古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「岩戸山古墳」の生前造営からわかること

2015年06月01日 | 古代史

 古代には前王が死去した後には「殯(もがり)」と称する期間がもうけられます。この間は通常「蘇生」を願う「魂ふり」が行われ、その後「蘇生」が適わないとなった時点で「魂鎮め」へと移行するとされますが、本質的には「次代」の王を選定する期間でもあります。つまり前王の生前には次代の王は予定されておらず、前王の死後決定されることとなるわけです。
 「倭の五王」の時代「済」の死後、後継者として「世子」である「興」が選ばれたようですが、それが生前から決めてあったことなのかは疑問です。つまり「直系相続」というスタイルが既に決まっていたのかというとそうではないと思われるわけです。それはその直前の「讃」から「珍」への交替において「兄」から「弟」へと継承されたらしいことからも推測できます。(ただし「珍」と「済」の関係は不明)
 つまり「興」の場合のように「世子」とされることとなったのは「前王」の死後であり、皇族や臣下などの間で協議により決められたものではないかと推測されるわけです。
 たとえば、「推古」の死後「山背」と「田村」双方の皇子について、それぞれを押す臣下間で協議が行われたように、さらには『懐風藻』にあるように「皇太后」が主催して各位に意見を聞く機会が設けられたように、前王の死後に初めて次代の王をだれにするべきなのかが話し合われたと見るべきでしょう。
 またこれは意見が決裂するという可能性があり、その場合争いになることもまた起こりうるということを示します。「山背」と「田村」の場合がそうと思われるわけです。
 またいわゆる「壬申の乱」においても同様のことが起きたものと思われます。

 ところで、よく言われるように「もがり」の期間は「陵墓」の造成期間でもあると思われます。「もがり」の後葬儀が行われるという推移からいうと、「陵墓」が未完成では「葬儀」が行うことはできないわけです。しかも「葬儀」では「誄(しのびごと)」が奏されるわけですが、そこには「日嗣ぎの次第」が含まれており、「後継者」が決まらなければ「日嗣ぎ」も述べられず、「誄」を奏することもできないこととなります。
 つまり葬儀が行われるためには後継者が決まっていると共に陵墓が完成している必要があることとなるでしょう。当然それには時間(日数)が必要ですから、ある程度の期間が「殯」の期間として確保されていたということを示します。

 これらのことを考えると、注目されるのは「磐井」の場合です。
 「風土記」によれば彼(磐井)は生前から陵墓を築いていたとされます(「岩戸山古墳」がそうであるとされている)。

