立ち返って、本来目指した「陪審員制度」の実現に向けて努力すべきである。

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