「上妻縣.…古老傳云:「當雄大跡天皇之世,筑紫君磐井,豪強暴虐,不偃皇風.生平之時,預造此墓.…」「筑後國風土記」

 上に見たように陵墓の造成期間が次代の王を選出する期間であるとすると、「磐井」の場合、生前のうちに「次代の王」つまり「日嗣ぎの皇子」が選定されていたこととなる可能性があるでしょう。(というより複数名の皇子がいて彼等の間に優先順位がつけられていたという可能性があると思われます。)
 このようないわば「念入り」のことが行われた背景には「武」の「父兄」が一気に亡くなったという「武」の上表文にあるような事態が想定されていると思われるものです。
 「五世紀半ば過ぎ」に「倭国王」である「済」とその「世子」「興」等の倭国王権の主要人物が(推定によれば「天然痘」により)一挙に亡くなったと思われ、その際に、その後継が決まっておらず「末弟」で幼少であった「武」の成長を待つ間「皇太后」が称制せざるを得なくなったということが苦い経験としてあったものと思われます。そのことから生前中に後継者など「皇位継承順」をあらかじめ決めておくこととなったという事が推察されます。またそれは「後継者」をめぐる争いをなくすという意味でも必要と判断されたという可能性もあるでしょう。
 「葛子」はその意味で「世子」であり、また「太子」であり、いわゆる「日嗣ぎの皇子」であったと思われ、そのため「筑紫の君」と称されているのではないでしょうか。これは「父」である「磐井」と同じ呼称であり、「筑紫」の領域の統治権を正式に「磐井」から継承していた事を明白に示しています。
 しかし、「物部」などとの戦いの最中に後継者を決める協議が行われていたとも思われませんから、「葛子」は以前から「日嗣ぎの皇子」として存在していたものと思われるわけです。「筑紫の君」として登場するのは父である「磐井」の死後一ヶ月以内のことですから、このような早さで「後継者」が決められるというようなことがあったと考えるより、あらかじめ決められていたと考える方が穏当というものです。
 また彼は「長子」であった可能性が強く、この時点で「倭国王」の継承方法として「直系相続」が決められたものではないでしょうか。
 『書紀』を見ると「仁徳」の皇太子として「去來穗別」が初めて「大兄」という「呼称」(称号?)として現れます。しかし「仁徳紀」は後代の潤色の跡が明らかであり、「皇太子」という表記もこの時代の位相にマッチしていません。これを一旦除外して考えると、「継体紀」に出てくる「勾大兄」が初出といえるでしょう。その後各天皇の「長子」と思われる人物がいずれも「大兄」という表記がされるようになります。
 たとえば「欽明」の長子である「箭田珠勝大兄」(この人物は早世したようです)、「敏達」の長子である「押坂彦人大兄」、「聖徳太子」の長子である「山背大兄」、「舒明」の長子である「古人大兄」、「古人」を排除した後に「大兄」となったと見られる「中大兄」(葛城皇子)というように、各代において(「子供」がいないという場合を除き)「長子」を「大兄」とする事が行われるようになったと見られますが、これが「太子」つまり「正統」な後継者としての称号であることは明らかであり、このような人物を「生前」に指定することがいわば「ルール」として定められたとみられることとなります。
 またこれらの天皇の死去記事と陵墓への埋葬記事とが日数的に接近していることから、それら「陵墓」の造営が生前に行われているらしいことが推察され、これは「大兄」という後継者の指定と一体のものであったと見られますが、上に見た「磐井」の場合とほぼ同時期に「大兄」という制度と「生前造営」が行われるようになったことは偶然ではなく、倭国内の王や首長の継承に際して広く行われるようになった「定め」のようなものであったと思われることとなるでしょう。

 『隋書』では「倭国王」である「阿毎多利思北孤」の存命中に「太子」が存在しているようですから、これも同様に「皇位継承者」をあらかじめ決めてあったものと思われ、「磐井」の時代のスタイルがそのまま続いていたことを推定させます。
 そう考えると「阿毎多利思北孤」は生前の段階で「陵墓」を既に築造していたという可能性が高くなるでしょう。しかも彼(というより太子である「りかみたふつり」)は「殯」つまり「もがり」を行わなかったという可能性もでてくるでしょう。
 なぜなら、「殯」の期間が次代の王の選出と陵墓の造営期間であるとすると、生前に「太子」が選定され、陵墓も造営されていたとすると、「殯」そのものがなかったという可能性さえ出てくるからです。
 彼や父である「阿毎多利思北孤」は「仏教」に深く染まっていたと思われますから、その意味からも「殯」という古典的であり、旧式でもあった「殯」の儀式を行わなかったものとも考えられ、「殯」そのものがなくなったかあるいはそれまでに比して極端に短くなったということが推定されます。
 私見では「薄葬令」は彼等により制定されたものと見るわけですが、そこでは基本的には「殯」の期間は無いものとされており、この推定を裏付けます。

「甲申。詔曰。…凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。…」「孝徳紀」の『薄葬令』より

 ここでは「凡王以下及至庶民不得營殯」とあり、「薄葬令」中に見える「王以上」という言葉と比べて考えてみると「王権」の中心的人物を除いてすべての人物の死において「殯」を営むことを禁じる規定であると判断できます。(ただし「王以下」の場合、「後継者」についてはあらかじめ決めておくべしということなのか、あるいはそのような人物を「倭国中央」が指名して決めるという意味であったのかはやや判然としません)
 この事から「阿毎多利思北孤」や太子「利歌彌多仏利」の死の際には「殯」はあった可能性もありますが、それがいわゆる「もがり」というべきものであったのか、あるいは期間として相当の長さであったのかというと甚だ疑問であると思われます。
 この事から考えて「磐井」の場合も当初予定されていた「殯」の期間はそれまでに比べ相当短かった可能性があるでしょう。(実際には乱が起きたためそれどころではなくなったと思われるわけですが)
 そしてそれは「磐井」と「仏教」の関係の深さにもつながるものと思われます。

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